尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

名古屋城天守閣再建のバリアフリー問題

2023年06月29日 22時41分39秒 | 社会(世の中の出来事)
 書こうと思っていて放ってある問題が幾つかある。4月の統一地方選で「日本維新の会」が好調だった。次回総選挙では「野党第一党」を目標にしているとか。この「維新」をどう考えるか、一度まとめて書きたいと思っているけど、当面解散・総選挙はないということで、まだ後でいいだろう。結構ちゃんと調べることが多くて面倒なのである。その「維新」は橋下徹元大阪府知事に始まるが、石原慎太郎都知事以来何かとお騒がせな「暴言系地方首長」が各地に増えてきた。

 名古屋の河村たかし市長も、2009年に当選以来「大阪維新の会」や後の「都民ファーストの会」のような独自の地方政党「減税日本」を立ち上げた。その後、金メダルを囓ってみたり、愛知トリエンナーレ2019をめぐって大村知事と対立し、市の負担金は払わないと通告したりした。その問題は裁判になって、名古屋市は地裁、高裁で敗訴している。上告中だが、その間も遅延金が発生している。その名古屋市でずっと揉めてるのが「名古屋城天守閣再建問題」である。

 2023年6月3日に、木造再建を目指す天守閣のバリアフリー問題で、名古屋市主催の市民討論会が開かれた。そこで参加者が障害者差別発言を行ったが、市長や市当局は発言を制止しなかった。市長はむしろ当日のまとめとして「活発な発言があった」などと述べたという。今月起こった問題だから、今月中に書いておくことにしたい。名古屋城復元問題はもう10年以上揉めているけど、僕は今まで書いていない。名古屋市民と文化庁当局が了解するならば、特に僕が何か言う必要もないと思うからだ。
(討論会であいさつする河村市長)
 だが、6月6日付朝日新聞が報じる以下の発言を見て、やはり論点を書いておくべきかなと思った。まず「車いすの男性(70)」が(最上階まで車いすを運べるエレベーターが設置されないのは)「障害者が排除されているとしか思えない」と発言した。これに対し、2人の男性が発言し、最初の男性は「河村市長が造りたいというのはエレベーターも電気もない時代に作ったものを再構築するって話なんですよ。その時になぜバリアフリーの話がでるのかなっていうのは荒唐無稽で。我慢せえよって話なんですよ。お前が我慢せえよ」と話した。次の男性は「差別表現」を使ったという。(具体的には出ていない。)

 これはまたすさまじい発想だと思ったが、こういう発言が出て来るのは、河村市長の責任が大きいと思ったのである。今回の天守閣再建は「エレベーターも電気もない時代に作ったものを再構築する」という話ではないのである。名古屋城天守閣は1612年に建築され、明治以後も残っていたが、周知のように名古屋大空襲で焼失してしまった。1959年に再建されたが、その時は消防法の規定で木造再建は不可能だった。そのためコンクリート建築になったけれど、すでに60年以上経って老朽化が進むとともに、現行の建築基準法上の耐震基準を満たせなくなった。そのため、2018年から天守閣への入場が禁止されている。
(名古屋城の現行天守閣)
 「エレベーターも電気もない時代の再構築」なら、もちろん耐震基準もなければ防火設備もないはずである。そんなものを作ろうとしても、もちろん建築基準法を満たせず、建築は出来ない。今回の再建は、「現代の技術を使って、耐震基準をクリアーする」のが目的なのである。その上で、河村市長がなぜ「木造」にこだわるかと言えば、観光目的だろう。静岡県の掛川城が1994年に木造で再建され、観光地として大きな注目を集めた。そのため、当選直後から木造再建を言いだし、当初は2020年東京五輪までを目標としていた。戦前の国宝時代に詳細な調査が行われており、技術的には可能だとされる。

 このバリアフリー問題もずっと揉めているが、文化庁の許可が出ないのは違う問題だという。工事のために江戸時代に作られた石垣を崩すことが問題視され、文化庁の解体、木造再建の許可が出ないまま数年が経っている。それが解決しないうちは解体工事にも入れない。名古屋城は全体として「特別史跡」に指定されているが、天守閣自体は昔のものが失われているので国宝でも重要文化財でも何でもない。史跡としての意味はなく、文化財としての扱いは「博物館施設」に過ぎない。

 名古屋城には焼失を免れた櫓なども残っているが、そこにエレベーターを設置せよという話はない。市長が「史実に忠実な復元」と呼んでも、それは実は「博物館」なんだから、障害者や高齢者にも可能な限りアクセス出来るものが求められるのである。何故なら、日本は「障害者権利条約」を批准していて、「障害者差別解消法」も制定されているからである。「史実に忠実」なら、そもそも公開も出来ない。内部を博物館として解説パネルなどを設置するのもおかしくなる。しかし、観光施設として作るんだったら、現代ではエレベーター設置は必須のはずである。

 今回の討論会は「住民基本台帳から無作為に選んだ18歳以上の参加希望者約40人」が参加したという。だから特定の団体関係者が押しかけて来たわけではない。そのことが深刻なのである。参加者の中から「差別発言」があったのは、愛知トリエンナーレ問題、その後の大村知事リコール問題などを見て、発言者は河村市長は「自分の味方」だと認識していたからだと思う。先のLGBT法に使われた「不当な差別」はいけないが、「史実に忠実な」復元だからエレベーターがなくても「不当」ではない。それを批判する障害者の方が「不当な言いがかり」であるという意識である。

 例えば、討論会参加者に事前に「障害者権利条約」の条文を配布していただろうか。そういうことが大切で、そこを前提にして議論しないからおかしくなる。この問題はもう時間も長くなっていて、解体工事も出来ないのに、契約した会社(竹中工務店)にはお金を払っているという。エレベーターは出来る限り上の方まで設置するようにして、早く石垣問題を解決するべきだ。名古屋城には僕も昔行っているが、今の城ブームの中でむしろ天守閣再建そのものを問うべきかと考えている。再建はあっても良いが、別になくても良いぐらいの気持ちである。残された石垣や櫓などの方が貴重で、天守閣再建のため石垣を壊しては本末転倒だ。
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奥田英朗『コメンテーター』、トンデモ精神科医「伊良部」カムバック!

2023年06月28日 22時15分32秒 | 本 (日本文学)
 奥田英朗(おくだ・ひでお)の『コメンテーター』(文藝春秋、2023)をついつい買ってしまい、早速読んでしまった。やっぱり無類に面白いな。これは奥田英朗の精神科医・伊良部シリーズの4冊目にあたる。だが、『イン・ザ・プール』(2002)、『空中ブランコ』(2004)、『町長選挙』(2006)以来だから、雑誌初出(2021年)で見れば15年ぶりである。以前の作品を読んでいる人には判ると思うけど、あり得ない精神科医・伊良部一郎の「活躍?」を描くコメディ連作小説である。何で戻ってきたのか。それは紛れもなくコロナ禍の日本の風刺ということに尽きる。

 一応設定の前提を書いておくと、医師会の有力者である伊良部一族に生まれた伊良部一郎だが、何歳になっても子どもじみた性格が治らない。医師免許によく合格したものだが、そこには「何か」が働いたという噂もある。都下の某駅前に立つ豪壮な伊良部総合病院の薄暗き地下で「神経科」をやっているが、訪れてもフィギュア作りなどに熱中していて患者をなかなか診ないことも多い。また注射が大好きで、マユミという不機嫌そうな看護師が注射を打つところを伊良部がじっくりと見つめるのがお決まり。

 こんな医者だけには掛かりたくないものだけど、つい受診してしまった人々の「受難」を描きながら、あら、不思議なことに「こころの病」も少し軽快している気もしてきて…。何せ、何も言い返せず不満を溜め込んで心身不調を訴える患者が来たりすると、事務に命じて「会計をわざと遅らせる」ことさえある。自分より明らかに後に来た患者がどんどん帰って行くのに、自分だけ全然呼ばれない。「ちょっと聞いてみる」ということが出来ない患者はひたすら待ち続ける…。何で怒らないの?と伊良部は言う。これも治療の一環だと言われて、事務の人も申し訳ななさそう。でも、自分ならちゃんと抗議出来るだろうか?
(映画『イン・ザ・プール』の伊良部とマユミ)
 今回は何とその伊良部がテレビのワイドショーでコメンテーターになるって趣向。あり得ないでしょう。そのあり得ないことが何で起こるかというと、誰か紹介して貰うつもりが自分のことしか考えない伊良部は自分が出ると言い張って、ついに一回オンラインで出してみるかとなる。コロナ禍のことゆえ、局まで呼ばなくてよいのである。しかし、伊良部にコロナのコメントさせるか? だが不思議なことに視聴率が悪くないのである。その理由はいかに?

 それが冒頭の「コメンテーター」で、他に「ラジオ体操第2」「うっかり億万長者」「ピアノ・レッスン」「パレード」の計5篇が収録されている。コロナばかりではないが、「現代人の悩み」を抱え込んでしまった人々が、何故か伊良部を訪れてしまう。こんないい加減な医者でいいのか? いや、実際には良くないでしょ。本当に「こころの病」を抱えた人は面白く読めないかもしれない。だが、ちょっと最近疲れ気味かなレベルだったら、人生こんなにテキトーでもいいんだと読む薬になるだろう。
(奥田英朗)
 奥田英朗(1959~)は『邪魔』『最悪』などで注目され、伊良部シリーズでブレイクした。2作目の『空中ブランコ』では直木賞を受賞した。今回の帯には、シリーズ累計290万部と出ている。だけど、こういう暴走系キャラは扱いにくく、僕も3作目の『町長選挙』にはちょっと飽きたかなと思った。その後は『沈黙の町で』『オリンピックの身代金』『罪の轍』など、本格的な事件小説を多く書いている。そっちの方が好きな気もするけど、久しぶりの伊良部は面白かった。気が楽になるのである。

 今まで何度か映画、テレビ、舞台になっていて、映画『イン・ザ・プール』では伊良部を松尾スズキがやっていた。テレビでは阿部寛、舞台では渡辺徹などが伊良部をやっている。今回の『コメンテーター』も是非映像化を期待したい。こんな暴走医師も困るけど、さすがにホントに医師免許をはく奪されるまでにはならない。その意味では安心して爆笑出来るのである。
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イタリア映画『遺灰は語る』、劇作家ピランデッロの遺灰

2023年06月27日 22時34分36秒 |  〃  (新作外国映画)
 最近古い映画を見ることが多くて、なかなか新作映画を見てないんだけど、同じ映画館でやってるから『青いカフタンの仕立て屋』に続いて『遺灰は語る』という映画を見た。あまりにも変テコな映画なので、紹介しておこうと思う。イタリアのパオロ・タヴィアーニ監督(1931~)91歳の作品である。というか、クレジット的には「デビュー作」と言うべきか。今までは兄のヴィットリオ・タヴィアーニ(1929~2018)と一緒に映画を作ってきて、「タヴィアーニ兄弟」と呼ばれてきた。兄の死後、高齢になってから一人で映画を作ったという心意気に驚くしかない。

 僕はイタリア映画が大好きで、ずいぶん見てきた。タヴィアーニ兄弟は『父 パードレ・パドローネ』(サルデーニャ島)、『サン・ロレンツォの夜』(トスカーナ)、『グッドモーニング・バビロン』(ハリウッドのイタリア移民)など、イタリア民衆の歴史を地方色豊かに描いてきた。その中に『カオス・シチリア物語』(1984)というオムニバス映画があり、題名通りシチリア島の風土が生かされた秀作だった。これは劇作家ルイジ・ピランデッロの短編小説からいくつか選んで映画化したものだった。
(ピランデッロ)
 ルイジ・ピランデッロ(1867~1936)は『作者を探す六人の登場人物』(1921)という「メタ演劇」のような戯曲で世界的に有名になった。主に劇作家として活動し、1934年にノーベル文学賞を受賞している。映画はその授賞式のニュース映像から始まる。監督は先の映画を作ったときに、今回の映画を構想していたというのだが、そのピランデッロの「遺灰」の行方を追うというのが今回の映画。シチリアの海に撒いて欲しいという遺言だったが、死んだ1936年はファシズム真っ盛り。独裁者ムッソリーニがローマに留め置けと命じて、ローマの壁に中に埋め込まれたのである。
(死ぬ前のピランデッロと子どもたち)
 敗戦後に生まれ故郷のシチリア島アグリジェント市から遺灰引き取りの特使が派遣されてきた。当時のニュース映像をふんだんに交えながら、ずっと白黒映像で当時のゴタゴタを再現していく。壁を打ち抜き遺灰を取り出すのも一苦労、そこから壺を入れ替える。シチリアまでは米軍が飛行機を出してくれることになったが、機内ではそれが遺灰だと気付いた乗客たちが次々と下りてしまう。縁起が悪いということらしく、そのため飛行機も飛ばなくなってしまった。やむなく汽車で向かうが、そこでまたまた御難が続く。敗戦直後のいろんな民衆像を点描しながら、ついにシチリアに着くのだが…。
(シチリアの海に)
 シチリアでもゴタゴタが続くのだが、それはもう書かなくて良いだろう。ようやく最後に白黒映像がカラーになって、これで終わりかと思うときに、これが一番驚いたのだが、もう一つの物語が始まってしまう。ピランデッロは最後にニューヨークのイタリア移民の子どもに起こした事件を描く戯曲を残したという。その『』という話がまた不可思議なもので、空き地で遊んでいたイタリア系少年が釘を拾い、ケンカしていた二人の少女の一人に突き刺す。理由は不明で、警察にはそういう「定め」だったと供述する。
(パオロ・タヴィアーニ監督)
 アメリカが舞台だから、ここは英語劇になっていて、「定め」は「purpose」と表現している。言うまでもなく、この単語は普通は「目的」という意味で使われる。調べてみると、「決意」とか他にもいろいろあるようだが、「定め」というのはちょっと違う気がする。まあ、それはともかく、突然訳の判らない劇が英語で始まるので唖然とする。「人生不可解」という意味かと思うけど、こんな映画を90歳過ぎて作っちゃうトンデモ老人にも驚くしかない。2022年ベルリン映画祭国際映画批評家連盟賞受賞作品
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モロッコ映画『青いカフタンの仕立て屋』

2023年06月26日 22時16分37秒 |  〃  (新作外国映画)
 モロッコの女性監督マリヤム・トゥザニの『青いカフタンの仕立て屋』という映画が公開された。これは人々をじっくり見つめた静かな映画だが、非常に勇気ある映画で感銘深い。2022年カンヌ映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞した。監督は昨年日本公開された前作『モロッコ、彼女たちの朝』でデビューしたが、イスラム社会で「未婚で妊娠した女性」を描くという勇気ある映画だった。ただ貴重なテーマだが、完成度には不満もあって、ここには書かなかった。

 今回は「伝統に生きる職人」を扱いながら、同性愛的志向をテーマとするという驚くべき作品である。主人公はハリムミナという夫婦で、古都サレの旧市街でカフタンの仕立て屋をやっている。カフタンというのはアラブ社会の伝統服で、美しい刺繍を施している。特に結婚式などで使われ、母から娘へ受け継がれるという。長袖・前開きのガウンのようなもので、色は様々。今は頼まれた青いカフタンに刺繍しているが、もちろん各色の布を用意してある。題名だけでは、「青いカフタン専門店」みたいだけど、そういうことではない。
(カフタンの刺繍)(カフタン)
 夫婦で協力して店をやっていて、伝統的な手作業を重視している。客からはミシンを使って早くやってくれと言われているが、ミナは「夫は機械ではない」と言い返す。心配なのは、最近ミナの体調がすぐれないことで、時々倒れたりする。お金が掛かるだけだから、もう医者には行かないと言っている。最近ユーセフという若者を雇ったが、日本と同じく職人仕事は若者に嫌われるらしく、どうせまたすぐ辞めるだろうとミナは言っている。しかし、ユーセフは刺繍が上手で、案外職人仕事を苦にしないようである。
(ハリムとミナ)
 舞台となっているのはサレという町で、特に陶工が多いらしいが手工業が盛んな町なのだという。首都ラバトと川を隔てた隣町で、一体になって発展してきた町であ。前作はカサブランカ旧市街のパン屋が舞台だったが、今回も迷路のような旧市街が映し出されている。市場にはミカンが山積みになっていて、ミナは食欲もなくなっているがよく買ってくる。そのような日常をエキゾチックにではなく、庶民目線で描いていて興味深い。
(サレの位置)
 だけど、やっぱり一番重要なのは主人公ハリムのセクシャリティである。彼はミナと巡り会い支え合って生きてきたが、自分は正直じゃなかったと告白する。彼は時々公衆浴場に行って、個室を借りている。それが意味することを察するとき、彼がいかにイスラム社会で危険な生き方をしているかが見えてくる。そして、職人肌のハリムに憧れるユーセフが現れて、ハリムとミナの関係にもさざ波が立つようになる。その当たりの心理を繊細に描いていく手際が前作より遙かに上手だし、心に触れる。ここまで描いてモロッコで公開出来るのか心配になるが、実際に何度か延期された後に最近ようやく上映されたということである。
(左からユーセフ、ミナ、ハリム)
 マリヤム・トゥザニ(1980~)はモロッコに止まらず、世界の若い女性監督として注目すべき存在だ。この勇気ある映画を作るに当たって、今回日本公開に寄せたインタビューで「表現しなくてはいけないこと、語るべきことがあるなら、勇気は関係ありません。欲望や愛は、タブーやスキャンダルの対象ではないのです。他の国々と同じように、モロッコも同性愛を禁ずる法律を廃止するために立ち上がらなくては。」と語っている。
(マリヤム・トゥザニ監督)
 ミナ役のルブナ・アザバル(1973)はイスラム世界を代表する女優で、『パラダイス・ナウ』『灼熱の魂』『テルアビブ・オン・ファイア』などに出ている。監督の前作『モロッコ、彼女たちの朝』でも主演している。ハリム役のサーレフ・バクリは『迷子の警察音楽隊』に出演した人で、アラブ人俳優はアラブ世界でどこでもキャスティング出来るのだろう。ユーセフ役のアイユーブ・ミシウィという人は、モロッコの俳優で映画デビュー作だという。
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ロシアのワグネル「反乱」騒動を考える

2023年06月25日 22時22分12秒 |  〃  (国際問題)
 日本時間6月24日夜に、突然ロシアの民間軍事会社「ワグネル」が「反乱」を起こして、南部のロストフ・ナ・ドヌーの軍事施設を占領したと伝えられ、世界を驚かせた。その後は「モスクワ進軍を目指す」という話だった。このニュースを聞いて、僕は特に驚きはしなかった。「起こるべきものが起こった」と思ったが、モスクワまで行って内戦状態になるとも思わなかった。モスクワ近郊まで攻め上れば、ワグネルが負けるからである。実際、25日になって、ワグネル創設者のプリゴジンがベラルーシに亡命するという形で事態が沈静化する方向に向かった。これも「終わるべくして終わった」ということだと思う。

 この事態を「裏切り」と決めつけ、世界に「反乱発生か」と驚かせたのはプーチン大統領自身だった。もっともその演説でもプリゴジンを名指しはせず、ある意味妥協の余地を残していた。もともとプリゴジンの方では「反乱」という意識はなかったと思う。反乱というと、権力を奪取する計画が必要になる。そういう決意はプリゴジンには感じられない。じゃあ、何だというとロシア国防省首脳との対立が深まって、「君側の奸(くんそくのかん)」を除くために「兵諫」(へいかん)を行ったという意識ではないか。
(ワグネル創設者プリゴジン)
 この間、ウクライナ戦線で一番厳しい局面を多大な犠牲を出しながら戦ってきたのがワグネルだった(と少なくとも主観的には思っているだろう。)それなのにロシア国防省は必要な弾薬を回さないなど、ワグネルを「軽視」してきた(と主観的には感じられた。)それどころか、ロシア軍がワグネルを攻撃したという説まで出ていた。そのため、プリゴジンはショイグ国防相やゲラシモフ参謀総長を非難する動画を連発していた。その口汚なさは「プリゴジンかガーシーか」というレベルだったから、国防省首脳の方も頭にきていただろう。 

 ロシアの国策として戦争(「特別軍事作戦」)を遂行する以上、たかが民間軍事会社が戦局の鍵を握るなど、国防省からすればあってはならない。ただウクライナ戦争の特殊性から、徴兵された若者の犠牲を最小限にしたい思惑があって、汚い仕事はワグネルにやらせたい。ワグネルの兵隊は恩赦を期待する懲役囚が多いらしいから、軍当局は「捨て駒」としか思ってないだろう。ところがワグネルが「活躍」しすぎて、「勇名を馳せる」というレベルになってきた。プリゴジンも黒衣のはずが、堂々と表に出始めた。国防軍はワグネルを正規軍に吸収したい方針らしく、軍当局とワグネルのあつれきは何度も報道されてきた。
(ワグネルを非難したプーチン)
 「モスクワ進軍」にワグネル兵が付いて行ってることから考えると、ワグネル内部には反国防軍意識が浸透しているのだと思う。プリゴジンも部下を掌握していると考えられる。実際自分たちは死線を潜ってきたのに、国防省は自分たちを軽視しているという怒りがワグネル全体に共有されてなければ、こういう行動は起こせない。そこで反プーチンではなく、「国防省内部の、戦争の実態を知らない官僚的指導部」排除という目標を掲げて蜂起したと考えられる。歴史的にいえば、ともに1936年に起きた日本の「二・二六事件」や中国の「西安事件」を思い出す。

 「二・二六事件」では、「君側の奸」を除こうとしてクーデタを起こしたものの、昭和天皇は重臣たちを多数殺されて本気で怒ったのである。一方、その頃の中国では中華民国の指導者だった蒋介石は、日本の侵略に抵抗するより共産党軍攻撃を優先していた。そこで年末に張学良らが蒋介石を監禁して、蒋に抗日を迫る「西安事件」が起こった。当時それを「兵諫」と呼んでいた。しかし、今回はウクライナにいたワグネル軍をモスクワまで進軍させるのは大変である。プーチンに訴える作戦だったと思うが、プーチンはさっさと「裏切り」と決めつけた。いわば昭和天皇と同じ対応を取ったのである。
(ベラルーシのルカシェンコ大統領と)
 ウクライナで損害を出し、弾薬がないと訴えてきたワグネルである。国防軍がズラッとモスクワを取り囲めば、打ち破るのは不可能だ。それは初めから判っていることで、要するに「旗を揚げればプーチンは支持してくれる」という安易な思い込みで兵を挙げたと思われる。引っ込みが付かなくなると、双方に犠牲者が出る。そこでルカシェンコが取り持つ形で、プリゴジンのベラルーシ亡命という方向になったと考えられる。これで終わるかどうかは現時点では不明だが、なかなか今後の影響は大きそうだ。

 ニュースで見る限り、ロストフの住民はワグネルを支持している。少なくとも大変な反乱が起きたという緊張感はないように思った。このワグネル軍が温存されるとすれば、プーチン政権にとって心配の種だろう。「影の軍団」が黒衣に止まらなくなれば、ナチスの突撃隊のように権力から排除されることも考えられる。一方で、ワグネルを排除してしまうと、ウクライナで汚れ仕事をするのはチェチェン軍団しかいなくなり、権力基盤が揺らぐ可能性があるだろう。戦争が長期化するにつれ、プーチン政権が揺らぐ可能性さえ考えられる。ワグネルは「プーチン政権を揺るがす武装組織」がロシアにあるということを可視化してしまった。取りあえず収束したとしても、大きな意味を持つ事件だったと言える。
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『南端まで 旅のノートから』ー真木悠介著作集を読む②

2023年06月24日 22時34分02秒 | 〃 (さまざまな本)
 見田宗介真木悠介)さんの著作集を読んできて、残りは真木悠介名義の2冊になった。もう一気に終わらせてしまおうと思って、図書館から2冊を借りてきた。見田宗介著作集(全10巻)は全巻買ったのだが、真木悠介著作集(全4巻)は買わなかった。原著を全部持っていたからだ。それでも図書館から借りるのは、増補や「定本解題」を確認するためである。本来、次は第3巻の『自我の起源』だけど、第4巻を先に読んだ。この巻は短くて読みやすそうだったから。実際すぐ読めて、見田(真木)さんのエッセイストとしての魅力が溢れている。旅心を誘われるし、最初に読むべき本かもしれない。
(原著表表紙)
 著作集では『南端まで』という題名になっているが、これは1994年6月に出た『旅のノートから』(岩波書店)という本の増補版である。「ノート」というだけあって、横書きの本になっている。原著から「汽車とバス」という文章が削除され、原著以後に書かれた5つのエッセイが増補されている。題名の『南端まで』には特に意味はないという。自分の旅は大体「南」へ向かっているからという程度だという。インドの南端には行ってるけど、後はメキシコやブラジル、ボリビアなどが多い。まあ「南北問題」というときの「南」でもあるんだろう。主にインド、ラテンアメリカの旅の記録である。
(コモリン岬の子どもたち)
 上記写真は原書カバーにも使われているが、インド最南端のコモリン岬(タミル・ナド州)で撮られたものである。そこを夜に訪れた時、子どもたちが大きな声で行くなと叫んでいた。著者は多分そこが聖地であり、外部の者は立ち入るなという意味かと受け取ったのだが…。著作集冒頭に収録されている「コモリン岬」は、その時に撮影した写真の意味は何だったのか、2006年になって改めて書かれた文章だ。非常に優れた短編小説の趣があるエッセイ。この巻の文章は読みやすく含蓄が深いものが多いけど、特にこの「コモリン岬」は忘れがたい。(中身にはここでは触れないことにする。)
(原著裏表紙)
 題名を見ても判るとおり、大体の文章は旅行エッセイなんだけど、それ以外のものも入っている。「伝言」「光の降る森」は屋久島に住んでいた山尾三省をめぐるエッセイで、見田宗介著作集第10巻『晴風万里』と重なる。屋久島まで行ってるから旅でもあるが、山尾三省に触れながら考えたことの記録でもある。山尾三省という存在は著者にとって、非常に大きなものだった。早くからコミューン運動に関心を持っていた著者にとって、山尾三省は特に大きな意味を持っていたことが判る。

 「狂気としての近代」は「時間の比較社会学・序」と題されていて、その名の通りの文ではあるが、メキシコの話がいっぱい書かれている。メキシコについては、「メキシコの社会と文化」「メキシコの生と形式」という旅エッセイを越えた本格的評論も入っている。それは1974年から75年にかけて、著者が「エル・コレヒオ・デ・メヒコ」という大学院大学に招かれて教えていたからだ。ここは70年代には毎年日本から教授を招いていて、鶴見俊輔や大江健三郎などもそれでメキシコに滞在したのである。そこがどんなところで、どういう意味を持っていたか、よく理解出来る文章である。
(当時の著者)
 また「夢4巻」という不思議な文章もある。自分が見た夢という体裁で、4つの話が出ている。あまりに具体的で詳細であり、これが本当の夢の記録とは思えないが、ちょっとどういう意味を持っているのか僕には判断出来ない。興味深かったのが「コーラムの謎」。コーラムとは、インドの家庭の前に白い粉で書かれた模様である。インドに行ったことがなく、初めて聞いた言葉だった。画像検索してみると、いろんな模様が出て来る。何でそのようなものを書くのか、インド人にも諸説あると書いてある。僕には判らないけど、模様を見てると何か凄いなと思う。

 全体を通して、近代化された日本人の感覚では測りがたいインドやメキシコの社会を旅することで、「近代化された身体」を相対化してゆく文章が多い。『気流の鳴る音』ではインディオの教えを分析するという形で、『時間の比較社会学』では世界に存在した各文明の学問的分析という形で行ったことを、旅エッセイという形式で書いたものである。「補巻」としても良かったと言っているが、構成をシンプルにするため止めたという。しかし、内容的にはエピローグだと書いている。僕はむしろ見田宗介著作集を含めて、全体のプロローグとしても読めると思う。この巻を読んで共感出来なかった人は、他を読んでも理解不能だろう。

 なお、原著は「シリーズ旅の本箱」という全15冊の一冊だった。全く記憶していなかったけど、そういうシリーズがあったのである。他には加藤周一『幻想薔薇都市』、亀井俊介『アメリカの歌声が聞こえる』、小田実『NYーベルリン 生と死』、養老孟司『昆虫紀行』、沼野充義『モスクワーペテルブルク縦横記』、池内紀『今は山なか今は浜』など、なかなか興味深そうなラインナップが並んでいるが、全く記憶にない本ばかり。
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深まる孤立と分断ーコロナ禍3年の総括④

2023年06月23日 22時52分58秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 コロナ禍3年の総括も、キリ無いから今回で一端終わりたい。医学的な検証はずいぶん残されていると思う。ウイルスの発生経過もまだ完全に解明されたとは言えないだろう。中国・武漢で動物(コウモリ?)から伝染した可能性が高いとされるが、自由に検証できない。中国のコロナ対応も謎が多かった。各国で死者数には違いがあったが、それは政策の違いか、それとも医学的な問題か、あるいは社会的な違いによるものか。当初はいろんな説(BCG仮説など)が出たが、結局どうだったのだろうか。

 医学的な問題も重要だが、社会的にどう対応したのかはもっと大切なのではないか。世界的なパンデミックは今までは一世代に一回経験するかどうかの大災厄だった。しかし、世界各国の往来が盛んになって、今後はもっと起こりやすくなる可能性がある。しかし、その記憶をきちんと検証して後世に伝えようという動きは少ない。むしろもう忘れたいというのが世界のホンネか。それも判らないではない。戻ってきた経済活況に乗り遅れないことが多くの人の関心になっている。

 今日(6月23日)の新聞によると、22年度の税収は過去最高を更新し、70兆円台に届くかもしれないという。企業業績は(一部を除き)完全に復調し、さらに円安やインフレを受けて見かけ上の利益が大きくなっている。財政難が続く日本のことだから、税収が多くなるのは取りあえず良いことだろう。だが同時に同じ日の新聞に、若者の自殺数を分析すると、コロナ禍において女性の自殺が顕著に多くなったという研究実績も報道されている。企業は好調でも、この間厳しい環境に置かれた人たちもいた。
(コロナ禍の自殺者)
 誤解なきように言っておくと、自殺者を性別で見ると男性の方が圧倒的に多い。それは男性の方が自殺に追い込まれやすい社会的環境があるということだ。(また「自殺」にも体力が要るという問題も大きいだろう。)しかし、男性に関してはコロナ前後で自殺に関する有意な差はなかったとされる。一方、女性の場合コロナ禍において自殺に有意な差があり、増えたのである。それは何故だろうか。想像するに、もともと経済的に大変な女性(低所得のシングルマザーなど)が多く、それらの人を支えていた外食業や観光業などにコロナの影響が強く表れたということではないか。
(G7の中で高い日本の自殺率)
 もともと日本は先進国の中で自殺率が高い。それは社会的なセーフティネットが整備されていないということだろう。この間の新自由主義的政策の積み重ねによって、人々は競争に追いやられてきた。それを当たり前と受けとめ、困難があっても「自己責任」とする風潮が強い。若い世代ほど、そのような自己責任感を内面化してしまっていて、追いつめられた人が多いのではないか。それが大きな問題となることなく、社会の中では隠されている。外食アルバイトがなくなって、大学を中途退学に追い込まれた学生も多くいたはずだ。若い世代のコロナ禍の影響はむしろ今後大きな負の問題になっていく可能性がある。
(コロナ禍の精神的影響)
 多分どこの町でも、この3年間につぶれてしまった店があると思う。いろんな理由があるだろうが、僕の町でも2019年秋に新規開店したピザ屋が2020年中に閉店してしまった。多分借金があったと思うし、もう持ちこたえられなかったのだろう。一度夫婦で食べにいったことがあったが、その店主はどうなったんだろうか。2020年には東京五輪があるはずだったから、一念発起して借金で店や民泊施設などを開いた人もたくさんあっただろう。事業に運不運は付きものだが、まさかパンデミックとは誰も予想しなかったし、それに備えた保険もなかったに違いない。

 コロナ禍が終わったことになり、外国人観光客も戻ってきた。株価の日経平均もバブル後最高値を記録している。そういうニュースばかり報じられるが、その裏で経済的困窮に見舞われた人々が多数いるだろう。もちろんそれ以前から貧富の差はあったし、それを完全に無くすことは不可能だ。だがコロナ禍に「何か」がぶつかった世代があるだろう。もう少しで大学を卒業出来たはずなのに、最後に学費を払えなくなった。夢だった店を開いた途端に休業を余儀なくされた。外食のバイトで食いつなぎながら、音楽や演劇などで成功を追いかけてきたが、もう限界と諦めた。そして、父や母をコロナで突然失って、まだ心の整理が付かない…。

 きめ細かな福祉のセーフティネットが今こそ必要だ。多くの企業は好業績なんだから、全員ではない。だが国民の中に「見えない分断」があり、孤立が深まっていると思う。スマホ代が払えなくなれば、SNSにSOSを出せない。新聞を取ってなければ、投書も出来ない。しかし、そういう人がきっと多くいると思って、マスコミや行政関係者が問題意識を研ぎ澄ますことを望んでいる。
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「エビデンスなき政治」の完成ーコロナ禍3年の総括③

2023年06月22日 22時46分04秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 この3年間に及んだ「新型コロナウイルス」によるパンデミックに世界各国はいかに対処したのか。今後世界的に検証が進められるだろう。日本の対応はどうだったのか、今の段階で考えておきたい。それぞれの社会に合ったやり方で進められたわけで、現段階で善し悪しを論じるには裏付けとなるデータが不足していると思われる。日本は確かに死者数は少なかったと思うが、コロナ対策と社会経済的な影響の得失をどのように判断するか、自分にはまだはっきりした答えはない。

 当初はずっと安倍元首相尾身茂氏(新型コロナウイルス感染症対策分科会長)が並んで記者会見していた。尾身氏の属した組織は、いろいろと変化していて僕もよく認識していない。時々「それは尾身さんから」と首相が振っていたが、はっきり言ってどこが「政治」で、どこが「医学」なのか、聞いていて判らなかった。当初は政府がどういう対策を打ち出すか、かなりの緊張感を持ってテレビで見ていた記憶があるが、そのうち段々と「たいしたことは言わない」と悟って、ちゃんと見なくなった。

 今でも僕が腑に落ちない気持ちを持っているのは、2020年2月27日に突然安倍首相(当時)が全国の学校に一斉休校を要請したことである。当時の感染状況は次第に深刻化しつつあったものの、まだ感染者が一人もいない県も多かった。また、離島や山間部など都市部との交流が非常に少なく、感染者が多発するとは考えられない地域も休校することになった。(まあ、そういうところで感染が起きると、医療機関も少ないわけだが。)そして、これが一番問題だと思うのだが、首相は「何よりも大切な子どもたちの命のため」などと理由付けしたことである。

 当時すでに諸外国のデータから、未成年世代の重症者は非常に稀であることは知られていた。そして、そもそもインフルエンザなどの「休校」とは「社会全体への影響を少なくする」ために行われる。その後オミクロン株の流行時に良くあったことだが、子どもたちの間で感染が広がり、そこから親世代にも広がっていった。さらに高齢世代に広がると大変なので、「休校」措置で子どもたちの流行をそこで止めるというのが本来の趣旨である。その目的を知ってか知らずか、安倍氏は「子どもたちの命」を保護するためとして、子どもの生命に危機が迫っているかのように国民をミスリードしたと思う。

 当時も批判したけれど、今思っても腹立たしい気持ちになる。もう年度末が迫っていたのだから、テストなどを最小限に絞って実施し、年度末の学校行事(遠足や球技大会など)を中止すれば済んだ。卒業式、入学式もマスク着用で実施出来たのである。今になれば、そのことは誰でも理解出来るだろう。国のやるべきことは、「国歌斉唱は省略」と通知するぐらいだろう。後は各教委と学校で判断に委ねれば良いのである。一生に一度の行事を奪ったのは、政府の大きな過ちだったと思う。

 そのころから、政治の世界で「エビデンス」という言葉をよく聞くようになった。"evidence" (証拠)から派生した日本語なんだという。どうもこの言葉に違和感があったのだが、やはり通常の使い方ではないようだ。「科学的根拠」と言うのが定義になるだろう。もっとも医学、特に疫学の世界では使われていた言葉らしく、エビデンスの信頼度の5レベルというのがあるようだ。見てもなんだか理解不能なんだけど。
(エビデンスの信頼度)
 そこから考えてみると、日本は「エビデンスなき政治」になっているということが今回のコロナ禍でよく判った。「科学的根拠」を政治に利用している。役立つときだけ、学者を利用する。決まった結論に箔を付けるためだけに、「学者」が必要になる。そのような「科学への蔑視」を象徴したのが、菅内閣による「学術会議会員任命拒否」問題だった。理由を聞かれても、菅氏も後任の岸田氏も何も答えない。「総合的、俯瞰的」と訳の判らない呪文を唱え続けるだけだった。時期から見て、この問題は安倍内閣時代から杉田和博官房副長官主導で進められていて、当時の菅官房長官、岸田政調会長も了解していたんだと今は考えている。

 そういう「科学の政治的利用」、「エビデンスの無視」は、もちろん以前から存在した。しかし、コロナ禍で人々はまざまざとその実態を見たのである。だが何となく、安倍内閣、菅内閣が終わったことで、この問題も消え去ったかの感じだ。しかし、実は岸田内閣で、むしろ「完成した」と言うべきだ。防衛費増、少子化対策…何を聞かれても財源を答えない。入管法、マイナカード問題なども、何を聞かれてもちゃんと応答しない。それでいて、多数の力で法律だけ通してしまう。そういう日本政治の完成形が「コロナ禍」を通して見えたのである。
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「超過死亡」の理由を考えるーコロナ禍3年の総括②

2023年06月21日 22時39分49秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 「コロナ禍」で何が起こったのか。病気の問題だから、まず死者数がどうなっていたかを見てみたい。日本では「少子高齢化」が進行しているといつも言われている。じゃあ、何人ぐらい生まれて、何人ぐらい死ぬのか、数を答えよと言われてもすぐには出て来ない人が多いだろう。コロナ禍前からという意味で、2016年から見ておきたい。
死者数合計             (出生数
2016年  1,308,158人        (977,242人)
2017年  1,340,567人        (946,146人)
2018年  1,362,470人        (918,400人)
2019年  1,381,093人        (865,239人)
2020年  1,372,755人        (840,835人)
2021年  1,439,856人        (811,622人)
2022年  1,582,033人        (770,747人

 2016年から見たのは、それまでは死者は120万人台、出生は100万人台だったからである。2007年からずっと死者数が出生数を上回っている(人口自然減)が、近年はその差が30万、40万、50万と増え続け、ついに2022年には出生数は死者数の半分以下になった。これは完全に「非常事態」というしかない。ずっと続いてきた傾向だが、それにしても2022年は異常である。それをもたらしたものが「コロナ禍」だと考えられる。

 実は2021年、2022年に関しては「超過死亡」があったとされている。この超過死亡というのは難しい概念なのだが、かいつまんで言うと統計的に推測される死者数より実際の死者が過大になる事象である。日本で一番出生数が多かったベビーブーマー(団塊の世代)が70代半ばを迎えて、今後も毎年のように死者数が多くなる。誰が死ぬのか、病気にせよ事故や自殺、殺人などもあるわけだから、完全な予測は不可能である。だが統計学的におおよその推計が出来るのである。それを有意に大きく上回る死者が出た場合を「超過死亡」とする。インフルエンザの流行によるものが多いが、2011年には東日本大震災で死者数が例年を大きく上回った。
(超過死亡)
 その「超過死亡」はどのくらいあったのか。厚労省の推計によれば、2022年には11万3千人とされている。問題はそれは何によって起きたかである。その問題を考える前に、まず「総コロナ死者数」を見ておきたい。公式的な死者数は厚労省のサイトによれば、2020年からの総死者数は「74,694 人」である。これは2023年5月9日現在のもので、5類変更を受けて厚労省の統計はそれ以後更新されていない。以下に厚労省サイトのスクリーンショット画像を載せておく。(何故か加工出来ない。)この数字は、多すぎるとか少なすぎるとかの意見もあるが、日本政府の公式的な統計では7万5千人弱の死者が出たのである。
(コロナ感染症の死者)
 「超過死亡」の理由については、おおよそ以下のような推測がなされていると思う。
コロナ死者数が少なく数えられていて、超過分の大部分は実はコロナ死者である
流行期に医療の逼迫がおき、コロナ以外の病気で、救急車が来ない、入院出来ないなどで死者が増大した
③(一部意見だが)2021年から超過死亡が生じたのは、ワクチン接種に原因がある
高齢者の外出自粛、通院控えが長期化することで、病気を悪化させたり老衰が進んだ人が多く出た

 一番最初に提示した例年の死者数を見て欲しいが、2020年は実は死者数が減っていた。これはコロナ死者が実は隠されていて、本来はもっと多いという憶測を否定するデータである。もちろん、統計に出て来ない隠れコロナ死者もいるとは思う。しかし、原則的にコロナが疑われた死者は、死亡後でも検査が行われたと思う。一番大変な時はそうもいかなかったかもしれないが、それでも死亡診断書には何か書くわけで、死亡者が肺炎を疑がわれる場合はPCR検査をしたはずだ。

 また③のワクチン説も、2020年の過少死亡を説明出来ない。ワクチンがなかった時期は、高齢化を反映して死者が増えるはずである。全く被害者のいないワクチンは歴史上ないので、コロナのワクチンも当然ワクチン被害は出ているはずである。現在なかなか認定されないが、証明が難しいということだろう。種痘やポリオワクチンでも被害は出ていたので、今回もあると考えて対処しなければならない。ただ、そのワクチン禍で10万人を超える死者が出たというのは、妄想に近いだろう。死亡診断書に死因を書くわけで、ある程度はあったかもしれないがワクチン主因説は無理筋だと考える。

 そうなると「医療逼迫説」と「長期の自粛によるフレイル(衰弱)説」になる。前者はある程度あったに違いない。ただ、2020年の過小死亡は「自粛生活」によると理解されている。他の感染症にかからず、また転倒も少なくなるなどで、かえってコロナ禍1年目は高齢者の死者が減ったのである。しかし、それも3年続くとどうだろう。子どもや孫にも会えない、旅行も行けない、地域の行事もなくなったというのが、1年目は緊張感で乗り切れたとしても、次第に精神的にも肉体的にも衰弱していったと推測出来る。しかも、異常があったらすぐに受診していたのが、医療逼迫や外出自粛で医者にかからない。そういうことの積み重ねで死者が増大した。現時点ではその要因が大きいと考えている。
(死者数の推移)(死因)
 なお、この間の死者数の推移を表わすグラフを示しておきたい。さらに死因の円グラフも。新型コロナウイルスの流行にも関わらず、日本では死因に変化はなかった。人はガン、心臓疾患、老衰で死ぬのである。
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未だにマスクをしてるわけーコロナ禍3年の総括①

2023年06月19日 22時32分25秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 「新型コロナウイルス問題」について、だいぶ長いこと書いてない。2023年5月の連休明けに、感染症法上の位置づけが「2類相当」から「5類」に変更された。これをもって、(多少の例外的措置はあるものの)原則的に新型コロナウイルス感染症は、法的に「普通の感染症」扱いになった。一体、この3年間のコロナ禍時代とは何だったのだろうか。改めて考えてみたいと思う。

 感染症法(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律)では、1類にエボラ出血熱、ペスト等、2類に結核、ジフテリア、SARS等、3類にコレラ、腸チフス等が指定されている。最初は治療法も確立されてないから「2類相当」でやむを得ないが、もともとコレラやチフスより大変な病気というのは無理があるだろう。(なお、4類は狂犬病、日本脳炎、マラリアなど動物由来の病気。5類はそれ以外の麻疹、百日咳、赤痢、風疹などである。)
(感染症法の区分)
 その後は「全数把握」がなくなったので、毎日毎日夕方にテレビを見てると「ニュース速報」で「本日の感染者数」が報道されることもなくなった。だから人々も何となくコロナのことを考えなくなってきているが、感染者は漸増しているという話もある。「第9波の入口」と言う人もいる。ただ、今回以後は感染者が増えたとしても、学校の休校などの措置があったとしても社会全体の動きを止めることはないだろう。つまり、インフルエンザの流行と同じである。実際、インフルエンザも流行っているという話だが、それで経済活動を止めてしまうわけではない。それは今までと同様である。
 
 僕の周辺では長く感染者の話を聞かなかった。2022年ぐらいから身近な感染者も出てきたけれど、自分は今まで感染していない。もともと小さい子どももいなければ、外食もほとんどしないから掛かりにくいのだろう。ただ、それだけでなく、やはり「マスクの効用」もあったのだと思う。今まで一年に一回ぐらい「風邪気味だなあ」という日があったものだが、この3年間それもなかった。つまり、今までよりも健康に過ごしたのである。旅行はしてないけれど(それはコロナ禍というより、高齢の母親がいるためだが)、外出はしていた。それでも風邪さえ引かずに済んだのは、やはり「マスク」のおかげじゃないか。
(1月の世論調査)
 マスクに関しては、1月のNHK世論調査で今後どうするか聞いている。半数近くが「基本的には外すが、今までよりは付ける機会を増やす」みたいな答えになっている。「外す」「付ける」が4分の1ぐらいで、こういう調査では中間的回答が多くなる。印象では5月にはかなりの人が付けていたが、最近暑くなるにつれ、若い人には外している人が多くなった気がする。時間帯、場所などにもよるだろう。映画館などでは当初、独自にマスク着用を継続して求めるところもあったが、最近はどこでも観客に任せているようだ。ただ観客には付けている人が多いと思う。

 自分について言えば、まだマスクを付けていることが多い。ただし、家から駅までは付けていない。電車内や映画館では付けているのである。あれほど「マスク嫌い」だったのに、慣れてしまったのである。最初の年は夏になったら肌が相当荒れてしまった。化粧水や乳液を付けてしのぐことになった。最近は化粧水は付けるけど、肌の方もマスクに適応したんだと思う。なんで今でも付けることが多いのか。概ね以下の4つの理由である。

①「寒暖差アレルギー」 花粉症はないけれど、寒暖差アレルギーがあって、夏は電車内の冷房がきついので鼻水やくしゃみが出やすいのである。それは感染症によるものではないけれど、周囲の人には判らない。マナーとしてマスクを付けておく必要が(今では)あるわけだ。
②「他の感染症が怖い」 ワクチンもしてるし、今ではコロナウイルスはかかっても多分そんなに重くならない。だけど、インフルエンザも流行しているという。こっちの方が重くなる可能性が強い。そっちも防ぐ必要がある。
③「高齢化」 自分も年取ってきているわけだから、コロナぐらい大したことないだろう的な自己過信は禁物である。②と重なるが、マスクを付けて防げることがあるなら、マスクぐらいガマンするよということ。
④「成功体験」 マスクなんか意味があるのかと思ったが、外出はしているのに風邪さえ引かなかった。つまりこの3年間は「成功体験」だったので、それを変える意味を見出せない。今後も何らかの感染症はずっとあるわけだから。

 もっともどうでも良い時までする気はない。僕の見に行く映画など、ときにはガラガラのことがある。この前なんか、2人しかいなかった。それも1人は前の方、自分は後ろの方である。そんな時までマスクを付けてる意味はほぼないだろう。心配し過ぎれば、いろんなケースは考えられるけど。だから、しばらくはまだまだ人が多い場所ではマスクを付けることになるのかなと思っている。
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「国がおかしくなる時は教育からおかしくなる」ー杉下茂の「遺言」(再掲)

2023年06月18日 20時36分07秒 | 追悼
 元プロ野球選手の杉下茂氏が亡くなった。97歳と長命だった。中日ドラゴンズで活躍し、日本で初めてフォークボールを投げて「フォークの神様」と呼ばれた人である。1951年、54年に最多勝利、51、52、54年に3度沢村賞を獲得したという偉大な記録を持っている。国鉄スワローズの金田正一と投げ合うことが多く、1955年には金田相手に1対0でノーヒットノーランを達成した。一方、1957年に1対0で金田が完全試合を達成したときの相手投手でもある。このような活躍は僕が生まれる前なので、もちろん直接は知らないけれど。通算勝利215勝は、日本プロ野球史上15位の記録となっている。同日に訃報が報じられた元広島の北別府学投手は213勝で、歴代17位だった。(昨年亡くなった村田兆治氏も215勝で、15位が2人いる。)
(杉下茂氏)
 さて、3年前の2020年夏、コロナ禍で夏の甲子園大会が中止になった年のことだけど、東京新聞に杉下氏のインタビューが掲載された。杉下氏の名前ぐらいは知っていたけれど、「伝説の投手」というだけで杉下氏の戦争体験のことなど全く知らなかった。そこで語られた言葉は、胸に迫る深さがあり非常に驚いた。そのため、ブログでも紹介したことがある。(2020年9月3日)その内容は改めて紹介する価値があると思う。むしろ今こそさらに重みが増しているというべきかもしれない。自分でも忘れていたぐらいだから、当時読んだ人でも多分覚えてないだろうと思う。そこで以下に再掲したい。
(現役当時の杉下氏)
 杉下茂は1925年生まれで、東京都千代田区(現)で育って、旧制帝京商業学校の野球部で活躍した。1941年の中止された甲子園の高校野球に出場予定だった。「あれは帝京商3年生の1941年だった。地区予選を勝ち抜いて、さあ、甲子園だというところで、中止になってしまった。残念だったが、大人たちはそれどころではないという感じ。今年はコロナで中止になったが、私たちのとき以来、79年ぶりだというね。この年の12月、日本は太平洋戦争に突入したんだ」

 「―そのときの思いは。」
 「日本はどうなってしまうのかという不安と野球をやりたい気持ちが入り交じっていた。1942年は文部省(現文部科学省)が主催となって夏の大会が復活したが、正式な大会ではないため、『幻の甲子園』と呼ばれている。私は予選に出たが、この大会は戦意高揚が目的だったから、投手からぶつけられても『球から逃げるとは何事だ』と怒られ、死球を取ってもらえなかった。ひどい時代だった」

 「―「魂の野球」と呼ばれた時代ですね。選手は審判におかしいとは言えない雰囲気だったのですか。」
 「何しろ、世の中全てがそうだった。大人からああしろこうしろと言われれば、『ハイ』と答えるしかなかった。異議を唱えるなんて許されなかった。国はそこのところをよく考えて、子どもたちに『お国のために』と教え込んだ。軍事教育だね。だから、私は教育というのは本当に大事で、国が危うくなるときは教育からおかしくなると思っている

 その後召集され、中国戦線に従軍、行軍のつらさ、上官の体罰などが語られる。そして叔母から兄の死を知らせる手紙が届いた。制海権がすでに奪われていたので、それが軍隊時代に受け取った唯一の郵便だったという。

 「―確かお兄さんは3歳年上でした。どんな方でしたか。」
 「兄の安佑は、優しくて、しっかりしていて、野球が上手な人だった。海軍に入っており、この年の3月21日に沖縄で戦死した。神雷部隊といってね。特攻専用の桜花という機体に乗り、米艦に突撃したとのことだ。2階級特進で少佐になったと書いてあったが、そんなことはどうでもよかった。小さいころからキャッチボールをしてくれた兄がいなくなったのが、悲しかった」

 日本の敗戦に伴い、中国軍に武装解除され捕虜収容所に。そこは水が悪く多くの戦友が亡くなっていった。そんな中で捕虜収容所でも野球をやった。スポーツがつらい生活を救ってくれたという。野球大会を開いたり、バレーボールやバスケットボールもやった。スポーツで最後まで諦めずにプレーすることに助けられた。

 「―戦後、75年がたち、当時の様子を話せる人が少なくなりました。最後に戦争経験者として次の世代に残したい思いを聞かせてください。」
 「あの戦争では多くの若者が犠牲になった。兄は野球がうまかったから、無事でいたら、私を上回る野球選手になっていたことだろう。人間の未来や可能性を奪ってしまう戦争は二度と起こしてはいけない。そのためには誰もが意見が言える世の中にしておくことだ。戦争中は上官が突撃しろといったら『ハイ』といって従った。それが特攻や自決につながった。そんなのは間違っている。私はおかしいことをおかしいと言えない空気が悲劇を生んだと思う。誰もが自由に声を挙げられる世の中、『そうじゃない』と批判ができる世の中をいつまでも残してほしいと思っています。」

 このインタビューは新聞未掲載部分を含めて、全文が「「戦争は人間の未来を奪う」 フォークの神様・杉下茂さん(94)がひ孫世代に伝えたいこと 」で読むことが出来る。是非読んでみて欲しい。貴重な写真の数々も掲載されている。
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ピーター・チャン監督『ラヴソング』、マギー・チャン回顧上映を見る

2023年06月16日 22時41分00秒 |  〃  (旧作外国映画)
 先頃見たアメリカ映画『ター』に、最近東京のBunkamuraで誰それを聞いたとかいうセリフがあった。そんなに世界のクラシック界に知られたところだったのか。それはオーチャードホールだろうが、今は基本的に2027年までBunkamuraは閉まっている。渋谷の東急本店の全面改築に伴う措置で、オーチャードホールだけは土日はやってるという話だが、舞台、映画、展覧会は他の場所に移っている。映画に関しては、昨年閉館した渋谷東映のあった場所(宮益坂入口ビックカメラ上)に「Bunkamurル・シネマ渋谷宮下」が今日(6月16日)開館した。前より駅から近く、客席も広い。

 ところで最初の上映として、なんと「マギー・チャン・レトロスペクティヴ」をやっている。香港の女優マギー・チャン(張曼玉)は2004年の『クリーン』でカンヌ映画祭女優賞を獲得して以来、20年ほども映画から遠ざかっている。しかし、ウォン・カーウァイ監督の『花様年華』『欲望の翼』『楽園の瑕』などが時々上映されているから、若い映画ファンも知ってるだろう。今回は久しぶりのピーター・チャン監督『ラヴソング』、メイベル・チャン監督『宗家の三姉妹』に加え、ベルリン映画祭女優賞の『ロアン・リンユィ 阮玲玉』、3年間結婚していたこともあるフランスのオリヴィエ・アサイヤス監督『イルマ・ヴェップ』『クリーン』などがラインナップされ貴重な機会となっている。

 僕が大好きな『ラヴソング』(甜蜜蜜)は久しぶりの上映なので、今日見てきた。(当時の35ミリフィルム上映)。非常によく出来た恋愛映画だが、同時にある時代の「香港映画」の代表作的な意義もある。1996年の映画で、「香港返還」の3年前。1997年の香港電影金像奨では作品、監督、主演女優など9部門で受賞した。テレサ・テンの名曲をバックに、1986年3月1日から1995年5月8日(テレサ・テンが亡くなった日)まで、およそ10年に及ぶ2人の男女の出会いと別れを描いている。今見直すと、香港と中国本土の経済格差が非常に大きかった時代相を反映した作品で、もう2度と戻ってこない「香港映画の輝き」が詰まっている。(以下、細かなストーリーを書くけれど、エンタメ系だから知ってても感動できる。知らずに見たい人は先に読まないよう。)

 1986年3月、シウクワンレオン・ライ)は、おばを頼って天津から香港へやって来る。まだ経済開放が始まって間もない頃である。香港は大陸青年から見ると圧倒されるような大都会で、北京語しか話せず広東語の出来ないシウクワンには戸惑うことばかり。このおばは、昔のハリウッド映画『慕情』ロケの時、ウィリアム・ホールデンとペニンシュラホテルで食事したという思い出(幻想?)に浸って、ホールデンの写真を飾っている。おじの伝手で仕事も見つかったが、それは自転車で鶏肉を運ぶ仕事だった。故郷天津に待つ婚約者シャオティンに毎日のように手紙を書き、「運送関係の仕事をしてる」と書くのだった。

 少し金ができたシウクワンは、ある日曜日に初めてマクドナルドへ行ってみる。初めて注文するハンバーガーとコカコーラ。注文の仕方もわからず、時間がかかる彼に店員はあきれつつ対応する。ふとみると店員募集のビラが。自分でもなれるかと店員に聞く。この店員レイキウマギー・チャン)は、野暮ったい大陸青年シウクワンに広東語が出来なきゃだめ、英語も出来なきゃダメと教えるのだった。レイキウは彼に英語学校を紹介し、二人は学校を訪ねる。どうやら彼女は生徒を紹介して紹介料を取っているらしい。その時、レイキウのポケベルがなる。「すごい、ポケベル持ってるんだ。」

 レイキウはいろんなアルバイトを掛け持ちして稼いでいるのである。その英語学校の清掃もしてる。レイキウは彼に、銀行カードを持つように教える。こうして、忙しく働き金をため夢を追うレイキウと大陸から来て大都会で孤独なシウクワンは友達になる。彼にとって、香港でただ一人の友達だ。英語学校で会って、次の仕事に向かうレイキウに、シウクワンは「車で送ってくよ」と言う。自転車の後座席にレイキウを乗せて香港の街を行くシウクワン。「香港じゃ自転車は車って言わないのよ。」自転車に相乗りしながら、テレサ・テンの「甜蜜蜜」が流れるシーンは、『明日に向かって撃て!』の「雨にぬれても」に匹敵する名場面だと思う。

 1987年、旧正月前夜、レイキウはテレサ・テンのカセットを売る屋台を出す。「大陸出身者はテレサを買うわ。香港人の5人に1人は大陸出身よ。私たちも、二人に一人がそうよ。」しかし、雨の中、テレサ・テンのカセットは全然売れない。「大陸出身だと判っちゃうから、テレサ・テンはみんな買わないんだよ。」「何で? 去年の広州じゃ売れたのに。」レイキウは思わず自分が広州出身であることをバラしてしまう。「自分も大陸出身なの」と認めるのだった。二人はレイキウの部屋へ行って、餃子を食べる。シウクワンはレイキウを「大陸出身でも、バリバリ働いて、お金を稼いでいて、君はすごいよ。」と慰める。「何よ、嘘ついてたから馬鹿にしてるんでしょ。」「馬鹿にしてるのは君の方だろ。俺が何も知らないから。」「そう思ったらもっと怒りなさいよ」「怒ったら、付き合ってくれないだろ。香港でただ一人の友達なのに」
(シウクワンとレイキウ)
 雨の中帰ろうとするレイキウにシウクワンは、いっぱい外套を着せようとする。向かい合う二人、ふと見つめあい、想いが高まって抱き合い結ばれるのだった。「私も香港に友達がいないの。」次の日、シウクワンはマクドナルドにレイキウを訪ねるが、彼女は「雨の日に寒さをしのいだだけ」という。でも、その後も二人は会いつづける。シウクワンは故郷のシャオティンを思いながらも、レイキウと会わずにいられない。レイキウはテレサ・テンを仕入れた借金を返しながら、相変わらずお金をためている。株と外国債で財産は増えていく。生きがいのように、キャッシュカードの残高確認をするレイキウ。だが、ある日、世界的な株安(ブラックマンデー)に巻き込まれ、レイキウの財産はほとんどなくなってしまった。

 借金を返すため、レイキウは仕方なくマッサージ師になる。ある日、暗黒街のボス、パウエリック・ツァン)のマッサージを担当したレイキウは、度胸があると気に入られる。一方、シウクワンはシャオティンへのプレゼント選びにレイキウに同行してもらう。金のブレスレットを選びながら、レイキウの腕に触ると、マッサージで疲れていて腕が痛む。「マッサージで痛いんだね。」「なんで、大声で仕事をばらすのよ。」そして、最後に同じものを二つ買うシウクワン。ひとつはレイキウへのプレゼントだと言って渡す。怒るレイキウ。「同じものを二人にプレゼントするなんて信じられない。」悩んだ末、シウクワンは次の日に、レイキウに「さよなら」の伝言メッセージを残すのだった。

 ここまでが、出会いと最初の別れである。大陸出身だからというだけでなく、シウクワンには無神経なところがあるが、そこもまた魅力だというレオン・ライが良い。しかし、なんと言ってもエネルギッシュに香港を駆け抜けているかに見えながら、故郷を背負って孤独なレイキウ役のマギー・チャンが見事。次第に彼に惹かれていく心情を繊細に演じている。次のシーンは1990年。1989年を飛ばしている天安門事件が香港人の心に与えた傷は大きい。1989年を描くなら、学生支援集会に姿を見せたテレサ・テンを描かないといけない。返還直前ということもあるだろうが、「あえて1989年が出てこない意味」を感じないわけにいかない。
(ピーター・チャン監督)
 1990年、冬。シウクワンはシャオティン(クリスティ・ヨン)を香港に呼び結婚する。彼は路地裏のバスケを通して知り合った料理人の引きで、コックとして成功した。今は有名料理店の副料理長である。友人も一杯、祝福にやってくる。レイキウも今は若手実業家として成功している。そして、この結婚式で二人は再会したのだった。レイキウは今はパウの愛人だった。香港に友達のいないシャオティンにレイキウは親切にする。バレエが特技の彼女にバレエ教室の講師の仕事を紹介したりする。事情を知らないシャオティンはレイキウに、はめている金のブレスレットをプレゼントしたいという。あわててレイキウは辞退する。しかし、どうしても思い出さないわけにいかない。

 ある日レイキウの開くブティックの祝いに二人はかけつける。豪華なドレスを売る店を開くまでになったのだ。美しいドレスに見入るシャオティン。帰りに二人をレイキウは車で送る。事情を知らぬシャオティンは、発表会の用事があると、途中で下りてしまう。気詰まりなまま、仕方なく二人は車を出す。間の持たないシウクワンは、ラジオをつけると、テレサ・テンの『グッバイ・マイ・ラブ』がかかっている。平尾昌章が作ってアン・ルイスがうたったあの曲。「さよなら愛しい人よ あの時はもう戻らない」「いい歌ね」その時シウクワンは、道の向こうにテレサ・テン本人がいるのに気づく。あわてて車をとめてもらい、かけよるシウクワン。(もちろんテレサは撮影時には死んでいるので、別人の演技である。)
(テレサ・テンのCD『甜蜜蜜』)
 皆に囲まれサインをせがまれるテレサ。彼は何も持ってないので、来てるシャツの背中に「鄧麗君」(中国名)とサインしてもらう。戻ってきた彼は、ここで下りると言って去っていく。サインを背中に背負って遠ざかるシウクワン。画面にはずっと『グッバイ・マイ・ラブ』が流れてる。想い高まりハンドルにもたれると、思わずクラクションが鳴ってしまう。その音でシウクワンは振り向く。歌は止まり、無音の中、フロントガラス越しに見詰め合う二人。ゆっくりと戻ってくるシウクワン。こうして、また結ばれたのだった。
 
 この後、二人はそれぞれ相手に告白することを誓うが、家に戻ると、パウは警察に事情聴取を求められ、身を潜めている。彼を追って、台湾行きの密航船まで追っていく。パウは「俺は逃げる。新しい男を見つけろ」というが、レイキウは思わずパウに付いて行くことを決心する。雨の埠頭で、シウクワンはずっと待ち続けるのだった。戻った彼はシャオティンに告白。シャオティンは、ずっと天津にいれば幸せだったとなじり、許せないと去っていくのだった。妻と愛人を同時に失ったシウクワンは、彼をコックにしてくれた先輩が今住むニューヨークに一人向かうのだった。

 ニューヨーク、1993年。シウクワンはコックとして落ち着き、先輩には結婚をすすめられている。一方、レイキウとパウもニューヨークに流れつき、そろそろ落ち着こうかと話している。次の日、二人で買い物へ行き、レイキウがコインランドリーに行く間、街角で待っているパウは、地元の不良青年に因縁をつけられ、銃で撃たれる。突然の悲しみの中、背中の刺青で死を確認するのだった。この事件でレイキウの滞在資格が切れてることが判明。国外退去になり、空港へ向かう車から、レイキウはシウクワンを見る。思わず車を飛び降り追い続けるが、自転車でニューヨークを行くシウクワンをどうしても捕まえられない。

 2年後、1995年、レイキウは中国からのツァー客に自由の女神を案内してる。どうやらグリーンカードも取れたらしい。その日、シウクワンも自由の女神に来ている。9年ぶりに一度広州に帰る彼女はチケットの手配に旅行社へ行く。チャイナタウンのテレビはその日、テレサ・テンの死去を伝えていた。1995年5月9日。画面はテレサの生涯を紹介するテレビ番組を流し、テレサの歌を流す。「私の愛がどれほど深いか あなたは私に尋ねたわ」チャイナタウンの電気屋の店頭はみんなテレサの死を伝えている。そして、テレビを見るレイキウとシウクワンはそこで、5年ぶりに再会するのだった。このシーン、テレサ・テンの「私の心は月が知っている」があまりにもピッタリで、涙なしに見られない。映画には最後にちょっとしたボーナス・シーンがあるが、ここでは触れない。
(1995年5月8日に)
 この映画は、いろんな仕掛けがある。例えば、昔のハリウッド映画『慕情』。主人公のおばは、その時代の思い出に生きている。ハン・スーイン女史の自伝をジェニファー・ジョーンズ主演で映画化したロマンチック映画だが、中国革命と朝鮮戦争が背景になっている。また、「自由の女神」でわざわざロケしてるのは、どうしても天安門広場の「民主の女神」を思い出してしまうだろう。なにより、「テレサ・テン」である。台湾時代の愛らしさとスーパーアイドル時代から、80年代には大陸で大ブームを呼ぶ存在になるが、天安門事件で学生を支持し、以後大陸へ行けなくなった。そして、タイでの孤独な死。テレサ・テンをまったく知らないと、この映画の重要な部分は伝わらない。

 作者の思いを深読みすれば、二人のラブロマンスでありつつも、香港返還前に中華民族の自由を求める精神史を描く大きな狙いがあると思う。そういう東アジアの、香港や台湾が負ってきた心の痛みをある程度知っていて見た方がいい。単に「歌謡メロドラマ」としても出来がいいけど。しかし、このように偶然再会するということがあるのだろうか?昔の恋人が隣に越してきた(『隣の女』)とか、雨宿りしたら可愛い子と知り合った(『雨宿り』)とか、そんなことは映画や歌でしか起こらないのだろうか。非常に成功したメロドラマだが、単にそれに止まらない複雑な感慨を催す。今じゃ「大陸」が「香港」を制圧し尽くしたからこそ、この映画には言葉に出来ない懐かしさがある。なお、テレサ・テン甜蜜蜜』というCDがあり、映画に使われた曲が入っている。原題にもなった『甜蜜蜜』は元はインドネシア民謡だという。
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是枝裕和監督『怪物』、「世界」の重層性に迫る

2023年06月15日 22時53分39秒 | 映画 (新作日本映画)
 カンヌ映画祭脚本賞坂元裕二)を獲得した是枝裕和監督の『怪物』。この映画をどのように理解するべきだろうか。カンヌ映画祭ではまた別にクィア・パルム賞も受賞した。そのことの意味がなかなか理解出来ないのだが、ラスト近くになってようやく観客に見えて来た頃、『怪物』という映画の凄みが見えてくる。ある小学校で起こった子ども同士の問題が、映画では視点を変えて描き直される。その複雑なピースは見終わっても完全にははまらないと思う。ラストで伏線すべてが上手に腑に落ちてしまう作りではないから、判りにくいと感じる人もいるだろう。でも非常によく出来た傑作だと思う。

 最初に湖が見えている。予告編を見たときから諏訪湖っぽいなと思ったけど、案の定冒頭で「上諏訪」と明示される。長野県の中央にある上諏訪下諏訪は温泉や諏訪大社で知られる大観光地である。僕も行ったことがあるけど、観光客の姿は全く消されている。映画では今年作られた『ロストケア』もここで撮られていた。フィルムコミッションが非常に協力的なんだという。何となく不穏なムードが共通している。映画は小学5年生の二人の少年とその周囲を描くが、主なロケ地となる小学校は2021年に閉校した旧城東小学校という所だという。このロケ地が映画に真実性と落ち着きを与えている。
(旧城北小学校)
 ストーリーを詳しく紹介するのは控えるべき映画だろう。骨子だけ簡単に書くと、クリーニング屋をしているシングルマザーの麦野早織安藤サクラ)、その小学5年生の子ども麦野湊黒川想矢)がいる。最近湊の様子がどうも少し変である。靴が片方ないとか、遅くまで帰らず川辺に出掛けていたり…。見つけて帰る途中で車から突然飛び降りてしまう。ある日、耳をケガした理由を聞くと、湊は保利先生永山瑛太)の名前を出す。母は翌日学校へ事情を聞きに行くが、ここで「事なかれ主義」の権化みたいな管理職の壁にぶつかる。もっと事情は複雑だが、ここまでが安藤サクラによる学校追求篇である。
(保利先生)
 そこから視点が変わり、保利先生を中心に見ることになる。そこで教室の様子も出て来るので、最初に語られたエピソードの数々は必ずしも「事実」ではないと判ってくる。同級生の星川依里(ほしかわ・より、柊木陽太)の家の事情も出て来て、湊と依里の関係性が重要になってくる。一方で、保利先生の私生活も出て来て、恋人(高畑充希)に結婚しようと言っている。どこで知り合ったのか不明だが、ガールズバーに出入りしていると親たちが噂している。そして、二人の子どもたちの視点で、物語が再度語り直される。二人にはトンネルの向こうに「秘密基地」があったのである。トンネルと子どもたちということで、今年公開された足立紳監督の秀作『雑魚どもよ、大志を抱け!』を思い出させる。
(麦野家の親子)
 是枝監督は基本的に自分で脚本も書く(編集もする)タイプである。『誰も知らない』も『万引き家族』もそうだし、外国で作った『真実』『ベイビー・ブローカー』も自分の脚本だった。今回は坂元裕二の脚本で、違う人が担当するのは、何とデビュー作の『幻の光』(1995)以来になる。そのことでテイストは少し変わったと思うけど、自由自在に俳優を動かす近年の是枝映画と変わってはいない。このように「真実」のありかを探す映画としては、なんと言っても黒澤明羅生門』があるが、そこでは最後まで真実が判明しない。むしろ同じシーンを違った視点で見せる内田けんじ監督『運命じゃない人』に似ている。
(是枝監督と坂元裕二)
 『運命じゃない人』はエンタメ系なので、伏線は最後にすべて回収され事実は解明される。しかし、『怪物』はそういう映画ではない。「人間世界の複雑さ、重層性」を感じさせて終わるため、解明されない謎も多く残る。(僕が最大の謎だと思うのは、冒頭で出て来るビル火災の真相。)物語の構造上、学校の対応は非常におかしなものになっている。「親から教育委員会に持ち込まれたら…」と言うセリフがあるが、教員の体罰や生徒間いじめが疑われるケースだから、当然学校側から直ちに報告するだろう。それにしても校長先生田中裕子)のキャスティングは意表を突いている。
(スタッフ、キャスト)
 僕は映画を見て、自分の教員時代を思い出してしまった。親や教師は子どもの世界を理解していないことが多い。何で判らないんだろうと思うけど、自分で教師をしてみれば、教師は生徒の一面しか見えていないことを痛感する。結局解明出来ない「謎の事件」は数多い。この映画の場合、二人の子どもたちが遊んでいる時は二人以外判りようがないけれど、教室での出来事は他の生徒が見ていた。小学5年生なんだから、判っているはずだ。保利先生は異動してきたばかり(多分)で、前年までの様子を知らないかもしれないが、女子生徒のリーダーがしっかりしていれば大分変わっていたはず。管理職の対応を見ていると、リーダー育成をちゃんとやって来なかったんだろう。保利先生も女性問題を親が吹聴して、女子生徒に人気がなかったのかもしれない。

 この映画を見て、僕は一つの俳句を思い出した。
 好きだから 強くぶつけた 雪合戦   風天
 「風天」(ふうてん)は渥美清の俳号である。雪合戦じゃないけど、僕は全く同じことを小学生時代に体験した。この俳句が映画に何の関係があるのかって? それは自分で見て感じて下さい。(なお、坂本龍一の遺作で、音楽が素晴らしい。)
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樋田毅『彼は早稲田で死んだ』、非暴力抵抗運動の敗北まで

2023年06月14日 23時04分24秒 | 〃 (さまざまな本)
 樋田毅(1952~)氏の『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(2021、文藝春秋)を読んだ。『記者襲撃』『最後の社主』を書いた人の3冊目。前の2冊はものすごく面白かったし、今度の本もテーマ的に是非読みたかった。地元図書館で借りたんだけど、初めて行く図書館にあったので、借りに行くのが遅くなった。内容的に「面白かった」と評するのは不謹慎かもしれないが、実に興味深く一気読みしてしまった。大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しただけのことはある力作である。

 3冊の本の中でも、僕はとりわけ「面白い」と思ったが、それは何故かと言えばまさに著者が当事者だからである。「赤報隊事件」を追うのも、社主付きのあれこれも、基本的には「仕事」である。しかし、この本では著者こそ当事者なのである。だから、この本の題名は少し不十分で、ホントのところは「彼は早稲田で死んだ」、『その後、われわれは何をしたのか』『そして、何故われわれは敗北したのか』が真の内容である。僕はこの本を半世紀前に早稲田大学で起きたリンチ殺人事件の記録だと思って読み始めて、もちろんその通りなのだが、それ以上に現代に突き刺さってくる重大テーマを論じた本だと気付くことになった。
(樋田毅氏)
 題名にある「彼」とは、1972年11月8日に早稲田大学構内で殺害された川口大三郎(20歳)という第一文学部2年生である。当時革共同(革命的共産主義者同盟)の革マル派中核派は血で血を洗う「内ゲバ」を繰り広げていた。早稲田大学は革マル派の「拠点校」となっていて、それ以前から大学を暴力的に支配していた。その実態はこの本でよく理解出来る。自治会の多数派を握ることによって、自治会費や早稲田祭パンフレット代などの「利権」を独占していた。

 「川口君」は革マル派に疑問を持ち、中核派の集会に行ったこともあるようである。しかし、中核派メンバーではなく、周囲には「革マルも中核も失望した」と語っていたらしい。しかし、早大内の革マル派メンバーからは中核派とみなされ、授業後にある教室に連れ込まれて集中的暴力を受けた。授業中の大学構内で、「拉致監禁」されたのである。そして全身を角材等で滅多打ちにされて、ショック死するに至った。「監禁」を心配して、クラスメートが教員に知らせたりしていたのに、何故か救出出来なかったのである。そして、死体は東大病院前に放置され発見された。
(川口君事件を報じる新聞)
 この事件に加わったメンバーは確定している。当初はシラを切ったものの、5人メンバーのうち一人が耐えきれずに「自白」し、逮捕・起訴された。その人物には著者が取材しているが、最後になってこの本への掲載を断ったということである。そのため、事件の詳細な経過は書かれていない。また「彼」がどのような青年だったのかも、ほとんど触れられていない。何故なら、著者自身がその後、激動の渦に呑み込まれたからである。著者は1年J組所属で、川口大三郎はちょうど一つ上の2年J組だった。個人的な知り合いではなかったというが、とても他人事とは思えなかったのである。

 革マル派は形式的には「謝罪」したが、川口君は中核派のスパイだったと決めつけ、(革命のための)やむを得ない出来事だったとした。そのことに多くの学生が反発を覚えて、一気に反革マル派運動が盛り上がることになった。学内で内ゲバ殺人が起きた例は他にもあるが、このように「一般学生」の大衆的盛り上がりを見せた大学はないようである。何百人、何千人もの学生が、革マル派自治会幹部を追求し、革マル派に代わる新しい自治会を作ろうとした。そして学生大会を開くまでになる。そのことは連日新聞で報道された。僕は当時高校生で、事件そのものの記憶はあるが、その後の展開に関しては全く記憶になく、手に汗握る知られざる現代史に一喜一憂して読んだ。
(学生大会を報じる新聞)
 その細かな経過は本書に譲るが、翌1973年度の新入生を迎える時期になったら、一時は猫を被っていた革マル派がその暴力的体質をむき出しにするようになった。新入生は最初は事情が判らず、そのような時期を狙って他大学からも暴力専門部隊を動員して、集中的に反革マル派学生の動きをつぶしていったのである。そして、それに対応して、反革マルの自治会を作ろうとしていた側も「武装やむなし」との傾向が生じた。この「武装」とはヘルメットとゲバ棒(角材、鉄パイプ等)のことである。しかし、本格的武装組織を訓練している革マル派に抵抗出来るはずもなかった。

 樋田氏は1年生にして臨時自治会の委員長を務めていた。自身の立場は「あくまでも非暴力を貫く」「不寛容に寛容で立ち向かう」と決めていた。これは渡辺一夫氏の影響である。しかし、著者自身も襲撃され、何とか命は取り留めたものの、数ヶ月の入院を余儀なくされる重傷を負った。襲撃時に周囲に学生たちもいたのだが、皆逃げてしまったという。著者自身も似たようなケースで、助けることが出来なかった。この襲撃時の体験は後々まで夢に見るほどの恐怖心となったのである。そして、2年次終了時に運動から撤退することを決意した。非暴力でまとまってきた仲間たちが続々とヘルメットを被って現れる時の孤立感には言葉もない。

 著者は当時の委員長や自治会メンバーに会いに行っている。その内容は非常に興味深く、人生の深淵をうかがわせる。ところで、多くの人は不思議に思うだろう。授業をやってる大学キャンパス内で、「自治会」が暴力を振るうというのはどういうことか。大学当局に施設管理権があるはずである。実は簡単な話で、大学当局が事実上革マル派自治会と癒着していたのである。一般学生に革マル派自治会幹部が追求されていると、大学当局が警察に救出を要請するのである。反革マル学生たちを警察が規制して、革マル派部隊が学内へ入れるのである。その理由は判らない。革マル派を追い出しても、中核派が支配して、両者の争奪戦になるぐらいなら、革マル派自治会を温存する方が良いと思ったのだろうか。

 この本は実に現代的なテーマを扱っている。例えば香港ミャンマーを思い出す。ひとたび権力機関が牙をむいた時の恐ろしさを日本からはなかなか感じ取れない。この本を読むと、その恐怖とはこんなものだったかと思った。もっとも早稲田では学外に出れば、そこには平和な市民生活があった。国家権力そのものが暴力支配をむき出しにした場合、もっと恐ろしいだろう。それに対して、「非暴力」は意味を持つのだろうか。しかし、重武装を進めることでしか、「敵」には対抗出来ないのだろうか。まさに今の日本で問われていることだ。
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映画『ウーマン・トーキング 私たちの選択』、驚きの実話

2023年06月12日 22時30分01秒 |  〃  (新作外国映画)
 2023年米国アカデミー賞の脚色賞を受賞した(作品賞にもノミネート)、『ウーマン・トーキング 私たちの選択』が公開された。2週目にして上映時間が少なくなったので、早めに見に行ったのだが…。いや、なかなか難しかったのである。方法的に難解だというのではない。設定を理解するのが難しく、自分との接点が見つけにくい。しかし、その設定のぶっ飛びぶりを紹介しておく意味もあるかと思って書くことにした。題名だけ見ると、セクハラ企業の話かなんかと思うかと思うが、そうではない。

 そのことは事前に知ってはいたんだけど…。一般論として、事前にどこまで調べてから行くか。旅行だと一応調べて行くことにしているが、現地に行くとまた知られざる名所がある。映画や演劇の場合、何か情報があって見に行くんだけど、あまり細かな筋書きを調べていくとつまらない。展開に驚きたい気持ちもある。原作ものは別である。原作をいかに生かしているか、または変更しているかを見たい時もあって、原作を読み直して行く時もある。今回はあまり細かな筋は読んでなかったけど、現代の会社の話なんかではなく、昔ながらの暮らしをしているキリスト教系教団のコミュニティで起こった出来事だという程度の情報で見たのである。
(話し合う女たち)
 そのため、時代や場所をよく知らないまま、何か古い時代っぱいから、19世紀か20世紀初頭頃のアメリカの田舎で起きた事件かと思ってしまった。ところが途中で、これは現代の話かと気付く出来事がある。そして登場人物が「南十字星」って言葉が出て来る。家に帰ってから調べてみると、こんなことだった。カナダの女性作家ミリアム・トウズが2018年に出した『Women Talking』という小説があり、その映画化権を3度アカデミー主演女優賞を受賞したフランシス・マクドーマンドが獲得し、ブラッド・ピット率いる映画会社PLAN Bに企画を持ち込み、自ら製作にも加わった。そして、『アウェイ・フロム・ハー君を想う』などを作ったサラ・ポーリーが脚色、監督を担当したわけである。
(サラ・ポーリー監督)
 農場で奇怪な事件が相次ぐ。少女たちが朝起きてみると、記憶にない傷が付いている。中にはレイプされた大人の女性もいる。前からあったらしいが、キリスト教団体なので、悪魔の仕業などと決めつけられてきた。ところが少女が犯人を見ていて、ついに捕まることになった。地元警察が乗り出し、自供に基づき男たちが軒並み拘束されたのである。その男たちが保釈されて戻って来るらしい。そこで農場の女たちは、決断を迫られる。「許すか」「残って闘うか」「出ていくか」である。出ていくと、破門され天国に行けないという意見もあるが、最初の「許す」はあり得ないとなる。では残った二つのどちらを選ぶか。

 それを納屋に集まって延々と論じるのが、この映画である。女だけのところに、読み書きが出来る男性オーガスト(ベン・ウィショー)だけが書記として話合いを聞いている。彼は一度教団を出た経験があり、特別な位置を占めていた。彼が思いを寄せているオーナ(ルーニー・マーラ)初め、彼女たちはどのような選択をするのか。非常に緊迫したセリフと映像で進んで行くが、どうにも話に現実感がない。セクハラ企業で「労働組合を作って闘うか」「全員で退社するか」という論争なら、身近に引きつけて考えることも出来るだろうけど…。

 これは実話だというし、原作もベストセラーになったらしい。だからアメリカではおおよそ事前に情報を知って見ているのかもしれない。2009年から2年間に48人の女性が睡眠中にレイプされた事件が起こった。動物麻酔剤を使用して眠らせていたらしい。場所はボリビア東部にあったキリスト教系コロニーである。「メノナイト」という一派で、中にはいろいろ違いがあるようだが、現代的な生活を拒否して昔ながらの農業共同体を海外にいくつも作っているらしい。外国へ行って、閉鎖的な「植民地」を築くということ自体に問題があっただろう。そのような実話があって、それが小説になり、映画になった。

 映画の完成度は立派なものだが、まさか21世紀に起きた出来事とは思えず、どうも自分の身に迫って来ない恨みがある。テーマは重要なものだが、いくら何でも、こんなことがずっと続いたということが理解出来ないのである。ところで、女たちが話し合うわけだから、原題は『Women Talking』である。独り言じゃないんだから、当然複数形である。それを「ウーマン・トーキング」と単数形の邦題にするのはどうなんだろうか。日本で公開するんだから、日本風で良いとも言える。でも「ウィメン」でも、みんな判るのではないか。また(モンキーズが歌った)「デイドリーム・ビリーバー」が思わぬ形で映画に出て来たので驚いた。
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