尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「入学式と担任」問題③

2014年04月30日 23時20分49秒 |  〃 (教師論)
 入学式に担任が出席できないんだったら、初めから違う人が担任をしてればよかったのではないかという意見が結構見られたように思う。担任を決めたのは前年度の校長(異動してなければ今年度も同じ)だが、そう言われても困るなあという学校現場も多いのではないか。大体、4月に異動したばかりの新任校長かもしれず、事情を聞かれても困る場合もあるだろう。(高校の校長は3年ぐらいで異動することが多いので、今回も一人ぐらいは新任校長がいるのではないだろうか。)

 小中では(入学式に)休暇が取りにくいという意見も見られたが、そういう違いはあると思う。小中と高校の違いで一番大きいのは、やはり「学校規模の違い」だろう。数だけ見ても、小学校が一番多くて、中学、高校と少なくなる。東京都の場合だが、昨年度の統計で、小学校が1299校、中学校が623校、高校が188校となっている。(他に中等教育学校6校、特別支援学校61校などがある。)小学校は6学年、中学校は3学年だから、小学校の数が倍になるのは当然。東京の場合、伊豆・小笠原諸島があったり、私立学校が多いなど、全国的には特殊な地域なのだが、この数を見るだけで「(一学校あたりの)高校の教員数が断然多い」のは想像できる。

 東京の中学では今も1学年8クラス以上もある大規模校もあるが、大体は2クラスか3クラス程度ではないだろうか。高校の場合、学校数は少ないが、1学年のクラス数は多いのである。小中は義務教育だから歩いていけるところに作る必要があるが、高校生は電車やバスである程度遠くまで通学することが前提になっている。夜間定時制などの特別なケースを除き、今でも進学校は8クラス、そうでなくても6クラス程度はある。大規模学級時代に合わせて教室数が作られていて、規模にあった募集数にする。(それでも中堅校以下だと、クラス数はかなり減らしている。)だから各学校あたりの生徒数はそれほど減らず、教員数は多いわけである。もっとも教員が多くても、クラスが多いので必要な担任の数も多い。でも、「3学級のうちの一人」と「8学級のうちの一人」では「(入学式における)休暇の取りやすさ」には大きな違いがあるだろう。

 また、高校と中学では授業の持ち時数の基準が違う。授業内容が専門性が高くなるし、また「専門学科」の高校は専門教科の教員が加配されていることが多い。だから教員数は高校にゆとりが多くなるわけである。以上は高校の方が教員数に余裕があるだろうから、入学式当日も代わりを頼みやすいという話である。では、その代わりの人がいっそのこと、一年を通じて担任をすればいいのではないかという点を検討する。まあその通りで、変更しても特に大きな問題もない場合も実際にはあるだろうと思う。でも、「担任を持ってない教員」にも理由があるわけで、そう簡単には変えられないことが多いだろう。「教科的な要因」「学校運営上の要因」「個人的な要因」に分けて考えてみる。

 学級担任は教師の基本的な仕事であり、基本的には交代交代で誰もが担当するものである。正課外の部活顧問などと違う。原則的には全員が順番で担当する。ところで、新入生の担任を決める前に、すでに上級生の担任がいるわけだが、基本的には「持ち上がり」だろう。特に2年から3年にかけては、生徒のクラス替えはあっても、進路を控えて学年担任団は変えない。(それなのに、最近は異動年限で自動的に異動対象にしてしまったり、2年終了時に管理職に「昇進」して生徒を置いて去ってしまう人もいないわけではない。病気や介護などもあるので異動を一概にダメとは言えないが。)上級生の担任が異動した場合は、後がまは「教科的な要因」が大きくなる。

 高校の場合、日本史は日本史、物理は物理しか教えないから学年に関係ないというケースも多い。でも(普通科高校の場合)国語、数学、英語などの基本教科、あるいは保健体育などは教員数も多いし、進路指導、生活指導の観点からも、各学年に必ず一人はいるものだ。8クラス規模だと同じ教科の教員が二人いることもあるが、まあ6クラス程度なら、同じ学年の担任に例えば理科が二人ということはない。誰かが途中で異動したとしても、教科バランスを考えて後がまが決まる。転任した人の代わりに新任できた教員が、年齢や経験が同じ程度なら、その人が学年に途中から入ることも多いだろう。

 一方「学校運営上の要因」というのは、高校の場合、担任以外の教員人事の方が重要だったり、もめることもあるということである。小規模の中学なら、教務主任、生活指導主任が学級担任を兼務せざるを得ない場合もあると思う。しかし、高校の場合、規模が大きいので、原則的には主任専任となるだろう。(授業時数の軽減も認められる。)また進路指導が重要なので、長い経験から進路先と深いつながりを持っている教員が、担任団に入れず「進路部専属」みたいに「塩漬け」になる場合がある。それは「教務」「生活指導」(生徒指導だけでなく、大規模な文化祭担当もある)にも似たような面があある。伝統ある大規模校になればなるほど、「余人をもって代えがたし」と「毎年希望してるのに担任にしてもらえない」人が出てきたりする。実力十分で「入学式の代役」など「やる気満々」だけど、学校としては他の仕事を割り当てる(と校長が判断した)ということである。

 最後に「個人的な要因」だけど、これは「担任をしたくない理由」と「担任をさせられない理由」に分けられる。そしてこの要因が最近は増大しているのではないだろう。「担任をさせられない」というのは、病気で休暇を取ることが多い、精神的に不安定といった教員である。「休職明け」で時間軽減を取ってる教員も担任には入れない。近年、教員の病気休職、特にメンタル面の休職が増大していると言われる。統計でみると、むしろ数年前よりは少し減っているようだけど、病休と精神疾患を合わせると1パーセントを超えている。だから大規模校なら1人ぐらいはいることが多い。年度当初から決まっていれば「代替教員」が配置されるが、臨時教員は勤務時間などは同じだが、来年以後いない可能性が高いので、普通は担任に入らない。

 「新規採用教員」も、今ではすぐに担任を持つことはないだろう。昔はすぐ担任に入る新採が結構多かったものである。現場も管理職も、そして本人も、周りに教えられながら担任を務めるのが「一番の研修」と思っていた。今は初任者研修が大変過ぎて、とても担任はできない。他県や私立で教員経験済の「30過ぎの新採」といった場合は別だが。(大体「期限付き採用」なので、来年必ずいるとも限らない。東京では、昨年の新採2740人中、正式採用となったのは2661人。2.9%、79人が採用とならなかった。)最近は新採教員がかなり増えているので、担任を任せられないのは、人員上かなり困るケースも多いだろう。

 そのうえ、まだ残る「10年研修」、あるいは導入されてしまった「教員免許更新制」なども、それに当たる年には担任をしたくない要因になっているのではないか。それを理由に担任を外れるのは難しいかもしれないが、逆に「3年担任時に当たらないように計算して、担任に入る」という要因としては大きいだろう。実際、3年担任時の「10年研修」は無理だと思うし、夏休みに行われることが多い「更新講習」も3年担任だと厳しいのではないだろうか。このような現場にしわ寄せする政策が多いので、担任決定は校長にとっても大変な仕事だろう。

 そういった事情を考えると、「自校の入学式が子どもの入学式と重なる教員」と言えど、その事情は「担任を外れる理由としては低い」と校長は判断するのではないか。子どもが高校生というのだから、新採でも「10年研修」にも関係ない。40代後半ぐらいで、担任としてはベテラン。今までに何回か卒業生を出した経験もあるはず。人事をいじりはじめると玉突きになってしまうし、教科の要因も大きいだろう。学校現場からすれば、余計なものがいろいろ入って担任の選び方が難しくなる一方。人事は校長の専権事項だとして意見も聞かず発令してしまう校長も多くなっている。どうしてそういう担任団になったのか、どうもよく判らないという場合も多いと思うけど、まあ、大体はそういう事情を勘案して、なんとか担任が決まっていくのである。
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「入学式と担任」問題②

2014年04月30日 00時49分53秒 |  〃 (教師論)
 学級担任が入学式にいなかったと批判されているが、「担任はどれほど大事な存在なのだろうか?」それは大事に決まってると言われるかもしれないが、では時々変わるのは何故だろう。いや病気や産休なら仕方ないだろうと言うかもしれない。そうではなくて、行政の都合で途中で変わることもあるのである。しかもよりによって、中学3年の担任が3学期から変わったという事例もあるのだ。担任をしていた主幹教諭が別の学校の副校長に発令されたのである。同学年に主幹が二人いたとも思えないので、担任だけでなく学年主任も3学期から変わったのではないだろうか。

 「週刊金曜日」の2014年1月24日号の「金曜日から」(いわゆる「編集後記」)に次のような記事が載っている。「学校も役所なんだなあ、と感ずることが最近あった。2月の受験を控えた中学3年の息子の担任が、1月1日付で副校長に昇進して別の学校に移られたのだ。どこかの校長のポストが欠員になり、結局玉突き人事になったらしい。集会で報告がされると、クラスはどよめきが起こり、涙を流す生徒もいたとのこと。異動された担任も後ろ髪を引かれる思いだったろう。(以下省略。)」

 東京の出来事とは明記されていないけど、副校長と書かれているから東京の学校だろう。それにあたる発令人事も、都教委のホームページに見つかる。2013年12月27日付の「東京都公立学校長及び副校長の任命について」という文書で、それによれば板橋の中学で新校長が発令されているが、副校長は一挙に4人も発令されている。だから単なる「玉突き」だけではなく、副校長の休職、退職、死亡などもあったのではないかと思う。そういうことも当然あるだろうが、でも「副校長昇任試験」に合格している主幹教諭は他にはいなかったのか。校名や人名を挙げる必要はないだろうけど、地名だけ書いておくと、大田区、文京区、東村山市、稲城市の中学に勤務していた人が副校長になっている。だから前記「金曜日」に出ている事例は、このどこかの学校ではないだろうかと推測できる。 

 どの学校の担任が大事と言って、比較は難しいが、やはり進路を抱えた「中学3年の担任」が一番重要ではないか。高校なら進学や就職に経験を積んだ進路指導部が存在するだろう。でも中学は人数が少ないため担任が進路指導に関わる部分が圧倒的に大きい。東京では1月末に都立高校の推薦入試があるので、新年早々から推薦書を作成する大事な仕事がある。そういう時期に、担任を代えるとは、どういうことか。入学式にいなくても、翌日以後に取り戻すことはいくらでもできるだろう。でも、受験と卒業を前に異動してしまうのは、いくら何でも「トンデモ人事」ではないか。入学式にいなくて批判されるのだったら、このような人事を行った東京都教育委員会は最大級の非難に値すると思うのだが、どうだろうか。(ところで、僕はこのことを1月に「金曜日」を読んで知っていたが、もう発令は元に戻らないし、受験前に外部で余計なことを言ってもまずいだろうと思って書かなかった。このブログに大した影響力はないけれども。もう新年度になったから書いているのである。)

 さて元の問題に戻り、入学式の日に担任が行うべきことは何だろうか。尾木直樹さんは「第一志望でなかった生徒はうつむき、表情が晴れない場合が多い。そんな生徒の表情を見逃さず、『これから頑張ろう』と声を掛ける。こうした心のケアは担任に限らず、この日で最も重大な教師の務めです」と語っている。もっとも今の言葉は朝日新聞4月23日付の引用なので、多少本人の言葉とは違っているのかもしれない。この尾木さんの言葉は本当だろうか。これが「観念的に書かれたタテマエ的な言葉」ではないとしたら、「尾木先生はやはりすごい」と僕は驚くしかない。やはりスーパー・ティーチャーなのかもしれないが、現場で実践できる教師はほとんどいないのではないだろうか

 と言うのも、全日制高校の場合、ほとんどの生徒が「表情が晴れない」のではないかと思うのである。それが第一希望ではなかったからか、初めての電車通学に疲れているからか、知らない人間ばかりの中で緊張しているからか、それとも親が教師で入学式に来てくれないのが淋しいからなのか…それらは今の段階では判らない。何か身体的、家庭的な問題があれば、後で入学式に来ている親から話があるだろう。明日以後に面談週間などがあるから、その時にじっくり話を聞きだして、今日のところは安易に頑張ろうなどとは声を掛けないでおこうという方が、むしろ普通の対応ではないか。

 中学までは、地元で知り合いの仲間の中で暮らしているものである。時には幼稚園から小中とずっと一緒だった親友もいたりする。いくら学校選択制であっても、また途中で私立に行ったり転校する生徒がいたりしても、やはり基本は「義務教育段階は地元の友人」であり、野球やサッカー、または塾なんかも知り合いの範囲でやってることが多い。高校になって、初めて「自分一人の人間関係」の中に放り込まれることが多い。その最初の日には、後で散々問題を起こすことになる生徒であっても、さすがに「猫をかぶっている」というか「本性を隠している」ものである。入学式が終わって下校の頃になれば、もうメールアドレスやLINEのIDを交換し始める生徒もいるかもしれないけど、担任が見てる範囲内ではまだ神妙にしている生徒がほとんどだと思う。だから、問題を抱えていそうだから今日すぐにでも声を掛けなければなどとという「心のケア」は僕にはとてもできなかった。
 
 一方、その逆はないことはない。つまり入学式の最初の日から、生活指導上問題だなという服装、頭髪、態度をしている生徒である。多くの教員にとって、入学式にチェックしないといけないのは、残念ながらこっちの方だろう。入試の日には真っ黒だった髪の毛が入学式にはもう茶髪っぽい生徒、明らかに勉強の意欲に欠けるムードの生徒、ひどい場合には入学式の日に喫煙で捕まる生徒。そんな場合もないことはないのである。そして、そういう生徒の指導は担任がまずするというより、最初は生活指導部で一括して対応すると思うから、担任が欠席していても指導はできるはずである。大変残念なことだけど、僕には入学式の日にあるとすれば、「心のケア」以前に「生活指導」である場合の方が想像しやすいのである。

 朝、生徒が決められた教室に集まる。10時開式なら、9時ころだろうか。最近の中学には、始業式の日の午後に、さっそく入学式を行う学校もあるやに聞くけど、高校では始業式の翌日がほとんどだろう。在校生は「自宅学習」にして、入学式には登校させない。初めてバスや電車で来るわけだから、遅れてしまう生徒も少しはいる。(それを心配して、教員より前に来ている生徒もいるものだが。)まず担任が行うのは、入学式の式次第の説明と「呼名」の確認。最近は難読人名が多い。願書に振り仮名があって、それをもとに資料を作ってあるけど、必ず最初に確認がいる。「跳」と書いて「リズム」と読ませるとか、「走」と書いて「らん」と言う名前だったとか。いや、これは実例を挙げられないので今僕が作ったもので、さすがにここまではいないだろうけど、とにかくそういう名前もある。「石田優奈(ゆうな)」の次が「伊藤優実(ゆうみ)」、次が「岩崎裕美(ゆみ)」だったりするので、とにかく要注意である。「大島優香(ゆうか)」なんて生徒がいると、読む方もあがっていると「大島優子」なんて呼んでしまうので、クラスで一度予行練習をして読み方も再確認するだろう。そうしているうちに、トイレに行かせれば、もう廊下に並ぶ時間。並び方、式場での座り方は説明してある。

 式が始まると、開式の辞、国歌斉唱のあとは、すぐに「新入生入学許可」で生徒の呼名である。それが終われば、後は校長や来賓の式辞を聞き流す。(まあ、式後のことを考えてしまうので、担任は聞き流しているでしょうね。)11時頃に式が終われば、親は会場に残して、生徒は教室へ。または写真を撮る学校は、写真撮影会場へ。その前後に「ロッカーの説明」をしないといけない。場所を教え、上履きや体操着を今日から入れていいけど、必ず鍵をするようにという話である。鍵を入学式の日に持ってくるように伝えてあるわけだが、やはり持って来ない生徒が多い。その間に鍵なしで使って無くなっても困るので、「鍵は学校でまとめて用意する」という学年も今まであったけど、そこまではしない時が多いのではなだろうか。ロッカーにも個人名を書かないなど、今は慎重な配慮が必要である。

 教室へ戻れば配布する印刷物が山のようにある。明日以後の予定。教科書購入の予定。(高校は教科書を自費で買うわけだから、業者が来る日に購入費を持って来させるのが大変である。)健康診断がすぐだと、問診票とか検便の用具とか。その間に、配布物を生徒は後ろに配るので、お互いに多少の会話を交わす。担任も自己紹介をしたり、多少クラス経営らしくなる頃に、親がやってくる。親はその間に、今年は「授業料に関する詳細な資料」、これは前に書いたけれど非常に複雑な制度に変えられてしまったので、その説明が事務室長(東京では「経営企画室長」という不思議な名前である)からあったはずである。また高校で親がほとんど来るのは、その後は卒業式までないことが多いので、PTAの役員決め、というか今はPTAと言われてきた組織に入るかどうかも保護者の選択という時代なので、是非入って欲しいというお願いなどが行われているのである。

 こうして、気が付けばもう12時過ぎ。時には12時半を過ぎている。長いなあ、お腹も空いたなあというムードが生徒はもとより親からも伝わってくる。だから、ここで長々と親子に向け「所信表明演説」をしたり、自分の教育論を語る時間はない。とにかく生徒には明日以後の面接でいろいろ話そうねということで、生活指導上特に問題な生徒がいなければ、「頑張ろう」などと声を掛ける暇もなくホームルームも終わっていくのである。それでも、「うちの子はこれこれで」という話を伝えたい親が必ず数組残るわけで、職員室に戻れたのは1時を過ぎているということになる。昼食をはさんで当初は1時頃より次の会議が予定されていたが、1年生が長くかかったので、では2時から「分掌部会」、3時から「教科会」などと時間を遅らせるというお知らせが職員室のホワイトボードに書いてある。前日までは「1年生の学年会」の時間が大量に必要だったわけで、その分、分掌部会や教科会が入学式以後に繰り越されたりする。昔は式後に学校内で「お祝いの会」などをやった時代もあったように思うけど、今は昔、そんな余裕もないし、そんなことは今では許されない。こうして入学式の日が過ぎていくのである。
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「入学式と担任」問題①

2014年04月29日 00時07分03秒 |  〃 (教師論)
 埼玉県の県立高校で、新入生の担任が自分の子の入学式に出席するために、休暇を取って入学式にいなかったという事例があった。該当者は4人いたという。多分、他県でもいたかと思うし、また休暇を取らずに我が子に淋しい思いをさせた教員もいたのだと思う。なぜ問題化したのかと言えば、出席していた県議がフェイスブックに書き込んだかららしい。それに対して、尾木直樹氏が「プロ意識に欠ける」と教師側を批判、大きな話題となってしまったわけである。この問題に関しては、あまり書きたくないと思っていたのだが、自分はちょっと違った観点で見ているので、やはり書いておこうかなと思った。まず「あまり書きたくない」と思う理由を書き、続いてこの問題に関する自分なりの見方を書きたい。その後、入学式における担任の仕事学級担任の決め方なども書ければと思っている。

 書きたくないというのは、「正解がない」「他人のプライバシーに踏み込まないと判断ができない」、「書くといろいろと傷つける人が出る」、そういう問題には触れないでスルーするのも「大人の知恵」ではないかと思うからである。でも書いてしまった人がいて、全国紙各紙に取りあげられてしまった。僕が書いても、まあいいのだろう。僕はその県議が誰だか知らないし、どの高校かも知らない。そのくらいなら調べていけばネットで判るかもしれないが、埼玉の事情を知らないから、知ってもあまり意味がない。さらに、その教師の子どもが進学した学校がどういう学校か、またどのような子どもなのかなどは、知りようがないし、知る気もない。だけど、判断するにはそういう点が一番大事な問題ではないかと思う。

 僕が書きたくないと思う理由がもう一つあり、それは「自分には全く起こりえない出来事」だったという事情がある。僕は子どもがいないから、子どもの入学式と勤務先の入学式が重なる事態は起こらない。様々な事情により、世の中には、結婚してるけど子どもがいない、結婚もしていない、あるいは離婚して子どもと疎遠になっているなどという人がたくさんいるだろう。そういう人から見れば、この議論自体が何か遠いというか、議論したくない、もっと言えばうらやましい問題ではないか。僕だって、だから入学式は(入学式そのものがなかった時は別にして)すべて勤務しているが、自分の子を理由に入学式に休暇を取ってみたかったとも思う。

 入学式などに参加している保護者はどういう人なんだろうか、皆が皆、専業主婦か自営業者なのだろうか。そんなことはないだろう。両親そろって出席している家庭も今は結構あるし、休暇を取って参加している人が多いだろう。そういう親も「プロ意識に欠ける」のだろうか。それとも、特に教師だけ、それも新入生の担任にだけ「プロ意識」が求められるのだろうか。でも、親は他にいないのだから、全員が「わが子の教育に関してはプロの親」なんではないのか。もし、入学式で保護者席がガラガラだったら、「出席する親がこんなに少なくていいのだろうか。もっと家庭の協力がないと、学校は良くならないのではないか。親なら何を置いても子どもの入学式に参列するべきではないのか。」などと書き込む来賓がきっといるに違いないと僕は思うのだが。

 ところで、僕がこの問題を聞いて最初に思ったことは、そんなことを言ったら「教師の子どもは、親が入学式に来てくれなくてもガマンせよ」ということになるが、そこまで言っていいのだろうかということである。親が自分の入学式に来てくれたというだけで非難されてしまった。来てもらってはいけなかったのだろうかと悩んではいまいか。一方、休暇を取らなかった教師の子ども(も多分全国にいることだろう)も複雑な思いを持っているだろう。批判を恐れず休暇を取った親もいると判ってしまった。どうして自分の時は来てくれなかったか、自分はそれほど大事にされていないということかなどと悩んではいまいか。そういう風に、子どもの心を想像すれば、この問題は触れない方が良かったんだろうと思うわけである。

 「担任が入学式を欠席してはいけない」と言っても、さすがの県議と言えども、「親の葬式」による忌引きなら問題視しなかったのではないか。(それとも最近は、親が死んでも学校に来いという人もいるのかもしれないが。)「権利ばかり言う」と批判しているようだけど、「年休」を申請して認められているので、「権利ばかり言う」というのは違うのではないか。確かに、年次有給休暇は理由を問わずに認められている。でも、自分の子どもの入学式と判っているのだから、事前に相談しているのである。そして、校長はその年休を承認した。さすがに「子どもとディズニーランドに行くので」といった理由なら、校長も「時季変更権」を行使したのではないだろうか。それでも子どもと遊びに行ったというのなら、確かにそれは「権利の濫用」ではないかと僕も思う。

 校長が年休を承認したのはどうしてだろうか。学校ごとの事情もあると思うが、学校の状態がうまく行っているのなら、「わが校なら入学式に担任が欠けても応援で乗り切れる」という判断もあったのかと思う。小中の場合、学校によっては教員数が少なく応援態勢が組めない場合もあると思うが、高校なら学級規模が大きい場合が多く、何とかやりくりできるのではないだろうか。もう一つは、自分の学校でも「保護者は全生徒分来る」を前提にしていただろうということである。体育館に設置する保護者席の椅子の並べ方、当日配布する書類の枚数…そういうものを「保護者は各生徒分は来る」ものとして用意しただろうと思う。こっちも親はみな来ると思っている以上、他校もそう思っているだろうから、行くなとは言えないのではないだろうか。もちろん、そういう事情がある教員を新入生の担任にすべきではないという意見も見受けられた。でも、それは次回以後に検討するように、難しい問題もあったのだろう。そうすると、子どもの入学式というのは、校長としても仕事を優先して欲しいとは言いにくいだろう

 要するに、「教師の代わりはある」けれど、「親の代わりはない」のだから、「まあ、あまり望ましいことではないだろうけど、やむを得ないのではないか」というあたりが僕の考えである。つまり、僕ももちろん、「学級担任はいたほうがいい」と思う。でも、この問題は「権利を優先する」という非難は当たらない事例ではないか。最初に問題化した県議は「権利ばかり言う教員」という言い方をしている。こういうのは、昔から保守系の政治家が教師などを批判するときの「定番的表現」である。だから、多分、これを言い出した県議は保守系で、昔の「教師聖職論」的な流れで言っているのではないかと思われる。それに対して、尾木氏の議論は「プロの職業人」という方向での批判になっている。これは「教師聖職論」というよりも、むしろ「教師労働者論」の流れの中で出てきているとも考えられる。古いタイプの組合闘士の教員だったら、入学式当日から「団結を乱す」「私生活優先」の教師に眉をひそめるのではないか。

 しかし、親にも事情がある。親が入学式に出る目的の一つは「担任の顔を見る」ことだから、確かにいないと困るのである。でも、事情は相互に同じだから、なかなか非難はできないだろう。入学式に親が来ないうちは限られている。何か事情がある家庭と思われてしまいかねない。これから以後は、保護者会の日時が重ならなければ出られるが、大体同じころに設定されるので重なることもあるだろう。そっちは担任が必須なので、抜けることはできない。要するに、入学式ぐらいしか子どもの学校に行けないのである。教師の子どもだから成績がいいとか、いじめに関係ないとか、そういうことはない。教師の子どもでも、成績が下位だったり、不登校気味だったり、いろいろと配慮を要するケースは多いだろう。スイミングクラブに通わせているから、髪がちょっと塩素で脱色気味になっているという子どもの場合、親が高校の生活指導の方針を理解していないといらざるトラブルが起こる。場合によっては黒く染める必要があるかもしれない。学校ごとによって違うので、最初に親が確認しておかないと、子どもがいじめられたりする恐れがある。

 親が入学式に出て、学校の方針を知る必要が昔に比べて格段に大きいのである。昔のように「学校にお任せ」ではやっていられない時代なのである。そのことは自分も教員だから、よく判っているだろう。だからこそ、自分の学校を欠席しても、わが子の入学式に出ざるを得ない。単に「子どもの入学を祝う」と言うだけの問題ではない。どうしてそうなったかと言えば、「親は教育サービスの消費者である」という教育政策を進めてきたからである。中学校やところによっては小学校まで、「学校選択制」を実施している地域がある。ましてや、高校は義務教育ではないので、留年もあれば退学もある。たくさんある高校の中から、自分で調べて選んだ高校を受験して合格した。でも具体的な生活指導方針や進路指導の状況は、入学してから初めて説明されるだろう。それを親に知ってもらい了承しておいてもらわないと、学校としては非常に困るのである。だから、もう何十年も入学式には親が来るということを前提にして、高校の指導が進められているのではないか。もちろん全員の親はそろわない。でも、よほど病弱や多忙か、何かないと入学式に来ない親はほとんどない。そういう状況になっているからこそ、休暇を取って子どもの入学式に参加するというのもやむを得ないのではないか…と思うのだが。

 この問題は、「権利か、仕事か」の対立ではなく、「親どうしの葛藤」の問題だろうと思う。そして、教育の本質は「贈与」だと思うので、担任がいなくて失望した親も多いだろうけど、「でも先生のお子さんからすれば、やっぱり来てほしいだろうなあ」と思って、事を荒立てないでいいかなと思う。そんなあたりがいいのではないか。なお、僕が唯一なりそうな立場としては「学年主任として、どうしようと相談される」というケースがある。その場合、まあ困ったなあとは思いつつも、何とかなるから大丈夫、みんなでフォローするからと言うだろうと思う。そう言いたいと思うけどなあ。
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トルコ、アルメニア人虐殺に哀悼声明

2014年04月28日 00時12分43秒 |  〃 (歴史・地理)
 重大な問題が新聞に出ていたけど、小さな記事だから気付かない人も多かっただろう。また新聞によっては載ってないと思うし、ネットニュースなんかでもほとんど載ってないと思う。ということで、これも紹介。

 トルコのエルドアン首相が、2014年4月23日、第1次世界大戦中のアルメニア人虐殺について、トルコの首相として初めて哀悼の意を表明したのである。その日は、1915年4月24日に起きたイスタンブールのアルメニア人強制追放の前日で、4月24日がアルメニアの「ジェノサイド追悼記念日」だった。首相声明はそれに合わせて出されたもので、この事件を「われわれ共通の痛み」と呼んだ上で、1915年に起きた一連の出来事は「非人道的結果」をもたらしたと言明している。この声明はアルメニア語を含む多数の言葉で同時に発表され、「称賛」されている。

 トルコでは第一次世界大戦当時、ということは前身の「オスマン帝国」時代の話だが、1915年から1916年にかけて、100万人前後のアルメニア人が虐殺されたという。アルメニアでは200万という説もあるそうだけど、もっと少ないという説もあって、トルコでも前から20万程度が強制移動などのさなかに死んだということは認めていた。しかし、アルメニア側は意図的なジェノサイドだとして、大きな問題としてきた。

 アルメニアというのは、カフカス(コーカサス)山脈の南にある国で、ソ連内の共和国だったけど、ソ連崩壊で独立した。グルジア、アゼルバイジャン、トルコ、イランに囲まれた内陸国である。昔は東部をペルシアが、西部をオスマン帝国が支配していた。ロシアがペルシア帝国に勝って、東部はロシア帝国に支配されることになる。第一次世界大戦でロシアとオスマン帝国が戦うと、オスマン帝国内のアルメニア人は敵に通じる可能性があるとして敵視され、虐殺事件が起きたのである。

 アルメニア人は欧米に多数が移住して大きな勢力を築いている。そのためもあって、アルメニア人虐殺問題は世界的に重大な問題とされてきた。フランスではアルメニア人虐殺を認めないと法に違反する「アルメニア人虐殺否定禁止法」が成立間近まで行って、大きな問題となった。(2012年に、違憲判決が出て、成立直前で制定が流れた。)また、アルメニア人過激派がトルコ外交官を襲撃する事件もかつて何度も起きてきた。トルコのノーベル賞作家オルハン・パムクが、受賞前の2005年にトルコは虐殺を認めるべきだと発言して、一時は国家侮辱罪で起訴されそうになるという事態も起こった。(結局不起訴。)このようにトルコ内外で非常に重大な政治、人権、思想問題と見なされてきた。

 
 今回のエルドアン首相の突然の発表は、政治家としての思惑があるのも間違いなだろう。最近は国内で強権や汚職事件などで反発も強くなっていた。ツイッターを一時遮断するとか、「www」に代わるトルコ独自のURLとして「ttt」を検討するとか、どうも信じがたい強権ぶりを発揮してきた。「アラブの春」でトルコがモデルとされたが、エジプトのクーデタやシリア内戦の複雑化でトルコの外交も行き詰まっていた。ただ、アルメニアとは2009年に国交を正常化し、問題はたくさん残りつつも対アルメニア関係は好転する兆しはあった。

 3月30日に行われた地方選挙で、与党公正発展党は予想を超えて勝利し、エルドアン首相の地位が安定してきたことが今回の発表にも影響を与えているだろう。公正発展党から出ているギュル大統領の次には、大統領制に制度を変えた上でエルドアンが就任するという目論見もあるとされる。プーチンと並んで、首相となったり大統領になったりしながら権力を握るという予測である。そういう今後のトルコ政局にも関係しているだろうけど、とりあえず今回の発表は大きな前進で良かったと思う。第一次世界大戦から100年という今年にふさわしい歴史への向き合い方ではないか。

 このトルコを訪れ親密さを誇示しているのが、日本の安倍首相である。日本の保守派の中には、「虐殺を認めない誇り高いトルコに学べ」などと主張する人がいる。雑誌「正論」にそういう論文を書いた人もいるらしい。しかし、このエルドアン首相の声明の方を是非、安倍首相にも学んでほしいものだと思う。

 なお、アルメニア人というのは世界中で活躍していて、ファーストネームの末尾に「…アン」が付く人がほとんどなので判りやすい。作曲家のハチャトゥリアン、アメリカ移民の作家サローヤン、ロッキード事件時の社長コーチャン、ソ連共産党幹部だったミコヤン、カナダの映画監督で祖国アルメニアの虐殺事件を映画化した「アララトの聖母」を作ったのがアトム・エゴヤンといった具合である。指揮者のカラヤンもそうだという説があるが違うという話もある。フランスの歌手シャルル・アズナヴールは間違いないアルメニア人で、本名アズナヴーリアン。歌手のシェールもアルメニア人で、出生時の名前はシェリリン・サーカシアンというんだと出ている。
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日本橋から京橋へ-日本橋散歩③

2014年04月26日 00時18分14秒 | 東京関東散歩
(2014.4.29追記)京橋交差点から東京駅方面へ向かうことはあまりないんだけど、たまたま今日歩いていたら、角のビルが元の片倉館だというプレートがあった。その裏に昔の写真が掲げられていた。興味深いので掲載しておきたい。なお、片倉館と言うのは、片倉工業の旧本社で、今は本社は中央区明石に移転し、跡地に東京スクエアガーデンという大きなビルが建っている。片倉と言えば、最近は富岡製糸場を保存していたことで知られた。また「片倉館」と言えば、長野県上諏訪温泉にある重要文化財の「千人風呂」が有名。でも本社が2009年まで、ここにあったとは知らなかった。
   

 地下鉄銀座線の京橋駅は、国立近代美術館フィルムセンターの最寄駅で、昔の映画を見るためによく訪れる。日本橋周辺のデパート(でやってる展覧会)や美術館などに寄った後で、フィルムセンターまで歩いて行こうかなあという散歩である。ただ歩くだけなら30分程度だが、見たり食べたり写真を撮ったりすれば、1時間半から2時間、さらにそれ以上。足を延ばして銀座まで行くのもいい。東京のど真ん中の散歩である。

 日本橋には老舗(しにせ)が多い。「いい東京」サイトの「東京の老舗」で日本橋を見るのがいい。三越の向かい側あたりに鰹節屋の古そうな建物がある。そこを入って行くと、佃煮の「日本橋鮒佐」(ふなさ)。佃煮を考案したという由緒がある。東京でも一番名前の通った佃煮屋。そこに松尾芭蕉の碑があった。桃青と名乗っていた時代の芭蕉は、江戸に出て8年間ここに住んだという。碑は「発句也松尾桃青宿の春」。その斜め前が、蒲鉾・はんぺんの「神茂」(かんも)だが、有名らしいが食べたことはない。大通りに戻ると「にほんばし島根館」や「奈良まほろば館」があるが、アンテナショップめぐりはまた別に。並びに有名な「山本海苔店」がある。ガラス窓だから、真ん前だと自分が映るので難しい。
   
 橋を渡って少し行くと「日本橋交差点」の手前に「コレド日本橋」がある。三越の真ん前にある「コレド室町」に先んじて2004年に開業した。それまでは「日本橋東急デパート」だったが、さらにさかのぼると、ここが「白木屋」である。江戸時代に越後屋、大丸と並ぶ呉服屋で、明治末からデパートになった。ところが1932年12月16日に、日本初の高層火災である「白木屋大火」が起こったことで歴史に名を残す。(ちなみに、この火事から女性が下着を身につけるようになったという話があるが、これはどうも「都市伝説」のたぐいらしい。)また戦後になると、1954年ごろに横井英樹による「白木屋乗っ取り事件」が起きた。横井英樹も知らない人が多くなったかもしれないが、株の買い占めなどで名をはせたが、晩年にホテル・ニュージャパン火事の責任を問われて禁錮3年の実刑判決を受けた。この白木屋では江戸時代から名水の井戸が有名だったという。その碑がコレドの裏の方にある。そこには「漱石名作の舞台」という碑も。「三四郎」や「こころ」に出てくると言う。その先に有名な洋食屋「たいめいけん」がある。値段は手が出る範囲だけど、人がいっぱい。
  
 大通りを行くと「高島屋日本橋店」で、1933年に建てられた建物はデパート初の重要文化財に指定された。どんどん改築されてしまう中、三越とともに近代の栄華を残す建物として残っていくのはうれしい。横から見ると、ちょっとパリかなんかの風情。デパートから地下鉄に直結してるけど、その途中で地下の水道菅や電気ケーブルを見せてくれる。東京を地下で支えるライフラインを見られる貴重なところである。
   
 さて日銀や三井本館から見てくると、そろそろ少し疲れたかなという時分。店はいろいろあるけれど、老舗で休むとなると、少し戻って橋のそばを入ると、飴で有名な「榮太郎本舗」であんみつなどを食べられる。最近は榮太郎を知らない若い人もいるんだけど、昔は飴では一番有名だった。お菓子もいろいろある。また高島屋の手前に、これも有名な「山本山海苔店」があり、ここでもお茶と菓子で簡単に休める。甘いものにこだわるなら榮太郎、ちょっと散歩の足休めなら山本山か。
 
 さて高島屋から少し歩くと、「日本橋三丁目交差点」。渡る途中で道の真ん中に公園があり、ヤン・ヨーステンの碑がある。江戸時代初期にウィリアム・アダムズ(三浦按針)らと共に日本に漂着したオランダ人で「八重洲」の名のもとになった。交差点の角がブリジストンのビルで、一階に「ブリジストン美術館」。近代のフランスを中心に充実したコレクションを誇る美術館で、都内の企業系美術館ではとても満足できるところ。ブリジストンビルの裏の方に、歌川広重旧居の碑があった。
    
 もう少し歩くと「京橋」で、大規模ビルの再開発が盛ん。ここももともとは「京橋川」にかかる本当の橋だったわけで、日本橋から東海道を歩いて最初の橋だった。1959年に京橋川が埋め立てられ、橋も無くなった。親柱のみ残されている。このあたりも碑が多い所で、銀座のガス灯発祥の碑とか江戸歌舞伎発祥の地などの碑が四方にあるので、どれがどれだか判らないぐらい。
   
 高速道路を超えたところに「警察博物館」がある。白バイに乗れるということで休日は親子連れが多いけど、実物展示が少ないので博物館としては少し物足りない。まあ制服とか警察マニアには興味深いかもしれないが。無料だから行ってもいいかな程度。それなら少し戻って、フィルムセンターの7階の展示施設が日本の映画史が充実していて、そんなに高くない。まあこのあたりは趣味の違いというべきだろうけど。
  
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日銀と日本橋(改)-日本橋散歩②

2014年04月24日 23時58分06秒 | 東京関東散歩
 「三越と三井本館」を4月7日に書き、翌日に「日銀と日本橋」を書いた。でも書き落としや写真の撮り忘れが多かったので、改定することにした。その後「日本橋から京橋へ」を書く予定。(4.24)
 さて、日本銀行本店を見たことがない人もけっこういると思う。東京駅や迎賓館に並ぶ素晴らしい近代建築である。三越の裏手に回ってすぐ。「銀行の銀行」だから、普通の人に用はない。外観を見るだけだけど、写真を撮ってる人がいつもいる。
    
 東京駅を設計した建築家、有名な辰野金吾の作で、1896年にできた。重要文化財指定。日銀大阪支店、京都支店(今は京都文化博物館別館)なども辰野だという。近年では日銀総裁は最高裁長官より知られているのではないか。ニュースによく出てくる日銀は、これかと一度は見るべき東京名所だと思う。平日に4回ほど見学ができる。(要予約)僕も生徒と一緒に行った。ビデオを見てから、地下の大金庫などを見学する。お土産に古いお札をシュレッダーしたものをくれる。社会科見学的な場所としてはとても面白いと思う。壮麗にして堅固な建築で、写真に撮りたくなるスポットである。裏へ回るとこんな感じ。
  
 日銀の真ん前に大きなビルがあり、「貨幣博物館」になっている。和同開珎や慶長大判、日本や世界の珍しい貨幣の数々が展示されている。とても充実したところで、修学旅行生も多い。東京にある入場無料の博物館としては一押しと言ってもいい。
  
 日銀から三越の方に戻って大通りを行くと、日本橋川に架かる日本橋がある。読みは「にほんばし」で、大阪の道頓堀川に架かるのは「にっぽんばし」。東京人は今や日本橋を単なる地名(駅名)だと思って、橋を渡ったことがない人もいると思う。首都高が上を通っていて、風情がないことでも有名だけど。今の橋は1911年に作られたもので、重要文化財。1963年、つまり東京五輪の前年に首都高が開通し、今の景観になってしまった。橋そのものを撮るのは難しいのだが(周囲はビル街で川に近づけないし、ビルにも入れない)、川端に広場があり斜め方向に撮るしかない。
   
 日本橋を遠くから撮ると、首都高を撮影してるようにしか見えない。単なる道路の上を高速道路が通る風景である。でも江戸は水路が発達していて、水運が重要だったわけである。橋そのものは西欧諸国の摸倣に過ぎず、そこに首都高が架かる光景こそ、「残すべき珍しい価値がある」という人もいるらしい。確かに東京の高速道路を「近未来風景」としてとらえる映画が内外にあるのも事実。でも、高速道路がない方がやはり自然ではないか。
   
 ここは道路元標(どうろげんぴょう)があって、日本の道路の起点である。橋そのものは、1603年に徳川家康が最初に架けた。それ以来五街道の起点が日本橋で、それを引き継いでいるわけである。道路元標は道路の真ん中にあって、常にクルマがあるから合法的には(真上からは)撮れない。(車が来ない一瞬を探して、急いで撮るしかないけど、横断歩道がないところで車道に出てはいけない。)元標はここだと上から示す印が、高速道路の間に作られている。最初の写真が元標のアップで、次の写真が場所の印。続いて、橋のたもとにある「道路元標」のレプリカと記念碑。 
   
 日本橋から東西への里程標もある。
 
 川は最近ではクルーズ船も寄るようになり、河岸が整備されてきた。江戸時代には魚河岸があったという碑も作られている。いろんな碑が橋の両側にあるので、全部見ようと思うと行ったり来たりしないといけない。道路元標を撮ってると他を忘れるスポット。本来の日本橋はもっと広くて、人形町とか兜町なんかも入るんだろうけど、今は地下鉄駅の日本橋近辺を日本橋と認識している東京人が多いだろう。このあたりは老舗が多い所で、ブラブラ歩きながら見て歩くのも楽しい。(食べたり買ったりしてもいいわけだけど、敷居が高そうな店が多い。)
  
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映画「アデル、ブルーは熱い色」

2014年04月22日 23時25分19秒 |  〃  (新作外国映画)
 2013年のカンヌ映画祭パルムドール(最高賞)受賞作、「アデル、ブルーは熱い色」が公開されている。チュニジア系フランス人、アブデラティフ・ケシシュという日本人には覚えにくい名前の監督の5作目。(この監督の映画は映画祭では紹介されていたが、劇場初公開である。)179分という長い上映時間、同性愛というテーマ、長く美しいセックスシーンの数々など破格のスケールの映画で、忘れがたい傑作だと思う。

 ある愛の始まりと終わりを数年間にわたって描いたこの映画は、見る者の心を鷲づかみにするような迫力に満ちている。見る者も主人公と共にドキドキし、心が痛み、愛の高揚と喪失を体験する。アクション映画なんかで、見てる間は画面に同化してるけど、終わったら全部忘れてるような映画がある。でも、この映画の記憶がなくなることはないと思う。

 プログラムに出ている様々な批評を少し引用しておく。
「この映画を見ること、それは目くるめく時間を共有することだ」(ル・モンド紙、フランス)
官能的であると同時に詩的。これこそ至高の愛の物語」(ル・ポワン誌、フランス)
迫真の演技、それがこの映画を混じりけのない真実へと近づけた」(スクリーン・デイリー誌、イギリス)
「完璧な映画、登場人物たちもストーリーも、すべて完璧。しかも思いやりと人生への共感にあふれている」(インディアワイアー誌、アメリカ)…

 2013年のカンヌ映画祭審査員は、スティーヴン・スティルバーグを委員長に、ニコール・キッドマン、アン・リー、クリストフ・ヴァルツ、ダニエル・オートゥイユ、河瀬直美らで構成されていたが、この映画の作品だけでなく、主演した二人の女優にも「パルム・ドール」(黄金の椰子賞=最高賞)を与えるという史上初の決定をしている。実際に二人の女優は素晴らしい

 1993年生まれのアデル・エグザルコプロス(ギリシャ系の名前である)は、同名のアデルの高校生から小学校教師になるまでの数年間を演じる。初めての愛と性のよろこび。そして喪失の痛みを全身で演じきった。失恋シーンなんて何度も何度もスクリーンで見てきたけど、きれいに一筋の涙が流れ落ちるなんて、ウソだったのだ。涙が止まらなければ、鼻水も出るはずではないか。もう顔中グチャグチャになって、涙が止まらない。争う場面の顔がひきつるような動きも、「演技」というものではないだろう。作って演技してるのではなく、設定を全身で生きている中で自然に生まれてくる動きだと思う。その意味では「記録映画」というか、「密着ドキュメント」という印象も受ける。

 アデルが町で見て「一目ぼれ」したエマ役のレア・セドゥ(1985年生まれ)は、「ロビン・フッド」などですでに活躍してきた映画女優ということだが、髪をブルーに染めた美大生という設定で、観客の心もつかんでしまう。どういう人だろうと探し求めてゲイ・バーへ行き、偶然に出会う。それはしかし「偶然」だったのだろうか。エマが高校の校門前に会いに行き、アデルは友人を振り捨てて付いて行く。そして、公園の大きな木のそばでスケッチをしながら、お互いが求めあっていることを感知する。この辺の「一目ぼれ」「愛の確認」は映画史上もっとも印象的な愛のシーンかもしれない。そして長い長い女性同士のセックス場面(美的に非常に美しいと思う)になる。

 もともとアデルは「クラスでもカワイイ方」と人気があり、女子高生どうしで食堂にいると、一級上の男子トマが見つめている。「彼が見てるよ」と友人がからかう。バスでトマと一緒になり、付き合うようになる。映画に行き、彼の家でセックスもする。だから、同性愛者という自己規定はしていない。ただ、トマと付き合って、その後エマに一目ぼれすると、トマは好きではないと気付き別れを告げるくというプロセスである。一方、エマは家にアデルを連れてって母親と義父に紹介するシーンを見ると、同性愛を親も認めているのではないかと思う。14歳の時から、同性愛を自認しているというセリフがある。画家を目指しているという点も大きく、「世間の目」などに囚われない生き方をしているようである。アデルもエマを招くが、アデルの両親はエマを年上の友人としか思わず、「絵で食べていくのは大変だろう」などと世間的な心配を口にする。

 時間の経過ははっきり示されないが、やがて二人は同棲するようになり、エマが画家の友人を招くと「私のミューズ(美神)」とまで言う。アデルはパーティの料理をすべて作って、皆は称賛する。エマはアデルが文才を生かして欲しいと思っているが、アデルは小学校の教員を目指している。幼稚園で働くようになると、だんだん二人の関係が変わってくる。エマがつれなくなると、淋しいアデルは男の同僚の誘いに乗ってしまう。それをエマに目撃され、「二度と会いたくない、今すぐ出ていって」とエマに言われてしまう。あまりにも突然の、思ってもいない別離。泣きながら謝罪するアデルをエマは全く許さない。この場面のアデルの傷心は、非常に「心に痛い」場面で、見ている方も辛くていたたまれないような場面である。

 どうしてエマはアデルと別れたのだろうか。以下は僕の解釈だけど、追い出すシーンで激怒したのは、多分「男といた」からではないか。同性愛者である自分と付き合っているアデルが、求められるまま男の同僚に身を任せてしまう。エマは自分を否定されたと思ったのではないか。しかし、それはきっかけであり、子どもが好きで教師を目指すという人生、料理を作って皆に評価されてしまうアデルの生き方が、あくまでも芸術の表現に生きるエマにとってだんだん物足りなくなってきていたのではないか。最初の方で、アデルは知ってる画家を問われて、「えーっと、ピカソ。次に…ピカソ」としか答えられない。エゴン・シーレかクリムトかがパーティで議論になるが、どっちも知らないアデルは話に入れない。そういう彼女がだんだん物足りなくなって行ったのかもしれない。ヘテロセクシャルの場合、愛情が醒めても「育児という一大作業」のパートナーとして関係が続くことがある。だがホモセクシャルの場合、そういう関係にはなれない。(養子を取るとか、片方が何らかの方法で妊娠することもあるが。)結局、エマは妊娠していたリンダと暮らすことになり、一緒に育児をする人生を選ぶ。

 その後一回だけ、エマはアデルと会ってくれる。もう一回よりを戻したいと迫るが、エマはもう許しているけど、私たちの関係は終わったと言う。アデルも、見ている方も、「もう終わりなんだ、この愛は」と、ものすごい喪失感だけど、否応なく納得せざるを得ない。すごいシーンだと思うけど、このような「もう元に戻れない瞬間」というのは、肉親やペットの死などが一番だけど、人生に何回か訪れるのを避けられない。そして、辛いけど「仕事は続く」。われわれの実人生でもそうであったように。原題は「アデルの人生 第1章・第2章」である。愛の日々が第1章、別れの日々が第2章なんだと思うけど、これから第3章が続くのである。最後に、エマの個展が開かれ、招待されて出かけていくシーンで終わる。ここも忘れがたい。

 フランスのコミックの映画化だそうで、原作「ブルーは熱い色」は翻訳もされている。同性愛の物語という骨格は同じだが、主人公の名前は主演女優に合わせてアデルに変えたそうである。アデルはパスツール高校だとあるけど、パスツール高校というのはスイスに近いブザンソンという町にあるらしい。でもロケで使われる公園や美術館は北部の町にあるようで、幼稚園でも海に出かけている。どこという地名は出てこないので、架空の町ということなのだろうか。アデルはちょっと吉高由里子っぽい感じ。でも教師の場面では、もっと机間巡視した方がいいと思う。アデルの父の得意料理で、アデルもパーティで作るスパゲッティ・ポロネーゼを食べたくなること請け合い。

 二人が知り合った時に、サルトルの「実存主義とは何か」の話をする。これはかつて10代で背伸びして読む本の定番だったけど、フランスの高校生は今でも読むのか。文学、哲学、絵画の話が多く、高校生のデモも出てくる。同性愛への偏見も取り上げられている。二人の家庭を通してフランスの状況を察することもできる。そのように様々な見方ができる映画ではあるが、そういうのは背景事情の説明で出てくるだけで、同性愛というのもたまたま人生で一目ぼれした相手というだけで、要するに出会いの喜びと別れの淋しさをうたいあげた作品だと思う。そして自分の人生の痛みのように、アデルの痛みが伝わってくる稀有の映画である。
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「英語」とは何か

2014年04月21日 01時08分00秒 |  〃 (教育問題一般)
 英語、英語というけど、「英語とは何だろうか」。僕はそのことをちゃんと教えてもらったことがない。ここで言っているのは、「人生を成功させるカギである」とか「世界帝国の支配言語である」とか、そういう問題ではない。「英語」という言葉そのものの意味は何かということだ。

 日本の学校では、勉強するときに教科や科目の名前を教えない。そのことが昔から僕には不思議で、特に自分が担当した「日本史」が一番ひどい。教科書の最初の方に、日本列島にクニが出来始め、古代中国の史書には「倭」と呼ばれていたと書いてある。だけど、ではその「倭」がいつ「日本」になったのか、どこにも書いてない。そういう教科書が多かった。最近まで、そのことを意識する人も少なかったのである。今は問題が違うので深入りしないが、きちんと答えられる人は少ないのではないだろうか。

 他にも、なんで「音」は「楽しむ」なのに、「体」は「育てる」で、「美」は「術」なのかも不思議である。絵やスポーツを楽しんではいけないのか。というか、「音楽」の授業も、内容的にはほとんど「音術」をやっているのではないかと思う。「理科」というのも不思議。「科」は「教科」という意味だから、学ぶ中味は「理」ということになる。「数学」は「数を学ぶ」だから、これは一番判りやすい。「理科」も本当は「理学」に変える方がいいのではないか。(「科学」でもいいけど、そうすると「化学」と同音になってしまう。)

 さて、これらの教科名は「学ぶ内容」ということだけど、「国語」と「英語」に関しては「学ぶ内容」というだけではなく、学ぶためのコミュニケーションとしての言語を「教育の対象」としてなんと呼ぶのかという問題となる。今後書くことになるが、「国語」という教科名もおかしなものだと思っている。現実の教育の場では、「三教科」(国数英、または英数国)と呼んで「最重要受験教科」となっている。(前回書いたように、本当は「英語」という教科は存在しないが、「国数外」などという呼び方はしない。)実際にわれわれが最初に「英語」を意識するのは、この「受験に重要な教科」というレベルではないかと思う。つまり、「英語」とは「日本の教育における科目の名前」であり、人によっては会社に入ってからも英会話学校などに通わないといけない「学びの対象」である。

 もちろん「英語」の「英」とは「英吉利」の「英」である。「英吉利」を「イギリス」と読んで、「英語とはイギリス語」というのが、まあ一番一般的な理解だろう。でも、そうすると2つの疑問が起こる。「英語の授業」では「イギリス」よりも「アメリカ合衆国」に触れることが多いということが一つ。また、そもそも「イギリスという国はない」わけで、正確に言えば「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」である。「連合王国」(UK)と略されることが多い。なお、マン島やチャネル諸島のような王室領が存在し、そこは「連合王国」ではないらしい。

 連合王国とは、つまりグレートブリテン島にある「イングランド」「スコットランド」「ウェールズ」とアイルランド島北部の「北アイルランド」の連合ということだけど、この名前になったのは1927年のことである。それまでは「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」で、アイルランド全体が連合の対象だったのである。それは1800年に成立した。それ以前をさらにさかのぼれば「グレートブリテン王国」である。1707年の連合法で、イングランドとスコットランドが連合したわけである。1603年から、イングランド王とスコットランド王は同じで、両国は「同君連合」という関係だった。(エリザベス1世が独身のまま長い治世を終えたことによる。)なお、ウェールズはもっと早くからイングランドに事実上併合されていて、1536年に正式に併合された。

 「イギリス」は戦国時代から江戸時代初期に、日本と貿易関係があった。ウィリアム・アダムズという航海士は徳川家康に仕え、「三浦按針」という名前をもらった。彼が乗ったリーフデ号が難破して豊後に漂着したのは、1600年のことである。この時点では「グレートブリテン王国」は成立していないのだから、南東部のケント州に生まれたアダムズは「イングランド王国」の人ということになる。シェークスピアも「イングランド王国」時代の人である。要するに「イギリス」と言っているものの実際は、大体は「イングランド」であるわけだ。

 スコットランドにもウェールズにも独自の言語があるので、「グレートブリテン語」などというものはない。だから「英語」というものは、もちろん「イングランド語」のことである。というか、“English”には「イングランド人」と「イングランド語」の両方の意味があるわけで、多分中国で最初に「英吉利」と表記した時には、「イングランド人」 の意味だったのだろうと思う。日本でも「英吉利」という書き方を受け入れ、幕末にはもう「英語」と言っている。その時代には、連合王国は産業革命が起こって強大な近代国家になっていて、「七つの海を支配する」と言われた。その連合王国の「事実上の公用語」(連合王国には憲法がないように、公用語という制度もないけれど)が、世界に広まっていく。

 現在、「英語」を母語として使用する話者は、中国語(北京語)に次いで、スペイン語とほぼ並んで世界第二位か第三位である。(資料により様々で、どっちが多いか判らない。)「英語」の話者の7割ぐらいは、「アメリカ合衆国」の人々である。アメリカ映画を見てると、昔のシーンでヨーロッパから来た移民に対しても、現在のシーンでメキシコ等のラテンアメリカ系の移民に対しても、「Englishを話せるか」つまり、”Can you speak English?”と問いただす場面がみられる。一般的に、アメリカ合衆国でも、「自分たちの言語はイングランド語である」と認識しているようだ。

 では、連合王国と合衆国で使用されている言語は同じだろうか。そこには深入りできないが、「同じだけど、文法も発音も慣用句も少しづつ違っている」ということだろう。同根の「スペイン語とポルトガル語」や「チェコ語とスロヴァキア語」と比べて、どう違うだろうか。「北京語」と「広東語」よりは、はるかに似ているのは確かだろうが。日本では、歴史的にも経済的にも文化的にも、連合王国よりも合衆国との関係の方が圧倒的に深い。(連合王国との関係も、西欧諸国の中では一番深いと思うが。)そこで、学校で教える「英語」の中でも、ほぼ合衆国の言葉を習って来たと思う。先生によっては、「イギリスでは、こういう時は違う風に言うんだ」などと教えてくれたりした。(例文はすべて忘れたけど。)

 「イングランド語」を公用語にしている国は、他にもカナダ(ケベック以外)、オーストラリア、ニュー・ジーランド、シンガポール、アフリカ中南部の多くの国(南アフリカ、ガーナ、リベリア、タンザニアなど)、カリブ海の国々(ジャマイカ、トリニダード・トバゴなど)、太平洋の国(パプア・ニューギニア、トンガ、キリバス、ツバルなど)、もういっぱいある。インドのように、州ごとの公用語が多すぎて「連邦準公用語」のイングランド語を用いないと国会の議論ができないという国もある。それぞれで発音や文法が多少違ってくるのではないかと思うが、その事情はもう僕には判らない。

 これをまとめると、「英語」とは、日本の学校では「事実上のアメリカ合衆国の大多数が使用する言語」(公用語という制度はない)のことで、世界的には「広大な英語圏で使用される言語すべて」であり、語義的には「(今は連合王国の一部である)イングランドの言語」ということになる。さて、もう面倒なので「英語」と書くことにするが、日本語とは音韻構造が違うから、発音に苦労するわけである。日本は中国から「漢字」を取り入れたが、やはり文法や発音が違うから、大分苦労した。「カタカナ」や「ひらがな」を作り出したことで、何とか漢字をもとにした言語表記が苦にならないように工夫している。この「発音」や「漢字と英語と日本語の問題」などを続いて考えたい。
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学校に英語という「教科」はない

2014年04月20日 00時43分18秒 |  〃 (教育問題一般)
 英語教育の話に戻って。英語そのものや、英語教育のスポット的問題(小学校での英語導入や大学入試など)を脇に置いて、学校教育の中で英語がどのような位置を占めてきたかを振り返っておきたい。人は自分の学校時代をもとに「教育論」を展開しがちだけど、実際はずいぶん変わっていくものである。特に高校の新学習指導要領において、英語は一番「科目名」が変わっている。教員でも、英語の先生以外は案外知らないものだ。

 現実問題として英語は重要なわけだけど、どうも英語、英語と言い過ぎではないかと言う気がしてならない。そもそも、中学でも、高校でも、「英語」という「教科」はない。では何という教科なのかというと、「外国語」である。「教科」と「科目」というのは、例えば「理科」が教科であり、「物理」「化学」「生物」「地学」が科目ということになる。(実際は、新指導要領では「物理基礎」と「物理」などと科目が分かれる。旧指導要領では、物理Ⅰ、物理Ⅱなどとなっていた。)つまり、「外国語」という「教科」の中に「英語の各科目」があるわけである。じゃあ、英語以外の外国語でもいいのか。今はそれは(普通は)できない。しかし、昔は高校の「外国語」の中に、「ドイツ語」「フランス語」という科目があった時代もあるのである。

 だから、英語も大事だけど、「これからの生徒にとって、外国語教育はどのようにあるべきか」が本来は一番大事な問いではないだろうか。そうすると、「ハングル基礎」といった科目を作ってみたらどうだろうとか、「中国語基礎」「ロシア語基礎」「スペイン語(ポルトガル語)基礎」なども、これからの高校にはあってもいいのではないかといった意見も出てくるかもしれない。現実に、東京の定時制高校にはタイやフィリピン、ミャンマーなどのアジア各国の生徒がたくさん在籍している。地域的に外国出身生徒が多い地域もあり、そういう地域の高校では「外国語は必ずしも英語でなくてもよい」のではないか。でも実際の外国人生徒(ニューカマー)は、母国語とある程度の日本語しかできない生徒が多いと思う。それらの言語を全部高校で教えるというのも、無理がある。そうすると、「やはり英語」ということになるが、その時には「アジアの諸国民の共通言語としての英語」という観点が浮かび上がってくるだろう。

 さて、ちょっと細かくなるけど、中学と高校での英語の扱いを振り返ってみたい。まず、中学だけど、長いこと「外国語は選択教科」という扱いだった。1962年から実施の学習指導要領で、選択教科という扱いは同じながら、「英語、ドイツ語、フランス語、その他の現代の外国語のうち1カ国語を第1学年から履修することを原則とする」とされたとウィキペディアに出ている。しかし、英語以外を実施した学校はほとんどないだろうから、実質的に英語が中学の必修科目になったのと同じようなものである。それ以来半世紀以上たっているから、もう日本では中学で英語があるのは当然と思い込んでいるわけである。教師も親もそれ以外を知らないわけだから。

 1972年、1981年、1993年から実施の学習指導要領でも、内容は同じだった。つまり、20世紀に中学教育を受けた人は、英語は必ずやっただろうけど、実は学校がドイツ語やフランス語を選択することもできる選択科目の一つという扱いだったのである。通知表(通信簿)を取ってある人がいたら、そこには「選択科目」の「外国語」として英語を学んでいたことが示されているはずである。それが21世紀になって、抜本的に変わった。2002年実施の学習指導要領で、「外国語が必修科目」になったのである。それは2012年から実施の新指導要領でも同じである。しかし、それでも教科名は「外国語」のままなのである。なお、2011年から小学校で実施の指導要領で、小学校5.6年に「外国語活動」が導入されたわけである。(ついでに念のために書くと、学習指導要領が「から実施」と書くのは、その年に入学した中学1年生から変わるという意味で、中学2年生、3年生には旧要領が適用されるわけである。)

 続いて、高校を見てみる。高校でも、長いこと外国語は必修ではなかった。(しかし、外国語という教科はあるので、事実上「学校必履修科目」だったのだろう。要するに、学校に置いてある科目で赤点を取ると、進級、卒業できないという決まりがあっただろうということである。)1956年から実施の学習指導要領では、やっと「外国語」の中に「科目」が設定されるが、それは「第一外国語」「第二外国語」というものだった。1963年から実施の指導要領で、「英語A、英語B、ドイツ語、フランス語」という科目ができ、1科目は必履修と決められたのである。1973年、1982年から実施の指導要領でも基本的には同じだが、英語に関しては、「英語I、英語II、英語IIA、英語IIB、英語IIC」という科目が作られた。英語Ⅰ、英語Ⅱという科目名は、その後2回の改定を生き延び30年ほど実施されたので、多くの人になじみがあるのではないかと思う。

 一方、「英語ⅡA」という科目はオーラル・コミュニケーション、英語IIBはリーディング、英語IICはライティングにあたる内容ということで、1994年から実施の学習指導要領で、OC(オーラル・コミュニケーション)、リーディングライティングと名前が変わった。まだ多くの進学高校では、英語Ⅰ、英語Ⅱと置いていたのではないかと思うが、オーラル・コミュニケーションという科目名に、英会話力重視の動きが始まっていることが判る。なお、この94年から実施の要領まで、ドイツ語、フランス語という科目が明示されている。2003年から実施の指導要領では、ドイツ語、フランス語がなくなったけれど、英語の科目名は基本的には同じである。(オーラル・コミュニケーションAがオーラル・コミュニケーションⅠといった変更はある。)

 ところで、2013年から実施の新指導要領では、英語の科目名が完全に変わっている。高校の教員以外は、ほとんど知らないと思うから、全部示しておくことにする。「コミュニケーション英語基礎、コミュニケーション英語I、コミュニケーション英語II、コミュニケーション英語III、英語表現I、英語表現II、英語会話」というのである。英語Ⅰもオーラル・コミュニケーションもなくなってしまった。学校現場では、大学入試のあり方に大きく規定されるけれど、それでも科目名を読むだけで、英語教育の方向性が見える感じがするだろう。

 また案外知らない人が多いが、英語科の専門教育高校というものが認められている。商業や工業などの専門教育を行う高校があるように、英語科の高校もあるのである。1982年から実施の学習指導要領で、初めて英語科が認められた。現在の新指導要領で認められているのは、「農業、工業、商業、水産、家庭、看護、情報、福祉、理数、体育、音楽、美術、英語」である。その英語科の高校ではどんな科目があるかというと、一般の高校と同じ科目の他に、「総合英語、英語理解、英語表現、異文化理解、時事英語」という科目を置けることになっている。

 ちょっと細かい話になったけれど、とにかく中学でも高校でも、「教科名は外国語」なのである。それなのに、「小学校で、低学年から英語を教科にするべきだ」などと論じる人がいる。日本中の学校で、英語という教科はどこにもないというのに。それは細かすぎる指摘というべきかもしれないが、教育現場ではそういう小さなところから、現場無視の議論だなあと感じていくものなのである。
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追悼・ガブリエル・ガルシア=マルケス

2014年04月18日 21時46分52秒 | 〃 (外国文学)
 コロンビア出身の作家、ガブリエル・ガルシア=マルケス(1928~2014)の訃報が伝えられた。4月17日、メキシコ市で死去、87歳だった。長く闘病中で、作家活動はしていなかった。近年は認知症であると報道されていたので、驚きはないんだけれど、あらためて巨匠の逝去を悼みたいと思う。

 ガルシア=マルケスは、あるいは代表作「百年の孤独」は、間違いなく20世紀後半を代表する小説家であり、小説作品である。フォークナー以後に現れた最大の作家であり、20世紀の文学動向の中から出てきた作家であることは確かだが、同時に19世紀に書かれた大文豪の巨大な作品群に匹敵する、とてつもなく面白い物語空間を創造した作家でもある。一言で「マジック・リアリズム」と呼ばれることになる、精緻な写実で創造された非現実的な世界に展開する、人間の欲望と運命。以後の小説家は皆その影響を受けざるを得ないような作家、それがガルシア=マルケスだったと言っていいだろう。

 1967年に出版され世界的に評判となった「百年の孤独」は、日本では鼓直氏の訳で1972年に刊行されている。すぐに日本でも評判になったと記憶するが、その他の作品の紹介は遅れた。多分、1978年に出た集英社の「世界の文学」に、「大佐に手紙は来ない」や「土曜日の次の日」が収録されたのが、次の翻訳ではないか。(カルペンティエールの「失われた足跡」が併録されていた。)ちなみにこの全集は、ジョイス以後の20世紀文学を集めたものだが、そこにコルターサルやバルガス=ジョサ、ドノソが初紹介され、またボルヘスに一巻を当てるなど、日本におけるラテンアメリカ文学ブームの先駆けとなった。

 続いて、「エレンディラ」や「ママ・グランデの葬儀」、「短編集 落葉」、「悪い時」など初期作品が続々と紹介され、80年代初頭にはガルシア=マルケスを読まないと小説好きとは言えないような評判を取るようになっていった。日本の作家でも、大江健三郎、中上健次、筒井康隆、寺山修司(後に「百年の孤独」を映画化しようと試み、監督作品「さらば箱舟」が1984年に公開された)、など、明らかに影響を受けていた。その評判が絶頂を迎えたのは、1983年である。本人が最高傑作とする「予告された殺人の記録」が翻訳され、また集英社から全18巻の「ラテンアメリカの文学」の刊行が開始され、第一回配本として「族長の秋」が翻訳されたのである。僕が大体読んだのはその頃で、「百年の孤独」は文庫に入っていない(いまだに新潮社は文庫化していない)ので、学生の時には読まなかったのである。確か1982年に、ようやく「百年の孤独」を読み、あまりの素晴らしさにすっかりとりこになった。お金はかかっても全部買って読まないではいられなくなり、どんどん読んだわけである。

 その後は1985年に出た「コレラの時代の愛」の翻訳が2006年となったことに象徴されるように紹介が遅れてしまうようになった。その間に時々出る小説は買ってはいたが、読んではいない。ノンフィクション作品の方は読んだこともあるが。ガルシア=マルケスはコロンビアに生まれたが、ジャーナリストとなり、ローマで映画を学び、革命直前のキューバでフィデル・カストロと友情を結んだ。左派ジャーナリストと言うべき顔が、彼のもう一つの顔である。日本では、特に岩波新書で1986年に出た「戒厳令下チリ潜入記-ある映画監督の冒険」は、軍事政権下のチリに潜入した映画監督の記録で印象が強い。

 1982年にノーベル文学賞を受けたわけだけど、これほど誰もが納得した授賞も少なかったのではないか。ラテンアメリカ文学を世界に広めたきっかけは、間違いなくガルシア=マルケスだと言える。そして彼の文学世界は、ラテンアメリカの現実に潜む混沌と豊饒を紛れもなく反映している。70年代頃には軍事政権ばかりと言ってよかったラテンアメリカ諸国も、今や左派政権がほとんどである。ガルシア=マルケスはコロンビアを出てメキシコに住んで長いが、同じスペイン語文化圏という大きなラテンアメリカ世界に生きていた。ラテンアメリカの重要性を世界に広めた功績は測りがたいほど大きい。とにかく、一度は読むべき素晴らしい小説を書いたのが、ガルシア=マルケスと言う人だった。そういう人はもうどこにもいない。(なお、「彼女を見ればわかること」「アルバート氏の人生」の映画監督、ロドリコ・ガルシアは息子だという。)
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すべての教科で英語を教えよう

2014年04月17日 22時56分21秒 |  〃 (教育問題一般)
 「英語教育問題」問題の続きだけど、「英語とは何か」などと大上段の議論をする前に、自分は社会科の授業で英語をどう扱っていたかにまず触れておきたい。「英語は日本の日常生活に必須のものではない」などと言うと、では英語の授業は不要なのかなどと余計な誤解を起こしかねないので。
 では、まずクイズ。
 第1問.「第二次世界大戦」を英語で書きなさい
 第2問.「産業革命」を英語で書きなさい。(答えは最後の方で。)

 今は英語を論じているので、英語は学校を卒業したら忘れてしまうと書いたけれど、もちろん数学も歴史も…皆忘れてしまうのである。それでいいのである。実生活に必要なら、学校で学んだことはすぐに戻ってくる。学校は日々の生活にすぐ直結しないことを学んでいるから、「学びの尊さ」が生まれるのである。もちろん、学校で学んだ知識がすぐに生きる可能性が高い科目もあるだろう。(特に高校の職業科の授業など。)でも、そういう場合でも、授業でやっていることは、ちょっと実生活と違うことが多い。それは、「授業」には「評価」が伴うからである。「評価のしやすさ」、つまり教えるポイントがはっきりしているとか、テスト問題を作りやすいとか、そういうことも授業では大事なのであって、長い年月をかけて教材が開発され教科書に取り入れられている。だから、学校の授業には授業でしかお目に書かれない特別の教材や教え方なんかがあるのである。

 さて、実は学校の授業では英語ほど重要な教科はないと思うくらいである。重要性の定義にもよるが、高尚な議論をするのではなく、現実の中学、高校の話をするならば、高校受験や大学受験、あるいは就職や進路選択の話を抜きに議論しても意味がない。高校から大学に進学しようとする場合、文系の進路を目指す生徒は国語や社会は得意だけど、数学や理科は苦手である。当たり前である。理系の場合はその反対。では英語は?ということで、英語が決め手になるわけである。生徒にとって、入試のあり方を自分で変えられない以上、(推薦入試を受ける場合も含めて)、「英語が人生を左右する」可能性が高い。英語教育をどうする、英語は何のために学ぶのかなどと議論している前に、中学生や高校生は英単語の一つでもより多く覚えた方が絶対いい。英語が出来て損することは何もない。英語が出来なくて損することは人生にいっぱいある

 という英語という教科の特別な意味から考えて、英語はすべての教科で何らかの形で触れていくことが望ましいと思う。近代の学校教育は、欧米の圧倒的な影響力のもとで開始され、すべての教科が何らかの形で英語と関連している。体育が英語と関係あるのかなどというかもしれないが、陸上競技やバレーボールやバスケットボール、あるいはサッカーや野球、テニス、卓球、バドミントン…学校体育で経験する競技のほとんどすべては江戸時代にはなかったもの、つまり明治以後に欧米の影響で日本に取り入れられたものである。(武道に関しては多少違うが、それでも現在のかたちに整備されたのは近代になってからである。)だから、サッカーの授業であれば、「ゴールキーパー」や「オフサイド」の意味を理解させるためには、「英語の原義を教える」ことが大事なのではないかと思うのである。音楽や美術も同じで、教科の成立事情からして、欧米の影響で始まったものばかりである。

 「社会」科に関して言えば、そもそも「社会」という言葉が近代になってからできたものである。「政治」や「経済」用語のほとんどは幕末明治の造語である。「経済」は「経世済民」(けいせいさいみん)の略語としてはあったけれど、それを“economy”の翻訳として用いたのは、福澤諭吉などだった。(昔は福澤の翻訳とされたこともあったけど、今は福澤以前から使っていた例があり福澤だけの訳とは言えないとウィキペディアに出ている。)仏教用語などで使っていた場合もあるけど、大体以下のような言葉は幕末以後に欧米の概念を翻訳するために作られたものである。例えば、自由民主文明民族資本思想宗教法律文学哲学共和国社会主義共産主義…。これは社会科の授業で使う言葉を挙げたのであって、理科の用語も同じようにほとんどが造語である。

 これらの言葉は、歴史や政治経済で使う「基礎概念」で、それを理解していないと授業が進まない。しかし、授業ではともすれば、「もう知ってる言葉」として「民族」とか「文明」とか「法律」とか口に乗せてしまいやすい。しかし、本当は一度それらを「知らない言葉」として、英語で(ドイツ語やフランス語を援用してもいいけど)表現してみて、それから日本語に移したことの意味を振り返ってみるべきではないか。でも、まあ僕もそこまではなかなかできなかった。「経済」とか「自由」は、今までに議論の蓄積もあるし、割合に生徒に示しやすい言葉だけど、他の言葉は難しい。「本質を理解しやすくする」のが授業で取り上げる目的であり、「かえって事態を複雑にしてクリアーな理解を妨げる」んだったら逆効果である。それぐらいなら、「黙ってただひたすら覚えなさい。絶対、試験に出るから」と言う方が親切なこともある。

 もう一つ、英語を授業で取り上げる目的がある。それは「授業の活性化」であり、「ちょっと違った見方で歴史を見る」という方法である。(歴史だけではなく、地理や政治などすべて。)僕は「第二次世界大戦」を英語で何と言うかというのは、大体いつもやっていたと思う。それは「第一次世界大戦」を経た人類が、わずか25年で「第二次世界大戦」を起こしてしまった、それはどうしてか、そしてその過ちは第二次大戦後に正されたのか、というのが、現代人の最も重大な問いだと思うからである。それをよく理解するには、「第一次」「第二次」という言葉の重みを感じさせないといけない。(というか、第二次世界大戦が起きる前は、「第一次」世界大戦というわけはないんだから、それ以前は何と言ってたんだろう、という関連の問いがまず存在する。)

 さて、「授業の活性化」という意味では、「第二次世界大戦」を英語で答えなさいという問題は、「野球部の生徒」に当てるのがふさわしい。「世界」が「world」というのは結構できるかもしれないが、案外「第二次」がすぐには出てこないからである。だから、「何で、野球部が出来ないんだ」と追っていく。要するに、一塁、二塁を、ファースト、セカンドというのは誰でも知ってるけど、とっさに「第二次」と言われると困ったりするのである。(まあ進学高校に勤務したことはないから、偏った感想かもしれないけど。)なお、当たり前と言えば当たり前だけど、「大戦」というから、つい“big war”などと答えてしまう生徒がいる。しかし、そんな形容はおかしいわけで、ただのwarでいい。

 と言うことで、答を書くと、“the Second World War”だけど、”World War II”と言う言い方もよくする。この場合、Ⅱの読みは「two」だろう。さらに略すと、”WW2”と書くことになる。
 産業革命の方は、“ Industrial Revolution”である。こっちは英語の知識を問う感じが強くなるが、「絶対に覚えるべき重要用語」は「英語でも教えておく」という意味になる。
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「英語教育問題」という問題

2014年04月16日 21時40分39秒 |  〃 (教育問題一般)
 何回か「英語教育」について考えたいと思う。そう思ってから1年近くたつので、そろそろちゃんと書かないと。きちんと書くと10回ぐらい続くと思うので、断続的に何回かに分けて書くことになる。最初に書いておくけど、僕は「英語教育」そのものには、特に関心があるわけではない。(もっと正確に書けば、「世の中のほとんどの問題にある程度の関心を持っているレベルを超えて、特にそれだけに強い関心があるわけではない」ということ。)だから、僕が関心があるのは「英語教育をめぐる言説」の方であって、「英語教育問題問題」とでも言うべきものである。

 教育に関しては安倍政権で様々な「改革」(僕からすればほとんど「改悪」ばかり)が進められている。社会科の教科書検定基準などはもう「改定」され、今は「教育委員会制度改革」や「道徳の教科化」などが重大な段階を迎えている。そっちの方も書きたい気はあるが、あえて自分の専門外の「英語」について書くのは、二つの意味がある。一つは自民党の「教育再生本部」などの議論を見れば判ることだが、「国や郷土を愛する心」の育成とか「いじめ対策」、「教科書の適正化」などをなしとげた後には、「大学入試制度の抜本的改革」と「英語や理科教育の充実」がめざされているのである。社会科や道徳などは「おとなしく言うことを聞く国民を育てる」ということだろうが、それだけが目標ではなく「グローバル化に適応したリーダー育成」を進めなければいけないというわけである。しかし、安倍政権の教育政策を危惧する人々の中でも、また現場教員などでも、英語や理科に関する「危機感」は乏しいのではないかと思うのである。

 もう一つの理由は、何で英語が標的になるのか、純粋に不思議なのである。それは「英語という科目の特殊性」ということでもある。例えば、2013年5月1日付の朝日新聞オピニオン欄「争論」は「大学入試にTOEFL」という特集を組んでいる。これは直前に自民党教育再生本部が言い出した、「大学入試の受験資格として、米国の英語力試験TOEFLを導入」という、現実には実現不可能としか思えない提言に関して、賛成、反対の意見を掲載している。そこで衆議院議員で自民党教育再生本部実行本部長である遠藤利明氏はまず次のように論を始めている。「中学高校で6年間英語を学んだのに英語が使えない。コミュニケーションできない。それが現状です。」と。

 僕はこういう意見を読むと、いやあ、さすがに自民党のエライ先生は出来が違うなあと感心してしまうのである。この人は多分、今でも微分積分や三角比などをよく理解しているのである。あるいは、きっと元素記号なんかも全部覚えているのである。小学校では算数と言うが、中学高校では数学と名前が変わる。だから「中学高校と6年間学んだ」のは「数学も同じ」である。でも、英語が使えないと「英語教育が間違っている」というんだから、論理必然的に「数学で学んだことは今でもすべて覚えている」という結論が導き出されるはずである。そうでなかったら、「数学教育も間違っている」というはずではないか。

 もちろん僕も英語が使えるというには遠い状況だけど、だからと言って「英語教育が間違っていた」などと思ったことはない。世の中の大部分の人も、「英語教育が間違っていたから自分は英語ができない」などとは言わないだろう。仮にもし言ったとしたら、「お前、サボってたくせによく言うよ」と言われてしまいそうである。だから、先の遠藤氏は「自分がサボっていたとはだれにも言わせない」という自信があるんだろう。それだけでも、庶民のレベルとは全然違うんですねえと思うのである。ま、皮肉だけど。

 世の中の人にとって、勉強というのは大体次のようなものだろう。多くの人にとって、①から順番に「有りそうなこと」ではないかと思う。
①試験前に一生懸命取り組んだけど、試験後は実生活に役に立たない知識だから、定着しない。
②試験前でも、やる気が出なかったり他の教科の勉強に忙しく、結局テストでもできない。
③そもそも勉強の時にも理解していなかったので、テストでも全く太刀打ちできない。
④勉強し理解し、生活にも役立つ知識なので、学んだことを今もよく理解できている。
⑤勉強したしテストもできたけれども、受けた教育の間違いにより定着しない。

 どうだろうか。学校の勉強というのは、全部覚えている人はいないだろう。そんな人がいたら、社会生活には使い物にならないのではないだろうか。社会生活に役立つことなら、学校の勉強と無関係に、自然と覚えて定着するものである。国語で勉強した漢字熟語なんかは、その後も覚えていて実生活でも使う人もあるだろう。でも、そういう言葉というものは、なんか新聞や雑誌、あるいはテレビのクイズ番組で覚えたのかもしれず、確実に学校の授業で教えられたのかどうか、もうよく覚えていないのではないか。

 それに対して、英語というのは、日本の社会生活では普通はほとんど必要ではないのである。英単語の理解が重要な場合もあるし、外国旅行で使うこともある。外国人に英語で道を聞かれたこともあるけど、でもそれは例外的なケースである。最近でこそ、勤務先の会社で英語が日常語になるというところも出てきたようだけど、一般的には英語が話せなくても、日常生活を送るのに特に支障はない。どうして日本では英語を必要とはしないのか。また、今後もそうなのか。それでいいのか、という問題はあるけど、まずは実態として、日本の日常生活では英語はいらない。

 その実態が変わらない限り、英語教育をどんなに変えても、試験が終わり、あるいは学校生活が終わり、日常生活が続いて行けば、自然と学校で学んだ英語は忘れてしまうはずである。それは三角関数や元素記号、歴史の年号などと全く同じである。でも、「家庭科教育をずっと受けていたのに、私の妻は料理が下手だ」などという人はいないのに、「英語教育をずっと受けていたのに、日本人は英語ができない」という人はいっぱいいるのである。何故だろうか。どうして「英語に向けるまなざし」だけが異なるのか?

 そして、問題として、さらに次のことを考える必要があるだろう。ここまで自民党が英語英語と言いだしているということは、今までの教育の前提としての日本人の日常生活の方を変えるつもりなのだろうかということである。外国人労働者の大量受け入れにより、日本人の労働環境として英語理解が必須となる社会、あるいは大学生の就職環境がさらに悪化して、学生の半数以上は日本以外で就職するという社会。そういった社会の到来を見越して、「できる英語教育」が叫ばれているのだろうか。ところで、英語、英語と書いてきたけど、そもそも「英語とは何だろうか」ということを次回以後で考えておきたい。
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ジャック・タチ映画祭

2014年04月14日 23時33分42秒 |  〃 (世界の映画監督)
 フランスの喜劇映画作家ジャック・タチ(1907~1982)のデジタル復元された全監督作品を上映する「ジャック・タチ映画祭」が始まった。東京渋谷のシアター・イメージフォーラムで5月9日までの上映。1日4プログラムを交代で上映するけど、上映が少ない作品もある。チラシを載せておくので、拡大して確認してください。
    
 日本初公開の長編は「パラード」(1974)で、これは上映が少ない。18日までの13時30分と、5月3日から9日の11時の回しかないので、さっそく見てきた。話題の記録映画「アクト・オブ・キリング」の上映も同劇場で始まったばかりで、小さな劇場だから大混雑。ジャック・タチ映画祭も平日の昼間だというのに、席がいっぱいである。さて、「パラード」というのは、もともとはスウェーデンのテレビ局が製作したビデオ作品だそうで、フランスでフィルム変換して公開されたジャック・タチ最後の映画だという。映画の構造は「あるサーカスの記録映画」だけど、観衆も含めて演出されたもので「記録映画みたいに作られた劇映画」ということになる。ジャック・タチはロワイヤル氏というサーカスの座長という設定で、自分でもパントマイム芸を存分に披露している。喜劇人ジャック・タチはミュージックホール出身の芸人だというが、洗練された舞台芸が素晴らしい。「スポーツの印象」という持ちネタらしいが、テニスの試合やサッカーのゴールキーパーなどの「形態模写」である。また荒ラバを観客が乗りこなそうとするシーンなども面白い。とにかく良く出来たサーカス喜劇だった。

 ジャック・タチと言えば、ユロ伯父さん。「ぼくの伯父さんの休暇」(1953)、「ぼくの伯父さん」(1958)、「プレイタイム」(1967)、「トラフィック」(1971)と、自身が監督、主演したユロ伯父さんシリーズを作ってきた。最高傑作はやっぱり「ぼくの伯父さん」だと思う。カンヌ映画祭審査員特別賞、アカデミー賞外国語映画賞、キネマ旬報ベストテン2位と公開当時の評価も一番高いが、とにかく楽しい映画である。文明風刺や人生論もあれば、セットや色彩設計の素晴らしさもあるけど、それよりも「センス」としか言いようがない。若いころテレビで見て何が面白いか全くわからなかったけど、ジャック・タチの特集上映があった時に見て、素晴らしく面白いのに絶句した。(シネヴィヴァン六本木という映画館で、そこの全作品を掲載しているサイトで確認すると、1989年11月3日から、12月8日まで行われていた。)

 ユロ伯父さんというのは、言ってみれば「歩くゆるキャラ」とでも言うべき存在なので、今の方がもっと面白いかもしれない。「ぼくの伯父さん」をフランス語で言えば「モノンクル」。岸田秀と伊丹十三を思い出す人も今では数少ないかと思うけど。ジャック・タチは、体技もすれば、「存在そのものがおかしい」というチャップリンや渥美清みたいなコメディアンではあるけど、ちょっとタイプが違う面も多い。「プレイタイム」「トラフィック」などの「近未来空間」設計などの「都市」空間が面白いのである。ストーリイ的には、都会と田舎が対比され都市文明を風刺するという筋道になる。でも田園生活の賛美というより、風刺の対象である都市のセットや機械や自動車などのアイディアの方が面白すぎるのである。特に「プレイタイム」で作った「タチ・ヴィル」(タチの都市)という近未来都市のセットは有名。映画は当たらず、セットが大掛かりでタチは破産する。今では最高傑作という人もいるけど、それはどうなのかなあ。「人類史上最高の喜劇」(いとうせいこう)はほめ過ぎだと思う。

 前に見てない「トラフィック」も初めて見た。パリの自動車設計技師ユロの作ったキャンピングカーをアムステルダムのモーターショーに出品するべく出発したのであるが…。警察や事故、渋滞など様々な出来事に巻き込まれ、カフカのようにたどり着けない。警察でのキャンピングカーの説明、事故後の修理を頼む修理工場での体験など、不条理そのもののおかしさがすごい。アメリカのアポロ計画のさなかという設定で、月着陸を見た後の月世界歩行のマネがおかしい。モーターショーもヨーロッパ自動車界が一番輝いていた時代とも言え、実在の自動車会社のフロアなど豪華で面白い。これはゴダールの「ウィークエンド」と並ぶフランスの自動車風刺映画の双璧というべきだろう。とにかくジャック・タチはおすすめ。
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王丹の中国現代史-4月の読書日記③

2014年04月13日 23時58分43秒 |  〃  (国際問題)
 2014年1月に、ちくま学芸文庫から出た王丹「中華人民共和国史十五講」は、解説を含めると694頁もあり、2000円もする分厚い文庫本。でも大学の講義をもとにした判りやすい本だし、「あの」王丹が書いたというだけで、買わないわけにはいかない。そういう風に思う人も少なくなっているかもしれないが、それでも帯に「天安門のリーダーは語る 強く心に響く 敗者たちの透徹した認識の数々」とあるから、未だに王丹の名前で買う人もかなりいるわけだろう。

 この本には不足する部分も多いと思うが、自分も一人の歴史上の人物として出てくる1989年の民主化運動と弾圧、つまり「6.4」に至る「天安門事件」の記述は臨場感に満ちている。
 
 王丹(1969~)は、1989年当時北京大学で歴史を学ぶ20歳の学生だった。思いもよらぬ歴史の運命により学生運動のリーダーとなり、事件後に拘束され懲役4年となった。釈放後の95年に再逮捕され、結局98年4月にアメリカに「病気治療」として亡命を認められた。以後、ハーバード大学で歴史を学びながら、中国の民主化運動に関わり、2008年に学位を取った後に台湾の大学に赴任した。2010年に、台湾の国立清華大学で「中華人民共和国史」の講義を行ったのが、この本のもとになった。つまり、この本のベースは、現代の台湾の大学生に向けて語られたものである。ということで、世代的にはもう事件後に生まれた人がほとんどの学生を前に、「もう一つの中華世界」である台湾という場所で語られた。その微妙な位置が、この本を面白くしていると同時に、多少判りにくくしてもいると思う。

 まさに「中華人民共和国史」なのであって、1949年の建国から語られているのは、その面白さと判りにくさの代表例である。その結果、「中華人民共和国」の国家としての特徴がよく理解できる。しかし、革命前史、つまり中国共産党の「長征」や抗日戦争中の延安根拠地などは、それ自体としては取り上げられていない。台湾の学生なら一応「常識」に類するかもしれないが、それ以外の国では「なぜ、どのように毛沢東が党内権力を握ったか」を理解していないだろう。つまり、もう毛沢東の中共(中国共産党)が蒋介石の国民党に内戦で勝つという段階から、この本は始まるわけである。

 そこで、致し方ないとは思うけど、中国共産党内の抗争が延々と語られることになる。毛沢東と「ナンバー2」の失脚史である。高崗、彭徳懐、劉少奇、林彪、二度失脚する小平…。そして次々と繰り広げられる整風運動の数々。僕も文化大革命だけで考えていてはダメで、50年代末の「反右派運動」から考えていかないといけないとは思っていたが、実は51年の「三反運動」、52年に「五反運動」というのがまずあり、そこから考えていく必要があると示されている。そもそも1949年に成立したのは「中華人民共和国」であり、共産党と民主諸党派の合作であるはずだった。そのため「政治協商会議」という「最高機関」があるはずだったのだが、というか今でも共産党ではない「民主諸党派」があることにはなっているわけだが、もう朝鮮戦争中に発動された「三反」「五反」により、共産党以外の人士は疎外されていくわけである。

 当初は「新民主主義」の段階を数十年経過するとされていたが、毛沢東は急速に社会主義化を進めた。50年代末の「大躍進」政策の中で、60年前後の中国は深刻な飢餓を招いた。4000万人が餓死したとされる中国史上最悪の飢餓が、土地革命を実現したはずの中華人民共和国でなぜ起こったのか。その恐るべき実態は本書などに詳しく書かれているので詳細は略す。中国の不思議なところは、「右派」や「走資派」は何割いるなどと数字で指示が降りてくることで、だから各職場で「悪質な右派」を2割などと割り振りを決めなくてはならないのである。当然「冤罪だらけ」となる。「大躍進」においては、その反対に「過大な成果」報告運動になっていったので、中央はその過大報告に基づき農産物供出を求めてくるから、農村では飢餓状況になるのである。

 ところで、このような状況を的確に把握し、毛沢東に恐れることなく実情を報告する勇気ある剛直の士は、彭徳懐しかいなかったというべきだろう。毛沢東がタテマエで言うことを信じたふりをし、いったん毛沢東が支持を出すと、頭を下げて従ったふりをするのが、共産党幹部の習い性となっていた。劉少奇や周恩来も、大きな責任を負っているのである。また、林彪に対する鋭い見方も印象的である。林彪は今まで個人的野心で動き、自ら破滅を招いた愚なる人物と見なされがちだった。しかし、林彪が毛沢東に取り入りナンバー2になっていくのも、毛沢東という人物の特徴をよくつかみ、理解していたということである。そして、だからこそ後継者の地位を固めるべく、はっきりとした国家的地位を求めて毛沢東に退けられる運命にあったのである。林彪の毛沢東理解は極めてリアルなものだったのである。毛沢東死後に後継を任されることになるのは、華国鋒というほとんど実績のない人物だった。

 小平は文革で一度失脚したが、党籍は残されたため、周恩来の病気と共に奇跡的な復活をする。しかし、周死後の「4・5天安門事件」で再び失脚し、毛沢東死後に再度復活する。それほどの経験をしながらも、小平は「反右派運動」を過ちとは認めず、一党独裁、軍事支配を貫徹する。「経済開放」を進めながらも、党の独裁は続き、ソ連のようなペレストロイカは起きなかった。文革でひとつの世代が失われたが、文革以後には精神的解放の時期がやってくる。胡耀邦、趙紫陽の時代に、小平がいたがために政治改革には至らなかった。そこで「89年」が起こり、もう25年にもなる。

 この本の記述は、「共産党抗争史」に偏り過ぎているというべきだろう。文化大革命についてはまとまった本も多く、この本に語られていることは大体知っていたことが多い。日本の戦後史を語るとして、「自民党戦国史」で語れる時代は70年代の「三角大福」時代の頃までだろう。その後は政治の持つ意味自体が小さくなり、単に政権党を語るだけでは、日本を語ることにならない。でも中国では、「政治」の持つ意味が今でも大きく、政治的自由もないので、政権党である中国共産党内の権力構造の分析に偏るのである。それは仕方ないと思うけど、チベットやウィグルなど少数民族にとっての「中華人民共和国史」がないのは、この本の一番大きな欠落ではないか。独立(インディペンデント)のドキュメンタリー映画運動などの紹介は興味深い。でも、あまりに少数の文化運動というべきで、今後の見通しは不透明である。でも、89年の場合も「歴史の必然」だけではなく、「歴史の偶然」(胡耀邦の憤死と民衆の追悼運動)が運動を起こした。今後も「歴史の偶然」がどこでどう働くかは、目を凝らして見つめていく必要があるだろう。
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ゾルゲ事件の本-4月の読書日記②

2014年04月11日 23時57分25秒 |  〃 (歴史・地理)
 平凡社新書で加藤哲郎「ゾルゲ事件」が出たので、ついでに昨年9月に出たまま読んでなかったチャルマーズ・ジョンソン「ゾルゲ事件とは何か」(岩波現代文庫)を読み始めた。こういう本は、僕にとって読み始めると止められない魅力がある。加藤哲郎氏の本には、副題として「覆された神話」とある。でも最近の人には、そもそも「ゾルゲ事件神話」を知らない人もいるだろう。帯には「崩壊した『伊藤律スパイ説』 革命を売ったのは誰であったか?」ともある。この帯の言葉の意味が判るかどうか。また、自分にとって意味のある問題だと思うかどうか。
 
 ゾルゲ事件と言っても、今は知らない人も多いと思うので、まず簡単に解説しておく。戦時中に「ソ連のスパイ」として、リヒャルト・ゾルゲ(1895~1944)と尾崎秀実(おざき・ほつみ 1901~1944)らが逮捕され、起訴、有罪となり、先の両名が死刑となった。スパイ団には他に重要人物がいるが、今は省略する。ゾルゲはバクー(ソ連、現在のアゼルバイジャン)で生まれたドイツ人で、ドイツの有力新聞の記者という資格で来日し、駐日ドイツ大使オットーと親しくなり、完全に信頼されていた。そこで独ソ戦開始時期などの超重要情報をドイツ大使館でつかみ、ソ連に報告していた。一方、尾崎は朝日新聞記者として中国に赴任し、上海でゾルゲと知り合った。中国情勢専門家として日本で有名になり、近衛文麿首相側近が加わる昭和研究会に参加、政界上層部につながる重要人物だった。日本が「北進」=対ソ戦ではなく、「南進」=対米英開戦を決断したという超重要情報をゾルゲを通じてソ連に伝えたとされる。

 敗戦直後に妻子にあてた尾崎の手紙が「愛情はふる星のごとく」と題して刊行され、大ベストセラーとなった。一方、占領軍のG2のウィロビーが報告書をまとめ、マッカーシズムさなかのアメリカで「赤色スパイの恐ろしさ」を示す材料として使われた。こうした事情から、一定の年齢以上の人には非常に有名な事件だといっていい。また、この事件のそもそもの端緒はどこにあったかをめぐり、深刻な問題が存在した。特高資料などから、戦時中に逮捕された伊藤律の不用意な供述がきっかけであると言われ、そもそも伊藤律は日本警察やアメリカ占領軍のスパイだったのではないかとされたのである。伊藤律は当時、日本共産党の若き有力幹部だったので、これは共産党内にスパイがいたという告発である。秀実の異母弟である大衆文学評論家の尾崎秀樹(ほつき)は「生きているユダ」という本を書き伊藤律スパイ説を力説、松本清張「日本の黒い霧」にも同様の主張が書かれていた。(一方、肝心の伊藤律は占領軍による共産党非合法化により地下に潜ったまま行方不明だった。1980年になって、突如中国で生きていることが判り帰国して、日本中を驚かせた。1989年に死去。)また、この事件は内外で多くの映画、小説等になっていて、黒澤明の戦後第一作「わが青春に悔いなし」も尾崎秀実にインスパイアされている。また篠田正浩監督の映画「スパイ・ゾルゲ」という映画も作られた。

 ゾルゲ事件本はかつては山のように出ていて、図書館や古書ですぐ手に入る。でも一般書で本屋で今売ってるのは、この2書しかないのではないか。と言っても、「ゾルゲ事件とは何か」は新しく書かれた本ではない。1964年に原著が刊行され(66年に邦訳)、1990年に増補版が出された。その増補版の初の翻訳である。解説を加藤哲郎氏が担当し、この間と本書刊行後の事情をよく伝えている。だから、今でもこの本が事件の全体像を理解するのに役に立つ。けっこう長い本だけど。(注が非常に充実している。)

 原著はチャルマーズ・ジョンソン(1931~2010)の学者としての出発期に書かれ、増補版はソ連でペレストロイカが進む中で書かれた。だから1991年暮れのソ連崩壊以後の状況は書かれていない。それが出てくるのが加藤哲郎氏の本である。だけど、一応それまでの事件理解をまとめたものとして、ジョンソンの本は今も有効である。何より尾崎秀実が台湾で生まれ、上海でいかにして中国認識を深めていったのかが詳細に分析されているのが重要だ。ジョンソンという人は、中国研究者として出発し、当時はアメリカ人が中国に入れなかったから日本で文献を収集した。その中で尾崎秀実を知り、この本に結実する研究を進めた。その後ベトナム戦争中はCIAでアジア分析に参加したこともあるそうだが、1982年に出た「通産省と日本の奇跡」という本が有名となり、日本異質論者として知られたという。僕はもう覚えていないんだけど、そう言えばそういう本もあったかなと思う。その後はどんどんアメリカ批判が厳しくなり、普天間基地返還(海兵隊をアメリカに移転せよという論)を主張したり、「帝国解体 - アメリカ最後の選択」(岩波書店)などの本を出した。ある種、尾崎秀実と同じような生き方をした人だった。

 ジョンソンの原著刊行時にはソ連はゾルゲその人の存在も認めていなかったが、増補版刊行時には「ソ連邦英雄」として切手にもなっていた。著者は、もしかしたら自分の研究がソ連が認めたきっかけかもとちょっと思ったらしい。(それは間違いだったと証明されているようだが。)そのソ連も崩壊し、秘密文書がたくさん公開された。またアメリカの情報公開も進み、このゾルゲ事件にはまだまだ隠されていた部分があったことが、加藤哲郎著によってわかる。この事件には川合貞吉という人物が関わっているのだが、戦後になって「伊藤律がアメリカのスパイだった」と主張していた川合本人が、逆に米軍のスパイでカネで雇われていたことが証明されているのは一例である。

 要するに、日本の官憲史料、米軍調査、ソ連の秘密資料など、すべてが一定の情報操作されたものなのである。伊藤律スパイ説などは、まさに日本警察と米軍の共犯による情報操作であり、今から思うと尾崎秀樹も松本清張も史料批判が足りなかった。警察情報の上に作られた説だったのである。伊藤律スパイ説は完全に崩れ去り、「日本の黒い霧」(文春文庫)にも伊藤律遺族の要求に基づき、断り書きが付けられたのである。

 一番驚いたのが「アメリカ共産党の役割」である。ゾルゲに尾崎を紹介したのは、調書ではアメリカ人作家アグネス・スメドレー(中国共産党を取材した左翼作家)だとされた。しかし、実は鬼頭銀一というアメリカ共産党の秘密党員が引き合わせたのだ。鬼頭は逮捕当時すでに死亡していたので、スメドレーではなく鬼頭に話を合わせた方が都合が良かっただろうに、ゾルゲはスメドレーの引き合わせだと供述したという。この鬼頭という人物は今まで全く無名で、加藤氏が三重県の家族を探り当て詳細に叙述している。どうしてゾルゲがこの人物を厳重に秘匿したかというと、おそらくアメリカ共産党の秘密の役割を知られてはいけないということなのではなかったか。アメリカ共産党という政党は、アメリカに合法的に存在し続ける小党だが、大恐慌時にある程度党勢を拡大した以外は、ほぼ存在するだけの政党だった。しかし、実は「人種のるつぼ」であるアメリカは、世界革命に向けた国際的スパイの養成、送りだしの基地となっていたらしい。表の党員は被弾圧要員であって、実際はソ連直属の秘密党員の役割を隠す存在だったのだという。そうすると、今まで明るみに出ていない驚くべき事実がこれからも発掘される余地がまだまだあると思う。(特に最晩年に除名された野坂参三の役割など。)

 ところで、最初の方でゾルゲ、尾崎を「ソ連のスパイ」と簡単に書いておいたが、知ってる人も多いだろうが、この書き方は全く不十分である。一律に「ソ連のスパイ」と言っても、尾崎らはゾルゲを「コミンテルン」(第三インター)のスパイであると思っていたとされる。しかし、ゾルゲは「コミンテルン」ではなく、赤軍第四部に所属するスパイだった。コミンテルンは当時、事実上ソ連の下部機関だったけど、タテマエ上は「国際共産主義」の組織であって、だからコミンテルン所属だったら「ソ連のスパイ」とは簡単には言えない。だけど、ソ連は日ソ中立条約を結んでいる相手であり、交戦関係にはないので「敵国に情報を流した」とは言い難い。だが治安維持法では共産主義組織に対する援助を罰することができるから、日本の当局も「コミンテルンのスパイ」の方が都合が良かった。そこで事実が曲げられていったのである。

 この本、あるいは「スターリンの対日情報工作」(平凡社新書)という本を読むと、日本には尾崎ではない、もっとスパイらしいほんもののソ連スパイがいたということが出てくる。「スパイらしいほんもの」とは変な言い方だが、カネや女がらみで情報を売るのが、「ほんとうのスパイ」である。また知られざるスパイ、名もなく情報だけ売り渡して終るのが「優れたスパイ」であるとも言えるとある。「20世紀最大のスパイ事件」とゾルゲ事件を評する人もいるけど、元々有名な人物で、単なる情報ではなく「分析結果」を伝えていたゾルゲ・尾崎スパイ団は、結局明るみに出てしまったことでも判るように、けっして完全なスパイではないという。

 尾崎秀実に関して言えば、本質は思想家、中国研究者と言うべき存在で、中国の民族主義が抗日の本質であることを(だから抗日戦争を通して、「民族主義」のよりどころとしての共産革命が起こるべきことを)を主張し、ほとんど予言したと言っていい。だから、マルクス主義者として自らの信念に従ってソ連に情報を伝えたのである。ソ連のスターリン体制は尾崎が考えたようなものでは全くなかったところが悲劇だが、尾崎本人は「売国」ではなく「愛国」「憂国」の至情で行動したとみなしていい。「何が祖国のためになるのか」というのは、本人の座標軸上の位置の違いで、プラスになったりマイナスになったりするということである。つまり、日本は戦争により「亡国」寸前に追いつめられたという歴史を見ると、戦争を推進した者が「売国」で、戦争を防ごうとした者が「愛国」であると、本当は今なら言えるはずである。今もなお、ゾルゲ事件の持つ意味は現代人にとって大きいのではないか。
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