尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

テレホンカードの時代①大自然編(北海道の風景を中心に…)

2021年01月31日 20時20分33秒 | 自分の話&日記
 テレホンカードというものがあった。というか、今もあるけど、ずいぶん使ってない。買ってもない。でも念のため一応持ち歩いてはいる。大災害にあってスマホが使えない時などを想定しているのである。そんな時でも公衆電話が生きていたこともあった。念のため書いておくと、テレホンカードというのは公衆電話に差し込むと通話が可能になるプリペイドカードである。

 調べてみると、テレホンカード1982年に登場した。(テレフォンカードと書くべきかもしれないけど、あのころはテレホンカード、略してテレカと言っていた。)学校にも公衆電話があって、生徒だけではなく教員も個人的な用事の場合は使っていた。90年代前半は「ポケベル(ポケットベル)」の全盛時で、若い世代でもテレカは必需品だった。その後携帯電話(まだメール機能もカメラもない)が一般化し、21世紀初頭にはテレカの需要も減ってしまった。

 80年代後半から90年代にかけて、「私製テレカ」、つまり写真を持ち込んで記念品や宣伝のテレカを作ることが盛んだった。僕も卒業記念品を製作したことがある。小学生時代に切手ブームがあって、僕もずいぶん集めていたが大人になって止めてしまった。代わりというわけでもないけれど、90年代にはテレカのコレクターだった。旅行の記念品にお菓子やお酒を買っても腹の中に消えてしまう。(まあパッケージやラベルを収集してる人もいるけれど。)

 登山記念に山小屋で「ペナント」を売っているけど、かなりかさばるので買う気にならない。部屋に飾る場所もない。そこである時気が付いた。テレカを買えばいいじゃないか。電話代としては大体五百円か千円で、そこに少しプレミアムが加わっていることもあった。それでも記念品としては安いし、そのうち電話代に出来るんだから損にはならない。まさか10年ちょっとで「ケータイ」なるものを皆が持つ時代が来るなんて想像も出来なかったのである。

 買わないからずっと忘れていたけど、年末にふとテレカをたくさん持っていることを思いだした。「日本の山」を書いてきて、自分が撮った写真がたくさんあるはずなのに、整理してないから見つけられない。そんな時にテレカのコレクションを突然思い出した。こんなに買っていたのか。これでスマホ代が払えればいいのに。自宅に公衆電話を設置したいぐらいだ。山のテレカは過去にさかのぼってアップしたので、ここでは山以外のテレカを紹介してみたい。写真をテレカにして、それをさらにスキャンするんだから画像は良くない。

 2回に分けて、1回目は自然風景、2回目はお城や博物館などを中心に。灯台は本来は建造物だが、岬の風景ということで1回目に入れた。90年代初期は毎年のように夏に北海道をドライブしていたので、北海道のテレカが多い。まず「美瑛町」の風景。こんなにキレイな時には当たってないけど、丘の町をドライブするのは本当に楽しかった。ドライブと言えば、左右に海を見ながら進んで行く道東の野付半島は忘れられない。
(丘のまち美瑛)(野付半島)
 道北で利尻山を望むサロベツ原野も凄いところだった。荒涼たる風景が延々と続き、日本とは思えない。ところどころに原生花園や湖沼が点在する。また行きたいところだ。
(サロベツ原生花園)(サロベツ原野)
 「岬めぐり」も昔から好きで、突端に一人立つ灯台のファンなのである。北海道の岬をまとめて。下の左から最北の宗谷岬、東端で北方領土が見える納沙布(のさっぷ)岬、歌で知られた襟裳(えりも)岬、室蘭にある地球岬である。
   
 湖では冬の摩周湖は素晴らしかった。夏に行ったときはいつも霧だったので、湖面を望むために冬の旅行に参加したのである。冬の北海道は自分でドライブする気にはならないので、団体旅行である。サロマ湖も広々して素晴らしい。釧路湿原も遠望したり、丹頂鶴を見たり。道東も広大な大地をドライブするのが面白いが風景が変わらないので速度出し過ぎに注意。
(摩周湖)(サロマ湖)(釧路湿原)
 書いてない山を載せると、羊蹄山は見て良いだけでなく山麓の湧水が素晴らしい。知床の羅臼岳は登ってるんだけど、途中で自分だけ調子を崩して登頂目前で止めてしまった。また別の機会に知床湖散策に行って、そこで遠くにヒグマを見た。ただ一回のことである。
(羊蹄山)(羅臼岳と知床湖)
 北海道でいっぱいになったので、他は簡単に。岬と灯台ではまず下北半島東北端の尻屋崎。ここは冬の馬が「寒立馬」(かんだちめ)と呼ばれているが、それは見てない。宮崎県の都井岬野生馬で有名で、これは大迫力だった。ここは是非一度は行くべき場所だ。続いて、静岡県の御前崎、福島県いわき市の塩屋崎。ここは「喜びも悲しみも幾年月」のモデルになった灯台がある。
    
 他に良く行ったのは「名水」や「鍾乳洞」だ。鍾乳洞では岩手県の龍泉洞が素晴らしい。テレカも持ってるが、うまくアップできないので断念。名水のテレカは少ないが、阿蘇の「白川水源」を。龍泉洞の水に続き、羊蹄山麓や白川水源がそれに続くレベル。島では小笠原の母島に行ったときのテレカ。天然記念物の鳥「メグロ」がいる。最後に四国の山、剣山
(白川水源)(母島)(剣山)
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チベット映画「羊飼いと風船」、女性の生き方と伝統文化

2021年01月29日 22時23分06秒 |  〃  (新作外国映画)
 「羊飼いと風船」という映画が上映されている。「チベット映画」とタイトルに書いたけど、「チベット」という国はないわけで、もちろん「中国映画」である。中国では映画製作に脚本の検閲がある。この映画も最初は通らなかったが、監督が一度小説にして、その後もう一回脚本を書いたら通過したという。その問題は後でまた考えたいが、うっかり「大自然の中で生きる人々を雄大に描いた映画」を期待すると、実は「女性の生き方と伝統文化」を厳しく見つめる映画だった。

 「羊飼いと風船」なんて題名は、いかにも「メルヘンチック」(ドイツ語と英語を組み合わせた造語)な世界を想像させるが、実は全然違う。ところは中国の青海省(チベット自治区の東北にあり、チベット族の自治州がある)、時は1980年代初頭。全国で人口抑制が行われていた時代である。診療所ではコンドームを無料で配布していたが、母が枕の下に隠していたコンドームを二人の男の子が見つけて取ってしまう。何も知らずに風船だと思い込んで、膨らませて遊んでいる。父が見つけて叱りつけるが、もちろん子どもたちは判らない。
(子どもたちと父親、祖父)
 季節は夏になる頃で、羊の種付けを行わないといけない。父親は友人から「種羊」を借りてくる。その羊は凄いと言われているが、確かに見るからに精悍で精力が強そうだ。父親タルギェも見るからに精悍そうで、最近の日本の芸能人にはいない。妻のドルカルからも「種羊みたい」なんて言われている。昔の日本映画なら三船敏郎とか勝新太郎みたいなエネルギッシュなタイプだ。もっとも父役のジンバは北京電影学院で学んだ俳優で、詩人でもあるという。

 夏になって、学校に行っている長男が夏休みになり、になっている妻の妹と一緒に戻ってくる。その妹が学校に行くと、昔、わけがあったらしき男性教師と巡り会う。教師は小説を書いたと言って、本を渡される。教師はその後村を訪れてくるが、詳しくは語られないので判らない。まあ多分「許されざる恋愛」関係だったのかと思うし、その結果妻の妹は尼になったのだろうと思ったけれど、映画は何も語らない。顔を隠した尼の姿が珍しい。妻のドルカルは両親が亡くなり、妹も尼になって寂しかったというが、教師が書いた本をかまどに投げ入れたりする。
(ドルカルとタルギェ)
 ドルカルは診療所に行って「女先生」に避妊手術を相談する。それはすぐ出来ないが、代わりのコンドームを一個貰ってくる。そのコンドームも子どもたちが風船にして騒動になるが、やがて伝統を尊んで生きてきた祖父が亡くなってしまう。高僧に相談すると、お祈りすると家族に転生出来るという。長男は昔なくなった祖母と同じ背中にホクロがあって、祖母の転生と皆が信じている。折しもドルカルが妊娠するが、子どもが3人いて経済的に育てられないと思う。しかし夫はそれは転生だと信じて、父を殺すのかと詰め寄り手を出してしまう。

 チベット族の伝統文化(チベット仏教)を信じて生きている人々の中で、女性の「自己決定権」は認められない。チベットなど中国共産党支配下の少数民族では「民俗文化の抹殺」が非難されることが多い。しかし、この映画では伝統が女性にとって抑圧的である様子も描く。それが検閲を通過した理由なのだろうか。そこら辺はよく判らないけど、妻のドルカルも妹の「自己決定権」を無視している点がある。また女性たちに限らず、「性」にまつわること、ここでは特にコンドームが口に出せない。そんな様子も描かれている。

 ペマ・ツェテン(1969~)は東京フィルメックスで「オールド・ドッグ」(2011)、「タルボ」(2015)とこの作品と3回最優秀作品賞を受賞している。商業的公開は初めてだが、力量は確かだ。手持ちカメラも使いながら、厳しく人間を見つめながら、時には幻想的シーンも織り込む。特に窓に映り込む空をとらえたシーンが美しく哀しい。父は子どもたちに町でホンモノの風船を買ってきてやるというが、ようやくラストでその約束を果たす。子どもたちが赤い風船を持って草原を駆け回り、やがて空の彼方へ飛んでいく。それは何の象徴だろうか。フランス映画で「赤い風船」(アルベール・ラモリス監督)という詩情豊かな映画が昔あったが、この風船映画はシビアな世界を映し出している。監督による原作を含む短編集「風船」も翻訳されている。
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エルニーニョ現象とラニーニャ現象

2021年01月28日 23時27分18秒 |  〃 (歴史・地理)
 1月28日の東京は確かに夕方に雨が振るという予報だった。ところが実際にはお昼過ぎから雪が降ってきたので驚いた。まあ、ものすごく積もるほどでもなかったけれど、車の屋根や植え込みなんかはうっすらと雪化粧になっていた。それにしても、今年は寒いなあ。いや数年前も寒かった気がするけど、最近は暖冬が多い印象だ。今年は日本海側も例年を超える豪雪になっている。じゃあ、どうして今年は寒いのか。それは「ラニーニャ現象」が起きているからである。

 「ラニーニャ現象」(La Niña event)というのは、「エルニーニョ現象」(El Niño event)の逆である。その内容を説明する前に、名前の由来を先に。1950年代に南米ペルー沖で、12月頃の海水温が高い状態が続く現象が注目された。いつもは寒流のペルー海流が流れているのだが、時々高温になっていつもより魚が獲れる。クリスマスの頃に大漁になるということで、「エル・ニーニョ」と呼ぶようになった。「ニーニョ」はスペイン語で「男の子」だけど、定冠詞の「エル」が付いている。だから普通の男の子ではなく、つまりイエスのことで「神の御子」現象という感じ。

 ところで「エルニーニョ現象」とは逆に、「西太平洋の赤道付近の海水温が高くなる」ことも多いこともあることが判ってきた。両者は無関係なのではなく、複雑に絡み合いながら数年ごとに交互に起こっている。「エルニーニョ」の反対ということで、「女の子」という意味の「ラニーニャ現象」と呼ばれるようになった。スペイン語の定冠詞を調べてみると、男性名詞女性名詞で違っている。「男性単数」が「el」で、「女性単数」が「la」である。

 次いでに書いておくと、「男性複数」は「los」で、「ロサンゼルス」(Los Angeles)に使う。「天使」は男性名詞なのである。そう言えば、「別れても好きな人」を歌っていたロス・インディオス&シルヴィアも、「ロス・インディオス」としては男だけだった。「女性複数」は「las」で、ラスヴェガス(Las vegas)。砂漠の中のオアシスになってい「vega」はスペイン語で「豊かな草原」といった意味らしい。そして「中性名詞」というのもあるらしく、その場合は「lo」になるという。

 ここまでで長くなってしまったけれど、次に「エルニーニョ」「ラニーニャ」の内容。なかなか難しく、根本的な原因は未だ定説がない。ただし、それぞれが単なる海水温の問題ではなく、大気の動きと密接に絡んでいることははっきりしている。ウィキペディアを見ると、そもそも「エルニーニョ・南方振動」(El Niño-Southern Oscillation、ENSO、エンソ)という項目名で載っている。南方振動という方が大気に注目した場合の呼び方になる。
(エルニーニョ現象)
 大気の動きはものすごく複雑で、翌日の天気であっても各局の気象予報士の予測が微妙にずれていることがある。実験室で地球大の規模を再現することはできない。過去のケースで得られたデータをコンピュータで分析しているんだろうけど、実際は細かいところは予測不能な部分が残る。しかし、それは「局地的な正確さ」の問題で、非常に大きな目で見れば地球上の大気や大地、海洋の現象も「物理学の法則」で動いている。具体的にもっとも重要なモメントは「地球の自転」と「大気の対流」だと思う。つまり「重力」と「熱力学」である。
(ラニーニャ現象)
 地球上で一番暑いのは赤道周辺だ。地球は約23.5度傾いて太陽を公転しているから、常に太陽に一番近いのは赤道上になる。暑いわけだが、そのため赤道付近では暖められた大気が常に上昇気流となっている。上空で冷やされて、毎日のように雨が降る(スコール)わけだが、それは要するに日本の夏の「雷雲」と「夕立」と同じだ。その赤道付近の上昇気流は、水分を落として乾燥した大気となって中緯度地方に降りてくる。これがサハラ砂漠など、赤道から離れた中緯度地域に「砂漠気候」が起きる原因である。

 西太平洋ではこの熱帯から吹く風が「貿易風」と呼ばれる東風になる。日本では「季節風」の影響の方が強いが、もっと南の地帯では「貿易風」が強くなる。これは地球の自転の影響である。地球は北極から見た場合「反時計回り」に回転している。大地の上にいる人間は地球と一緒に回っているが、自転を自覚することはない。しかし流動体である大気は同じ速度では動けないから、慣性の法則で「時計回り」に動くわけである。その結果、赤道付近で暖められた海水は、東風によって西太平洋に集まってくる。これが普通の状態ということになる。

 西太平洋上で「エルニーニョ現象」が起きるということは、つまりペルー沖が高温になる代わりに西太平洋が低温になることになる。そうなると上昇気流が弱まるので、高気圧になる。太平洋高気圧が強まると、シベリア寒気団が日本に到達しにくい。だから「暖冬」になる。「ラニーニャ現象」はその逆だから、西太平洋上の海水温が高くなり、低気圧になる。そのため偏西風も南に寄ってしまい、北からの冷たい季節風が日本に吹き込むことになる。だから「厳冬」になるし、日本海には暖かい対馬海流が流れているから寒暖差で雪雲が発達して大雪になる。
(エルニーニョとラニーニャの気象への影響)
 ところでエルニーニョ、ラニーニャは1~2年は続くのが普通だ。だから今年の夏はラニーニャ中になり、西太平洋の高気圧が発達したままになるから「猛暑」になると予測できる。嫌だなあと思うけど、厳しい冬の年に厳しい夏が来るのである。以上の説明で判って貰えるかどうか。自分でもよく判らない点が多くて、どうも今ひとつ自信がない。そして、誰もが思うだろうが、そもそも「何で今年ラニーニャになったのか」が判らない。地球的規模で大気や海流が相互に関連して動いていて、エルニーニョとラニーニャも数年おきに交互に起きることが判っている。その根本的原因には、諸説があるものの定説になっていない。判らないことは多いものだ。
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映画「聖なる犯罪者」と「この世界に残されて」

2021年01月27日 21時11分52秒 |  〃  (新作外国映画)
 映画館は開かれているが、最近は昔の映画を見ることが多かった。新作映画ではポーランド映画ハンガリー映画が相次いで公開されている。昔から「東欧」の映画はよく見てるので、これは一応書いておこうかなと思う。ポーランド映画はヤン・コマサ監督「聖なる犯罪者」で、2020年のアカデミー賞で国際長編映画賞にノミネートされた。(受賞は「パラサイト」で、他のノミネートは「ペイン・アンド・グローリー」「レ・ミゼラブル」「ハニーランド 永遠の谷」。)

 冒頭に「実話に基づく」と出るが、こんなことがホントにあったのかという話である。少年院に入っている20歳のダニエルは神父の影響でキリスト教に目覚める。しかし前科があると神学校に入れないと言われる。仮釈放されたら辺地にある製材所で働かなければいけない。しかし製材所には行きたくなくて、つい教会に入ってしまう。そこで祈っていた少女マルタに自分は司祭だと言ってしまうと、新任司祭と勘違いされそのまま代わりを任されてしまった。現任の司祭は病気があって代わりを送るように求めていたところだった。
(マルタとダニエル)
 最初はぎこちなかったダニエルだが、いつの間にか信頼されていく。この村にはある角地に祭壇が作られている。1年前に交通事故があって7人も死んだのだという。しかし祭壇には6人の写真しかないのは何故か。ダニエルが問うと人々はあの運転手は絶対に許せないと反発する。村は事故の傷が癒えてないのである。マルタの兄も事故で死んだ一人だったが、マルタは死の原因に疑いを持っている。ダニエルが運転手も教会で葬らないといけないと言い出すと、村人たちに波紋が広がっていく。そんな時に同じ少年院にいた仲間が製材所に送られてきて…。

 ポーランドが世界でも有数のカトリック国であるのは知っていたが、田舎では教会が生活の中心らしい。それにしても「資格証明書」みたいなものを提示しないのか。説教でボロを出しそうなもんだけど、ダニエルはスマホでにわか知識を仕入れている。カトリックは結婚禁止だから、若い世代からは「禁欲は何故するのか」などと問われている。日本では西川美和監督「ディア・ドクター」で笑福亭鶴瓶がニセ医者をやっていた。あれも実話が基になっていた。「男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎」では寅さんがニセ坊主をしていたが、上手にお経を上げていた。今ひとつ設定が身近ではないものの興味深い映画だった。

 ハンガリー映画のバルナバーシュ・トート監督「この世界に残されて」は、ホロコーストを背景にして家族を失った人々が如何にして生きていくかを静かに描いている。わずか88分の映画で、現代では慎ましすぎる感じもするが、逆に余韻が深い映画でもある。1948年のある日、婦人科医のアルド(42歳)のもとにクララ(16歳)が大叔母に連れられて受診に来る。未だに初潮がないのを心配したのである。クララの父母は収容所で死んだらしいが、本人はいつか帰ってくると信じている。そして妹はクララに抱かれて死んでいった。そんな苛酷な体験がクララの成長を止めていただけで、アルドはホルモン異常ではないと言う。

 クララは初潮があったことを報告に来て、大叔母がうっとうしいとアルドに訴える。アルドが一人暮らしなら一緒に暮らせないかという。やはり深い喪失を体験していたアルドに、クララは何故か惹かれて懐いてしまった。その関係は誤解を招きかねないが、やがて二人は親子のような情愛で結ばれていく。そんなハンガリーは共産党政権が樹立され、人々の中に「党」への忖度が始まる。生きるために「党員」になると、友人を密告しないといけない。そんな暮らしの中でアルドはどんな生き方を選択するのか。そしてラストシーンでは、ラジオがスターリンの死を報じる。1956年のハンガリー事件は描かれていないが、彼らはどうなったのだろう。
(アルドとクララ)
 42歳と16歳は一般論では年が離れすぎだろうが、現代なら結ばれちゃう方がありそうな展開かもしれない。でも当時のハンガリーだからか、あるいは深い喪失を体験したものどうしというか、慎ましやかなつながりが続く。その「小さな声」が余韻を深めるが、短すぎるような気もした。70年前の様子を再現する撮影や美術は本当に素晴らしく、その時代を実感する気がした。高畑充希井浦新ダブル主演という感じの主役二人が好ましかった。

 ポーランドもハンガリーもかつての「ソ連圏」の中では、西欧に近く文化的な自由度も相対的に高かった。東欧革命でも先駆的な役割を果たした国だったが、2010年代後半に入ってから政治の強権化、右翼化が進んでいる。移民受け入れなどに否定的で、EU内でも問題を起こしている。ポーランドでは2020年秋に人工妊娠中絶を憲法違反とする最高裁判決があって大問題になっている。そんな「東欧」から来た2本の映画は直接現代の情勢を描くものではないが、風土や言語などを通して感じるところがあった。
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中公新書「板垣退助」を読む

2021年01月26日 22時41分48秒 |  〃 (歴史・地理)
 2020年11月新刊の中公新書、中元崇智(なかもと・たかとし、1978~、中京大学教授)氏の「板垣退助」を読んだ。読んだのは実は「イマジネーションの戦争」や「新宿鮫」の前のことで、記録のために簡単に。「明智光秀」を読んだばかりだが、中公新書には日本史上の有名人物の伝記が多い気がする。近現代史の分野でも話題になった本がずいぶんある。日本史では吉川弘文館に有名な「人物叢書」シリーズがあって、300点を超える本を出している。しかし、そっちを読むのは大変だから、新書で充実した伝記を出してくれるのはありがたい。

 板垣退助(1837~1919)は、明治の「自由民権運動」のところで必ず教科書に出てくる。かつては百円紙幣の肖像に使われていたから、誰でも名前を知っていた。ちなみに百円紙幣を調べてみると、1885年以来デザインを何度か変えながら発行されてきた。板垣退助の百円札は1953年から1974年まで使われていた。だから僕はこの紙幣を覚えている。でも百円硬貨が1957年に発行されていて、僕の子ども時代でも硬貨の方を主に使っていたと思う。
(百円紙幣)
 そういう有名人物だけど、思えば伝記を読んだことがなかった。この本も郷土史家が書いた本以来、約半世紀ぶりの伝記だという。板垣退助は幕末の志士から、維新政府の高官、政変で下野して反政府運動家になって、憲政下では藩閥政府に対抗する野党党首になった。その間の転変が激しく、歴史研究が細分化している現代では板垣の生涯を細かく検討するのも難しい。板垣の人生には多くの矛盾失敗逆境があり、伝記的にたどるのも大変だ。だから板垣退助の伝記は書かれなかったし、我々も特に読みたいとは思わずに来た。

 板垣退助は土佐藩(高知県)出身だが、「幕末の土佐藩」では脱藩して維新目前に横死した坂本龍馬中岡慎太郎が神話化してしまった。上の方にはこれも伝説的な名君(というか暴君)の前藩主山内容堂という怪物がいる。だから藩政に関与し続けた上層部の後藤象二郎や板垣の印象が薄くなる。そのような幕末の土佐藩理解そのものに問題があった。板垣は幕末段階では乾退助と名乗っていた。(いぬい)家は武田信玄に仕えて武田四天王と言われた板垣信方に由来する。戊辰戦争で土佐藩平を指揮して甲州を攻撃した時に、信玄を懐かしむ気風の強い甲州の人心掌握のため板垣姓を名乗ったのである。
(日光の板垣像)
 板垣には都合良く書かれた「自由党史」などの「公式」本が存在する。それらの中には「自己伝説化」みたいな記述が多い。だからこそ事実の確定も難しい。僕がよく行く日光には、神橋そば(日光金谷ホテル下)に板垣退助の銅像が経っている。戊辰戦争時に大鳥圭介指揮下の旧幕軍が日光に立て籠もった。「神君家康」の墓所なんだから、日光は壊滅の恐れもあったわけだが、それを救ったのが板垣だとされている。また後の自由民権の素になったのは会津戦争時の体験にあるとも語っている。これらは真実と言うより「神話」に近いらしい。

 自由民権運動が盛んになったとき、板垣は全国を演説して回ったが、1882年に岐阜で襲撃事件が起こった。その時に「板垣死すとも自由は死せず」という歴史的名言を発したとされる。これこそ板垣の生涯で最大の「伝説」だが、しかし、どうも確かにそんなことを言ったらしい。当時そばにいた関係者や新聞も大体そんな言葉を記録していた。その後の「外遊」問題、自由党解党などで、自由民権運動研究では板垣の評判はよろしくない。この何十年か、自由民権運動の民衆的広がりに研究の焦点があって、中央の指導者には僕もあまり関心がなかった。
(岐阜の遭難事件現場の銅像)
 だから教科書には「(板垣退助の)自由党はフランス流」「(大隈重信の)改進党はイギリス流」などと書いてあるのを僕も疑わずに教えて来た。だが自由党もイギリス立憲政治を目指していたとこの本は指摘している。今までは植木枝盛中江兆民の思想的影響を過大に評価してきたということだろう。板垣退助は徹底した「一君万民」論者で、だからこその「藩閥」へ敵対し続けたのである。イギリスの「君臨すれども統治せず」の政治を目指していたと考えていいだろう。

 その結果、「辞爵」問題が起きた。華族制度が作られた時に、板垣にも伯爵が授与されることになったのを、板垣は辞退しようとした。天皇の下に特権階級を置くことに反対だったのである。しかし、明治天皇に戊辰戦争の功績に報いたいという「叡慮」を示され、板垣は拒否出来なくなってしまう。華族は衆議院への立候補資格がなく、「国会の父」と呼ばれたりする板垣は一度も帝国議会の議員になっていない。もちろん貴族院議員ならなれたわけだが、華族制度を否定する板垣は議員にならなかった。その上、「一代華族論」を唱えて、自分の爵位を子孫に継がせなかった。

 岐阜遭難事件の犯人は、板垣が申請して憲法発布時の恩赦で出獄できた。このように、板垣は政治的才能では伊藤博文や大隈重信に遠く及ばなかったけれど、なかなか筋を通した人物だったと思う。憲政下では大隈重信と組んだ「隈板(わいはん)内閣」で、4ヶ月間だけ内務大臣を務めた。この「野党勢力の大同団結」がかくも短期に崩壊したのは何故か。戦後すぐの片山内閣やついこの間の民主党内閣を思い起こさせる。今も考えるべき重大問題だと思う。
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「イマジネーションと戦争」ー「戦争と文学」を読む⑧

2021年01月25日 22時35分28秒 | 本 (日本文学)
 集英社文庫のセレクション「戦争と文学」を毎月読んできたが、今月でいよいよ終わりで、我ながらよく読んだと思う。一巻が600頁を超える長さで、持ち歩くのも重い。全20巻ある全集の中に文庫化されなかった12巻が残っているが、とても読む気にはなれない。最後は「イマジネーションと戦争」の巻で、SF・寓話・幻想文学と帯にある。他の巻よりは読みやすくて、いつもなら10日ぐらい掛かっていたのに今回は5日で終わった。しかし、逆に一番面白くなかったと思う。寓話的作品はすぐ読めるけど時代的制約が多い。
(カバー=会田誠「紐育空爆之図」1996)
 芥川龍之介桃太郎」に始まるが、文学史的、思想史的価値はあるが、今では面白くない。「桃太郎」伝説を鬼の立場からひっくり返した作品で、こういう作品があったという価値は大きいが。安部公房鉄砲屋」、筒井康隆通いの軍隊」、宮沢賢治烏の北斗七星」なども同様。早世したSF作家、伊藤計劃は初めて読んだけど、「The Indifference Engine」はなかなかよく出来た戦争小説だった。アフリカのルワンダ虐殺などを思い起こさせる少年兵の恐怖の体験を内面から描き出している。しかし、同時にこれは何のための小説なんだろうという気もしてきた。

 小松左京春の軍隊」は、多分書かれた時代(1973年)には衝撃的で面白かったのではないか。突然日本各地に謎の軍隊が出現してホンモノの戦争を始める。どこかから侵入したわけではなく、いわば異次元空間から突如出現する。合理的な説明はない。これを「平和の風景の裏に、戦争が潜んでいる」と言われても。当時の日本は戦後28年、戦争が「風化」したと言われながら、ベトナム戦争が大きく報道されていた。小松左京は「日本沈没」がSFを超えたベストセラーになった時期で、経済成長した日本は果たして正しい道を歩んでいるのかという問題意識があったのだろう。最後に掲載された小松左京のインタビューにそのことがうかがえる。
(小松左京)
 長崎で原爆小説を書いてきた青来有一スズメバチの戦闘機」は、スズメバチを戦闘機と思い込んで、一人で戦争を遂行する子どもの話。星野智幸煉獄ロック」は、近未来(?)のディストピア小説。人間は完全に管理されていて、子どもは10歳になると男女別に隔離される。10年間の「禁欲」を課せられが、20歳になると子作りが強制され、2年間の間に出産しないと「市民階級」になれない。そんな体制に反逆するカップルの苦難を描いている。筋とともに「接窟」とかの独自用語が面白い。これはセックスのこと。地名も「捕和」「大営」とか浦和、大宮みたいな名前がパラレルワールド感を出している。僕はこれが一番面白かった。
(星野智幸)
 SF系では山本弘リトルガールふたたび」が面白かった。2109年の東京都内の小学校が舞台である。日本は21世紀後半にとんでもない状態に陥った。人々がフェイクを信じるようになり、ついに「広島に原爆は落ちなかった」などという言説がネット上で支持される。政治にも進出して、やがて日本の核武装を目指す党が勝利する。その後どうなるかは直接読んで貰いたいが、最後まで風刺が効いている。この小説は「現在」に関わっていて、残念ながら古びていない。全然知らなかった作家だが、「トンデモ本」を楽しむ「と学会」初代会長だという。
 
 赤川次郎悪夢の果て」は、大学教授が敗戦直前の1945年の東京にタイムスリップする。家族構成は同じ、本人も同じ大学教授なのだが、東京はもう空襲で破壊されている。食糧難の中で息子に召集令状が来る。冒頭は現代で、主人公が教育関係の審議会に出ているが意見は何も取り入れられない。過去の教訓をないがしろにして国家主義的教育を進める日本(発表は2001年)への、ほとんどナマの批判のような小説だ。それでも心に刺さるものがある。

 非常に珍しく貴重だったのは、高橋新吉うちわ」という作品。高橋新吉(1901~1987)は、1923年に「ダダイスト新吉の詩」で一躍有名になった新進詩人だった。ヨーロッパで起こったダダイズムを日本で名乗った詩人である。その後仏教に傾倒したが、ずいぶん後まで長生きしていたのは知らなかった。入手しやすい本はないと思うし、僕も初めて読んだ。戦争中に「狂気」に駆られた男の物語で、1949年の作品。作中の人物は日米戦争開始の号外を見るが、それは自分を狂気に陥れるために作られたフェイク号外だと思い込んでいる。戦時中でも「戦争」を意識しない(できない)生があったのである。
(高橋真吉)
 他にも入っているが省略。各巻の終わりにインタビューが付いている。元の本は2011年から2012年に刊行されたが、この10年の間にインタビューされた人がずいぶん亡くなっている。列挙すれば、林京子水木しげる伊藤桂一小松左京小沢昭一大城立裕の6人である。存命なのは美輪明宏竹西寛子だけ。この10年で戦時中を肌で知っている人がどんどんいなくなってしまった。それでも本の中に残された言葉を我々が引き継いで行くことは出来る。
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国見温泉(岩手県)、天然の「バスクリン」ー日本の温泉①

2021年01月23日 22時27分06秒 |  〃 (日本の山・日本の温泉)
 毎月一回「日本の山」を2年間書いてきたけれど、それに代わって今度は「日本の温泉」シリーズを始めることにした。何だか月に一回ぐらい、そんなことを書きたいのである。温泉の紹介みたいなのはいっぱいあるけど、草津温泉とか伊香保温泉とか超有名どころは書かないつもり。温泉ファンならともかく、一般にはあまり知られていないような温泉を書いていきたい。

 第1回は岩手県雫石町国見温泉にした。温泉の魅力はたくさんあるけれど、無色の単純泉よりも、色が付いてる方がどうも効能豊かで神秘的な感じを受けてしまう。もっとも年とともに単純泉の良さも感じるようになってきたが、それでも最初は「」で選んだ。風呂に浸かると体が見えない「白濁泉」(鶴の湯や白骨温泉、霧島の新湯など)もいいけれど、日本中を探せば不思議な色の温泉も見つかる。そんな中でもベスト級は間違いなく国見温泉だ。何しろエメラルドグリーンの湯がたっぷりと入った湯は、宿自らが「天然のバスクリン」と称しているぐらいだ。

 こんな素晴らしい湯がたっぷりと出ている国見温泉だが、案外旅行で泊まったことがある人は少ないんじゃないだろうか。場所は岩手県だが秋田県との境に近く奥羽山脈ど真ん中という立地条件にある。この近辺には温泉が多く、岩手側にはつなぎ温泉鶯宿(おうじゅく)温泉、ちょっと離れるけど花巻温泉やその近辺の秘湯(大沢温泉鉛温泉など)、秋田側には田沢湖高原温泉や超人気の秘湯・乳頭温泉郷などが集中している。だからちょうど真ん中の国見温泉には泊まらずに通り過ぎてしまうんじゃないか。
(石塚旅館)
 ここには「日本秘湯を守る会」に入っている石塚旅館がある。一軒宿かと思っていたら、もう一つ森山荘という宿もあった。僕はかつて乳頭温泉郷にいろいろ入りながら秋田駒ヶ岳に登ったときに、石塚旅館に泊まったことがある。お湯はドバドバ湧出していて、湯口では無色なのに湯船は完全にグリーンである。かなり濃厚な硫黄泉で、窓を開けっぱなしにしておかないと危険だという貼り紙があった。確かに風呂場内には硫化水素臭が濃かった。
(国見温泉案内)
 ではどうして湯の色が緑色なのだろうか。泊まった当時は不明と書いてあったように思うが、今回ウィキペディアを見たら以下のような説明があった。「温泉に含まれる炭酸カルシウムと硫黄の微粒子がレイリー散乱で青く発色し、これに多硫化イオンの黄色が混ざる」というのである。東邦大学の分析によるとある。何だか全然判らないけど、レイリー散乱というのをさらに見てみると、「光の波長よりも小さいサイズの粒子による光の散乱」と出ている。空が青いのも「レイリー散乱」だそうだ。これでも判らないけれど、要するに緑色の物質が湯の中にあるわけではなく、光線の具合によって色が見えるのである。その証拠に湯口の湯をすくってみても無色透明だった。

 自家用車かタクシーじゃないと行けない不便な場所にある。団体旅行で泊まることはないだろう。なかなか行くのも大変だと思うが、立ち寄り湯もやってるので温泉好きなら一度は入りたい湯だ。行けば判るが、絶対に驚くこと間違いない。ただ「秘湯」系なので、そういうのが好きな人じゃないと不満かもしれない。恋人同士なんかにはまだ向かない。ホントにお湯目当てで行ってみようという人向けである。でもお湯が好きな人なら満足出来るはず。
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大沢在昌「新宿鮫 暗約領域」を読む

2021年01月22日 22時45分46秒 | 〃 (ミステリー)
 政治関係が続いていたが、この間の読書はミステリー。いつも正月にミステリーを読むけど、今年は馳星周の犬小説を読んでいた。その後に大沢在昌(おおさわ・ありまさ)の新宿鮫シリーズの最新作「暗約領域」(光文社)を読んだが、700頁もあって重たい。2019年11月に出た時はスルーしたけど、「このミステリーがすごい!」に入選したので読みたくなってしまった。

 「新宿鮫」シリーズは1990年に出た「新宿鮫」に始まり、「暗約領域」が11作目。10作目の「絆回廊」が2011年刊行なので、ずいぶん時間が空いた。内容的には前作直後から続く物語となっている。知らない人のために簡単に書いておくと、このシリーズは新宿署の生活安全課に属する「ワケあり」の鮫島警部の活躍を描いてきた。鮫島は本来はキャリア官僚として警察庁に入庁したが、公安部内の暗闘に巻き込まれ「ある秘密」を握ることになった。そのため辞めさせることも出来ず、現場の生活安全課に定年まで留め置かれるだろうという境遇にある。

 しかし、それは本人にとってそれほど不満のあるものではない。誰とも組むことなく一人で捜査せざるを得ないが、「遊軍」で独自の捜査を続けているうちに重大な事案にぶつかることが多い。暴力団と群れることが嫌いだが、その孤高の姿勢が裏社会でも評価され「新宿鮫」と呼ばれて恐れられている。原則として一人だけの捜査は許されないはずだが、そんな鮫島の捜査能力と独自性を評価する桃井課長が何かにつけバックアップしてくれていた。しかし、前作で桃井が捜査中に死亡し、鮫島はその過去を背負っている。またロックグループ「フーズハニー」のヴォーカル「」(しょう)と同棲していたが、その関係も破綻してしまった。

 全部読んできたが、8作目の「灰夜」(はいや)が出張先の鹿児島を舞台にしている他は、すべて新宿が舞台になっている。鮫島が新宿署にいるんだから当然だが、新宿の裏社会を定点観測する一大ノワールシリーズになっている。「暴対法」が出来るなど、裏社会の様相も最初の頃から比べてずいぶん変わってきた。当初から外国人マフィアが登場しているが、国籍もずいぶん変わっている。薬物や売春などの裏情報もたっぷりで、「情報小説」にもなっている。大沢在昌の小説はいつも情報解説が多すぎるが、だからこそ読みやすくて判りやすい。
(大沢在昌)
 今回は覚醒剤密売に関するタレコミを受けて、ある場所を張り込むことになる。もともと商店だった場所がいつの間にか「ヤミ民宿」になっているらしい。そこがコロナ以前の東京を表している。新宿署で唯一鮫島と交友がある鑑識のに頼んで、真ん前の部屋にカメラを設置したが、そこには誰も張り込んでいなかった時間に謎の銃撃音が記録されていた。こうして単なる覚醒剤案件が殺人事件になってしまうが、その後に突然公安部が出張ってきて事件を取り上げてしまう。裏を探っていくと国家的機密に触れることになってしまったのである。

 その間に冒頭では鮫島が「課長代理」になって会議に出たりしている。新宿署ではもう鮫島が課長でいいというが、本庁は認めず後任に女性を送り込んでくる。新課長は例外的捜査を認めず、鮫島に新人として赴任した矢崎を付けることにする。鮫島は自分と組むと後輩が将来不利になると言うが、課長は例外を認めない。そんな事情も抱えつつ、鮫島はヤミ民宿の事情を探りながら真相に迫っていく。そしてある人物が行方不明になっていることが判る。途中から「犯人側」の様子も出てきて交互に描かれるが、両者がどのように絡んでいくのか、最後まで予断を許さない。

 この小説は面白いには面白いが、今までの最高傑作ということもないだろう。今まで読んでない人が初めて読んでもあまり面白くないと思う。謎やアクションもあるが、それ以上に人間関係のもつれた糸の絡まり具合が面白いからだ。ミステリーの約束として、ここで真相を書くことは出来ないが、ここで提出されている「陰謀」がいかにもありそうで、それを読む意味があると思う。「北朝鮮」や「中国」が中心的テーマとして出て来るが、その描き方は情報小説として特に珍しくはないが驚くような内容には違いない。疑問や反発を感じる人もいるかと思うが、エンタメ小説としてのフィクションとはいえ、大きな意味では僕はありそうな話だと感じた。

 その後に読んだスウェーデンのヘニング・マンケルクルト・ヴァランダー警部シリーズは、ここでは書かないことにする。発表から10年以上翻訳が遅れている間に作者が亡くなってしまった。ヴァランダー最後の「苦悩する男」は上下2巻の大作で、内容も読み応えがある。このシリーズで記事を書いたものもあるが、今回は「冷戦」時代のスウェーデンが背景になった作品で日本人には遠いテーマか。でも翻訳が素晴らしく読みやすい。ミステリーは筋を書けないので、今回は何を書いているのか伝わらないと思うけど、世界の秘密に触れることで「耐性」を付けておくことも「陰謀論」に欺されないために必要だと思う。
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「感染症法」改悪に反対する

2021年01月20日 20時24分01秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 菅内閣が通常国会に提出を予定している「感染症法」の「改正案」に反対の動きが強まっている。「感染症法」はちゃんと書くと「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」になる。1897年に「伝染病予防法」が制定されたが、この法律は社会防衛的な色彩が強かった。そこで1998年になって「感染症法」に改められ、「予防」だけでなく「患者に対する医療」にも触れられるようになった。そこには近代日本における医療の反省が生かされている。
(感染症法改正の動き)
 自民党総務会で19日に了承された感染症法の改正案は、報道によれば以下のようなものとなっている。「都道府県知事が宿泊療養などを要請できる規定を新たに設け、感染者が応じない場合は入院の勧告を行い、それでも応じない場合や入院先から逃げた場合には「1年以下の懲役または100万円以下の罰金」の刑事罰を科す」というのである。入院に応じなければ「懲役刑」を科すという、ちょっと常識を逸脱するような案である。感染症ウイルスを病気というよりもテロリストかなんかと思っているような「治安立法」的発想である。

 これに関しては医学界からすでに反対の声明が出されている。僕が書くよりもそれを読んで貰えば十分なので、ちょっと長くなるけれど引用することにする。そして最後に「感染症法」の格調高き前文も引用しておきたい。ここで引用するのは「日本医学会連合」の感染症法等の改正に関する緊急声明である。「日本医学会連合」というのは、医学系の学会の連合体で、136もの学会が集結している。およそ僕らが知っている病気のほとんどに何らかの専門学会がある。中には「日本温泉気候物理医学会」とか「日本肥満学会」なんていうのもある。「日本インターベンショナルラジオロジー学会」になると何だか全然想像も出来ない。

 長くなるが全文引用する。自分で重要と思うところは太字にしておく。
 現在、感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(以下、感染症法)等の改正が検討されています。報道や政府与野党連絡協議会資料によれば、「新型コロナウイルス感染症の患者・感染者が入院措置に反したり、積極的疫学調査・検査を拒否したりした場合などには刑事罰や罰則を科す」とされています。

 日本医学会連合は、感染症法等の改正に際して、感染者とその関係者の人権と個人情報が守られ、感染者が最適な医療を受けられることを保証するため、次のことが反映されるよう、ここに声明を発します。

1) 感染症の制御は国民の理解と協力によるべきであり、法のもとで患者・感染者の入院強制や検査・情報提供の義務に、刑事罰や罰則を伴わせる条項を設けないこと
2) 患者・感染者を受け入れる医療施設や宿泊施設が十分に確保された上で、入院入所の要否に関する基準を統一し、入院入所の受け入れに施設間格差や地域間格差が無いようにすること
3) 感染拡大の阻止のために入院勧告、もしくは宿泊療養・自宅療養の要請の措置を行う際には、措置に伴って発生する社会的不利益に対して、本人の就労機会の保障、所得保障や医療介護サービス、その家族への育児介護サービスの無償提供などの十分な補償を行うこと
4) 患者・感染者とその関係者に対する偏見・差別行為を防止するために、適切かつ有効な法的規制を行うこと

以下にこの声明を発出するにいたった理由を記します。

 現行の感染症法における諸施策は、「新感染症その他の感染症に迅速かつ適確に対応することができるよう、感染症の患者等が置かれている状況を深く認識し、これらの者の人権を尊重しつつ、総合的かつ計画的に推進される」ことを基本理念(第2条)としています。この基本理念は、「(前略)我が国においては、過去にハンセン病、後天性免疫不全症候群等の感染症の患者等に対するいわれのない差別や偏見が存在したという事実を重く受け止め、これを教訓として今後に生かすことが必要である。このような感染症をめぐる状況の変化や感染症の患者等が置かれてきた状況を踏まえ、感染症の患者等の人権を尊重しつつ、これらの者に対する良質かつ適切な医療の提供を確保し、感染症に迅速かつ適確に対応することが求められている(同法・前文)」との認識に基づいています。

 かつて結核・ハンセン病では患者・感染者の強制収容が法的になされ、蔓延防止の名目のもと、科学的根拠が乏しいにもかかわらず、著しい人権侵害が行われてきました。上記のように現行の感染症法は、この歴史的反省のうえに成立した経緯があることを深く認識する必要があります。また、性感染症対策や後天性免疫不全症候群(AIDS)対策において強制的な措置を実施した多くの国が既に経験したことであり、公衆衛生の実践上もデメリットが大きいことが確認済みです。

 入院措置を拒否する感染者には、措置により阻害される社会的役割(たとえば就労や家庭役割の喪失)、周囲からの偏見・差別などの理由があるかもしれません。現に新型コロナウイルス感染症の患者・感染者、あるいは治療にあたる医療従事者への偏見・差別があることが報道されています。これらの状況を抑止する対策を伴わずに、感染者個人に責任を負わせることは、倫理的に受け入れがたいと言わざるをえません。

 罰則を伴う強制は国民に恐怖や不安・差別を惹起することにもつながり、感染症対策をはじめとするすべての公衆衛生施策において不可欠な、国民の主体的で積極的な参加と協力を得ることを著しく妨げる恐れがあります。刑事罰・罰則が科されることになると、それを恐れるあまり、検査を受けない、あるいは検査結果を隠蔽する可能性があります。結果、感染の抑止が困難になることが想定されます。
 以上から、感染症法等の改正に際しては、感染者とその関係者の人権に最大限の配慮を行うように求めます。

 ここまでが日本医学会連合の声明文である。もう「お説ごもっとも」という以外になく、付け加える言葉は必要ない。何のためにこんな案を出してくるのか、全く理解出来ない。法律によって、新型コロナウイルスの入院費はすべて公費で負担される。だから「経済的理由」で入院を拒む人がいるとは思えない。一人で育児・介護を担っていて代わってくれる家族がいないというようなケースしか僕には思いつかない。そんな場合に刑事罰を科すことは許されない。以下には参考資料として、感染症法の前文をコピーしておきたい。

人類は、これまで、疾病、とりわけ感染症により、多大の苦難を経験してきた。ペスト、痘そう、コレラ等の感染症の流行は、時には文明を存亡の危機に追いやり、感染症を根絶することは、正に人類の悲願と言えるものである。
医学医療の進歩や衛生水準の著しい向上により、多くの感染症が克服されてきたが、新たな感染症の出現や既知の感染症の再興により、また、国際交流の進展等に伴い、感染症は、新たな形で、今なお人類に脅威を与えている。
一方、我が国においては、過去にハンセン病、後天性免疫不全症候群等の感染症の患者等に対するいわれのない差別や偏見が存在したという事実を重く受け止め、これを教訓として今後に生かすことが必要である。
このような感染症をめぐる状況の変化や感染症の患者等が置かれてきた状況を踏まえ、感染症の患者等の人権を尊重しつつ、これらの者に対する良質かつ適切な医療の提供を確保し、感染症に迅速かつ適確に対応することが求められている。
ここに、このような視点に立って、これまでの感染症の予防に関する施策を抜本的に見直し、感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する総合的な施策の推進を図るため、この法律を制定する。
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「民度」と「世間」とコロナウイルス

2021年01月19日 22時47分19秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 日本人は「民度が高い」からウイルスを押さえ込めたと豪語したのは麻生副首相だった。しかしながら年末以来の日本の感染状況は、欧米諸国とはだいぶ違うとはいうものの近隣アジア諸国より深刻な感じがする。これは実は日本の「民度が低い」ということを示しているのだろうか。麻生発言についてはその時に批判記事を書いたけれど、今になって「民度」って何だろうと思う。
(麻生「民度」発言)
 年末年始には人が集まる機会が多い。それは判っていて散々マスコミで注意していた。実際、例年に比べれば初詣の人数も減っているようだったが、それでもテレビで見れば結構行っている。箱根駅伝も沿道で応援しないようにと言っていたが、結構人出があったように見えた。それでも減ってて実際は隙間があったんだとも言うけど、やっぱり沿道に出ている人は相当いたんだろう。そういう事態は「民度」に関係するんだろうか。

 ちょっと驚くようなクラスターも起こった。東京都荒川区の尾久(おぐ)警察署の署長以下3人の感染が年明けに判った。原因は12月28日に行われた地元の交通安全協会のメンバーら10数人が参加した懇親会に参加したことにある。署長だけでなく、署員3人も参加していて交通課長(女性)と警部補も感染が確認されていると報じられている。今どき多人数で「忘年会」をやるなんてとても理解出来ないが、東京の東北部というのは保守的で地縁関係が強い地域である。「都会的」という地域性ではない。「恒例」の行事を止められなかったのだろう。

 「民度」というのは、国民生活の文化的、行動様式的な成熟度のようなものを意味するだろう。「交通安全協会」というのは民間団体だけど、事実上は退職警官が中心となった「半官半民」的な組織らしい。尾久署のクラスターというのは、「民度」の問題だけじゃなく「官度」(そんな言葉はないけれど)の問題かも知れない。総理を初め自民党議員に「会食」を指摘された議員が多い。党でルールを作ろうしたら結局出来ずじまいになった。議員はいろいろな人と会って話を聞く必要があるとか言っていた。夜の酒席では会えない人の意見は聞く気が無いんだろう。

 朝日新聞の世論調査では、新型コロナウイルスに感染した時の心配は健康よりも「世間の目」だという。3分の2の人がそのように答えているという。特に現役世代、18歳未満の子どもがいる人、製造・サービス業従事者にその傾向が高い。このことを考えると、去年の緊急事態宣言下に「自粛警察」と言われたものも、何か独自の動きが現れたのではなく、「世間の目」が特殊な状況下に「見える化」されたものだったと言うべきだろう。麻生大臣が「民度」と解釈したのも、今思えば「成熟した国民の行動」というより、「世間の目を恐れた自粛行動」だったとみるべきだ。
(「県外ナンバー」を排除する看板)
 「世間」は「社会」と違う。そこに注目して「世間学」を提唱したのは、中世ヨーロッパ史の研究者だった故・阿部謹也(1936~2006)だった。「ハーメルンの笛吹き男」など多くの著者がある阿部氏は、晩年に多くの「世間」をテーマにした著作を残した。僕はそのほとんどを当時(21世紀初頭)に読んでいるが、テーマがテーマだけに「問題提起」に止まっていた感じがする。それでも「社会学」ではなく「世間学」を構築しないと「日本を読み解く」ことが難しいという発想は正しいと思う。

 ヨーロッパだって、そんなに「独立した個人」によって構成されているわけじゃないだろう。しかし、特に日本の現実を考えてみると人々は「大勢順応」をモットーにして、「世間の風向き」を読んで行動する。それは昨年の自民党総裁選で菅義偉総裁が選出された経過を思い出せば、すぐに理解出来る。そういう「世間のルール」においては、「緊急事態宣言」があればともかく、そうでなければ「忘年会」が優先する場合があった。コロナがなければ多くの職場で「忘年会」が開かれ、それは勤務時間外ではあるが事実上の「強制」力がある。コロナ禍で「忘年会」や「帰省」がなくなって嬉しい人も多いはずだ。

 「クリスマス」や「成人式」といった「重症化しにくい若年層」にとって重要なイヴェントが年末年始には集中する。大人だけではなく、若年層にも「世間」はある。そうじゃなければ「いじめ」は起こらない。だから、決して多くではなくても成人式後の集団感染が起こっている。「世間」のつながりの方が優先したのだろう。現実問題として考えた時には、今後の感染抑制が成功するかどうかも「人々が事態をよく理解して理性的に行動する」ことによってではなく、「世間の規範」が「この程度ならいいだろう」となるか「世間の目が怖いから自粛せざるを得ない」になるかだと考えられる。残念なことだが、それが日本の現実だと考えている。
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「利他心」とコロナウイルスと菅内閣

2021年01月18日 22時13分13秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 2回目の緊急事態宣言は効果が上がるのか。その問題に対して、「利他心」がカギになると指摘している人がいる。東京大学の渡辺努教授(マクロ経済学)という人である。東京新聞1月6日付紙面の記事から引用すると、以下のようになる。「昨春、外出を抑制した感染への『恐怖心』は弱まっている。今回は、周囲にうつさないという『利他心』が鍵を握る」というのである。

 昨年の緊急事態宣言では外出が6割減って新規感染者の減少につながった。渡辺教授によると、「多くの国民は『自分もかかるかも』という恐怖心から外出を控えていた」とみる。しかし、その恐怖心は弱まっている。特に感染しても重症化しにくいと知った若者に顕著だというのである。「感染を怖がらないと若者が考えるのは合理的だ。今後は恐怖心でなく、周囲に感染させないように心がける『利他心』に訴える必要がある。」
(利他心が大切)
 もともと「公衆衛生」という社会政策は、自分ひとりではなく「地域社会を守る」ところから始まっている。ただ日本では「上からの近代化」を進める中で、ともすれば警察権力を行使して中央集権的に衛生対策を進めてきた歴史がある。しかし、本来は「社会連帯」が前提になっていないと、成熟した産業社会ではどんな政策も成功しないだろう。新型コロナウイルスで「重症者リスク」が高い高齢者層は、現代社会の中では「弱い立場」にある。そのような相対的に弱い層をどのように守っていくのかが重要なのである。

 日本で例年だと1千万人近くがインフルエンザに罹患する。冬場に大流行が始まると、学級閉鎖学校閉鎖もよく報道される。(ニュースになるから凄く多いと思うかも知れないが、ほとんどの教員は定年までに一回も経験しないだろう。)これは「子どもを守る」という意味もあるが、それが主目的ではない。インフルエンザは学校における飛沫感染接触感染によって、あっという間に家族内感染してしまう。若年者でも治るまで一週間程度はかかるが、高齢者がインフルエンザにかかると毎年千名を大きく超える死者が出ていると言われる。そういう事態を少しでも減らすために「学級閉鎖」を行うのである。
(利他心論争の構図)
 一般に「利己心」が世の中を動かしていると見る人が多い。一見「利他心」に見えることでも、「情けは人のためならず」で実は自分に戻って利益になることが多い。また「利己的遺伝子」などを想定して、動物は自己の遺伝子をより残すために行動するのだと説く人もある。初期の経済学では「神の見えざる手」(アダム・スミス)を想定して、それぞれの個人が自己の利益を追求することで結果的に社会全体の利益も実現すると考えた。
 
 まあ、そんなことは置いといて、20世紀後半の政治家は「競争」が成功の鍵だとして、国民の利己心をあおる政策ばかりを推進してきた。ノーベル賞受賞者が出るたびに「基礎学問が大切」というけれど、日本政府は聞く耳を持たず大学でも「競争」を強いるようになっている。先の渡辺教授は最後に「互いに守りあおうと訴えるメッセージを、政府は出すべきだ」と述べているが、多くの国民は今さらそんなことを言われてもと思うのではないか。自分たちでは「会食」してる人たちが、そんなことを言っても心に届かないよと。
(「Goto イート」キャンペーン時の「くら寿司」)
 以前の記事で書いたように、菅内閣の政策はすべて国民の利己心をあおって「得するからやった方がいいよ」で作られている。「ふるさと納税」や「マイナポイント」が典型だ。そして「Go Toキャンペーン」も同様だった。(『「Go To」キャンペーンのおかしな仕組み』2020.12.12参照)旅行業も飲食業も大変なダメージを受けていたのは間違いない。それを国策として救済するのはいいけれど、大変な業界を社会全体で支えようというのではなく、上の画像にあるように「こんなに得だよ」という進め方ばかり聞かれた。「利己心」に基づく政策だったのである。

 コロナ対策には「利他心」が重要なのは間違いないと思うが、恐らく菅内閣のメッセージとしては伝わらないだろう。そういう考え方で生きて来なかったのだから、今さら発想を変えられない。年末年始の前にそれなのに政府も対策を出していた。しかし、現在の感染者数を見れば年末年始の国民の行動は感染を抑えるものではなかった。緊急事態宣言が首都圏に出されて10日以上経つが顕著な減少傾向は見られない。このままでは「医療崩壊」と「大量失業」が同時並行で起こってしまう可能性が高いのではないだろうか。
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菅内閣の「コロナ対応」はなぜ「後手後手」になるのか

2021年01月16日 22時13分41秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 菅内閣の支持率が下がっている。調査によっては、不支持が上回っている。最大の理由は「新型コロナウイルス」への対応だ。「後手後手」に回っている感が否めない。菅首相は1月7日に、東京・神奈川・埼玉・千葉に「緊急事態宣言」を発出した。年末までは緊急事態宣言に消極的と見られていた。その後、大阪・京都・兵庫の3府県知事が追加要請を行ったが、その時点では「数日状況を見る」と述べていた。結局12日になって3府県に加えて、愛知・岐阜・福岡・栃木に「緊急事態宣言」を出した。このような経過には「後手後手感」があるのは確かだ。

 菅首相は首都圏への発出に際して記者会見を行った。その時に冒頭の首相発言が終わった時に「これで私からの挨拶を終わります」と述べたのには驚いた。それまでの発言は「挨拶」だったのか。拡大時の二度目の記者会見は見てなかった(新しい話はないだろうと見る気になれなかった)が、何でも「福岡県」を「静岡県」と言い間違えたとか。福岡県は追加指定を求めていなかったが政府側が押し切って指定したという経緯がある。それを考えると単なる「言い間違い」と過小評価することは出来ない。

 どうして菅内閣の「コロナ対応」には後手後手感がつきまとうのか。「経済の落ち込み」「東京五輪」「(今年中には必ずある)衆議院選挙」などへの影響を恐れているということはあるだろう。しかし、ここではそのような「内容」面ではなく、政権の構造的な側面を考えてみたい。一つには「調整役がいない」ということだろう。よく言われるフレーズだが「菅内閣には菅官房長官がいない」ということだ。安倍政権末期には、事実上内政面では菅官房長官が仕切っていたと言われている。その時に始めた「Go To キャンペーン」などには「こだわり」があったと言われる。
(宣言拡大時の記者会見)
 もう一つが菅政権の権力構造が安倍内閣と違っていることだ。「安倍=麻生」政権だったものが、「菅=二階」政権になっている。菅首相が唯一気を配らなければいけないのは、二階幹事長だろう。「与党」全体ではなく、二階派を率いる幹事長個人である。菅政権を誕生させたのが、まさに二階氏だった。二階氏が「選挙の顔」として菅首相が使えないと判断した時には「政局」になる。それが判っているから気を遣うことになる。

 それらの問題もあるが、一番重大なのは「菅官房長官時代に官僚組織が萎縮してしまった」ことだと思う。今思えば首相本人も「去年秋に解散しておけば良かった」と思っているかもしれない。しかし、首相就任当時は「まず仕事がしたい」と言っていた。自己評価が高かったのである。しかし、菅首相がまずやったことは「学術会議会員の任命拒否」だった。杉田官房長官の影響力も強まっているのだろう。学術会議問題は、要するに「学問への敬意がない」から出来たことで、実際にコロナ対応でも「専門家軽視」が見られる。

 かつての自民党政権では「官僚組織が支えてきた」面が強かった。選挙で国民に向きあわない官僚組織が強すぎるのはおかしい。「政治主導」自体は正しいだろうが、安倍政権では官界を完全に支配してしまった。反対意見を上げると飛ばされるかもしれない。それを恐れて「直言」をしなくなっているという。本来なら、様々なケースを想定して、いくつもの対策を準備しておくのが官僚組織というものだろう。しかし、その機能が果たせなくなっているのではないか。事前に失敗を予想しても、それは口に出さない。「上」の指示があって初めて次の対応を考える。

 外国人入国禁止問題持続化給付金受付延長問題など、批判が出てからドタバタ的に決定されている。先を見通して「当然こうなるだろう」という判断が出来ていない。多分判っている人は黙っているのだろう。あるいは辞めていくとか。この状態は改善可能性がない。もともと「未知なるもの」への対応力は日本政治は強くない。今後も同じようなことが続くだろう。しかし、政治がどうあろうとも、日本人は「民度が高い」んだそうだから、これほどの感染増大は防げなかったのだろうか。それは次回以後に考えたいと思う。
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「アキタフーズ事件」とアニマルウェルフェア

2021年01月15日 22時34分46秒 | 政治
 2021年1月15日に、鶏卵大手の「アキタフーズ」会長から賄賂を受け取ったとして、吉川貴盛元農水相在宅起訴された。本人は心臓病で入院中で、問題発覚後に病気を理由に議員辞職していた。吉川元農水相は2018年10月から2019年9月に掛けて大臣を務め、その間に大臣室でも現金を受け取っていたとされる。賄賂性を否定しているが、政治資金報告書に記載されていない金を大臣が受け取っていたことは重大だ。
(吉川元農水相起訴を報じるテレビ)
 これで昨年から自民党国会議員の起訴は4人目になる。IR汚職の秋元司、参議院選挙に絡んだ贈賄事件で河井克行河井案里夫妻、そして吉川貴盛の4人となる。今回のアキタフーズに絡んで、西川公也元農水相(2017年に落選したが、安倍・菅内閣で内閣官房参与に任命されていた)にも資金提供されていたとされるから、事件はさらに拡大するのかもしれない。この事件は非常に重大な問題だと思うが、コロナに隠れてしまったかあまり騒がれていない気がする。

 この事件は河井夫妻事件に絡んで偶然発覚した。「アキタフーズ」は広島県福山市で始まった会社で、東京本社もあるけれど、ホームページを見ると今も福山本社も存在する。資本金9300万円、グループ全体では3億3810万円と出ている。一般的には資本金5億円以上を大企業というようなので、それほど大きな会社とは言えない。河井事件に関連してアキタフーズも家宅捜索を受けて、この裏金が発覚したというわけだ。それを考えると、政治資金報告書に載っていない資金を受け取っている政治家はもっと多いのではないだろうか。
(事件の構図)
 ただ騒がれない理由はコロナ以外にもあると思う。アキタフーズは自社の利益を求めて賄賂を贈ったのではなく、業界全体の利益を求めたものだった。しかも国内で国政をゆがめるものではなく、アニマルウェルフェアに関して国際機関の会議に向けて働きかけたものだとされる。じゃあ、その国際機関ってなんだろう。調べてみると、どうも「国際獣疫事務局」(仏語OIÉ)という機関らしい。1924年に設立され、日本は1930年に加盟した。国連機関ではないが、現在182国・地域が加盟している。本部はパリで、国際的な家畜の安全基準を定める組織である。

 僕は今調べて初めてこの機関の名前を知った。というか、存在も知らなかった。日本では普通は「ケージ」で鶏を飼っているが、それは「残酷」で放し飼いにするか、止まり木を設けるべきだということらしい。しかし、その方針は新基準にはならなかった。農水相に賄賂を贈らなくても、業界寄りの日本政府はもともと反対だっただろう。日本は国際機関で常に「人権問題」で消極的な立場を取る国だ。「人権」でさえそうなんだから、「動物の権利」なんて頭の中にないだろう。

 では「アニマルウェルフェア」(動物福祉)とはどういうものか。ずいぶん前からヨーロッパを中心にして、毛皮反対運動実験動物反対運動があった。また日本の水族館でイルカショーなどを行うことに対し、世界から批判されている。2018年に、東京五輪に向けたセーリングのテスト大会があった。新江ノ島水族館で行われた開会式でイルカショーがあって、国際連盟や有力選手から批判が寄せられたのは記憶に新しい。日本側は純粋に歓迎の気持ちで行ったのだろう。日本国内でアニマルウェルフェアの観点でイルカショーが批判されることは(現時点では)ない。子ども連れで行ける「良いもの」だとほとんどの人が思っている。
(動物の「5つの自由」)
 「アニマルウェルフェア」では「5つの自由」というものがある。
飢えおよび渇きからの自由(給餌・給水の確保)
不快からの自由(適切な飼育環境の供給)
苦痛、損傷、疾病からの自由(予防・診断・治療の適用)
正常な行動発現の自由(適切な空間、刺激、仲間の存在)
恐怖および苦悩からの自由(適切な取扱い)

 これ自体に反対する人はほとんどいないだろう。人間が自分の「愛玩」のために飼うペットの場合、飼い主が責任を持って飼育するのは当然のことで、虐待するのは犯罪だ。しかし、「牧畜」の場合はどうなんだろう。「産業」として動物を利用することを前提にしている。肉食に反対するのならともかく、僕にははっきりとは判断できない。肉と魚では違うのか。海で獲る魚は「野生生物」とみなされるのか。哺乳動物である「鯨」や「イルカ」だけが特別なのか。実験動物でも、チンパンジーとモルモットとショウジョウバエは同格なのか。判らないことが多いが、今後家畜をめぐってもアニマルウェルフェアが問われていくことだけは間違いない。もちろんどんな立場を取るにせよ、政治家に裏金を渡して影響力を持とうとするのは論外だが。
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二兎社公演「ザ・空気 ver.3 そして彼は去った…」

2021年01月13日 22時09分47秒 | 演劇
 永井愛作・演出の二兎社公演44「ザ・空気 ver.3 そして彼は去った…」を見た。(東京芸術劇場シアターイースト)ずいぶん久しぶりに演劇公演を見たけれど、緊急事態宣言と重なって観客は6割ほどという感じだった。もともと全席販売で、ネットで買ったときにはほぼ売れていた。去年の緊急事態宣言時に、国立劇場で見た桂文珍、笑福亭鶴瓶の落語会は半分以上空いてた。比べれば、まだしも入っていたと言うべきか。

 2時開始で1時間45分ほどと短い。俳優もマスクをしている。ロミオとジュリエットがマスクをしてたらおかしいけど、現代日本のテレビ局が舞台だからマスクをしてないと不自然である。「ザ・空気」シリーズは、1回目でテレビ局の「忖度」、2回目で国会記者会館屋上を舞台に「記者クラブ」を描いた。3回で完結らしいが、今回は再びテレビ局を舞台にしている。(以下、内容に触れるので、今後見る予定の人は注意。なお、当日券は売らないようだ。)

 「そして彼は去った…」と副題が付いているが、この「彼」は直接的には劇中の政権寄りの「政治ジャーナリスト」、横松輝夫佐藤B作)を意味しているが、もう一人「日本の前首相」も意味しているだろう。劇中でも「新首相」になっていて、生放送番組の「報道9」内の「激論」では「新政権の4ヶ月」がテーマである。政権批判派を呼ぶときは、必ず政権擁護派も呼ばなければいけないというテレビ局首脳の命令により横松が呼ばれた。しかし、「検温」すると何度やっても37.4度。これが笑わせる。規定内だがギリギリで、ちょっと怖いから一人だけ会議室に「隔離」される。
(永井愛)
 その会議室は数年前に政権批判で知られた桜木が自殺した場所だった。横松は桜木とは同じ新聞社の社会部で働き、その当時はジャーナリストとしての矜持を持っていた。会議室には若いアシスタントディレクター袋川昇平金子大地)しかいないので、横松は自分が何で「隔離」されるんだ、チーフプロデューサー星野礼子神野三鈴)を呼べとうるさい。そこで佐藤B作と神野三鈴の丁々発止のやり取りになる。星野はどうも局幹部によって飛ばされたようで、今日が最後の担当日。異動先は「アーカイブ室主任」で、「昇格だけど左遷」である。

 他にチーフディレクター新島利明和田正人)、サブキャスター立花さつき韓英恵)と登場人物は5人。横松は大病したばかりで久しぶりのテレビ出演。「政権擁護」の役回りだが、リハーサル中に何故か桜木が乗り移ったかのように「新首相批判」を始めてしまう。どうもおかしい、やはり病気か、どうすると混乱するうちに、横松が特ダネがあると言い始める。新首相が「日本学術アカデミー」の会員候補6人の任命を拒否した問題で、候補者の「政権批判度」の「通信簿」を作ったのは自分だ、スマホに証拠の文書があると暴露する。

 この特ダネを報じるかどうか。そこで各人の立場が浮き彫りになってゆく。下請けの立場の新島は、これで番組がつぶれたら困る。若い袋川は何か大きなことがしたい。いつも横松に「セクハラ」されている立花さつきもやっちゃえと乗り気。そして最初は大乗り気だった星野だったが…。「世代」や「働き方」による違いの中にあって、次第に大問題になってしまって星野も揺れていく。そんな星野に対して、「正義を語っていられたのは、自分のような政権擁護派がいるから、安心して批判できるんだ」と横松は語る。そして今日は帰ると言って去って行く。

 面白いんだけど、僕は2作目が一番面白くて出来も良かったと思う。今作に関しては、「新首相」がドラマの敵役としては「小粒」なのかもしれない。それに観客も今までに比べて少なく、隣との区切りもあるから少し乗りにくかった。それもあるけれど、今回の「特ダネ」自体が弱いのかなと思う。「民間人作成の文書」に過ぎず、「参考にしたかどうか」以前に「横松から受け取っているか」さえ「人事の問題なので、お答えを差し控えさせて頂く」で終わってしまうだろうと僕は予想する。それでも「日本学術会議」問題をこれほど鋭く取り上げていることに感銘した。
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「少年と犬」と「雨降る森の犬」ー馳星周の犬小説②

2021年01月12日 20時36分29秒 | 本 (日本文学)
 ノワール小説で直木賞候補に6回もノミネートされてきた馳星周(はせ・せいしゅう、1965~)は、2020年に7回目の候補作「少年と犬」でついに直木賞を受賞した。直木賞はミステリーが受賞しにくいが、今でもそれは言えるらしい。(横山秀夫伊坂幸太郎など選考に疑問を感じて、候補になることを拒否した作家までいる。)ペンネームの「馳星周」は、香港の俳優周星馳(チャウ・シンチー)の名前を逆にしたもので、やはりノワール系で受賞して欲しかったかも。

 最近では直木賞作品も文庫化まで待つことが多いが、今回は年末にまとめて馳星周の犬小説を読みたくなって買ってしまった。集英社文庫に「雨降る森の犬」(2018)という小説もあると気付いて、それも読んでしまった。結論的には「犬と少年」は確かに傑作だが、前に書いた「ソウルメイト」「陽だまりの天使たち」の方が読みやすくて感動的。「少年と犬」は「連作短編」で、一頭の犬が日本を横断して行く様が6編の短編でつながっている。「泥棒と犬」「娼婦と犬」などのように、犯罪者など裏社会を描く作品もあるから、ちょっと子ども向けには勧めにくい。

 変な言い方になるが、「少年と犬」はちょっと「ブンガク」が入っている。そこが直木賞につながってくるところだろう。「少年と犬」は東北を大津波が襲い原発事故が起こった年から10年、そして2016年に起きた熊本地震からも5年という年に是非とも読んで欲しい本である。飼い主が「多聞」(たもん)と名付けていた犬(シェパートと和種のミックス)が仙台である男とともにいる。その時点では「本名」は不明である。ICチップから「多聞」という名前が判明するのは作品の半ば過ぎである。犬はいろんな飼い主に出会って、いろんな名前を付けられる。

 飼われるたびに飼い主に幸運と癒やしを与えながら、その犬は何故か車の中では「」または「西」を向いている。初めは東北にいた犬が、次第に日本を西へとたどってゆく。その理由は何なのだろうか。「男と犬」「泥棒と犬」「夫婦と犬」「娼婦と犬」「老人と犬」と日本各地で不遇に生きる人々の暮らしに一瞬の癒やしを与えていく。しかし、飼い主は理由あって飼い続けることが出来ない。犬は山の中で食物を探しながら、西へと向かっていく。
(馳星周)
 最後の短編「犬と少年」になって、初めてすべての事情が明かされる。エンディングに向かって緊迫感が高まり、真相が判明したときには大きな感動が待っている。僕は確かに感動したけれど、でもいくら不思議な能力を発揮することが知られる犬とは言っても、この小説は不思議過ぎではないだろうか。犬小説としてはその点で疑問もあったんだけど、しかし「災害小説」という読み方も出来る。我々の心を打つのは、「」に加えて「大地震」という要素があるからだろう。

 「雨降る森の犬」は文庫本で500頁近い長編小説で、さすがに「犬小説」だけでは持たないぐらいに長く、「青春小説」という方がいいだろう。主人公は「広末雨音」という中学生で、冒頭で伯父の住む蓼科の別荘に向かうところ。父が小学生時代に死んで、その後一緒に暮らしていた祖母も亡くなった。母は若い「芸術家」と恋人と一緒にニューヨークに行ってしまった。雨音も誘われるが、何でも自分のペースで進める母を嫌っている。そこで親の残した別荘に住んで山岳写真家になっている伯父の道夫のもとで暮らすことにしたのである。

 その家には昔マリアという犬がいた。しかしマリアは死んでしまって、道夫は同じバーニーズ・マウンテン・ドッグワルテルと暮らしている。ワルテルは「犬のジャニーズ系」と言われるほどハンサムだが、「男尊女卑」の気味がある。雨音のことは自分の子分とみなして、最初は全然従わない。次第に懐いて一緒に寝たりするようになって、傷ついた雨音の心はワルテルによって癒やされていく。また隣の別荘を持っている家に、近所で噂のハンサムな高校生がいる。夏休みや連休しか来ないけれど、その「国枝正樹」という青年も親との葛藤を抱えていた。

 夏休みに道夫とワルテル、雨音と正樹は蓼科山に登る。初めは山登りなんかしたくなかった雨音だが、山と写真に魅せられた正樹とともに次第に登山の楽しさを知ってゆく。ともに親との葛藤を抱えた二人の絆はワルテルとともに深まってゆく。というような小説で、常にワルテルが傍にいる生活なんだけど、やはり小説の読みどころは「親との葛藤」がどうなっていくかだろう。しかし、犬好きの馳星周だけあって、この小説を読むことでたくさん犬のことを学ぶことが出来る。

 またこの前書いたばかりの蓼科山、その石ころだらけの頂上、雲海越しに見るパノラマ風景が重要な場所として出てくる。その暗合に驚くとともに懐かしくなった。「広末雨音」と「国枝正樹」なんて、どうも「少女漫画的命名」であるが、ワルテルが物語を救っている。二人とも貧しい暮らしではない。正樹の家は金持ち一家だから大きな別荘を持っている。「格差」「貧困」の中で困窮する子どもたちばかりではなく、この二人のように家庭環境で「精神的困窮」になっている子どももいる。金持ちに生まれるのも大変だ。「犬」と「山」はやっぱりいいなあ。
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