尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

追悼・塔和子

2013年08月29日 21時42分12秒 |  〃 (ハンセン病)
 塔和子さんが亡くなった。詩人だけど、「ハンセン病詩人」と必ず言われてしまう。それはやむを得ないことなのかもしれないが、塔和子という人は純粋に詩人として優れていた。そして生きてあるだけで多くの人を励ます、現代の日本で稀有の人だった。その詩を世界を思い出しながら、苦難の人生を偲びたい。

 新聞記事より。「元ハンセン病患者で詩人の塔和子(とう・かずこ)さんが28日、急性呼吸不全で死去した。83歳。愛媛県出身。12歳でハンセン病を患い、1943年に大島青松園に入った。短歌が好きな男性との結婚を機に詩作に没頭、61年以降、19冊の詩集を刊行した。人間の尊厳を表現し、99年、詩集「記憶の川で」で高見順賞を受賞した。2003年には、半生を描いたドキュメンタリー映画「風の舞」が製作された。」

 塔和子という詩人は、大島青松園という環境の中で生まれ、死んだ。何しろ彼女はその島の療養所で70年以上を暮らしたのである。何という過酷な隔離政策だったことだろう。大島という所は、住所で言えば香川県高松市になる。主に四国のハンセン病患者を収容した場所である。出身地は今の愛媛県西予市(宇和島の北のあたり)で、今は詩碑も立てられている。

 ハンセン病や隔離政策のことは、ここでは詳しく説明しないが、塔さんの詩は多くの人を励まし続け、記録映画になり、テレビ番組にもなった。ぼくはそれを授業で取り上げたことが何度かある。また、東京の多磨全生園にあるハンセン病資料館で2011年に「いのちの詩(うた) 塔和子展」が開かれた時にも出かけた。2冊詩集を持っているはずだが、今は1冊しか見つからなかった。編集工房ノアから出た「希望よ あなたに」。吉永小百合が推薦文を帯に書いている。これは映画「風の舞」の縁である。

 映画「風の舞」はそんなに長くないが、塔さんの詩の世界を感銘深く紹介している。2003年のキネマ旬報文化映画2位に選ばれている。そのサイトを見れば、塔和子の詩を読めるし、DVDを購入することもできる。また、「ハンセン氏病と詩人塔和子の世界」というサイトもあり、そこで詩を読むこともできる。それらのサイトに出ている詩は、一応紹介しても構わないものではないかと思うので、ここで2つ紹介しておきたい。2つに意味はない。あまり取り上げると長くなり過ぎるというだけのことである。何という深くて静かな詩の世界だろうか。僕はもっと学校の中で紹介されてもいいのではないかと思っている。教科書の中などで。国語や社会だけでなく、「いのちを考える」授業で。
 
「出会いについて」
   あのときだった
   私の中にあなたが生きはじめたのは
   そうだ
   あのときだった

   出会うこと
   全く新しいこと
   こんとんの中から浮かび上がってきて
   私の前に置かれた存在について
   私の心は
   春の光のように優しくけいれんする
   でも人は少しのものにしか出会わない
   なぜ出会わないことをかなしまないでいられるのか
   多くのものにとりかこまれながら
   出会わないで終るものが
   物質のように盲いたまま
   互いに互いの外側でありつづける
   出会うこと
   それは知ること
   それは確かめ合うこと
   そして忘却の川へ押し流される時間のために
   いつもそこからさびしいうたがはじまる
   もっと
   きびしい孤独がはじまる
   それでもやっぱり
   出会うことは素晴しいことだ
   出会ったとき私の中で生きはじめる
   新しい存在のために

   私は
   夕暮れの花のように
   やさしくひらいていたいと考える

「胸の泉に」
  かかわらなければ
    この愛しさを知るすべはなかった
    この親しさは湧かなかった
    この大らかな依存の安らいは得られなかった
    この甘い思いや
    さびしい思いも知らなかった

  人はかかわることからさまざまな思いを知る
    子は親とかかわり
    親は子とかかわることによって
    恋も友情も
    かかわることから始まって
  かかわったが故に起こる
  幸や不幸を
  積み重ねて大きくなり
  くり返すことで磨かれ 
  そして人は 人の間で思いを削り思いをふくらませ
  生を綴る
  ああ
  何億の人がいようとも
  かかわらなければ路傍の人
    私の胸の泉に
  枯れ葉いちまいも
  落としてはくれない
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「誰も戦争を教えてくれなかった」

2013年08月26日 23時31分51秒 | 〃 (さまざまな本)
 古市憲寿誰も戦争を教えてくれなかった」(講談社、2013)。いやあ、突っ込みどころはいっぱいあると思うが、まあ1800円の価値はある。是非読んでみて欲しい本。

 古市さんは東大大学院博士課程在学中だが、本を出して売れっ子になりNHKにもレギュラー出演。今日ニュース見たら、消費税増税どうする意見聴取メンバーの60人に入ってた。いや、そんなエライ役やってたの。僕は前に「上野先生、勝手に死なれちゃ困ります」を紹介し、上野千鶴子、古市憲寿師弟対談を聞きに行ったことがある。今度は戦争に関する本かあと思ったら、世界の戦争、平和博物館めぐりの旅行記で、最後に「ももクロ」との対談付き。なかなか商魂たくましい。一部で「炎上」してるらしいけど。

 この中で僕が行ったことがある場所は数少ない。東京や沖縄の博物館はある程度行ってる。知覧の特攻平和会館には行った。広島も高校生の時の人生初の一人旅で寄った。シンガポールは行ったような気がする。79年のことであまり覚えてない。韓国の独立記念館は開館当日に韓国にいたので見に行ったけど、超満員で道が動かず行きつけなかった。中国やヨーロッパ、ハワイなどはそこ自体に行ったことがない。僕も関心があるテーマなんだけど、誰かがお金を出してくれないと行けません。恵まれてるなあ。

 ハワイでたまたま戦艦アリゾナの記念館を見に行って、そこからこの平和博物館巡礼を思い立つ。そして、世界中で、博物館のディズニー化、そして決して熱心に見てはいない「連れられてきた若者」を見出している。今の国家は戦争を潜り抜けて体制を確立したという国が多い。そういうところでは、国家のアイデンティティを誇示する装置として、博物館は不可欠である。でも、展示品が並んでいるだけでは、まあ一回は見に来ても二度は来ない。箱ものを作ったら維持費がかかるし、見に来てもらう方策として、日本ではジオラマがあるくらいだが、世界各国ではゲームなど体験型博物館が増えているらしい。

 だから、巻末に「戦争博物館ミシュラン」なるガイドが付いているが、その採点の最上位は「エンタメ性」なのである。オ~ッと。それでいいのかなあ。戦争や平和を考える施設に一番必要なものは、エンタメ性ですか??他に、「目的性」「真正性」「規模」「アクセス」を採点。総合1位は、ベルリンのザクセンハウゼン記念館・博物館というところで、得点88点。日本では意外なことに、茨城県の予科練平和記念館が特別賞ということになっている。その場所の得点は64点で、点だけなら広島平和記念資料館・原爆ドームの72点の方が上なんだけど。そこはエンタメ性が一つ星だけど、目的性、真正性、規模、アクセスがすべて4つ星。予科練の方はエンタメ性が4つ星なのに、アクセスが2つ星。こういう採点にどの程度意味があるかはともかく、一応紹介だけしておくと、沖縄平和祈念資料館=68点、知覧特攻記念館=52点、遊就館=56点、昭和館=52点、東京大空襲・戦災資料センター=56点、記念館三笠=64点、アウシュビッツ博物館=84点、侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館=72点、戦争記念館(韓国)=84点、アリゾナ・メモリアル=76点…とまだまだ続くので後は本書で。

 アクセスと目的性とエンタメ性を同列で評価して意味があるのかなあ。大体エンタメ性ってあるだけで、怒り出す人もいるかも。でも、概して日本の博物館はつまらない。それは平和博物館に限らない。だから、日本人の戦争認識が確定していない、と言うだけの問題でもないだろう。この本で一番面白いのは、沖縄から平和をアピールするという場所である「沖縄平和祈念資料館」と、靖国神社内にあって日本の自衛戦争を主張していると思われている「遊就館」、実はこの2つの施設を作った業者が同じという事実を見つけたことである。「乃村工藝社」というところである。日本の多くの博物館を作っている会社で、他にもいっぱい平和博物館を手掛けている。だから、主義主張は多少違ってくるとしても、何となくどこも同じような演出空間に見える理由がこれで判った。

 僕は最初「誰も戦争を教えてくれなかった」という書名に強い違和感を持った。じゃあ、何を教えてもらって来たの?という感じである。(まあ書名は上野千鶴子さんが選んだと出てるけど。)初中等教育は、基礎基本と常識である。高校までの勉強では、戦争だけを詳しく教えないのは当たり前である。それでも「日本史A」という科目が高校に出来ているので、昔よりは学校教えているはずだと思う。それに、僕もそうだけど、大事なものはみんな自分で勉強したものだ。自分で勉強してきた日本の近現代史だからこそ、生徒にも教えられるのである。それと同時に「家庭教育」でも戦争は教えられていないと思うが、親が戦争未体験世代になってると言うだけの理由でもない。親がいろんな問題にはっきりした意見を持っているという方が少ない。「ひと様に迷惑をかけないように」が親の教えで、つまりは「多数派が何なのかを見極めて、多数派の一員であってほしい」ということである。近現代史に入れ込んで、戦争に詳しくなって貰っても困るのである。でも、一応テスト前には覚えるべきことは覚えるけど、それはすぐ忘れる。歴史に限らない。どの教科であっても同じ。

 戦争のあり方はどんどん変わっている。「命の大切さ」で平和教育なら、ロボット同士で人命が失われない戦争ならいいのか。そうなりつつある社会を描く最終節が刺激的。「ももクロ」のところは自分で読んでください。僕の感想は一言で言えば、懐かしかった。知識レベルはメチャクチャだけど、やる気と素直さが取り柄っていう生徒をずっと教えてきた。そういう人々が日本を支えている。このような若い世代を相手に教える教員の苦労を考えて欲しい。でも、こういう子たちと文化祭やったりするのは楽しそうでしょ。そうなんだよね、それが面白いなんだなあ。
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飛鳥山散歩と渋沢栄一

2013年08月25日 23時20分21秒 | 東京関東散歩
 東京都北区の王子駅前にある飛鳥山(あすかやま)は、江戸時代から桜の名所として知られてきた所だけど、僕は行ったことがなかった。自分の家からは、もっと桜がいっぱいの上野公園や隅田公園が近かったからである。でも、そこには戦前に渋沢栄一の邸宅があり、タゴールや蒋介石も訪れた場所だった。空襲でほとんど焼けたが、小さな建物が2つほど残り、国の重要文化財に指定されている。近代の重文建築は、東京では非常に貴重なので是非一度訪れたいと思っていた。今日は暑くなくて散歩日和だから…ではなく、栄一の孫の渋沢敬三の誕生日で無料なので、行ってみることにした。(ま、300円なんですけど。)重文の建物は、青淵文庫(せいえんぶんこ)と晩香慮(ばんこうろ)。こんな感じ。
 

 で、僕の家からはいろいろな行き方がある。でも、まあ都電でしょ、やっぱり。唯一の都電(東京の路面電車ですね)、荒川線は三ノ輪橋-早稲田間を結んでいる。早稲田や三ノ輪はまた別に散歩記を書きたいんだけど、今日は「貸切都電」というのが停まっていたので、写真をちょっと。三ノ輪橋停留場は、オロナミンCやボンカレーのホーロー看板が今も残っている不思議な場所である。広告の顔が誰か、もう知らない人が多いかもしれない。(大村崑と松山容子)
   
 さて、都電は王子を過ぎるところ(というか早稲田から来れば手前)に大カーブがあり、これが有名。つい飛鳥山まで乗ってしまったが、飛鳥山ではなくて王子の方が良かった。歩いて戻る。というのも、もう一つ乗りたいものがある。ケーブルカーみたいなモノレール、あすかパークレールという無料の乗り物が2009年に出来たのである。飛鳥山はこんなものがなくても登れるけど、まあタダだし。たった2分で山頂へ。他の客はいない。前を見てると、山の観光地に来た感じもちょっとする。
  
 山頂駅まであっという間で、後は水平の道をずっと歩いて行く。碑がいろいろある。まず1881年に建てられた、幕末の佐久間象山が詠んだ桜賦の詩碑。もう少し行くと、飛鳥山の碑。1737年というずいぶん昔のもので、飛鳥山に将軍吉宗が桜を植えて整備したなどと書いてあるらしい。けれど、江戸時代から漢文が難し過ぎて花見の庶民にはチンプンカンプンの碑として有名だったということである。北区のサイトに細かな解説がある。園内はちょっとした山の風情。
  

 もう公園の終わりの方に三つの博物館エリアがある。「紙の博物館」「北区飛鳥山博物館」「渋沢資料館」である。何で「紙の博物館」がここにあるかというと、王子製紙があったからである。明治初期に渋沢栄一が作った。東京西部の玉川用水を、さらに練馬、板橋から王子まで引いた千川用水といううのがあったのである。それを利用して、抄紙会社(後の王子製紙)や大蔵省紙幣寮抄紙局(今の印刷局滝野川工場)が作られた。しかし王子工場は空襲でほぼ壊滅、唯一残った建物を「紙の博物館」にしたのが、今は飛鳥山に移ったという歴史がある。王子製紙という会社は知ってるけど、今の王子には工場もビルもないから、今まで全然意識しなかった。
 
 さて、渋沢資料館。(上の写真。右は資料館2階入り口の渋沢像。)ここはとても面白い博物館だった。僕はほとんど全然渋沢栄一(1840~1931)を知らないので、とても感心してしまった。幕末にパリの万博に派遣された話も面白いが、何と言っても日本初の銀行はじめ、無数の会社を作った人なのである。数字が付いてる銀行が今もあちこちにあるが、「第一銀行」(今の「みずほ」)は渋沢である。他にあげてみると、先の王子製紙、さらに東京ガス、東京海上火災、秩父セメント、帝国ホテル、サッポロビール、東洋紡績、帝国劇場など、非常に多彩。その分野で日本初の会社というのが多い。しかも、それらで得た利益は社会事業や教育につぎ込んでいる。商業教育や女子教育、社会福祉や国際協調などに活躍してるんだから、すごく「進歩的」である。会社経営を引退しても、福祉や教育は引退していない。90歳近くになってから日本女子大校長、中央盲人会会長、癩予防協会会頭などを引き受けている。日米親善のため人形を送るというのも渋沢栄一の活動。大正、昭和初期の古稀(70歳)を過ぎた老人が、驚くほど若々しく、未来を考えている。いやあ、これはすごい人ですね。

 栄一の孫、渋沢敬三(上のチラシの人)が後継者となるが、彼は会社経営から、日銀総裁や大蔵大臣を務めた。さらに柳田國男に師事した民俗学者として著名で、ぼう大な民俗資料を収集し、著述も多い。今は民俗学の巨人として多くの人を育てたことが最大の業績として有名だろう。そういう後継者を育てたということこそ、渋沢栄一の特徴かもしれない。敬三の没後50年ということで、今は敬三の号、祭魚洞(さいぎょどう)にちなんだ「祭魚洞祭」という企画を行っている。連続講座もあるし、また無料日もあるので、くわしくはホームページで。

 さて、近くに重文の建物があり、資料館開館時はそちらも見られる。どっちも小さな建物で、東京に残る洋館、旧岩崎邸や旧前田邸などを期待するとガッカリするが、細部までこだわった美しい建築に小さいながら満足できる。まず、晩香慮(ばんこうろ)だが、1917年に栄一喜寿を祝って現在の清水建設が贈ったという、1階しかない小さな建物だが、談話室に当時の面影が残る。中は写真が撮れないので、外だけ。中の様子は貰ったパンフを載せておく。
 
 一方、青淵文庫は1925年に、傘寿(80歳)と子爵になった記念(それまで男爵、ちなみに財閥当主は男爵止まりに対し、社会活動が認められ渋沢栄一だけ子爵に栄進できたらしい)で贈られたもの。「文庫」というのは、もともと徳川慶喜伝を作るための資料や栄一の思想的バックボーンの「論語」関係書籍を収めることを目的にしたから。でも本は関東大震災で焼けてしまい、もっと早く出来ていれば良かったと残念に思ったという。ここは2階があるが見られない。内部はフラッシュなしなら写真も可。ここも細部が素晴らしい建物で、とても気持ちがいい場所である。裏から見ても素晴らしい。この2つだけでも残ったのが、大変貴重である。とても大事な場所だと思うが、東京でも知らない人が結構多いのではないか。一度は是非。
   
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才教学園ケース-教員免許法違反事件

2013年08月25日 00時34分41秒 |  〃 (教育行政)
 教師になることのできる資格は「教育職員免許法」で決まっている。それに違反すると「教育職員免許法違反事件」ということになるけど、ほとんどの教員はそんなケースを見聞きしたことがないと思う。それが今月だけで2つも報道されている。そのケースをもとに、教員免許というものを考えてみたい。

 多くの教師がなんで教員免許法違反事件を知らないかと言えば、そんな事件はほとんどないからである。何かの問題に関与して、懲戒免職になる教師はいる。教師というのは、地方公務員がほとんどで、学校法人職員(私立の場合)や国立大学法人職員(独立行政法人の一種で、昔の「国立」)もあるけど、いずれにしても雇われて働いている。だから教員を雇っている側の懲戒規定に基づき、一番重ければ免職ということがある。そのことはもちろん意識している。

 でも、雇われてる条件である教員免許そのものについては、あまり意識していない。(教員免許更新制度ができたことで、免許の更新は意識せざるを得ないけれど、それはまた別。)免許法によれば、実は公立学校の教員が懲戒免職または分限免職(の大部分の場合)になれば、教員免許の方も自動的に失効する。それは官報に掲載される。でも、懲戒免職になるような場合は、新聞に載ったりするから、また教員試験を受け直すとか、非常勤職員に応募するとかは普通は考えにくい。

 さて、一つ目のケースはかなりレアだと思うけど、いくらなんでもこれはひどいと思う。福岡の中学で勤務していた時に児童買春・ポルノ禁止法違反容疑で有罪判決を受け教員免許が失効。それを隠して、山口市の私立高校に非常勤で勤務し、2010年に山口県教委から免許再交付を受けた。しかし、交付前から無免許で勤務していたことが発覚して再交付分も失効。しかし教員免許を返納せず、今年4月に埼玉県秩父市内の中学校で臨時教員となるも、保護者から学校への問い合わせで発覚。県教委は4月12日に採用無効を決定、5月1日に免許返納を求める文書を発送したものの、返納する前の5月上旬に群馬県の臨時教諭に採用された。免許返納に応じたのは20日だった。結局、群馬県の小学校で1学期間教えたという。この場合は悪質であるとして逮捕、再逮捕されている。(群馬ケース、埼玉ケースで別に逮捕。)

 何と言うか3県を渡り歩いた無免許教員で、こういうケースは前代未聞だろう。では、免許そのものはどういう時に失効するのか。この人の場合、最初は懲戒免職だろうから、その時点で失効するから、他のことは普通考えない。でも法律にはちゃんと規定されていて、「禁錮以上の刑に処せられた者」には免許を交付しない。これは弁護士や医師なども同じである。「禁錮以上」というのは、「執行猶予付きの懲役」も入るが、「罰金」は入らない。教員の場合、執行猶予でも報道されることが多いと思うが、道路交通法違反でも悪質(無免許など)なら起訴され執行猶予付の懲役または禁錮になることはある。その程度の事件なら新聞に載らないし、誰も気づかないまま勤務してて、そのうち発覚するというケースが稀にある。

 だけど、ある意味では、このケースを見ると、地方では教員の成り手がいないと言う現状をうかがわせるのではないか。もともと正教員がいれば非常勤を雇う必要がない。群馬では担任してたらしいけど、その学校に他に正教員はいなかったのか。義務教育費国庫負担が2分の1から、3分の1に減らされて以来、(2005年度からの小泉内閣「三位一体改革」である)、地方では非常勤教育職員が増えているという話である。「非常勤公務員」というのは、待遇的にとても恵まれていないし、交通の便が悪い地方では成り手を探すにも大変なんだろうなあと推測される。だからこそ、すぐに次の学校が見つかったわけだろう。

 もう一つは、長野県松本市の才教学園という小中一貫校のケースである。2005年に開校した私立学校だが、ウィキペディアによれば構造改革特区に申請して作られたらしい。またウィキペディアには興味深い指摘が幾つかある。小学校1年から英語をやっているとか、卒業生の半分が松本深志高校に進学してるとか。(中学も最初から募集したから卒業生が出たということだろう。そうじゃないと、05年に小学生に入学した生徒はまだ中3のはず。)また「小学校が20学級315名、中学校が8学級151名」(昨年5月段階)とも出てるから、ものすごい少人数学級である。ウィキペディアばかり引用してるけど、それは「才教学園ホームページ および さいきょうダイアリーサイトは、児童生徒の写真が多数掲載されているため、影響を考慮し、しばらく閉鎖させていただきます。」ということで、学校側のデータは見られない。

 その掲示が載ってるサイトには、「必要な免許を有しない教員がクラス担任をする、あるいは教科を担当して教えるという教育職員免許法に違反することをいたしました。」とおわびが書いてある。ここのケースはもうこの言葉につきている。現在長野県警が捜査に入っている。免許法第22条「第三条の規定に違反して、相当の免許状を有しない者を教育職員に任命し、又は雇用した場合には、その違反行為をした者は、三十万円以下の罰金に処する。」という条項に該当するということだろう。

 小中一貫校だから、小学校免許、中学校免許をそれぞれ持ってないものがいて、お互いに担任したり、授業を受け持っていたということである。校長は免許法を知らなかったなどと言ってるらしいが、ニュースで見た教頭の説明では県に出す書類は書き換えて免許法に合うようにしていたという。免許のことを知らない校長がいるとは、僕には考えられない。中学と高校の免許は、普通同時に取れる。(「道徳教育」の単位を大学で落とすと、中学の免許が取れない場合もあるが。)つまり、中高は教科担任制だから、歴史だの数学だの、まず教科の専門の勉強をして、その上に教職に関する講座を取る。一方、全科を担当する小学校教員は、教育学部など教員養成系の学部に入るのが普通である。だから中高免許は一緒に持ってるけど、小学校免許は独自である。これを知らない教育関係者がいるとは考えられない。

 この学校のようなケースがなぜ起こったかは僕にはよく判らない。でも、これが示すものは何か。要するに、免許は必要ないのではないかという思いである。医者になるには確かに専門知識と専門技術がいるだろう。でも、親は子供に算数を教えたりできるし、子どもの生活指導もする。塾や予備校で教えるのに免許はいらないし、専門性と言っても親も高校までは大体出てるんだから、自分が勉強した範囲のことである。学校の地域性はいろいろだし、生徒も千差万別である。同じように教えられるというものではない。大学出たての新米教員より、免許がなくてももっと頼りになるという人がいっぱいいるだろう。熱意があれば、免許の有無より大事なものが生徒に伝わるとこもあるのではないか。でも、まあ法律に罰則もある以上、問題になるのは仕方ないだろうなあと思いつつも。(なお、東京都は「小中高一貫校」を作るという方針を明らかにした。「4・4・4」に分けるという。その意味はないわけではないと思うが、現行規定では、真ん中の「4」は小中の、最後の「4」は中高の免許を持つ教員がいないと成り立たない。大丈夫だろうか。)

*2013年12月26日、松本区検(長野地検松本区検察庁)は才教学園の元理事長と元教頭を起訴猶予処分にした。「元」が付いていることで判るように、退職して「社会的制裁を受けた」ことや「免許法違反はあったが、免許そのものがない教員がいたわけではない」ことなどが考慮されたという。また長野県は同学園に対して補助金計7100万円の返還を求めている。今後加算金1500万円ほども請求される見込みという話である。
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「暗殺の森」とベルトルッチの映画

2013年08月21日 23時50分19秒 |  〃 (世界の映画監督)
 キネカ大森で、ベルナルド・ベルトルッチ(1941~)の2本立て、9年ぶりの新作「孤独な天使たち」と「暗殺の森」。「暗殺の森」は、もう2回か3回見てるが、何度見ても素晴らしいので書いておきたい。(僕の映画鑑賞回数は映画館で見たもののみをカウントしている。)

 ベルトルッチは前作「ドリーマーズ」(2003)というフランス五月革命を背景にした青春映画を作ったあと、病気で映画が撮れなかった。(その映画は彼のどの映画にもまして愚作だった。)9年ぶりの新作「孤独な天使たち」は、ニコロ・アンマニーティの新作小説の映画化。アンマニーティは10年位前に公開された映画、「ぼくは怖くない」の原作者である。人となじめない14歳の少年が、学校のスキー教室に行くふりをして、地下室の一室にもぐりこむ。そこには電気やベッドもあり、孤独な一週間を過ごす心づもりだったけど、突然異母姉がちん入してくる。しかも彼女は薬物中毒だった。人間関係に問題のある少年と、薬物中毒の写真家で複雑な家庭環境がある姉の意図せざる同居。その一週間の終わりが映画の終わりでもあるが、新聞に載った書評を読み直したら、小説の方は10年後の驚くべき再会というのがあるらしい。大傑作ではないが、まあ面白い作品。

 ベルトルッチはイタリアの監督だけど、パリで撮った「ラスト・タンゴ・イン・パリ」(1972)が大評判になり(「芸術ポルノ」としての評判とも言えたが)、「ラスト・エンペラー」(1987)でアカデミー賞受賞と世界で活躍してきた。しかし、世界的にヒットする映画は大体つまらないもので、多くの映画監督のおちいるワナにベルトリッチもはまってしまう。以後は大した作品がないのである。結局、ボルヘスの映画化「暗殺のオペラ」から超大作「1900年」までの1970年代が、ベルトルッチの全盛期だと言えるだろう。

 中でも「暗殺の森」(1970)、これが最高傑作だと思う。日本で1972年に公開された時はロードショーされず2番館の公開だった。(当時の外国映画は、上映期限未定のロードショーを行う1番館とロードショー公開後の映画を上映する2番館があった。2番館終了後が名画座になる。)そのような扱いを受けたが、一部で大評判となった。当時のベストテンでも日本初公開の監督ながら、16位に入っている。(ベスト3は「ラスト・ショー」「フェリーニのローマ」「死刑台のメロディ」で過大評価気味、10位以下に「ダーティハリー」「脱出」「暗殺の森」などが並んでいる。)僕は多分翌年になってどこかの名画座で見て、よく判らないながら、映像美と刺激的な主題に大きな興奮を覚えた。

 この映画は時間が入り組んでいるうえ、人物も複雑に絡み合っている。また当時のイタリア政治状況が判っていないと理解できない部分がある。だから一見すると難解な映画に見えるし、心理的、思想的に深読みしたければ、いくらでもできそうである。簡単に言えば、少年時代のトラウマから「大勢順応主義者」となり、ファシスト政権の秘密警察で働くことになった青年(ジャン・ルイ・トランティニャン)が、新婚旅行を兼ねてパリを訪れ、反ファシズム運動の中心者である昔の恩師夫妻を暗殺する。それが主筋で、冒頭からその場面だが、その後昔の場面に戻っていく。時間順に戻るわけではなく、モザイク状に様々なエピソードが羅列されるので、見る者が自分で再構成していく必要がある。

 一つ一つのシーンは凝った構図シンメトリカルなセット流麗なカメラワークで撮影されていて、イタリア未来派、表現主義、シュールレアリスム、あるいはそれらが底流で合流したと言えなくもないファシズム建築の「官能的魅惑」が画面に満ちている。紛れもなく「ファシスト青年の空疎な内面」を告発する反ファシズム映画なんだけど、同時に性や暴力をめぐるスリリングな思考実験でもあり、官能に満ちた映像美に浸る映画でもある。この映画の中には、70年当時に大きな意味を持っていたファシズム、狂気、同性愛、テロリズム、性的自由などの問題が散りばめられている。こういう「危険なアイテム」を満載して、しかもそれを思入れたっぷりの映像美と構図で描き出す。

 「盛り込み過ぎ」の趣向は大失敗に終わる場合も多いけど、この映画はテーマの問題性と映像美が密接に結びついて成功している。名場面は数多いが、パリで主人公と教授が夫婦4人で食事をして(中華料理店で箸でチャーハンを食べる)、その後ダンスホールへ行く場面が印象に残る。窓に赤い縁取りがある建物の中で、教授の妻(ドミニク・サンダ)の黒い服と主人公の妻(ステファニア・サンドレッリ)の白い服が交差しながら女同士で踊るシーンの美しさ。教授の妻は主人公と前に会っているようで、また両性愛らしく、主人公とも主人公の妻とも関係を持つ。彼女はバレエ教師でもあり、反ファシズム運動家の妻でもある。この複雑な役柄を、ドミニク・サンダが稀にみる官能的魅惑で演じていて、主人公夫妻と観客を虜にしてしまう。

 しかし、暗殺の実行時に彼女はいない予定だったのに、何故か教授と一緒にいて目撃者は抹殺ということになる。助命を懇願するが主人公は黙殺し、教授の妻は森を逃げ回り、ついに殺害される。このシーンも忘れがたい名シーンである。また、主人公が母親の家を訪ねて母の愛人の運転手を「始末」した後の枯葉を追って流れる映像、狂気になって精神病院にいる父親を訪ねるシーン、ムッソリーニ失脚後のローマを歩き回るシーン、新婚旅行でパリへ行く途中の列車のシーン(ダニエル・シュミットの「ラ・パロマ」を思い出させる)など、美しいと同時に心を震わせるような危うい精神性に満ちた映像。このように、美しくも危険な映画という感じが全篇に漂っているのである。

 主人公は「大勢順応主義者」(原題)として生きていくが、心の中は常に空疎で、殺人を何回か犯す(と思い込む)が罪の意識はない。その代りに「真の愛情」も持てない。大事な場面では常に、卑怯、臆病、裏切りを選択してきた人生である。それは「父の狂気」を恐れる潜在意識から来るのかもしれない。「父なき時代」に彼はムッソリーニと言う「父」を支持し、(自分の卒論を担当せずに亡命した)恩師を抹殺する。ムッソリーニがいなくなれば、またファシズムを平気で否認する。その順応性はどこから来たのか。一方、彼の女性関係には「母」と「娼婦」しかいないという理解もできる。心理的な背景と同時に、思想的な問題設定も見逃せない。彼が少年時代に殺してしまったと思い込んでいた男は、実は生きていたらしい。ラストにそれが判明し、彼の半生の偽りはすべて覆るところで終わる。それは同時にイタリア現代史の偽り(ファシズム体制)が覆るのと同時だったのである。

 この映画の原作はイタリア近代文学の巨匠、アルベルト・モラヴィアの「孤独な青年」(角川文庫でかつて刊行された時の表題)。小説は映画のように時制が入り組んでいるわけではなく、「孤独な青年」がファシズム体制に同調し利用されていく様がリアリズムで描かれていた。モラヴィアは若くして発表した「無関心な人びと」や、ゴダールが映画化した「軽蔑」で知られている。今簡単に読めるのはこの2作だけだと思うが、他にソフィア・ローレン主演で映画化されアカデミー賞主演女優賞を取った「二人の女」などがある。かつて主要作品は角川や早川で文庫化されていた。僕は大好きで、ほとんどを読んでいる。原作を読めば、作品の構図は判りやすくなると思う。しかし、若きベルトルッチは原作を換骨奪胎して、時間をバラバラにして、あえて判りにくくして、魅惑的な映像美学を披露した。これが才気というもので、判りにくいと思った人は何回か見直してほしいと思う。映像美を堪能できるとともに、人生の肝心要の時に「自分らしく生きる」ことの大切さを痛感することができると思う。
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記録映画「陸軍登戸研究所」

2013年08月19日 23時32分15秒 |  〃 (歴史・地理)
 渋谷のユーロスペースで上映されている長編記録映画「陸軍登戸研究所」を見た。戦争の裏面を追求した映画で、人間ドラマの面もあり、多くの人に見て欲しい映画。2012年度キネマ旬報文化映画ベストテン第3位に入選している。ただし時間が3時間もあり、ちょっと長いなあというのが正直な感想でもある。30日まで一日3回、9月6日まで一日2回上映予定。
 
 「陸軍登戸研究所」は川崎市多摩区(現在の地名)にあった陸軍の秘密戦、諜報戦のための研究所である。「登戸」は「のぼりと」と読む。広大な敷地を持っていて、現在は明治大学生田キャンパス(農学部)になっている。生田キャンパスのあちこちに当時の建物が残っていたらしいが、だんだん取り壊されていき、保存運動も起こった。2010年に「明治大学平和教育登戸研究所資料館」として整備され、保存とともに平和教育に役立てられる場所となっている。

 映画はまず研究所設置の時代背景と研究所の機構を説明する。第一次世界大戦以後、戦争の歴史は新しい段階、つまり「総力戦」の段階に入った。科学力が戦争を決める時代、いわゆるABC兵器(A=原子力=アトミック、B=生物(細菌)兵器=バイオ、C=化学(毒ガス)=ケミカル)の時代である。日本でも毒ガスや細菌兵器が開発され、日中戦争で実戦に使用された。しかし、ここで研究されていたのは、何というかもっとSF的と言うか、奇想天外な兵器が多い。例えば「怪力光線」とか「スパイ用カメラ」などである。「怪力光線」は電子レンジの兵器化みたいなもので動物段階ではある程度実現していたらしい。また青酸系の新毒物も開発され、中国で捕虜などに「人体実験」したという。こういう恐るべき開発をしていた場所なのである。そういうことが数々の証言で明らかになっていく。

 しかし、一番「実用化」されたのが「風船爆弾」と言えるだろう。何しろ関係者がいろいろいて、この映画でも半分ぐらいは風船爆弾関係の証言ではないか。簡単に言えば巨大な風船を作るわけだが、なんしろ巨大で日劇(今の有楽町マリオンのところにあった巨大劇場)や国技館、東京宝塚劇場なんかは風船爆弾用に軍に接収されてしまった。和紙をコンニャクのりで貼りつけていくのだが、これは女学生の過酷な労働が支えていた。放すのも大変で、事故が起こって死者も出ている。偏西風に乗せてアメリカまで届けようというわけだが、どんどん上に上ると気温が下がり風船もしぼんで下に下がる。そうすると載せてあったバラストを捨てて上昇するような装置が付けてあった。それは当時の最新技術だったそうで、ただの巨大風船ではなかった。実際にアメリカに達して死者も出た。唯一、アメリカ本土で住民に戦争犠牲者が出た出来事だった。しかし、言っては何だが、それだけのことで秘密兵器だの、最終兵器だのというほどの「成功」でもないだろう。ただ、原爆製造工場へ通じる送電線を切ったため、原爆の完成が3日遅れたという話である。

 次に「成功」したのが、中国(国民政府)の贋札作りである。中国以外も作ったと言うが、一番の目的は蒋介石政権の経済かく乱である。これも関係者がたくさん出てきて、ずいぶんあけすけな証言をしている。技術の問題であることと、直接に死者を出すような作戦ではないということから話しやすいのかもしれない。香港占領後は、本物の印刷機を押さえたため、「本物の贋札」を作っていたらしい。戦後になっても戦犯指定はされず、かえって米軍に協力を求められたという。どうやら朝鮮戦争で、中国、ソ連、北朝鮮などの秘密書類(パスポートなど)を偽造していたらしい。

 こういうような戦争裏面史が証言により次々と語られていく。もともとは監督の楠山忠之が日本映画学校で課題に取り上げたのをきっかけに、7年越しに取材を重ねた映画である。取材対象を見つけるのが大変だったと思うが、特に「陸軍登戸研究所の真実」という本を書いた伴繁雄という当時の研究所で活躍した人物がいて、その後妻の方が出てきて、何回か取材に応じている。夫の中に過去に苦しめられる姿を見つめ、やがて本人の意識も変わっていく。そういうドラマが重い感銘を残した。若い学生が取材者となって活躍してるので、若い人も是非見て欲しいと思う。

 僕はこの資料館を2010年に見学したことがある。勤務校の「短期集中講座」で「社会科見学」という講座を作ったので、主に授業で行く場所を探すというのが目的だった。夏休みに行ったのだが、これが結構遠く、小田急線生田駅から徒歩10分と言うけど、それは無理。小高い丘になっていて無線などに有利だからここが選ばれたというだけあり、夏の猛暑時期には行きつくのが大変だった。(向ヶ丘遊園駅からバスもあり。)

 実際に見た感想としては、戦争の裏面と言うのも貴重だけど、「これでは勝てない」ということだった。敵が原子爆弾を開発しているときに、風船爆弾をいくら作っても勝てるはずがないではないか。勝ち負けというよりも、この「絶望的なズレ」が世界と日本の間にあるということだ。怪力光線もそうである。日本はそれを「直接兵器」にすることしか考えなかった。しかし、電波の利用法はまず「レーダー」である。アメリカは第二次大戦中に実用化していく。日本も光線で殺人するなんて考えるヒマがあったら、レーダーの開発を進めるべきだった。このように「戦略的発想」がなくて、「戦術」をアップすると言う考えしかない。これは今の日本にも残るマイナス面ではないだろうか。そういうことを考えさせられた場所である。

 この資料館は水曜~土曜しか開いていない。しかし、今秋には「731部隊展」もここで開催される。また夏の間、9月21日までの土曜日に、特別な見学会が開催されるとある。詳しくはホームページに出ているので、一度訪れて見るべき場所だと思う。
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「さよなら渓谷」と吉田修一原作映画

2013年08月19日 00時59分01秒 | 映画 (新作日本映画)
 「さよなら渓谷」を見たので、その感想と原作の吉田修一に関して。大森立嗣監督、真木よう子大西信満(しま)主演の「さよなら渓谷」は、モスクワ映画祭審査員特別賞を受賞した。そのことが示すように今年度屈指の力作だと思う。でも、映画の内容は相当に重く、なかなか分かりにくい部分もある。しかし、筋は原作通りで、だから原作の設定そのものの持つ難しさがあるということである。映画はよく頑張って、原作よりも考えさせる出来ではないか。

 今年は沖田修一監督による「横道世之介」もあった。これも大傑作で、映画も面白いが吉田修一の原作はもっといい。映画のキャスト、高良健吾、吉高由里子がとてもはまっていた。原作のイメージのままスクリーンに登場した感じである。ある種の悲劇でもあるが、見る者すべてにハッピーな思い出を残す「横道世之介」という青年。その青春を大学入学1年目にしぼって描いたのが原作であり、映画もそのままの構成。ただし、どうしても映画の方が端折っているし、原作の感動の方が深いような気がする。でも、どっちにせよ今学生の世代には、30年前の青春のありようとその後、に是非接して欲しいと思う。

 吉田修一(1968~)は、長崎出身で大学は東京の法政大学。97年に「最後の息子」で文學界新人を受賞。2002年に「パレード」で山本周五郎賞、「パーク・ライフ」で芥川賞を受賞した。僕はこの頃はよく読んでいて、都会的な感性と長崎の風物詩が同居し、純文学でありながらエンターテインメントとしても読める趣向が面白かった。でも、そうした「都会的感性」を生かした若者小説に、少ししたら飽きてしまった。2007年になって、殺人事件をテーマにした新聞連載小説「悪人」が大評判となった。この頃から、なんだか新しい段階に入ったようである。
 
 映画化作品はいくつもあるが、作者本人も映画好きらしく、小説にも映画が出てくるが、自分でも監督をしたりしている。「7月24日通り」やテレビドラマは別にして、最近の映画化作品は重厚な成功作が多い。まず「パレード」が行定勲監督で2010年に映画化、ベルリン映画祭で国際映画批評家連盟賞を取っている。同じ2010年に「悪人」が李相日監督が映画化、キネ旬ベストワン、毎日映画コンクール大賞を取り、主演の深津絵里がモントリオール映画祭で主演女優賞を獲得した。これは福岡で起こったある殺人事件を、被害者、加害者、その周辺の家族、友人関係などをきめ細かく描き、現代社会を深く描いた作品である。この「悪人」はまれにみる映画化成功作で、実際の風景やすぐれた役者による演技がいかに物語を感銘深くするか、あらためて感じる。もちろん原作は原作で、文字を通して深く考えさせるという効用があり、両者の違いを考えることができる。

 「横道世之介」は2008年に毎日新聞に連載された青春小説で、「さよなら渓谷」は2007年に週刊新潮に連載された犯罪小説。単行本化はそれぞれ連載の翌年となっている。「悪人」は暗さの中に救いがなくもない。「横道世之介」は人間への信頼(しかし人の世には別れや行違いはあるのだが)をベースにしている。一方、その間に書かれた「さよなら渓谷」は一番救いのない暗いストーリイとなっている。どこまで筋を書くは迷うところだが、映画の宣伝にある範囲は書いておいていいだろう。基本的には原作通りなので、事前に読んでいれば筋は判っている。僕は読んでいたので驚きはないが、知らないでみるとかなりドキドキして驚くのではないか。

 ある地方のアパートの一室、今まさにセックスしている男女。そこにトントンとたたく音。隣室の女が宅配便の受け取りを頼んでくる。その隣室の女は、最近子供が死亡し、それが女の仕業ではないかと疑惑がふくらみ、今マスコミが取り巻いている最中だということが判る。そして、その女はやがて逮捕される。それが主筋かと思うと、違う。その隣室の女は、隣の男と性関係があったと警察に言ったらしい。そこで男も事情聴取となる。この男とは何者か。そこで雑誌の記者、大森南朋と鈴木杏が洗いはじめる。男は大学野球で活躍した選手だったらしいが、なぜか4年の時に中退している。同時に中退している部員が4人いる。そこには何があったのか。大学の部室で集団レイプ事件があったらしいのである。ではその時の被害者はどうなったのか。

 「普通に見える夫婦」として出てきた二人は、実は「残酷な事件の被害者と加害者だった」とキャッチコピーにある通りである。どうしてそうなったのか。他の人生はなかったのか。それぞれにとって。この「犯罪被害者」と「加害者」の関係という映画は、成瀬巳喜男「乱れ雲」とか、小林政広監督「愛の予感」などもあるが、このように直接の「加害-被害関係」の両者を描いた物語は記憶にない。小説で書いてもなかなか納得できる展開にならないだろうし、僕も原作の方には少し無理なものを感じたのである。

 映画で見ると、生身の俳優が演じているという点、およびほとんどがロケで撮影されているので、背景の風景が大きな意味を持ってきて、この物語を成立させているように思う。だから映画の方が僕には納得できた。被害女性も幸せではない道を歩み、加害男性もどんどん転落していき、「一緒に不幸になる」道以外にはない所に追い込まれている。ここには安易に他人が口をはさめない、人生の深い闇が開いていて、ではそうすればよかったのか。それは最初に「事件」が起きなければいいのだが、そしてそこを考えるのが一番大事なのかもしれないが、起きてしまった後では他にどういう道筋があるのか。こういう風に、うっとうしい映画も珍しいくらいだが、「横道世之介」の青春の隣に、こういう青春もありうるのである。夏の暑い渓谷の自然、冬の海辺の寒々しい自然、人間を取り巻く自然の存在感が印象的だった。

 監督の大森立嗣(たつし)は、舞踏家、俳優の麿赤兒の長男で、つまりこの映画に出演している大森南朋の兄にあたる。2005年に「ゲルマニウムの夜」(原作花村萬月)で監督デビュー。「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」(2010)、「まほろ駅前多田便利軒」(原作三浦じゅん)(2011)などがある。今年はすでに「ぼっちゃん」を公開しているが、これは秋葉原事件をモデルにした映画。こうして見ると、犯罪映画に傾いているし、犯罪と人間を追求しようと言う映画が多い。この国の暗部を描くとも言えるが、それよりも人間存在の闇のようなものを描いている。今年の2作を見れば、こういううっとうしい映画をよく連続して作れるなと感心してしまうような…。でもここから目をそらさずに、見つめることも大切だろう。
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8・15の神保町-マンガと日の丸

2013年08月15日 22時22分23秒 | 社会(世の中の出来事)
 神保町で本を買って映画を見ようと出かけた。ついでに小学館ビルを見て行こうかな。小学館はビルが解体工事になるという。その前に壁に有名漫画家が「落書き」して大評判になってると言う。残念ながら中に入れないけど、外から見るのも撮るのも自由、ネットに載せるのも自由ということである。小学館ビルは、神保町交差点の岩波ホールから白山通りを南へ行ったところにある。

 いやあ、いるいる。いっぱいいるではないか。でもガラス窓越し、及び人の頭越しで見るからなんだか全然判らない。でもまあいいや、この人ごみを見るということで。何か中へ入っている人もいるけど、普通の人は外からのみ。人気漫画家25人と言うけど、中に入れないと見えない人もある。僕は漫画家に詳しくないので、他の記事を引用すると「描かれているのは、ピカチュウや「YAWARA!」の猪熊柔、「名探偵コナン」の江戸川コナンなどが描かれており、中には「グラゼニ」(講談社)や「ケロロ軍曹」(角川書店)など、出版社の枠を超えた絵も楽しめる。大きなものは1メートルあり、中にはマンガ家からの感謝の言葉、エールなどもある。」とのこと。
   
 中には壁のヘリに乗って中を写そうと頑張る人々も。そっちを見てる方が面白いかも。25日まで。
 
 ところで、そこまで行くときに靖国通り沿いに警官がいる。靖国神社から遠くないけど、こんなあたりまでいるのかと思ったら、白山通り沿いに右翼の車がゾロゾロ停まってるではないか。いやあ、ここは駐車可なのかと思ったら、靖国通りを日の丸デモの大群が。いや、こんなに大量の日の丸を見たのは初めてかな。いかにも「フツー」の人々という感じだったけど。
 
 さて、御茶ノ水駅近辺の散歩と写真は報告してあるが、そのうち神保町古書店街散歩を書きたいと思ってる。写真も撮り始めている。まあ、最近は暑すぎて散歩は難しいので秋になると思う。古書店街も面白いけど、あまり絵になりにくい。古い喫茶店の方が面白いかなあ。カレーや中華など結構名店が多いけど、昔の喫茶店も残ってる。有名な「さぼうる」のナポリタンは「さぼうる2」の方で。でも「古い喫茶店」とは、つまりは喫煙自由の店と言うことで、こりゃたまらんと思って、すずらん通りにはドトールもあるからそっちでいいではないかと最近は思ったり。
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マームとジプシー「COCOON」(コクーン)を見る

2013年08月10日 23時57分16秒 | アート(演劇・落語等)
 東京芸術劇場シアターイーストで18日までやっている、マームとジプシーという劇団の「COCOON」を見た。とても刺激的な体験で、是非多くの人、特に若い人に見て欲しい舞台。主題は「戦争」である。

 この「演劇」は木曜の朝日新聞劇評で読んで是非見たいと思った。今でも新聞の演劇評は役に立つのである。僕は京マチ子は知ってるけど、今日マチ子は知らない。「マームとジプシー」という劇団名もPC的に問題ではないか。だから劇評を読まなければ行ってない。今日マチ子と言う人は、1980年生まれの漫画家で、「COCOON」(コクーン)は2010年に発表された沖縄戦を描いた作品だとある。でも、いわゆるリアリズムに基づく戦争マンガではなく、兵隊を繭(まゆ=コクーン)として描くような作品だという。「ユリイカ」7月号で特集されている注目漫画家らしい。(ちなみに、京マチ子は黒澤明「羅生門」などに主演した戦後を代表する名女優である。)

 ということで、あまり事前情報を知らずに劇場へ行った。すでに前売は完売で、当日券のみだが、まあ猛暑だからそんなに来ないだろうと期待。キャンセル待ちだったけど、なんとか入れた。全自由席である。舞台の真ん中に大きな砂場があり、客席は三方から舞台を囲んでいる。客席最前列には大きなバスタオル(?)が置いてある。砂が飛んでくるという。希望者にはマスクも配ってる。大相撲の砂かぶり席なのかと思ったら、そこまでのことはないけど、五感に訴える舞台芸術だった。

 奥には幕があり、ほとんど常に映像が映っている。その場で撮った舞台の一部を拡大した映像が多いが、違う映像を使うシーンもある。普通の意味の会話劇ではなく、モノローグのようなセリフが何度も繰り返されることが多い。「リフレイン」と呼ぶ手法で、作者の特徴らしい。舞台上を走り回って砂が立つし、戦傷者の手術シーンではチェーンソーで木を切る音が大きく響く。(それが映像で拡大される。)舞台上では演技と言うよりコンテンポラリーダンスをしているような時が多い。28歳の男を名乗るラップみたいな場面も繰り返される。このように、主に登場人物の会話によって葛藤を描く普通の芝居に対し、この舞台はセリフ(独白も含め)、映像、音楽、ダンスなどに加えて、砂が立つ匂いなども含めた総合的な体験をするのである

 最初は小さな声のリフレインが理解できない部分もあるが、だんだん戦争になってしまい、女子高生が看護隊になり戦場シーンになると、ようやくこの舞台の意味が納得できる気がしてくる。「ガマ」という言葉が出てくるから、これは沖縄の「ひめゆり」にインスパイアされた物語だと判るが、でも登場人物は現代の高校生と言ってもいい。そこに不思議な体験、つまり戦場は沖縄と思われるのに、イラク戦争や湾岸戦争など現代の戦争に紛れ込んだ女子高生ものという感覚もするわけである。

 この舞台は、役者やセリフと言う「装置」を使っているから「演劇」というしかないけど、想像力に訴える総合芸術とでもいうべきパフォーマンスだ。作者は藤田貴大という1985年生まれの若手劇作家で、2011年に岸田國士賞を受賞している。ウィキペディアには平田オリザの下で口語演劇を学ぶとある。確かにそういう感じもするんだけど、「リフレイン」という手法は特徴的だろう。映画的という解説もあったけど、別に映画がすべて、同じシーンをリフレインするわけでもない。「桐島、部活やめるってよ」を見た人には判るだろうけど、ああいう感じ。世界が一面的に理解されることを拒む「現代」を描くときには、非常に巧みな方法だと思う。

 戦争体験を語る人、元兵士や原爆や沖縄戦の「語り部」は非常に高齢化している。当たり前である。だから戦争体験を今のうちに継承していくべきだという考えで、多くの学校が修学旅行で話を聞かせたりした。生徒からすれば「おじいちゃん、おばあちゃんの話をガマンして聞く会」である。でも、そのおじいちゃん、おばあちゃんと言えども、昔は若かった。20代か、「ひめゆり部隊」なら10代の時の出来事である。その今の若い世代の10代、20代が戦争に行くと考えたら、つぶやきのようなセリフのリフレイン、ダンスやラップなどで表現するのがふさわしいではないか。

 その結果として見えてくることは何か、戦争というのは、人が死ぬ、友達が死んで行く。死んで行く前には、腕がもがれて取れたり、顔が半分なくなったりして、そこからは血がいっぱい出て、傷口には蛆(うじ=蝿の幼虫)がわくということだ。そして人の心は狂わせられ、殺したり殺されたりするが、それは観念的な問題ではなく、血が流れ、匂いが充満する。この舞台はもちろん血が流れるわけではないけど、音楽や映像に加えて砂が立つ匂いや役者が動き回る音やなんかでいっぱいになり、そこに観客が想像力を加えれば、いろいろと感じてくるのである。それは気持ちのいい世界ではないけど、それこそがかつてあり今も世界にある「戦争」というものである。これはとても刺激的な舞台体験で、多くの人が体験する価値があると思う。なお、作者の藤田氏は桜美林大学の卒業で、ここは卒業生が行ってるから身近な感じ。
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「政令指定都市」を読む

2013年08月08日 23時16分44秒 | 政治
 北村亘著「政令指定都市」(中公文庫)を読んだ。まさに今求められている概説書。少し面倒なところもあるが、まずは判りやすい本だと思う。7月の新刊である。

 僕の知り合いには政令指定都市に住んでいる人がかなりいる。北は札幌から南は熊本まで、いろいろなきっかけで知ってる人がいて、今はFacebookですぐに連絡できる。特に新潟は妻の関係でよく行くところである。そう、うっかり知らない人もいるかもしれないが、新潟も熊本も政令指定都市である。全部で20にもなる。全部言えると言う人はほとんどいないのではないか。神奈川県の相模原なんて、悪いけど政令指定都市になってるんだ、と驚く人も多いのではないか。

 今まで「政令指定都市」の説明をしてないけど、簡単に言うと、「区がある大都市」である。東京23区は「特別区」となっていて、区が基礎自治体である。基礎自治体とは、生活に一番身近な自治体で、教育や福祉を担当している自治体のこと。「政令指定都市」は、区があるけど、それは市のスケールが大きいから行政運営上設けているだけで、基礎自治体は区ではなく市になる。だから、東京23区では区立小中学校になるけど、大阪も横浜も市立小中学校になる。この大阪の場合、市を解体して区を基礎自治体にしようというのが「大阪都」構想と言われるものである。

 著者は大阪大学大学院の教授で、最後に「大阪都」問題に触れている。その問題を理解するためにも、また自分の住んでいる「特別区」を理解するためにも、是非この本を読んでおきたいと思った次第。で、まず本当は「政令指定都市」ではなく「指定都市」なんだと言う。近代史上、東京は首都として別格で、次いで大阪、京都、名古屋、横浜、神戸が5大都市だった。東京を入れると6大都市になる。ここに「区」が置かれた。

 戦前は都道府県知事は内務省の役人だったけど、戦後になって日本国憲法で地方自治が認められる。そこで大都市の性格が議論され、大都市側からは「大都市独立論」もあった。(世界では、重要都市は県や州から独立して「特別市」とか「直轄市」という制度になっている国がかなりある。)一方、県側は重要都市の「独立」を認めたくない。戦後の地方自治法で一端「特別市」制度ができたものの、1956年にはその規定は削除され「政令指定都市」が、いわば妥協として作られたという。その時に、政府が意図していたのは、戦前来の5大都市の指定であった。しかし、戦前は100万都市だった神戸が、空襲で港湾が破壊された後なかなか復旧できず、人口が98万人にしか戻っていなかった。この時神戸が百万都市だったら、政令指定都市の条件は人口百万になったはずだと言う。でも神戸への配慮が必要だった。まさか90万とも言えず、結局「50万人以上の人口」が条件となった。これが今20にもなっていく「意図せざる結果」を生んだという。

 全部の論点を紹介している余裕はないが、この本を読むと政令指定都市にもいろいろあるなあと言うことがよく判る。また権限は委譲されても、税源は委譲されていないという決定的な問題があるという。まず、政令指定都市は道府県の権限の7割から8割が委譲されるという。これは大都市には人口、商業施設、文化施設、交通機関など様々なものが集中しているので、特別な権限を与えて行こうということだろう。だから大都市の特徴は、「昼夜間人口の違い」にあるとも言える。大都市は昼間は仕事や買い物のために多くの人を集めるが、夜間はその人々の多くは他県他市に帰る。そしてそっちで住民税を納めるわけである。大阪は昼夜間人口比が1.38で最高になっている。大阪の人は仕事で成功すれば芦屋などに住む。東京は一応23区内に成城とか田園調布などと言う場所を持っているが。

 一方、意外なことに昼夜間人口比が1以下の政令指定都市がある。横浜(0.9)、川崎(0.87)、さいたま(0.92)、千葉(0.97)、堺(0.93)である。東京、大阪の通勤圏である。横浜は人口が一番多い市であるが、北部が開発されて東京への通勤圏として人口が急増してきた。川崎も同じ。JRの横浜、川崎駅だけを見ていては判らない。この大阪の特性が「大阪都」の発想の基にある。大阪は日本の大都市の未来を写す縮図で、高度成長時代に労働者として流入したまま高齢者になった独身男性が多数にのぼる。そのため、5.72%と言う生活保護率になっているのである。これは構造的な問題で大阪市政に問題があったということではないと思う。

 「大阪都」に関しては、市内で互助していたものを各区に独立させると、かえって地方交付税交付金が増える見通しだという。国家全体の観点から言うと、どんなものだろう。また大都市側から言うと、いかに県から独立していくかというのが悲願だった歴史がある。今回の「大阪都」は、市制を解体して府に権限を集中させようというんだから、全く逆方向である。それでいいのか、という問題がある。いろいろな問題があるということを豊富なデータで説明する本。地方議会、職員などの記述も詳しい。

 僕の感覚では、東京23区というのは住民に一番いい制度ではないと思う。でも東京では23区内の人口や施設集中度が高く、今になって東京市を復活させることは現実的ではない。ただ言えることは、東京市の解体と言う大ナタをふるえたのは戦時下という条件が大きい。平時に民主主義のシステムの中で複雑な利害をどう調整していけばいいのか。僕にはどうすればいいのか、よく判らない。なお、東京市が解体されたため、東京では教員の異動が全都にわたる。島も含めて、ものすごく多い異動先がありうる。政令指定都市は教員の人事権を持つから、教員の異動は市内に限られるはずだ。(市立の小中の場合。)でも、東京の感覚から言えば、都市中心部、周辺部、農村部などでは生徒像がかなり違い、ある程度広く異動することで教師の力量がアップするのではないか。県下で一番予算のある政令指定都市で研修した教師が、全県に異動できないというのは、僕にはどうも全国レベルで言えばもったいない気がするのだが。
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「○○学的」という表現

2013年08月07日 21時59分31秒 | 気になる言葉
 「言葉」というカテゴリーで前に4回書いた。違和感がある言葉を取り上げて書く。最近、小熊英二編「平成史」を読んで、前から気になってる言葉があったので書いておきたい。

 「昭和から平成への元号の変化は、第二次世界大戦の指導者の最後の生き残りが、生物学的な生命を終えたことによって起こった。」(4ページ)

 まあ昭和天皇が死んだと言えばいいことを、なんでこういう言い方をするのかよく判らないけど。この「生物学的」という表現が間違いだと僕は思うのである。

 例えば、以下のような場合。
  あの頃、君は僕のすぐそばにいつもいてくれた
  でも、いつからか僕たちの心は何万光年も離れてしまった
  何と言う天文学的距離だろう

 例示のために今作った詩(のようなもの)である。この「天文学的」という表現は正しい。なぜなら、人類は大昔から星を見上げてきたけれど、その時点では「光年」という概念はなかった。天文学が発達し、また物理学が発達し、光の速度、星の距離なんかが判るようになってきて、学術用語として「光年」という概念が発明されたわけである。「光年」という言葉は、まさに「天文学的」である。そういう学術用語を、「遠いもののたとえ」として使ったわけである。

 一方、次の場合はどうか。
 スピッツは「空も飛べるはず」と歌うけれど、人間はどうやっても自分の力だけで空を飛ぶことはできないものなのだ。ハンググライダーに乗って空を滑空することはできるけれど、鳥のように翼をつけて自力で飛ぶことは、物理学的にできないようになっているのである。

 こっちはかなり迷う人もいるだろうけど、この「物理学的」は間違いである。物理学などというものがない大昔も、人間は空を飛べなかった。人間が空を飛べないのは、物理的に決められているのである。その理由を探求するのが、物理学。現象と学問の順番が逆なのである。人間は単に物理的に空を飛べないし、時間を逆戻りできない。その他もろもろ。

 最初の事例の「生物学的」の間違いは、もう明らかだろう。昭和天皇は戦時中に「現人神」(あらひとがみ)と呼ばれた。でも天皇も人間であって神ではないから、いつかは死ぬ。天皇でなくても、人間は誰でもいつか死ぬ。それは生物学で決められていることではない。学問ができるはるか以前から、人間は生まれて死んで来た。昭和天皇は生物学的に生かされてきたのではなく、単に「生物」として生きていた。だから、そういう表現をしたければ、「生物としての生命」と言えばいい。人間は動物の一種で、動物は植物とともに生物である。だから、こういう言い方なら間違いではない。まあ、「人間として」と言えば、それでいいのではないかと思うけど。

 それはともかく、人間は生きて死ぬなどと言うことは、昔から誰でも知ってることである。でも、DNAなどというものは、生物学の発展により判ってきたことで、多くの人は見たことはないし、現代人しか知らない言葉である。世の中には、「男と女の違い」などはすべてDNAで決められているなどと言う人がいる。そういう言説は怪しいけれど、その場合、「DNAによって生物学的に決まっている」などと表現するなら、表現としての「生物学的」の使い方としては正しいわけである。

 こういう風に、「○○学的」という言葉の使用法が間違っている場合はかなり多い。つい自分の主張を正当化したいがために、「学」をつけて権威化したくなるのだろう。理系の問題を説得力をもって表現することは、シロウトにはなかなか難しい。だからうっかり、生物学的とか物理学的とか、「学」をつけてしまいたくなる。注意したいなあと思う。

 なお、「言葉」と題して、今まで「感動は貰えるものか」「グローバル・フェスタという使い方」「名誉教授」「空気感と目線」について書いた。カテゴリーの「言葉」をクリックするとすぐみられる。今読んでも割と面白いので、よかったらヒマな時にでも。
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究極のカウンセリング-「永山則夫 封印された鑑定記録」

2013年08月05日 23時44分03秒 | 〃 (さまざまな本)
 堀川惠子「永山則夫 封印された鑑定記録」(岩波書店、2013)は、非常に多くのことを考えさせる驚くべき本だ。間違いなく今年のベスト級の本だろう。1969年生まれの堀川さんは、フリーのドキュメンタリーディレクターとして、いろいろな番組を作ってきた。2009年にNHK教育テレビで放映された「ETV特集 死刑囚 永山則夫」も、この人の作品。永山則夫という人は、獄中で著述活動を展開し、激しい言動でも知られた。社会問題に関心があった僕以上の世代なら、決して忘れられない名前に違いない。一審死刑、2審で無期に減刑、最高裁で差し戻し判決が出て、差し戻し審で死刑、最高裁で死刑確定(1990年)。そして1997年8月1日に死刑が執行された。

 堀川さんは、一審裁判で行われた2度目の精神鑑定が、最高裁の差し戻し決定以後にほとんど顧みられていないことを知る。鑑定を行った石川義博氏は犯罪心理学で知られていたが、永山を担当した後は裁判の精神鑑定を全く引き受けなかった。そして八王子医療刑務所を退職し、町の精神科医として生きていく。その鑑定結果は2段組、182頁に及ぶ渾身の鑑定だった。石川医師は当時の録音テープを残していた。著者はこのテープをゆだねられ、鑑定を通して永山則夫の人生を再検証していくのである。その結果は「ETV特集 永山則夫 100時間の告白~封印された精神鑑定の真実~」(2012年10月14日)として放映され、またこうして本になった。この本を通して、僕は「連続射殺魔事件」と永山則夫に対して、全く新しい感想を持つに至った。それはとても大事な論点だと思う。

 永山則夫の事件について説明すると長くなるが、簡単に触れておく。1968年から69年にかけ、日本を股にかけたピストルによる4件の殺人事件(2件はタクシー強盗)が発生した。発生場所は、東京、京都、函館、名古屋だと言うんだから、大騒ぎにならないわけがない。半年にわたり大報道が繰り広げられ、結局は19歳の少年が逮捕された。この事件は、その衝撃度において、連続幼女殺害事件や神戸の少年による殺人事件、秋葉原の無差別殺人事件などに匹敵する。それぞれ時代を象徴する犯罪と言われた事件である。そういう中でも、連合赤軍やオウム真理教のような事件は別にして、永山則夫の事件は一般刑事事件では戦後で一番騒がれたと言っても過言ではない。

 ただこの事件のその後の経過は、他の事件と大きく違う。冤罪ではない刑事事件でも、死刑囚が歌をよんだり、執行後に書簡集が出版された事件は多い。でも、永山則夫の獄中執筆活動は、戦後で一番旺盛だった。まず獄中ノートを「無知の涙」として出版したら大ベストセラーとなった。その後も「人民を忘れたカナリヤたち」などを続々と刊行、83年には小説「木橋」で新日本文学賞を受賞、作家としての活動も始まった。執行後に見つかり刊行された超大作「華」まで、6冊の小説がある。

 永山則夫の家庭は極貧というべき状態だった。父親は博奕好きで家を棄てて行方不明となり後に横死した。母は8人の子を抱えて(則夫は8人兄弟の7人目で、4男)、網走に則夫など3人の子を残し、他の子を連れて出身地の青森に帰ってしまったことさえある。(則夫は面会に来た母に対し「3回棄てられた」と言った。)そういう極貧生活を送り、ほとんど不登校の学校時代を経て東京へ集団就職。東京では職を転々として、やがて犯罪を犯す。誰が悪いのか。則夫は獄中でマルクスやドストエフスキーを読み、「資本主義体制が自分のような存在を生んだ」、「仲間殺しをした自分は間違っていたが、自分を生みだしたのは日本の社会だ」と、まあそういうような主張を繰り広げた。

 この主張は当時の大学闘争の時代に非常に大きな共感を呼んだ。裁判は荒れに荒れ、一般刑事事件でありながら、政治闘争の裁判のようになった。支援運動も作られたが、周りから僕が感じていた限りでは、永山則夫本人との信頼関係を築くのが大変そうで、参加するには敷居が高かった。「無知の涙」も読んだが、どうも思い込みの強い感じが気になり、あまり好感が持てなかった。本人が主張をしてしまうので、支援の人は言いにくい。違う主張をすると、感情的に批判されることもある。この事件に対して裁判中に作られたものは、1970年の新藤兼人監督の映画「裸の十九歳」という映画ぐらいではないかと思う。(事件を裁判中に描いたという意味で、執行後には重要な本が出ているが。)

 この映画を若い時に見て、僕は永山則夫は「社会の犠牲者」ではないかと思った。でも最近見直したところ、かなり見方が変わった。どうして本人がすべてをダメにしていくのか、着実な努力が出来ずにちょっとしたことで仕事も辞める。そういう主人公に感情移入が出来なかった。映画は名前が変えてあるが、基本的には事実を基にしている。自分なりに厳しい中を生きる生徒を見て来て、話が通じなかったり、すぐに激昂したり、感情の動きが不安定で人を信頼できないような生徒も何人か見てきた。映画の主人公は、それらの生徒を思い出させ、自らダメにしてしまう行動様式が似ていた。犯罪を犯す前に、いくつもの段階で止められたはずなのに、まるで自分で自分をわざとダメにするように行動していく。それは本人の責任も大きいような気がしてしまったのである。

 そういう永山則夫の言動をもたらしたものは、驚くべき成育歴にあったとこの本で判る。永山則夫は明らかに精神的に不安定で、それは厳しい成育歴によるPTSDである。今の言葉にすれば、そういうことになる。海外の最新研究を知っていた石川医師の鑑定は、日本で初めてPTSDの理論を用いて分析した最初の鑑定だったのだ。永山則夫は母親に全く構ってもらえない幼児期を送り、同居の兄たちに理不尽な暴力を受け続けた。「ネグレクト」と「家庭内暴力」である。信頼されて育てられた経験が全くない。母に代わり面倒を見てくれた長姉は、網走で精神病を発病し、長く隔離されてしまう。もしこの姉がずっと則夫を育てられれば、彼の人生は全く違ったものになっただろう。しかし、精神病を患う家族がいたため、永山則夫本人は非常に精神病を恐れ、自分も発病すると怖がっていた。

 石川鑑定は、だから永山本人によって否定された。精神的な病気で犯罪を犯したのではなく、あくまでも社会システムが自分を犯罪者にしたと言いたかったのだろう。また検察や裁判所にも全く理解されなかった。検事や裁判官は、逮捕後すぐに検事に述べたことの方が、数年後にようやく医師に心を許して語ったことよりも、ずっと真実性が高いとしか思えなかった。それでも、2審の裁判官は、恐らく石川鑑定に大きな価値を認め、無期懲役に減刑した。しかし、それは最高裁で否定され、以後石川鑑定は取り上げられないようになってしまった。

 同じような環境で育っても犯罪者にならない人が多いと言う人がいる。最高裁判決でも、同じ環境に育った兄弟でも、殺人犯になったのは則夫だけだと言った。でも、この本によれば、「同じ環境」でなかった。戦前に成人した上の3人は、戦前でありながら高校まで出られた。経済的な余裕があったのである。中ほどの兄弟は、自分たちが母に棄てられ極貧だということは判った。さらに下だった則夫は、母に捨てられた時点で4歳。自分が何者か知る以前に家庭を失った。それ以後他者を信頼できる経験は全く持たなかった。この兄弟姉妹は、殺人事件は確かに則夫だけかもしれないが、他の犯罪や精神疾患なども多く見られ壮絶な人生を送ったものが多い。(則夫の犯罪が与えた影響もあるだろうが。)石川医師は青森まで母や姉に会いに出かけ、母の成育歴も確かめた。母の人生をたどると、これも非常に幸薄い極貧の育ちで、まさに「虐待の連鎖」そのものだったのである。

 この本で永山則夫を見る限り、驚くべき孤立ぶりである。彼はきちんとした「不良集団」に入ることさえできなかった。思い込みで日本出国を夢想し、外国船に乗り込んでは、密航という罪を繰り返す。獄中で初めて読書したのではなく、何度も定時制高校に通い(通おうとし)、「罪と罰」も犯罪前に読んでいる。ただし上巻だけ。定時制高校でクラス委員に選ばれると、先生も級友も自分が失敗して学校を辞めるように仕向ける策略で選ばれたと思いこむ。完全な被害妄想。教師や周りの生徒に相談するということができない。仕事をマジメに勤め、期待されるようになると、失敗して辞めさせようという陰謀だと思うのである。頼るのは何人かの兄だけだが、兄たちは兄たちで自分の生活で手いっぱいで、則夫を見捨てるのである。そういう則夫が、たまたま「表現の手段としてのピストル」を手にしてしまう。(米軍基地に忍び込み、住宅にあった女性の護身用を見つけた。)そうなるまでの精神的な軌跡が、石川医師により分析されている。

 このような心理が明らかになったのは、徹底して話を聞こうと言う石川医師の「カウンセリング的手法」の成功があった。カウンセリングというもののすごさをあらためて思い知らされた気がする。犯罪学や社会問題、裁判などに関心がある人だけでなく、児童心理、児童福祉を初め、教育、福祉の現場にいる人に読んで欲しい。非常に深い感銘を受けると思う。僕にとって言えば、定時制高校の対応がもう少し違ったものだったならば、と思ってしまう。最初に渋谷のフルーツパーラーに勤めた時代に、渋谷の近くの都立定時制高校に通えていたら、もしかしたら別の可能性があったかもしれない。それには雇用主の理解と言うものが決定的に重要だったろう。
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よしかわ書店が閉店した…

2013年08月03日 22時00分59秒 | 日記
 あまりローカルネタは書く気ないんだけど、これは記録に留めておこうかなと思う。僕の家から駅に行く途中にある「よしかわ書店」が、7月20日をもって閉店してしまった。まあ、町の書店がいかに大変かという一例である。が、それだけでもない話があるので少し書いておきたい。

 3枚目の写真を見れば判るように、ここはビルになっている。前はそうではなかったけれど、数年前にビルにして、2階を美容室に貸している。だから書店をやめてもいいわけなんだろう。最近は気の毒なくらい客足が途絶えていた。そうなる理由ときっかけは後で書く。

 いつ開店したかは覚えていないが、30~40年くらい前、70年代のどこかではないかと思う。「よしかわ」というのは、店主の名字で「吉河」である。ひらがなにしたのは意味があると読んだ記憶があるが、忘れてしまった。その店主は、三遊亭圓楽(先代=5代目)の弟さんで、開店当時には圓楽の花環があって、確かサイン会があったように思う。先代圓楽は僕の出た小学校の同窓で、時々駅や道で見かけたし、近所の寺に生前墓が作られていた。開店が、78年の圓楽(というか円生一門)の落語協会脱退の前か後か、今はよく覚えていない。また、圓楽の妹がスチュワーデスをしていて、1972年6月の日航機ニューデリー事故で亡くなっている。(当時はスチュワーデスと言ったが、今は客室乗務員、日本製英語でキャビン・アテンダントと言う。しかし、英語ではキャビン・クルーとかフライト・アテンダントというのが標準らしい。)その時はまだ開店していないように思うが、あまりはっきりはしない。

 僕の近所では、昔から一軒の小さな本屋があった。親が「小学○年生」とかの雑誌を予約していたような本屋。その後、駅の反対側が開発され発展していき、黒田書店という本屋ができた。多分中学時代。高校生になれば、上野の明正堂なんかに寄るようになったが、基本的には雑誌なんかは黒田書店で買ってた。その後に「よしかわ書店」ができた。一時は駅の2階にも別店舗を開き、流行っているように見えた。そこはもうだいぶ前に閉店し、TSUTAYAになっていたが、今は高架工事の関係で駅ビルの店は全部閉めている。

 何しろ駅に行く途中だから、「よしかわ書店」には何かにつけ寄ることが多かった。90年代には、「岩波講座日本通史」はここで予約して買っていた。つい数年前までは毎月「山と渓谷」を買っていたし、双葉十三郎先生が「スクリーン」で映画の採点をしてた時代には、よく立ち読みしたものだ。今では全くと言っていいほど週刊誌は買わないんだけど、昔は時々よしかわ書店で買ったことがある。専門書を買う場所ではないけど、雑誌や旅行ガイドを買うところと言う感じだったかもしれない。

 最近あまり行かなくなったのは、近くの都営住宅跡地の建て替え工事のためという理由が一番大きい。都営住宅が昔あった場所が、長いことそのまま空地になっていた場所があるのだが、そこに「エミエルタワー」という巨大マンションがついに建設された。完工は2005年とある。その時に、駅周辺一帯が再開発され、道路が整備された。それまでは空き地側には歩道がなく、駅に向かうには(空き地と反対の)店側を歩いていくしかなかった。そしてその道沿いに書店があるので、自然に吸い込まれるように利用していたわけである。ところが再開発で両側に歩道ができ、写真では判らないが、店が奥に引っ込みガードレールができた。横断歩道の位置も変わり、駅に行くだけなら反対側を歩く方がいいし、奥に引っ込んだから寄りにくくなった。買う意思があれば行くけど、歩くついでに週刊誌を見るというような利用法が面倒になった。そういう理由があったのである。

 その前に夜間定時制高校に勤務するようになり、帰るときにはもう店が閉まってるようになったというのも大きい。ネット書店を利用したり、都心の大型書店でまとめ買いすることが多くなった。こうして僕もあまり寄らないうちに、どうも客がいないし大丈夫かなどと家族で話していたら、あっという間に閉店した。本だから、閉店記念3割引きセールとかができないわけである。そういうのがあったらいっぱい買いに行ったかもしれないが。何だかちょっと淋しい。
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追悼・姫田忠義

2013年08月01日 23時14分08秒 | 追悼
 民族文化映像研究所姫田忠義が7月29日に死去、84歳

 と言っても知らない人が多いと思う。現代日本のもっとも重要な映画作家の一人だと僕は思ってきた。劇映画の人ではない。普通の意味での記録映画でもない。映像民俗学というべき仕事をした人で、日本の知られざる民俗文化を映像に留める活動をしてきた。その中にはもう二度と見ることのできない永久に失われた貴重な風景や文化も多い、一方、映像化をきっかけに甦った祭りや生活習俗も多い。

 姫田忠義(1928~2013)は、昭和19年に予科練に志願すると言う、ちょうど特攻隊の最後の世代で戦争に生き残った。神戸出身の人だが、戦後に労働者演劇から上京して新劇に参加、NHKの「チロリン村とくるみの木」の演出もしたという。それよりこの時期に、民俗学者の宮本常一と知り合い、圧倒的な影響力のもと、一緒に全国を回って歩くようになる。こうして山村文化アイヌ文化の精神性の高さを知り、映像として残す活動を始めるようになるわけである。初めはグループ現代で作っていたが、1976年に民族文化映像研究所を設立した。

 キネマ旬報は大正時代から内外の映画ベストテンを選出しているが、劇映画のベストテンは検索できるが、文化映画のベストテンが判らない。文化映画というのは、劇映画ではない様々な記録映画、産業映画等の総称として使われている。そこで過去のキネ旬を見て調べてみると、姫田忠義が中心になって作った映画は以下のようにベストテンに入選している。ベストワンはなかったし、羽田澄子の活躍ほどではないかもしれないが、劇映画で言えば山田洋次か深作欣二かというほどの毎年のような入選ではないか。

 74年 5位 チセ・ア・カラ-われらいえをつくる アイヌの伝統的な家つくり
 76年 3位 奥会津の木地師 奥会津の木工技術を伝える人々
 77年 2位 椿山 焼き畑に生きる 現代に残る焼き畑農業の記録
 79年 10位 沙流川アイヌ・子どもの遊び アイヌの自然の中での遊び方
 80年 3位 周防猿回しの記録 猿回し復活を目指す人々の記録
 82年 9位 アマ・ルール 大地の人・バスク バスク民族の牧畜生活の記録
 84年 2位 越後奥三面 山に生かされた日々 ダムに沈む山村の文化
 88年 7位 からむしと麻 福島県昭和村 伝統的な織の記録
 89年 7位 カタロニアの復活祭 
 96年 7位 越後奥三面 第2部 ふるさとは消えたか
 97年 3位 シシリムカのほとりで アイヌ文化伝承の記録
 98年 5位 コガヤとともに 岐阜県白川の合掌造りのカヤの処理の技術
 01年 9位 越前笏谷石 石と人の旅 
 05年 2位 粥川風土記 長良川の源流部・粥川(かいがわ)を守る人々
 
 名前を見れば判るものは別にして、中味の簡単な説明を付けておいた。日本中を駆け回り、さらに出会ったフランスの学者とともにバスクやカタロニア(スペイン)にまで足を伸ばした。アイヌ文化をめぐっては、萱野茂という素晴らしい人との出会いが大きい。ベストテンに入っていないが、「イヨマンテ」(77)という世界的に認められた映画もある。アイヌの熊祭りの記録である。アイヌの家作りと言い、その当時すでに失われかけていた伝統文化が、萱野茂との共同作業により甦った記録である。自然の中で自然とともに生きる、エコロジー映画と言ってもいい映画群で、萱野茂という非常に特別な知識人、思想家、政治家を生み出した映画とも言える。

 すでにダムに沈んでしまった越後の奥三面(みおもて)の記録、滅びかけていた猿回しの復活の記録、今に残る焼き畑農業の記録など、その時点で撮っておかなければ永遠に見ることができなかった日本の姿が姫田により残された。この偉大な事業はもっともっと知られるべきだったし、文化勲章などにも値する素晴らしいものだと僕は思っている。

 映画としては、外から静かに見つめるのではなく、文化を持つ人々とともに一緒に映画を作り上げていくスタイルで、小川伸介が三里塚で、土本典昭が水俣で、撮りつづけていた映像と共振するものがある。しかし、姫田はあくまでも「生活」に根ざしたものを撮りつづけた。これは他の映像では決して見られない、他のどんな劇映画やテレビドキュメントやノンフィクションなどでも見られない、日本の奥底の文化である。

 今調べると、民族文化映像研究所は、今でも場所を日本橋馬喰町に移して毎月の上映会を行っている。まだ8月の上映はウェブでは判らないが。場所を移してというのは、前は確か四谷三丁目にあったのではなかったか。僕は70年代から80年代初期に何回か、見に行った覚えがある。姫田氏も参加して、上映後のトークなども盛り上がった記憶がある。非常に感動した映画は、知人を連れていった覚えもある。萱野茂という人は僕はここの映画で知ったし、被差別の文化であった猿回しの映像を見たことで考えたことも多い。このような映画は劇場で上映されるものではない。しかし、案外地域の図書館に入っていて上映会もあるかもしれない。姫田忠義の名を見逃さずに、是非参加してみて欲しい。何しろ研究所のサイトを見れば、119本もの映画が残されているのである。それらは新たな発見の日を待っていると思う。
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