尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

教練復活?-銃剣道が中学武道に!

2017年04月01日 22時25分33秒 |  〃 (教育行政)
 4月1日、あまりにも驚くべき記事があって、思わず「エイプリルフール」かと思ってしまったけれど、間違いない事実なのである。中学体育の新学習指導要領で、「武道」の中に「銃剣道」が入るという話である。そもそも「銃剣道」なるスポーツがあって、国体の正式種目になっているということも初めて聞いた。検索してみると、確かにそのとおりである。

 学習指導要領の改定案の修正を見てみると、「「F武道」については,柔道,剣道,相撲,空手道,なぎなた,弓道,合気道,少林寺拳法,銃剣道などを通して,我が国固有の伝統と文化により一層触れることができるようにすること。また,(1)の運動については,アからウまでの中から一を選択して履修できるようにすること。なお,地域や学校の実態に応じて,空手道,なぎなた,弓道,合気道,少林寺拳法,銃剣道などについても履修させることができること。」とある。

 上の文章で下線部分が追加された部分である。つまり、基本としては「柔道、剣道、相撲」の中から一つを選んで学ぶわけである。だけど、空手道、なぎなた、弓道、合気道、少林寺拳法の中から選んでも良かったところに、銃剣道が加わったわけである。指導者である体育教員の事情を考えれば、柔道、剣道が多くなるだろう。銃剣道が文面上加わったからと言って、すぐに学校で実施されるということにはならないだろう。それは判っているけれど、これは何なんだろうか。

 そもそも、「我が国固有の伝統と文化により一層触れることができるようにする」なんていう言葉遣いそのものが、最近よく耳にするようになった気がするだろう。前回書いた「道徳」教科書問題も似たような言葉が出てくる。それはどうしてかというと、2006年の第一次安倍政権で成立した「教育基本法改正」から発しているわけである。そこから、2012年に中学体育で「武道必修化」が実施された。

 中学では発達段階上、「武道」を体育で義務化することには心配も多かった。事実、柔道部の部活動では死亡事故も起こっている。いろいろと現場には心配も多かったと思うけど、「我が国の伝統と文化」などという言葉が今の日本では呪縛力を持っているのである。よく考えてみると、少林寺拳法など「我が国の伝統」なのか疑問になる。他の競技も同じだろう。銃剣道というのも、銃を使うんだから近代になって外国(フランス)の影響で作られたものだそうだ。

 戦前には「学校教練」という科目があった。1925年から始まった。大正時代に結ばれたワシントン軍縮条約で、日本でも「軍縮」が進められた。だけど、その代わりに軍人を学校に派遣することが始まった。教練を修了したものは、幹部候補生の資格を得られるなど特典があった。でも、実際はどれほど嫌なものだったか、戦後に書かれたいくつもの小説に書かれている。また、「学校体罰」が広がる起源としても、学校教練が大きかったと言われる。

 その教練の実技に重要なものが、「銃剣」だった。その「刺突訓練」は、中国戦線で実際に使われた。いまの「銃剣道」はスポーツ化されたものだというけれど、それでも旧軍隊を思い起こさせるのは間違いない。何も学校でやるべき必然性もない。それほど一般的に普及しているとは言えないだろう。多分競技関係者には自衛隊関係の人が多いのではないか。今後、研修会などを通して体育指導者と自衛隊関係者が密接になっていく危惧もある。安倍内閣の教育政策の方向性が、とかく「復古的」だということが、ここにも示されていると思う。
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文科省、「忖度」の構造-検定と天下り

2017年03月31日 22時35分17秒 |  〃 (教育行政)
 24日に今年の教科書検定の結果が公表された。今年は初めて小学校道徳教科書の検定があった。そして、東京書籍の教科書で、小学一年用教科書で最初は「パン屋」だった記述が、検定意見が付いて「和菓子屋」に変わるという出来事があった。文科省が命令で変えさせたというわけではない。「教科書全体で指導要領にある『我が国や強度の文化と生活に親しみ、愛着をもつ』という点が足りない」という意見が付いた。そこで教科書会社が文科省の意向を「忖度」したわけである。

 他にもアスレチックの道具で遊ぶ公園を、和楽器を売る店に変えたという話もある。(学研教育みらい) これなんか、まったく意味不明である。公園のアスレチックで遊ぶ子供はいるだろうけど、「和楽器屋」なんてものに入ったことのある子どもなんかいないだろう。もちろん、僕もない。そもそも和楽器だけを売る店というものがあるのかどうかも知らない。今は和楽器も音楽の授業で扱うらしいから、和楽器もあちこちで売ってるんだろうか。

 もちろん、「道徳」を教科として評価の対象にするということ自体が、根本的におかしいことは以前に書いた。教科書検定は毎回おかしなことが起こるけど、それが当然のように「道徳教科書」でも起こったわけである。こんな検定をしているんだから、「道徳教科化」なんて「始まる前から終わっている」ことを証明している。文科省は「アクティブ・ラーニング」なる「主体的な学び」を進めるんだと言っている。こういう検定のあり方そのものが、何でそういう風になるのか「主体的に学ぶ」いい教材だろう。

 さて、そうやって子どもたちに「道徳」を説く文科省が、組織ぐるみで違法な天下りをあっせんしていた。歴代の事務次官3人の関与を含めて、計62件もの国家公務員法違反が判明したという。処分は合わせて43人にも上る。事務次官退職後、ブルガリア大使を務めていた山中伸一元事務次官は辞職するという。そういう人たちが「道徳」を教科化するわけである。

 それはあまりにもおかしいだろうと思うけど、多分本人たちのホンネは違うと思う。日本の高級官僚の実態としては、同期で一人いるかどうかの事務次官になれない人は「早期退職」するのが慣例である。キャリア官僚として採用後、ある時期までは大体同じように出世していくが、その後だんだん差がついていく。何か政治的な逆転が起きない限り、事務次官候補として残される人以外は、退職後の人生を考えないといけない。事務次官に上り詰めた人としては、「一将功なりて万骨枯る」にならないように、気を配る必要がある。早期退職せざるを得なかった同僚の再就職先の面倒を見るのは、まさに「道徳」的なことなんだろうと思う。だから、同様の事例は他省庁にもあり得るだろう。

 ところで、その再就職先には大学事務関係が多い。日本の教育にもっと競争的要素を多くするというのが、文科省の進めてきた政策である。自由に競争するというのが本当だったら、文科省官僚なんて受け入れる必要は大学にはないはずである。むしろ負担が大きくなるだけである。でも、実際には違うわけだ。文科省のいう「競争」というのは、「文科省の意向を忖度した書類を作成する能力」の意味なのである。だから、文科省関係者が必要になってくるわけである。

 「競争」というと、用意ドン、一斉スタートで、一番にゴールした人から順番に、いい評価が得られるという感じがする。でも、世の中は短距離走ではない。むしろマラソンである。だから、コースの途中で補給ができるし、伴走車も付けられる。その伴走車の役割を、文科省元官僚が果たすわけである。その仕組みを知らないで、ホントに自由競争だと思っていると、そもそもマラソンの実施を知らなかったりする。加計学園というところが、特区制度を使って四国に獣医師大学を作るという。他にどこも申請がなかったのだという。安倍首相のお友だちはちゃんと申請したわけだけど。

 文科省のダブル・スタンダード(二重基準)は、社会科系の検定ではもっとあからさまである。「通説がない」ことを強調するけれど、それが「国内向け」なのである。領土問題などでは、政府見解のみを教えよと強制している。北方領土、竹島、尖閣ともに、ロシア、韓国、中国では違う見解を持っているわけだから、国際的には「通説がない」というのじゃないか、そういう場合。

 だけど、文科省は「南京大虐殺の被害者数」などで「通説がない」ことを強調する。それはその通りだけど、「南京で大虐殺事件が起きた」ことは日本政府も認める「通説」である。犠牲者数などの問題に矮小化するのはおかしいだろう。要するに、文科省、というか安倍政権と言うべきだろうけど、すべてが二重基準なのである。だから、教科書会社や大学は、文科省の言う「通説」の意味合いを「忖度」して行動しないといけない。そういう能力を養うことが、「主体的な学び」の本質なのである。

 まかり間違って、本当に主体的に考える生徒を育ててしまったりすると、その本人が苦労することになる。だから、僕は前に「アクティブ・ラーニングは失敗する」と書いたのである。
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「フリースクール法案」と「10年研修」のゆくえ

2016年12月15日 20時38分40秒 |  〃 (教育行政)
 今秋の臨時国会で、「カジノ法案」なんかが成立した(強引に成立させた)わけだけど、その陰で二つの教育に関する法律が成立していた。僕はかつて「フリースクール法制化への疑問」(2015.6.8)を書いた。その法案は、議員立法で「教育機会確保法」として成立した。一方、「『10年研修』廃止へ」(2013.12.16)と書いた問題は、「教育公務員特例法等の一部を改正する法律」として、新しい研修制度へ変更されることになった。あまり知られていないと思うから、ここで簡単に紹介しておきたい。

 まず、「10年研修」問題から。ほとんど報道されていないし、現場教員以外にはあまり意味がない。僕も詳しく知らないのだが、文科省の「教育公務員特例法等の一部を改正する法律について」を見ることにする。「教員職員免許法」も改正されているが、教員免許更新制などの本質的なものではない。

 今回の改正で、確かに「10年研修」というものはなくなっている。代わりに「中堅教諭等資質向上研修」というものになった。これは受けなくてもいいんだろうか。任命権者(校長)は、「実施しなくてはならない」と書いてある。対象は「学校運営の円滑かつ効果的な実施において中核的な役割を果たすことが期待される中堅教諭」である。期待されてなければ、受けなくてもいいリクツだけど、その場合は「主任教諭」とか「指導教諭」への昇任は望めないのだろう。必ずしも10年でなくてもいいということであり、事実上どこかで「中堅教諭研修」を受けないとやってけないんだろうと思う。

 さて、次に「教育機会確保法」について。正式な名前は、「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律」である。もともとは、不登校生徒が通う「フリースクール」を制度化し、フリースクールに通うこと(学校以外での学習)も義務教育として認めることを目指していた。それはいいことばかりではなく、弊害もあるのではないかと僕は思うので、前期ブログに書いておいた。ところで、今回の法律からはそういった発想は消えてしまっている。

 それは弊害に配慮したわけではなく、自民党の中に「義務教育は学校が担う」「不登校を助長する」などといった守旧的発想の反対論が多くなったからである。この法のポイントは、国や自治体は「不登校児童生徒に対する適切な支援が組織的かつ継続的に行われることとなるよう、不登校児童生徒の状況及び不登校児童生徒に対する支援の状況に係る情報を学校の教職員、心理、福祉等に関する専門的知識を有する者その他の関係者間で共有することを促進するために必要な措置その他の措置を講ずるものとする」ということである。

 つまり、「情報」を「共有」することを「促進」するという程度の話になってしまっている。まあ、「法的裏付け」ができたという意味はあるのかもしれないが。では、この法律がまったく意味がないかというと、そうでもないと思う。僕の見るところ、二つの重要な点がある。一つは、不登校生徒の「休養」の必要性が認められたことである。

 「不登校児童生徒が学校以外の場において行う多様で適切な学習活動の重要性に鑑み、個々の不登校児童生徒の休養の必要性を踏まえ、当該不登校児童生徒の状況に応じた学習活動が行われることとなるよう、当該不登校児童生徒及びその保護者(学校教育法第十六条に規定する保護者をいう。)に対する必要な情報の提供、助言その他の支援を行うために必要な措置を講ずるものとする」というのである。「不登校」の場合、「休養」が必要だと認められたことで、登校へ向けた過度な圧力に対抗できる法的根拠ができたことになる。

 もう一つは「夜間中学」設置の法的根拠ができたことである。ちょっと面倒くさいけど、法を読むと、明らかに夜間中学(中学校の夜間課程)を置き、学齢期を超えた人にも教育機会を与えるという規定になっている。「地方公共団体は、学齢期を経過した者(その者の満六歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから満十五歳に達した日の属する学年の終わりまでの期間を経過した者をいう。次条第二項第三号において同じ。)であって学校における就学の機会が提供されなかったもののうちにその機会の提供を希望する者が多く存在することを踏まえ、夜間その他特別な時間において授業を行う学校における就学の機会の提供その他の必要な措置を講ずるものとする。」

 文科省によれば、現在の夜間中学は8都道府県、31校にとどまっている。(文科省サイト「中学校夜間学級の推進について」。)文科省も各都道府県に一つは設置されるよう求めている。今のところ、大都市部中心に設置されていて、北海道・東北・中部・四国・九州には一つもない。それらの地方でも、「自主夜間中学」の活動が行われている地区もある。地方財政厳しき折ではあるだろうが、こうして法的根拠ができたわけで、夜間中学設置の動きが広まることが期待される。マスコミなどもぜひ支援していって欲しいと思う。
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公立教育の階層化-「ゆとり教育」論⑥

2016年09月14日 23時16分29秒 |  〃 (教育行政)
 「ゆとり教育」問題は何とかこれでオシマイにしたい。「『ゆとり教育』で学力は低下したのか」などという問題も残っているが、それはいずれ「学力論」として取り上げたい。部活論、英語教育論など書くべきテーマは多いけど、映画や本、時事問題もたまっているので、この後は少しそっちを。

 さて、かつて評論家・斎藤貴男氏の著書「機会不平等」(2000、文藝春秋)が「前教育課程審議会会長」の三浦朱門氏の次のような言葉を紹介して大きな衝撃を与えたことがある。教育課程審議会というのは、今は中教審に統合されているが、かつて文部省にあった審議会である。「ゆとり教育」というのも、そこで審議されて導入されたものである。

 「学力低下は予測し得る不安と言うか、覚悟しながら教課審をやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を挙げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。」(40p)

 刊行当時に読んだとき、この意味は完全には判らなかった。表面的意味は判るけれど、本当に「ゆとり教育」は「英才教育」のためのものなのか。それに、戦後教育は底辺アップに労力を注いできたというのも、誤解と言うか、言いがかりのようなものだ。だけど、その後の展開を見るにつけ、ここで三浦朱門が述べていたことが気にかかるのである。その後、文科省レベルの政策としては、「脱ゆとり」に転換したとされるけれど、「総合教育」がそのまま残っているように、どういう意図か理解しがたいことが多い。現在の教育のあり方を理解するためには、この問題を考える必要がある。

 ところで、日本の義務教育(小学校の初等教育、中学校の前期中等教育)は、「次代の国民すべてが身に付けておくべき水準」などではなかった。もし学校の勉強内容が全国民が身に付けるべきものなら、義務教育では落第がない理由が判らない。小中の成績が「1」でも進級できるんだから、学校の勉強は全員が判らなくていいのである。そして、かつては「相対評価」を付けていたんだから、必ず誰かに「1」が付く。「1」を付けるべき児童・生徒がいないと、学校は成立しない

 相対評価というのは、ある程度の規模の集団では、学力が「正規分布」をすると考えるものである。平均点レベルが一番多く、高学力、低学力になるほど少なくなる。横軸に点数、縦軸に人数を入れてグラフを作ると、「富士山型」になる。それをベースに、高い方から「5」「4」「3」「2」「1」と5段階で付ける。校内の成績には多少違うやり方をしていたところもあるだろうが、高校受験に使う成績は「厳密な相対評価」だった。(東京では中学校長が集まって、各校の成績と人数が一致するかどうか厳密に審査し、合格した「成績一覧表」を高校に提出していた。)

 これは「学校は地域の子どもをすべて受け入れる」ということを前提にしている。地域の中には、学力が高い者もいれば低い者もいるけど、おおよそは真ん中レベルだろうということだ。現実には、日本の様々な地域には、貧富の格差があったわけだが、大学進学者が数少ない時代にはそれでいいのである。村の小学校で各学級の級長レベルが、旧制中学、旧制高校とふるいにかけられていき、最後に帝国大学に進む。エリート選抜なんだから、相対評価と一発勝負のトーナメントで良かったのである。「もっと日常のがんばりを評価するべきだ」とか、誰もそんなことは考えなかった。

 戦後の高度成長時代が終わると、高校はほとんどの者が進学するようになり、大学へ進む者も多くなった。高校は1974年に90%を超え、大学(4年制と短大)は90年代初期に40%、21世紀初頭に50%超えた。つまり、中学生全員が「高校入試」に関わり、高校生の半数が「大学入試」に関わるわけである。それでは、第二次ベビーブーム世代が高校に入学した1980年代後半から90年代にかけて、中学が大変だったのも当然である。いじめ校内暴力登校拒否(当時は「不登校」ではなく、「登校拒否」と呼ばれた。これは「本人が拒否している」と捉えるバイアスがかかったイデオロギー用語である)などという言葉がマスコミに登場した。「このままでいいのか」と多くの人が憂慮し、それが「ゆとり教育」につながったと当時理解されたのも当然だろう。

 だけど、現実には80年代の中曽根内閣による「臨時教育審議会」(臨教審)にあるように、「教育の複線化」、中高一貫校や「特色ある高校つくり」が進められる。「ゆとり教育」期を通して、「学校の階層化」が進行していったのである。つまり、ほとんど全員が行く高校は、様々なタイプの高校に変えていく。その中には成績優良者向けのものもあってよい。

 そうなってくると、学校の評価方法も変えないといけない。東京など大都市部で行われている、義務教育における「学校選択制」は成立できない。学校選択制では、義務教育学校が地域の子どもを集めるのではなく、「教育の消費者」(親)が学校という「教育商品」を選ぶのである。その時に学校が相対評価を行っているなら、「(将来の入試のために)自分の子ども成績をよくしたい」と考える親は、むしろ「レベルが低い」と地域でみなされた学校を選ぶ方が合理的である。周囲の生徒の成績が悪ければ、できる子は他の学校より高い成績を得やすい。

 だから、成績評価を「絶対評価」に変えないと、「競争的教育制度」は成り立たないのである。「絶対評価」なら、できる子ばかりが集まった学校でも、到達度を見て評価するんだから、全員が5か4でも構わない。だけど、あまりにも多くの内容を詰め込んだカリキュラムだと、「できない子」は付いていけない。「詰め込み教育」だと、限られた学校の授業時間では、成績にばらつきが出る方が自然である。それなら「相対評価」した方が生徒を評価するときに役に立つだろう。

 そこで「教育内容を3割削減する」、そして「全員が理解できる授業を行う」、そうすれば「絶対評価じゃないと評価できない」。全員が判っているんなら、誰にも「1」を付けられない。そういうロジックで、「ゆとり教育」が「教育階層化」をもたらすわけである。その後、カリキュラムや授業時間数が変わっても、この「評価方法」は変わらない。教育は「地域の子どもを育てる」という理念よりも、「できる子は伸ばし」、「できない子には楽しく」という「個性化」に変わったのである。

 これは「グローバル化」の中で、国家社会にとって必要とされる人材が変わったことの反映だろう。だからこそ、「ゆとり体制」の中で「英語重視」が進められた。今後、中学でも英語で英語授業を行うなど、大変な苦労が起きてくる。「できない子」には苦痛でしかない。どんなカリキュラムにしても、家庭状況や生徒の能力は多様だから、全員ができる学校なんか存在しない。成績優良者を集めた学校はいいかもしれないが、成績が低い者が多い学校は大変なことになる。最近のニュースを見ていると、早くも昔の「不良少年」のような60、70年代的な事件が起き始めている感じがする。このままでは、学校で抱えていけない子どもたちが大量に生まれる予感がしてしまうのである。
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メリトクラシーの昔といま-「ゆとり教育」論⑤

2016年09月12日 23時23分26秒 |  〃 (教育行政)
 「ゆとり教育」論も長くなってきたけど、もう少し。前回の「ゆとり世代」の話は、実はもう少し続きがあったんだけど、なんだか疲れてしまって「少子化」ファクターだけでやめてしまった。まあ、またいずれ続きを書きたいと思う。さて、今回は「メリトクラシー」(meritocracy)に関して書くことにする。

 21世紀になって、教員免許更新制もそうだけど、一体何を考えているのか、従来の考え方からすると全く理解できない教育政策が続々と実施されていった。(まあ、教育だけでなく政策全般がそうかもしれないけど。)そこで様々の教育関係の本、教育社会学とか教育史などを読んでみたことがある。その結果、「ヒドゥン・カリキュラム」とか「ショッピングモール・ハイスクール」とか、面白い言葉を知ることができた。「メリトクラシー」もそんな中で知った言葉である。

 「メリトクラシー」というのは、日本では簡単に「能力主義」あるいは「業績主義」と訳すこともあるらしいけど、もう少し奥が深い言葉である。「メリット」(業績、長所)と「クラシ-」(支配、政治)を組み合わせた造語で、むしろ「メリトクラシーの弊害」を訴えるために作られた言葉だったらしい。「生まれよりも能力で支配者が決まる社会」のことだけど、若い世代が社会に出る前は「試験による選抜を経た学歴」しか判断材料がない。だから、「学歴階層社会」という意味合いも出てくる。

 もっともヨーロッパ、特にイギリスなんかは今もかなり階層社会的な要素を残している。貴族制度も残っているし。一方、日本では親が名門だとか大金持ちだとかいう場合でも、子どもは「それなりの大学」を出ていないと評価されないと思う。一族が支配する同族企業なんかなら、お手盛りで役員の末席ぐらいは与えられるかもしれないが。大体、世界の中で東アジアが一番「受験戦争」が激しいと言われる。中国で昔あった「科挙」が社会に影響を残しているのかもしれない。今は日本よりも、中国と韓国の受験競争が非常に激しいとよく問題にされている。(なお、日本は中国の律令制度を受け入れたが、科挙は取り入れなかった。)

 世界中で前近代社会は「身分社会」である。ある時代までは、人間は「家族」や「一族」を通して世界を理解していたから、「親の職を子が継ぐ」という方が誰でも納得できる。能力がある人は、身分の高い人に仕えればいいのであって、身分が低いものが高い地位についても誰も納得しない。そういう社会が近代になって大きく変わる。「身分制」そのものが「不正義」と思われるようになり、貴族や金持ちに生まれても「本人の能力」を示さないと、それなりの地位には付けなくなる。

 その理由としては、近代社会をかたち作る「工業」とか「軍事」という世界が、「能力」を必要とするということが大きいと思う。無能なトップを戴くと、会社はつぶれる。会社ならともかく、軍隊だと戦争に負けてしまう。それは困るということで、世界の各地で軍隊から「メリトクラシー」的な世界が確立されてくる。アジアやアフリカの国の中には、「軍事政権による開発独裁」が民主化を置き去りにしながらも「工業化」を成功させたケースがある。近代日本も同じような場合と考えることができる。陸軍は長く長州藩閥が影響力を持っていたが、「陸軍大学校」卒業の軍事エリート(永田鉄山、東条英機ら)によって藩閥が崩されていった。(しかし、その結果成立した「軍事エリート支配」こそが、大日本帝国を破滅させてしまった。)

 戦後になると、東京大学卒(正確には「東京帝国大学」時代の卒業)の官僚が、政界、財界に多くなった。一般的に東大や京大、あるいはそれに準じる有名国立、私立大学を出ると、国家公務員(上級)や有名大企業、あるいは弁護士、医師等の安定して社会的評価も高い職業に就ける可能性が高いと思われた。昔ほどではないだろうが、今も大きな傾向としては、それはあるだろう。そうすると、逆算して、有名大学進学者が多い高校にまず入った方が有利である。さらに中学や小学校、幼稚園…と親は果てしなく考えることになる。親も子も、将来を考えての行動のはずが、「とりあえず有名大学」入学に全力を傾ける。そういう「学歴社会」が成立したわけである。これが日本における「メリトクラシー」だと考えられるだろう。人間を卒業大学で判断する傾向は、今も高齢層を中心に根強い。

 そういう「学歴信仰」みたいなものが、日本で根付いた理由はどこにあるだろう。ある時代まで、日本の近代化が「欧米に追い付け、追い越せ」が目標だったということが原因だろう。日本の学問そのものも、あるいは日本の産業そのものも、欧米のものを受け入れ、日本に合わせてこなしていくということが中心だった。そういう時代には、「学校で教える知識」をもとにしたテストで選抜し、合格した大学生を官界、産業界に送り込むことに「合理性」があったわけである。

 今の話はエリート層の問題だが、世の中を支えている中堅層でも同じような構造が成立していた。中学で真ん中や少し下の層も、職業高校や中堅の普通高校に入学して、マジメに学校の勉強を行う。部活や行事も大事だけど、まず勉強をやってないと、学校での評価が高くならない。そうしてマジメに高校生活を送ったことにより、学校推薦でそれなりの会社に就職できる。工業高校に進学した男子生徒は、在学中に多くの資格を取り、それを生かして大企業の高卒社員になった。それは「終身雇用」が保証されたものだった。女子も商業高校で珠算やタイプの資格を取り、一流企業の事務職に就いた。そんな世界がほんの一世代前まで存在したのである。今はもう、そんな高卒求人はないだろう。モノつくりは外国に移り、事務職は派遣社員がパソコンで行う。

 エリート層でも同じだ。大企業に勤めさえすれば、一生が保証されるという時代は、もうだいぶ前に終わってしまった。そして、そのような「雇用の流動化」は政府が進めたものだった。IT化、グローバル化の中で、大企業が生き残るために、今までのような雇用慣習は変えられていった。そうすると、有名大学を出れば、あるいは中堅高校でマジメにやれば、一生の仕事が見つかるということで成立していた日本の学校はどうなるのか。学校でマジメに勉強しても、人生に何の意味があるのか。これが「日本の教育を変える」理由だったのだろう。このままでは、日本の学校は社会的な存在意義を失ってしまうのではないか。そういう危機感の中で、20世紀後半の日本で実施された「ゆとり教育」(=「生きる力を育む教育」)というものが、構想されたと考えられるのではないかと思う。
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「ゆとり世代」って、何だ?-「ゆとり教育」論④

2016年09月10日 23時09分43秒 |  〃 (教育行政)
 「ゆとり教育」の全体を論じる前に、よく言われる「ゆとり世代」という言葉について考えておきたい。そもそも「ゆとり教育」とは何かを見極めないと、「ゆとり世代」を論じられないと言われるかもしれない。でもまあ、そうでもないと思う。なぜかと言えば、「ゆとり世代」なんてものはないからである。

 そりゃあ、そうだろう。学習指導要領がどうでもいいとは言わないけど、授業時数・授業内容の削減とか「総合学習」の新設というだけで、「世代すべてに当てはまる特徴」が出来上がるわけがない。「学校」が社会の中で持っている意味が、大昔に比べてずっと小さくなっている。テレビやインターネットなんかの影響の方が今は大きいのではないか。

 「国民学校世代」なんていうのはあるだろう。1941年以後、小学校は「国民学校」と改称されていたのである。戦後に新学制に移行するまで続いた。要するに、戦時下の世代である。小学校しか義務教育じゃなかった時代の話である。学校の名前そのものが変わっちゃうぐらいだから、それは大きな出来事だろう。「国民学校に通った世代」というだけで、ある世代を表すだろう。

 でも、戦後教育は全部そうだとも言えるが、特に80年代以後は「個性化」を進めてきた。今までと違った個性を持った若い人がいても、要するに「そういう人がいてもいい」というだけの話で、世代全員の問題ではない。以上、オシマイでもいいんだけど、もう少し書かないといけない。現実に「ゆとり世代はダメだ」と言う人がいる。言われた人を知ってるから確かである。テレビドラマの題名にも使われたし、「世の中には『ゆとり世代』っていう概念があるらしい」という事実は残る。それは何故か?

 一つは「言ってる側の問題」である。3回目で書いたように、一番大きな授業数削減を行ったのは、1977年告示、1981年に中学校で実施されたときの学習指導要領である。その時の指導要領の中に、「ゆとり」という言葉が登場する。実はそれ以外では「ゆとり」という言葉は出てこないから、「ゆとり世代」というものがあるとすると、本来それは1977年告示の指導要領で学習した世代のはずである。(その時は「中学校学習指導要領等の改訂の要点」というものがあって、「学校生活全体にゆとりをもたせるため,授業時数を全体として削減し」と明記されている。)

 中学の授業時間は、1981年度実施の要領で削減され、その後2012年実施の指導要領まで増えていない。ということは、1968年度生まれから1999年度生まれの世代が「ゆとり世代」になるはずである。つまり、今の30代、40代は全員「ゆとり世代」に該当する。でも、そういう自意識はほとんどないだろう。中学生は言われた通り授業を受けているだけで、自分たちが前の世代より授業数が少ないかどうかなど自分では判らない。若い者に向かって「ゆとり世代はダメだ」などと決めつけている方が、実は「ゆとり世代」だったのである。大体「ゆとり世代は…」などと独断的に決めつけるのは「反知性主義」そのものだ。自分の方こそちゃんと勉強していないということを暴露している。

 でも、それだけでは解決しない問題もいくつかある。まず「少子化」というファクターである。特に21世紀実施の「総合学習」導入の世代が「ゆとり世代」と言われることが多い。学校の授業数が削減されたことは確かだが、「授業内容を3割削減」と言ったって、学校の授業内容を7割以上覚えている人なんかいないだろう。「ゆとり世代」批判をする方だって、数学の公式や歴史の年号を覚えてないと文句言ってるんじゃないだろう。「一般常識」とか「年長世代との付き合い方」とか「臨機応変力」とかの欠如を問題にしているはずだ。そういうのは、「少子化」の影響と考えた方が正解に近い。

 兄弟や遊び友達集団が少なくなる一方、受験圧力は確実に減った。よほどの有名大学を目指すというのでもなければ、推薦入学でそれなりの私立大学へ行ける。自分が確実に合格できるとは判らないわけだが、とにかくそういう制度が普及したことで、世代全員にかかる受験圧力は減るわけである。学校の勉強は、ほとんどの人にとっては上級学校への進学のためにしている。だから、当然「受験のための学力」は少子化で下がると考えられる。また、地域の遊び集団などで養われる年長者との付き合い方なども、少子化や学校選択制(地域外の小中学校へ通える)などで、身に付きにくくなる。そう考えてみると、「ゆとり世代」の特徴と見えるものは実は少子化による影響と考えた方がいい。
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授業時間数の推移を調べてみる-「ゆとり教育」論③

2016年09月10日 00時03分27秒 |  〃 (教育行政)
 学校ではどのぐらいの時間、学習を行っているのだろうか。ここで言うのは、「授業時間数」の問題である。行事だって部活動だって「学習」に違ないけれど、「ゆとり教育」について書いているのだから、時間数を問題にするのである。毎年毎年、祝日の曜日が違うし、学校行事の置き方でも違ってくる。だけど、タテマエ上「これだけ学習しなくてはいけない」というのは、決められている。

 それを定めているのは、「学習指導要領」である。国会で議決されたものではなく、文部省(文部科学省)の「告示」に過ぎないが、官報に掲載される。裁判で争われた結果、「法的性格」があると最高裁が判決している。だが、そうなったのは1958年告示、1961年度から小学校、1962年度から中学校で実施されたものからである。今書いたように、指導要領は告示から実施まで時間差がある。告示されても、それに対応した教科書がないと授業できないからである。告示を受けて、教科書会社が新しい教科書を作り、文科省が検定し、各教育委員会等が採択する。こうして告示から数年後、ようやく採択翌年の新入生から、新要領に基づく教育が始まるわけである。

 学習指導要領に関しては、国立教育政策研究所のHP中にある「学習指導要領データベース 」にすべて掲載されていて、戦後教育に関する重要な情報源になっている。ところで、法的性格を帯びたのは「1958年告示」からと今書いた。ではそれ以前はどうなっていたか。「学習指導要領(試案)」となっていて、各学校の自由裁量が認められていたのである。戦前戦中のガチガチの皇国史観教育が敗戦で崩壊し、教育体制も大きく変わったわけである。1951年実施の中学校指導要領では、外国語が選択授業であり、美術ではなく図画工作、技術・家庭ではなく職業・家庭などとあって、もう誰も覚えていない戦後直後の中学の様子をうかがわせる。

 以下、中学を中心に見る。小学校、高校を全部見ると、大変すぎる。資料的な性格が強い記事だから、あまり詳しすぎてもいけない。先に書いたデータベースで調べることができるので、関心のある人はそっちで。ところで、一回目に書いたように、「年間35週」というのは変わらない。だから、土曜に授業があった時は、週に32コマの授業が入っていた。(週に2日は5時間授業とする。)そうすると、年に最大1120コマの授業が可能となる。中学3年間では総計3360コマとなる。

 最初に「総授業時間」を見る。

①1958年告示の指導要領 (道徳を除き、1962年実施)
 年間授業数は、1120コマ以上。3年間で3360コマ
②1969年告示の指導要領 (1972年実施)
 年間授業数は、1,2年が1190コマ、3年が1155コマ。3年間で3535コマ
③1977年告示の指導要領 (1981年実施)
 年間授業数は、1050コマ。3年間で3150コマ
④1989年告示の指導要領 (1992年実施)
 年間授業数は、1050コマ。3年間で3150コマ
⑤1998年告示の指導要領 (2002年実施)
 年間授業数は、980コマ。3年間で2940コマ
⑥2008年告示の指導要領 (2012年実施)
 年間授業数は、1015コマ。3年間で3045コマ

 以上の数字を見ると、昔はずいぶん勉強させられていたんだなあと思う。特に②の主に70年代の授業は、水曜を除いて6時間授業をしていたということである。数字だけ見ると、確かに2002年実施の「980」が一番少ない。だけど、このときから土曜は休日になったことを考えると、水金を除き6時間授業ということだから、常識的な数字になっている。

 何と言っても、一番目につくのは、③の時期、つまり80年代の授業である。②の時期が多すぎたとしても、①に戻すのではなく、一気に「1190」(1,2年の場合)から「1050」に減らした。140時間の減だから、週当たり4時間も授業が減ったのである。それは何故か、実際はどうだったかというのは、今後別に検討する。簡単に言えば、戦後教育史における「一番のゆとり教育」はこのときだったのである。

 ついでに、各教科の授業時間数を見ておきたいのだが、長くなるのでやめておく。あえて社会科だけについて書く。数字は上に書いた指導要領と同じ。
 ①455時間(週当たり、1年=4、2年=5、3年=4)
 ②455時間(週当たり、1年=4、2年=4、3年=5)
 ③385時間(週当たり、1年=4、2年=4、3年=3)
 ④350~385時間(週当たり、1年=4、2年=4、3年=2~3)
 ⑤295時間(週当たり、1年=3、2年=3、3年=年間80)
 ⑥350時間(週当たり、1年=3、2年=3、3年=4)

 これを見ると、「ゆとり教育」というのは、つまりは「社会科の授業を減らす」ということなんじゃないかと邪推したくなる。若い世代が、政治や経済、歴史などの「常識」を知らないと非難されるのは、「ゆとり教育」だからではなく、社会科の授業を削減した結果なのではないだろうか。もちろん、それは「政府の目論見」であり、若い世代の選挙投票率低下などで、「効果が上がった」とも言えるのだろう。
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ゆとりなき「ゆとり教育」-「ゆとり教育」論②

2016年09月08日 22時59分27秒 |  〃 (教育行政)
 「ゆとり教育」というと、学校現場に「ゆとり」が増えたように思う人がいるが、もちろん違う。「ゆとり教育」によって、むしろ「ゆとり」がなくなったと言ってもいい。それは何故か。そのことを現場の状況とともに、そもそも「ゆとり教育の本質」を考える中で追及してみたい。

 そもそも「ゆとり」とは何か。検索してみると、「物事に余裕があって窮屈でないこと」などと出ている。これではなんだか判らないだろう。「ゆとり」という言葉は、普通に使われているが、多くは「ゆとりがない」と否定形で使うと思う。経済的、あるいは時間的に、「自分が自由にできない」時に使われる。お金で言えば、食費や光熱費、家賃(銀行ローン)などは、毎月必ず必要になってくる。今はパソコンやスマホなどの代金も大変だ。残りの部分を趣味・交際費などに使うわけだが、月初めに高い服を買うとか、つい高い店で飲食したりすると、その月の後半は「ゆとりがない」ということになる。自分で自由に使えるお金が不足しているという意味である。

 そこで「ゆとり教育」の場合を考えてみると、「授業時間が減った」「授業内容が減った」ということがあるとする。じゃあ、毎日午前中だけ勉強して、小中では給食を食べたら帰っていい。「生徒は午後の時間を好きに使っていい」となった。これなら確かに、生徒にとって「ゆとりができた」ことになるだろう。だけど、もちろんそんな事実はない。教科の授業時間が減ったとしても、その削減分で他のことをさせられるわけである。例えば「総合的な学習」を。つまり「学校に拘束される時間」は変わりがない。(むしろ増えるかもしれない。)生徒の「負担感」は変わらないわけである。

 生徒は勉強する立場だから、まあ時間拘束はやむを得ないとしても、指導する立場の教員にとってはどうだろうか。教師の場合は本来の勤務時間は定められているから、授業時間が変わっても仕事の時間そのものは変わらない。だけど、教科以外で担当するものが増えるほど、教員の時間的、精神的ゆとり感が減っていくと思われる。自分の担当する教科の授業に関しては、大学で専門的に学んでいるし、長年やってる教員ならば積み重ねた経験がある。だから、教科の授業時間が増えるというなら、その場合は対応しやすい。一方、授業時間を減らして、「他のこと」(行事など)をやるとなると、そのための会議(教員全体の共通理解)に時間が取られ、負担が大きい。

 行事ならまだしもイメージがわくが、「総合的な学習の時間」になると、何をやったらいいかから始まって、多くの会議を行わないといけない。まあ、もう大方の学校では「型」は決められていると思うが、そこまでは大変な苦労があったはずである。今でも校内や学年内での役割分担、評価の付け方などで、毎週の負担は大きいはずである。「総合学習」は「教科」ではないことになっているが、時間割に入れるんだから、事実上「教科」と同じである。全教員の担当教科が一つ増えたということだから、本来なら教員定数の増員がないとやっていけない

 だけど、もちろんそんなことは起こらない。もう現場でも、抵抗する力もないし、ひたすら会議、会議の連続に耐えてきたわけだろう。「総合学習」だの、「小学校の英語」だの、「道徳」だの、うまく行ってる学校は「研究授業」などを公開して、「成功」をアピールしているだろう。管理職や管理職を目指す人には、「実績」が必要である。「うまく行ってる」例ばかりが、文科省や教委にたまっているかもしれない。でも、当然のことながら、うまく行ってるところばかりじゃないはずだ。僕が非常に心配するのは、ここまで現場が疲弊しているのに、小中で「道徳の教科化」が強行されることである。前に書いておいたが、道徳のためだけに、どれだけの会議が必要になるだろうか。

 このように、「ゆとり教育」などと言っても、現場には「ゆとりはなかった」のである。当たり前だ。教員が自分で判ってる教科を削って、何か新しいことを始める。その「新しいこと」がこれからの日本社会にとって、真に必要なものだとしても、「導入に必要なエネルギー」はぼう大なものになる。「ゆとり教育」になったから、現場がうまく対応して、「生きる力」を育てられるなどと、そう都合よく展開するわけがない。本気でやるなら、「人的支援」がもっと必要だったのである。

 さて、以上のような現場的観点もあるわけだが、「ゆとり教育」をめぐる問題はもっと大きな射程で考えるべきだろう。1973年のオイルショックを契機にして、日本は高度成長時代が終わった。日本は「経済大国」となったけれども、生活レベルは欧米に及ばず、「日本人は働き過ぎ」と国際的に批判されるようになった。同時に、日本の近隣アジア諸国でも、70年代半ばには経済成長が始まり、日本企業は人経費が安いアジア各国に工場を移すようになっていった。そういう中で、日本の教育に関しても、新しい見方が登場したわけである。

 つまり、それまでの「知識注入型教育」は、大量生産を中心とする「労働集約型産業」には向いていた。だけど、低成長時代にはそれでは対応できないというわけである。そこでは「自分で考える力」がもっと必要になる。言うならば、若い世代の人材育成においても、「大量生産」ではなく「多品種少量生産」が求められる時代になったということである。それまでの「マジメに先生の言う通り勉強する生徒」ではダメだということである。「ゆとり教育」というのは、つまりは日本の資本主義のあり方が大きく変容したということを背景にしたものだったわけである。

 そういう文脈で、「知識・技能」の評価だけではなく、「意欲・関心」を評価する「新学力観」が出てきたと理解できる。だからこそ、「ゆとり教育」が導入された80年代以後、高校でも大学でも「推薦入学」(名前は様々だが、入学試験以前に試験なしで合格できる制度)は広がっていく。都立高校でも、職業科から始まり、やがて「普通科高校」にも推薦制度が導入された。そして、「部活推薦」という不思議なものまで作られている。「普通科」というのは、名前の通り「普通教科」を勉強して大学へつながるものだから、試験なしで合格できてしまうというのはおかしいと思うのだが。

 このような制度は、生徒にとっていいものなのだろうか。当初は「一発入試」で合否が決まり、それが人生をも左右する、そんな入試制度はおかしいと思われていた。だから、意欲が高い生徒を優先する推薦入学制度は、「やる気がある生徒」には有利だし、チャンスを広げるものだと思われていた。僕も中学教員だったときには、職業科の推薦制度は「使い甲斐のある制度」だと思っていた。落ちてもまた一般入試を受ければいいわけだし、特徴的な学科を志望する生徒にはありがたい。

 だけど、ここまで広がるとどうなんだろうか。大体、大学の入試制度が複雑すぎて、秋の高校は忙しくてかなわない。大学の推薦入試と、学校行事(文化祭)や部活の大会が必ず重なる生徒が出てくる。大学進学も就職希望もいるような高校だと、夏から冬にかけて、就職や大学進学者の指導が連続し、終わったと思うと今度は自分の高校の推薦、一般入試と休む時がない。その間に文化祭や部活大会があり、もちろん授業と定期テストもあるわけである。学校の教師の忙しさというのは、昔に比べて倍増、三倍増になっていると思うが、一つの大きな理由に「推薦入試」があるのは間違いない。

 ところで、その過剰なまでの忙しさは、同じく生徒にも重圧となっている。「意欲・関心」を重視する以上、推薦入試を使いたいと思う生徒は、行事、部活動、生徒会活動などにも積極的な参加が望まれる。絶対条件かというと、そうではないだろうが、アピール点としては重要である。それどころか、さらにボランティア体験ぐらいないと、面接で言うことがなくなる。もちろん、根本に「授業に対する意欲・関心」がなくてはならないから、単にテストが良ければいいじゃないかと言ってはいられない。授業でも意欲をアピールしなくてはいけない。このように、常に自分を意識しアピールし続けないといけない、そんな「ゆとりなき学校」。それが実は「ゆとり教育」というものなのである。
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「ゆとり教育」は終わったのか-「ゆとり教育」論①

2016年09月07日 21時39分37秒 |  〃 (教育行政)
 ここ何年か、というか正確に言えば40年以上も、「ゆとり教育」というものが推進されてきたとされている。この「ゆとり教育」は終わったと考えるべきなのだろうか。この「ゆとり教育」ほど、誤解され間違った「レッテル貼り」に利用されてきた言葉も少ないだろう。論点は多岐にわたるので、どのくらい続くか見当もつかないけど、とりあえず数回は続けて書くことになるだろう。

 「終わったのか」というと、そもそも始まっていないといけない。でも、「いつから「ゆとり教育」が始まったのか」も共通理解がないだろう。というか、「ゆとり教育」なるものがあったのかという問題設定も可能である。文部省(現・文部科学省)は一度も正式には使っていない。だから、「ゆとり教育は終わった」とも言っていない。「ないもの」に始まりも終わりもないはずだが、現実には「世の中でそういわれたようなもの」はある。そして、それは「終わったらしい」のである。

 2016年5月10日付で文科省から発表された、馳浩文部科学大臣(前)のメッセージは、社会的には「脱ゆとり教育宣言」と受け取られた。そのメッセージは、「教育の強靭化に向けて」と題されている。なんか「国土強靭化」みたいなネーミングだな。その中では「『ゆとり教育』か『詰め込み教育』かといった、二項対立的な議論には戻らない。」と書かれている。二項対立的議論をする必要はないけど、これは「知識と思考力をバランスよく、確実に育むという基本を踏襲し、学習内容の削減を行うことはしない。」ということに結び付いている。

 「学習内容の削減はしない」と最初から大枠を決められてしまったから、小学校の新学習指導要領では「容量オーバー」になってしまっていると考えられる。授業時間が同じなら、内容を削減する必要はないけど、授業でやることを増やすなら、どこかで時間的な削減をしないとやってけない。だけど、各教科の割り当て時間数を減らすのは、実に大変である。どの教科も大切で必要だから、現に学校でやっている(はずである)。何かを増やすからどこかを減らすとなると、関係の大学や学界で大騒ぎになってしまう。(中高の教員数は授業数に応じて決まるから、体育系や芸術系の大学では、学生の進路先にも関わってくる。)だけど、朝の授業前を使わないと終わらないというのでは、これは行き過ぎというしかない。「詰め込み」どころの問題ではない。

 ということで、とにかく是非はともかくとしても「ゆとり教育は終わった」というのが、一般的な見方なんだと思う。だけど、これは「現場的な感覚」とはズレている。「ゆとり教育の完成形」と思われている「2002年から実施の学習指導要領」で導入された「総合的な学習の時間」。これこそがまさに「ゆとり教育の象徴」だと学校現場では思われている。だけど、これはなくならない。なくならないことの良さもあると思うが、決してうまく行っている学校ばかりではないだろう。そして、「総合」を実施していく学校現場での苦労も、全然解消しない。

 そして、今度はさらに「アクティブ・ラーニング」だという。どう考えても、これは「ゆとり教育の発展形態」である。また、絶対評価や観点別評価。そのもとにある「新学力観」も変わっていないだろう。学校外の人はほとんど聞いたことがないと思うが、「学力に対する捉え方」が20世紀末に大きく変わった。「知識・技能」中心だった従来の学力観を、「関心・意欲・態度」を重視する学力観に変えていくというのが「新学力観」である。それがどういう意味を持つかは別に検討したいが、とにかく「総合学習」や「新学力観」があるんだから、現場的には「ゆとり教育」が継続されているとも言えるのだ。

 恐らく、この問題は「ゆとり教育」という言葉が独り歩きし、「イデオロギー用語」になってしまったということなんだと思う。だから、「体制は続いている」けれど、「言葉の上では終わった」とされるわけである。最近死去したウズベキスタン共和国のカリモフ大統領の場合なんかに似ているだろう。ソビエト連邦を構成したウズベク・ソビエト社会主義共和国で、カリモフはウズベキスタン共産党の第一書記を務めていた。そしてソ連が崩壊すると、ウズベキスタン共和国の初代大統領になった。そして、ずっと25年間大統領を続けてきた。ちゃんと選挙はあった。だけど、「独裁者」というのに近かった。ウズベキスタンでは、「共産党一党独裁体制」は終わったのか。もちろん終わっているのである。カリモフも、その後継者も選挙をしないと選ばれない。だけど、社会的には「事実上、独裁体制が続いている」。

 それは何故だろうか。どうして「ゆとり教育」が「悪いもの」「失敗したもの」とされたのだろうか。いや、成功したという人もいるし、その内容の理解にも共通性がない。それなのに、なぜ「ゆとり教育体制」は続いているのか。これは多くの人に「大きな勘違い」があるということだろう。それは「ゆとり教育」は「学習内容を削減した」から、「できない子のためになった」といった理解である。これは次回以後に詳しく書くが、まったく間違いで、「ゆとり教育」の理念から、学校選択制、中高一貫校、小中一貫校などが導き出されたのである。むしろ「エリート教育」を進める枠組み作りこそ、「ゆとり教育」だったと考えられる。今さら学校選択制や中高一貫校を廃止して、すべての児童・生徒を地域の学校で教育し、「相対評価」するという時代には戻せないのだろう。

 かつて、都教委では「ジェンダーフリー」という言葉が「禁句」にされたことがある。その時の議論を聞くと、どうも何も理解していないのではないかと思ったが、とにかく「ジェンダーフリー思想」なる「危険思想」が教育現場に持ち込まれ、過激なイデオロギー教育が行われていると思い込んだ教育委員がいっぱいいたのである。七生養護学校事件などの「性教育弾圧事件」が起きたころである。とにかく、その時には「ジェンダーフリー思想に基づく男女混合名簿」を禁止するという理解不能の通達が出たものである。当時の勤務先でも男女混合名簿だったのだが、校長は「本校はジェンダーフリー思想に基づくものではないから、従来通り」と言って、それで終わりだった。まあ、学校現場などそんなものなのだ。要するに、これからも今までと同じなんだけど、「ゆとり教育」と言ってはいけないのである。危険なイデオロギー用語に認定されたから。まあ、そういうことだと思う。
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「亡国」の新指導要領-「過積載」は事業者責任である

2016年09月05日 23時18分27秒 |  〃 (教育行政)
 8月1日に、中央教育審議会が2020年~2022年に順次実施される新学習指導要領の「審議まとめ案」を公表した。今回の記事は、その案に対して「亡国的」であると批判するものである。最初に断っておくが、僕は「亡国」という表現を普通は使わない。表現として好まない。大体、ものごとを「国家単位」で測るという発想を取らない。だけど、「国家」なるものが厳然と存在することは確かだし、今回は「国家機関」によるまとめ案でありながらも、あまりにもとんでもない代物だと判断する。正直言って、このニュースに接したときに、「亡国的」という表現が心に浮かんでしまったのである。

 今回の新学習指導要領「まとめ案」では、小学校5、6年の英語が教科化される。また、小学校3、4年で「外国語活動」を新設する。また、小学校で「プログラミング教育」を必修化する。先行して実施されるが、「道徳」も教科化される。そして、小学校でも「アクティブ・ラーニング」を推進するわけである。僕の批判は主に、小学校の教育を対象としている。

 だけど、中高の状況も見ておきたい。中学は大きな変化はない。アクティブ・ラーニング、プログラミング教育を進めることは小学校、高校と同じだが、教科のあり方や授業時数には変わりない。なお、中学の英語も原則的には英語で行うとされる。また、道徳の教科化も同様。

 高校の場合も小中と似ているけど、旧社会科系の授業が大きく変わる。地理歴史では「歴史総合」を置き、日本史、世界史を通した近現代史を中心に扱い、必修とする。一方、公民科では「現代社会」をなくし、「公共」という新科目を作る。また「理数」という教科が新設される。「総合的な学習の時間」は「総合的な探求の時間」に名前が変わる。その他、国語等にも重要な変更があるが、今は省略。歴史総合や公共の内容には関心があるが、今のところはっきりしない。

 さて、小学校で英語を教科にする件。2008年度から「外国語活動」として導入され、2011年度から小学校5、6年で必修化された。まだ10年も経っていないが、当初から「外国語活動」に接していた児童は、もう大学生になっている。必修化された世代も高校生になっている。中学や高校での英語教育は、大きく変わったのだろうか。良く変わったのか、弊害もあったのか。そういう問題を細かく検討する時間もなしに、早くも「教科化」するということは、拙速ではないのか。

 そういう意見も根強いと思うが、その「小学校の英語教育をどう考えるか」問題は、別に考えることにする。はい、英語を小学生からやりましょう。それでは「何を減らすのだろうか」。学校の授業数が変わらない以上、本来は何かを減らさないとおかしい。ところが、減らさないというのである。こんなにいっぱい詰め込んで、英語以外の授業を削減しないのである。一体、どうするんだ?

 新聞記事によれば、「児童の負担」などから、週当たりの授業数は「28コマ」が限界。ところが、今回の新要領では「総授業時数が1015コマ」、週当たりで「29コマ」になる。時間割に入らないではないか。では、文科省はどう考えているのか。「1コマを10~15分程度に分割して、毎朝の始業前に行う」、あるいは「60分授業」を行う、土曜や長期休業を授業に充てるなどを考えているのである。

 ここで「コマ」と呼んでいるのは、「一授業時間」のことで、小学校では45分となる。(中高では原則50分。)高校では「単位」になるが、義務制では単位制度を取らないので、授業一回を「コマ」と呼んでいる。月曜から金曜まで計5日。毎日6時間授業をすれば、30コマとなる。だけど、それでは職員会議などができない。よくあるのは、水曜と金曜を5時間で終わりにするというやり方である。僕も中学勤務の時はずっとそうやってきて、水曜が職員会議、金曜が学年会になっていた。

 小学校高学年の授業数は、かつては1085コマだったが、80年以後に1015コマ、90年以後に945時間となった。これが「ゆとり教育」と言われた時期である。その後、「ゆとり教育の見直し」が言われるようになり、現在は「980コマ」になっている。一年にどのくらい勉強するかというと、夏休みなんかがあるから、学校がない時期がある。実はこれは「35週」とすることになっていて、こういった教育問題の時間数には「35」が隠れていることが多い。年間980コマを35で割ると、週あたり28という数が出てくる。これを「1015」にするというのは、週当たり一コマ分増やすことになる。

 だけど、土曜は昔と違って休日なんだから、これは月から金に詰め込むしかない。土曜や夏休みになると言っても、今度は別の問題がいっぱい出てくる。そうなると、週の中に入れると、児童や教員の負担が大きくなりすぎる。どうするんだろ。そういうこともあるけど、小学生は、あるいは小学校の先生は、何を一番やるべきなんだろうか。英語?それとも道徳? いやいや、国語や算数も大事でしょ。あるいは体育も。行事もあるし、そのうえ、プログラミング? 誰が教える? アクティブ・ラーニング? 一体、こんなに何でもかんでもできるのか? もちろんできないだろう

 明らかに、「できる子」と「できない子」の格差が激しくなる。学校の勉強についていけない子が増える。教員の負担も大きくなりすぎる。教員間の連絡もおろそかになる。教員はどんどん学習を進めないと、やるべき授業が終わらなくなる。教師に課せられた重い負担は、児童の理解、納得を置き去りにすることになってしまう。こうして、すでに小学校段階で両極分解した子供たちが、中学に上がり、高校へ進む。その時、何が起きるか。少しでも想像力があれば、どんな学校になってしまうか、判るのではないか。一部のエリート層は付いていけるかもしれない。でも、家庭的に恵まれないような子供たちはどうなるだろう。

 現在だって、「格差」の深刻化が言われる。今回の新指導要領はそのまま実施されれば、明らかに深刻な格差社会を増幅するに決まっている。大体、こういう指導要領になって、小学校の教員になりたいか。小学校の先生というのは、クラスの中でマジメでしっかりとした生徒が、かなりの程度で志望してきた。しかし、今でさえ大変すぎると思うが、これでは明らかに「燃え尽き症候」が多くの教員に起きる。教員組合を通して、教師の学びという連帯が成り立つ職場も、日本全体では今では極めて少ないだろう。個人で背負ってしまう教師は、それを児童に転嫁しやすい。僕は「過積載は事業者責任」だと強く言いたい。事故が起きても、ドライバーの責任ではない。いろいろ学校が大変になるだろうが、教師一人一人、生徒一人一人の責任ではないと言っておく。まさに「亡国」的である。
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アクティブ・ラーニングは「失敗」する

2016年08月19日 23時47分44秒 |  〃 (教育行政)
 教育問題について書きたいことがいろいろある。新学習指導要領や「ゆとり教育」をめぐる問題、部活動のあり方に関する議論、そして途中になっている英語教育の問題などなど。少しづつ書いていきたいけど、まず映画「奇跡の教室」に関して書き残しがあるように思うので、その問題から。

 「奇跡の教室」は、まさに「アクティブ・ラーニング」の力を描いている。そう思うんだけど、教育関係者以外にはまだこの言葉が普及していないかもしれない。そもそも英語にこういう言葉があるのかどうか知らないけど、最近の教育界の「流行語」だと言える。最近中教審から公表された次の学習指導要領の審議まとめでは、小中高を通じてアクティブ・ラーニングを充実させることになっている。じゃあ、アクティブ・ラーニングって一体何だろう。文科省の用語集を見てみよう。

 「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。」

 教員だったら、きっと各種の研修などでよく目にしているかもしれない。一般的には初めて見た人が多いと思う。「奇跡の教室」では、この中で挙げられている学習方法がほとんど行われている。だけど、最初からすべてうまく行くわけではない。文科省に言われるまでもなく、学習指導要領などと関わりなく、今まで多くの教師はこれらの学習方法を何らかの形で取り入れた経験があると思う。でも、なかなかうまく行った場合ばかりではないだろう。映画の中にもあるが、インターネットでお手軽に資料をたくさん見つけてきて、(それもちょっと「変なもの」ばかり集めたりして)、それをズラッと並べて「調査学習」に仕立て上げるというのは、最もありがちなことである。

 まあ世の中で生きていくためには、そういう「調査でっち上げ能力」も必要ではある。でも、公的なコンクールを控えた「奇跡の教室」では、そのままでは認められない。もっと「自分で考える」ことが大切なのである。そして、この授業が生徒を変えていったのは、現実にホロコーストを生き延びた体験者の声に心を揺さぶられたことが大きいと思う。では、誰でもいいから呼んできて話を聞かせればいいのか。それだけでは(時々聞かれるような)、広島や沖縄に修学旅行で出かけて体験者の話を聞く機会を作っても、生徒が聞かない、それどころか暴言を浴びせたりすることが起こったりする。

 「事前学習の重要性」は言うまでもないけど、多分それだけではダメだろう。映画の授業では生徒が多様な環境のもとにあり、だから「パレスチナの状況もジェノサイトではないのか」といった生徒の反応も出てくる。こういう問いに教師がきちんと向き合う力を持っていることも大きい。それと同時に、学校の中では「荒れている」生徒の中にこそ、「虐げられたものへの共感能力」があり、それを教師が信じて引き出したということなのだと思う。

 大事なのは「授業のあり方」ではない。この映画でも、教師側は学校の方針に反して、この授業を進めている。校長は無駄なことはするなと止めている。こういう「教師の自由」がないと、どんな授業もうまくいかない。「アクティブ・ラーニング」といった授業方法の議論も必要だけど、その前に「アクティブ・ティーチング」が成り立っていないと話にならない。ここで言ってのは、各教員が自分の受け持つ生徒を考えて、自分で教え方を工夫し、伸び伸びと取り組んでいける自由といったものである。

 アクティブ・ラーニングでも何でもいいけど、学校は、あるいは生徒は、それだけで存在しているわけではない。とりあえずは上級学校への進学、そして就職に向けて「勉強」しているというのが、大方のところだろう。この映画の生徒たちは、フランスの「バカロレア」(中等教育終了の国家資格)をほとんどが取得できたということだ。それはバカロレアが「自分で考える」力を見ることに向いたものだからではないか。自分たちの力を信じ、学ぶ喜びを知った生徒たちは伸びて行ったのである。

 では、日本の社会は、もっと言うと日本の会社は、「自分で考える」人材を本当に求めているのだろうか。もしそうだったら、何も学校の授業などを変えなくても、自然と「自ら学ぶ」ことを身に付けるのではないか。もちろん、一部のエリート層には「自分で考える力」がますます必要なんだろう。これからの内外の厳しい環境を生き抜いていくためには。だけど、本当に全国民が自分で考え始めていいのか。教師がそういう生徒を育ててしまっていいのか。その時には、また「学習指導要領の間違い」とされ教師が攻撃されるはずである。そして、実際に就職を控えている生徒・学生は、求められているのは「考える力」なんかではなく、「調査や発表のスキル」だけなんだと見抜いて、形だけの調査レポートを量産していくことになるだろう。

 いや、アクティブ・ラーニングは「成功」するというかもしれない。多分、そういう成功体験論文が出世のために数多く書かれるはずである。教育の効果をきちんと測ることは難しい。一年二年で判ることでは本来ない。50年か100年たたないとはっきりとは言えない問題だろう。だけど、教師(教育官僚や教育学者なども含め)は、とりあえず「成功」したという論文を書き上げて報告しないといけない。他のことを犠牲にして時間を十分にとれば、大体のものごとはうまく行ったように見せることができる。だから、今後「アクティブ・ラーニングはこのように成功した」という報告論文が山のように書かれる。

 だけど、本来は「アクティブ・ラーニング」を行うには、教師が自分の人生を賭けて「自分の考え」を自分の言葉で語る自由と能力がいる。映画の中の例で言えば、宗教や政治に関する深い考え、そして自分の世界観がないとできない。今の日本では、この授業に関して教育委員会に「ご注進」に及ぶ親がいるのではないか。少なくとも、そう心配してテーマを変えてしまうのではないか。あるいはムダなことに時間を使いたくないと初めからやらない。そういう学校風土をまず変えないと、何がアクティブ・ラーニングだということになる。中国の文化大革命のときのように、「上に政策あれば下に対策あり」となり、形だけの調査学習、形だけのディベートが横行するに決まっている。
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大阪の「学テ結果入試利用」を批判する

2015年04月30日 23時02分36秒 |  〃 (教育行政)
 4月21日に、今年も全国学力テストが行われた。さまざまな弊害があると思うのだが、未だに実施されている。教育現場の力が落ちていると同時に、「学テ」という形で地域の学力差を測らざるを得ないほど地域格差が大きくなってしまった時代相を反映しているのだろう。今年は初めて理科が全校で実施され、小学6年と中学3年で、国語、数学(算数)、理科の3教科が行われた。

 ところで、今回の学力テストに関しては、大阪府が学テの結果を高校入試に使うという不可思議な方針を打ち出している。そのことを新聞記事で知った時には、いやあ、さすがだと思ってしまった。さすがに、維新支配下の大阪府教委、やることのおバカ度が抜群であるという意味である。そのことを知らない人もいると思うので、まず解説したうえで、その方針の間違いぶりを批判しておきたい。

 新聞記事を見てみると、その方針はこんなものである。
 「全国学力テストで、学校ごとの平均正答率を府全体の平均正答率と比較し、府教委が学校間の成績の差に応じて各校の内申点の平均値の範囲を決定学校はその範囲内に生徒全体の平均値が収まるように個々の生徒の内申点をつける。これにより学校間の成績の差を考慮するという。」
 そのような「操作」を行う理由は、以下のように評価方法を改めるためである。
 「府教委は、来春の高校入試から内申点の評価方法を校内の他の生徒との比較を元にした「相対評価」(10段階)から生徒ごとの目標達成度をみる「絶対評価」(5段階)に切り替えるため、学校ごとに評価の仕方に差が出るとの懸念が出されていた。」

 大阪府教委のホームページを見ると、「平成28年度大阪府公立高等学校入学者選抜における調査書の評定の取扱いについて」という文書が掲載されている。その中にある「調査書における目標に準拠した評価(いわゆる絶対評価)について」を見ると、具体的なことが載っている。それによると、例えば府全体の正答率が60.0%であるとして、A校は57.0%、B校は63.0%だったとする。そうすると、府全体を「1」とするときに、A校は「0.95」、B校は「1.05」の比較差が生じる。それに応じて、府全体の評定平均の目安が3.22であるとして、A校では「3.06」、B校は「3.38」を評定平均の目安とするというのである。それに応じて、評定平均はA校は「2.76~3.36」、B校は「3.08~3.68」とする。

 一読、一体これは何なんだろうかと思った。幾つもの論点があるが、まずは「学力テスト」の実施目的にそぐわないということである。文部科学省も、現時点では「懸念が十分解消されるか、引き続き協議する」と言っているようだ。(下村文科相の記者会見発言)テストを行えば、順位が生じる。当たり前である。普通はそのために、つまり順番をつけるために、試験とか試合とかを実施する。でも、そのために「学校そのものの学力差」を順位付けすると、さまざまな弊害が生じる。本来、学テの目的というのは、学習状況の実態把握、成果と課題を検証し、改善につなげるということである。文科省のタテマエではそうなっている。しかし、それを「競争」に利用した政治家が各地にかなりいた。だけど、日本では政治家などもともとあまり信用されていない。それに対して、「教育委員会」そのものがルール違反を公然と行うこととは、大きな違いがあるのではないか。まあ、教育委員会制度も変えられてしまった今では、言うのも空しいのかもしれないが。

 続いて、「学力テスト」そのものの問題である。学力テストは4月に行う。よって、実質的には「中学2年時の到達度を見る」ことになる。進路決定に使う評定は、3学期制なら2学期の成績である。夏休みまでは部活動を行い、夏休みから受験勉強に必死に取り組むというのが、部活動によって違いはあるものの、多くの運動部の生徒の生活である。まあ、数学や英語は急に伸びるものでもないけれど、それでも夏以後に本気を出して急速に学力を上げる生徒は毎年いるはずである。でも、こういう制度が実施されると、高校受験に中学2年時の学力が大影響を与えるではないか。2年の時には、「学力テスト向けの対策を実施する」ということが、学校全体の最大の教育活動になってしまうだろう

 また、調査書(内申書)をなぜ入学試験に利用するのかを考えてみれば、当日一発だと風邪を引いていたりすると不利だということもあるが、第一の理由は平常の学習活動を評価する、特に入学試験を行わない実技教科の成績を評価するということだろう。だから、試験を行わない教科の評定を1.3倍にするなどの措置を取ることが多い。また、そうでなければ、実技教科の授業にマジメに取り組まない生徒が出てくるのも避けられないのだろう。一方、府教委の方針だと、その辺りは何も触れていないから、国語や数学の成績を他校と比較して、体育や美術の評定も操作されるのだろうか。テストで測れる学力には限界があるわけだが、その中でも国語や数学(今年は理科も)のテストだけで、学校の評定範囲を決めてしまおうというのである。英語や社会の成績は、国語や数学に連動するのか

 さらに、学校全体の評定平均を学力テストの平均点で決めてしまうという問題。府教委の例でいうと、ある学校の正答率が63%、もう一つの学校が57%だというが、90点以上を取るような優秀な生徒がどっちに多いのかは実は判らない。下の方の生徒が多ければ、学力が高い生徒がいても相殺されて平均点は下がる。だから、学力が低い生徒でも、学校に居場所があり毎日来ていれば、その結果学校全体の評定を下げてしまうのである。学力の低い生徒が学力テストに参加すれば、学力の高い友人の足を引っ張ってしまう。どう考えても、明言するわけではなくても「無理してこなくていいよ」というムードが校内、地域内に満ちてしまうだろう。「イジメのない学校」ほど不利になるという不可思議な仕組みである。(大人のホンネを反映しているだけかもしれないが。)入学試験というのは、やり方はいろいろあれど、ベースは個人戦のはずである。だけど、大阪では今後「学テ団体戦」というのが登場することになる。

 そのような問題がすぐに思いつくのだが、一番根本的な問題は、これでは絶対評価ではないということである。絶対評価というのは、生徒一人ひとりの学習到達度を基準に照らして評価するというもののはずである。だけど、他校と比べて、学力テストの成績で評定を調整する。この「他校と比べて」というのが、つまり「相対評価」なのである。他校の成績と比べることなく、日常の学習活動を丁寧に見ていくことでしか、絶対評価というものはできない。大阪の公立学校教員は、(形の上では義務制は市町村教委の管轄で、また政令指定都市は独自の教員採用をしているかもしれないけど)、広い意味では「大阪府教委の部下」ではないか。その教員が付ける評定が信用できないというのだったら、そもそも絶対評価に変更することそのものが間違っているのではないか。絶対評価に変更するに当たっては、当然評価基準をどうするかを府全体で、また校内で研修を積んで行くはずである。それでうまくいくのか、いかないのか。別にこんな変な操作をしなくても大丈夫なように研修していくことがまず大事な時期なのではないか。この「相対評価」と「絶対評価」という問題は、もっと大きな問題につながっているので、もう一回書いておきたい。
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「道徳」は評価できるのか-道徳「教科化」問題③

2014年11月14日 22時33分38秒 |  〃 (教育行政)
 道徳の「教科化」などということにでもなれば、一番困るのは「評価」の問題である。道徳は果たして評価できるのか?その本質的な問題は後で検討するとして、とりあえず文章であれ何であれ「評価」しなければならなくなったとする。そのときはとんでもなく大変な事態が起きるだろう。つまり、全学級担任が関わっているのだから。学年生徒を何人かの教師で分担して教えることがある。4、5クラス規模ぐらいだと、学年を一人で持つことも可能だけど、大規模校だとそれはできない。また、社会科で歴史分野と地理分野を分けて担当するような場合もある。そういう場合、「評価」が教員ごとに大きく違ってはまずい。だけど、普通の教科であれば、定期テストの点数という一番基本になるものがある。そこに提出物や授業中の意欲などを加味すれば、大体「統一基準」が出来てくる。

 ところが「道徳」の場合、テストにはなじまないし、作文等の採点も教員ごとに基準がずれてきやすい。何しろ全担任が関わってくるので、「あの先生は厳しい」「あの先生は甘い」となってはまずい。基準をどうするか、その基準に沿って実際にどう評価するか。ものすごく多大な校内研修と作業時間が必要になるのは、目に見えている。生徒に道徳を説くはずが、生徒と接する時間が削られ会議と資料作成に追われることになるだろう。そのことに対する行政の配慮はできるのだろうか。

 その配慮とは何かと言えば、一言で言えば「教員定数の加配」である。つまり、担任が担当する時間とされていた道徳が、一つの「道徳科」という教科になったならば、教員定数を計算する際の「持ち時数」にならないとおかしいのである。そうでなければ「教科」とは言えない。「教科」にすると言っているのは教育行政の方なんだから、「道徳」を「担当授業時間数」に加えなければおかしい。そうすると、例えば6学級規模の中学校の場合、18時間の授業が新規に増加するわけだから、当然その分の教員が一人加配されなければおかしい。小規模校の場合は一人分にはならないかもしれないが、「道徳」分の講師時数増加が認められるべきである。それが「教科化」というもんでしょ。

 だけど、小学校1年生の「35人学級」にさえ文句を言う財務省の壁を、文部官僚が突破できるわけがない。結局、担任が負担を押し付けられるに決まっている。その時は教員こぞって反対するべきだけど、それも考えがたく「ま、仕方ない」程度になってしまうと思われる。で、どうなるかと言えば、校内に作られる「道徳教育委員会」などが「モデル評価文章例」を作成し、通知表作成時にパソコンで「コピペ」していく。または道徳評価の文章例が入ったソフトが開発され、それを統一して用いる。担任に多少裁量の自由があるだろうが、基本は学年で3つか4つのパターンに収まる文章が作られていく。そんなことではないか。確かに今までよりは手間がかかる。でも、まあ、そのくらいならいいかという範囲になってくる。そうでなければ現場はやっていけない。名前だけ「教科」になるが、だから一応文章評価はするけど、限りなく意味なき作業になっていく。思えば、ほとんどの学校で「総合的な学習の時間」も、そんなもんでしょ

 ところで、「道徳は評価できるのか」という本質問題に移る。中学、高校の教員免許は大学で「教職課程」を取るのが一般的だろう。その際、教科教育に関する教育と別に、教職に関する科目を取らないといけない。「教育原理」とか「教育心理学」などに加え、今では生徒指導やカウンセリングなどの授業もある。その中に「道徳教育の研究」とか「道徳教育指導法」といった講座があり、それを取らないと中学の免許が取れない。だから普通は中高の免許は両方持っているものだが、一部に高校の免許しか持たない教員もいるのである。

 僕の場合、その講義では「道徳は評価しない」「評価しないから道徳の授業が成り立つ」と教えられたものである。担当教員によって多少は違うかもしれないが、大方は「道徳は評価しないんだ」と教えられたと思う。「評価しない」のは、「評価できない」からである。それはもちろん、前回書いたような道徳で扱ういくつもの項目を解説することはできる。それを適切な題材を用いて、生徒に説得力をもって指導することもできるかもしれない。でも、しょせんは教師も人間、生徒も人間で同じ地平に立っている。「先生」と言われて、確かに「先に生まれている」けれど、だから「人生の先輩」として経験や知識は生徒より豊富だろうけど、生徒に求められる道徳は本来は教師にも求められている。だから、他の教科学習と違い、「教師も生徒も同じ立場で道徳を考える」のであり、確かに授業の進行ではリーダーシップを発揮するけれど、評価はできないのである。

 具体的に一つの項目を示す。「1の4」に「真理を愛し,真実を求め,理想の実現を目指して自己の人生を切り拓いていく」という文章が書いてある。これが人生において大切な教えだというのは、まあ大方の人が納得するだろう。「このことの大切さを理解できたかどうか」なら評価できないこともないだろう。でも、この文章を生徒と一緒に読んでみて、その生徒を「道徳」という教科で評価できると言える教師、あるいは親はいるだろうか。ほとんどの大人は子どもが勉強や部活動などでコツコツ努力する姿を見ていれば、自分の今の姿より立派だと思うのではないか。「理想の実現を目指して自己の人生を切り拓いていく」?ホントは他の仕事に就きたかったのに教師をしている自分の人生は何だと思う人も多いだろう。こんな「道徳」を教えて、生徒を評価できるなどと言える教師がいるだろうか。

 なぜ「道徳」の評価はしなかったのだろうか。「修身復活」への反発に対応して、戦前とは違い「評価はしない」という形で導入したという経緯が大きいだろう。が、それだけでなく、日本国憲法のもとでは「国家は国民の内面に介入しない」ということが大きいのではないかと思う。外形的な規制はできないことはない。デモを申請しても、公共の福祉の観点からデモの進路を変更させられることもありうる。しかし、その際に、デモの趣旨そのものを取り締まるわけではない。学校もまた、服装や頭髪の決まりを作ることはできる。そのルールを守らない生徒を指導することもできる。しかし、その生徒を「道徳的に劣っている」と評価してしまうことはできない。まあ、そういうロジックなのではないか。

 「道徳教科化」に伴い「道徳の評価」をすることになると、それは大変なことになると判るだろう。教師に生徒の内面評価の権限を与えることになる。それは「教師の内面」の方も腐敗させていくに違いない。「善なる目的」でそういうことを始めたとしても、教師が生徒を道徳的に評価できるんだったら、生徒が生徒を道徳的に評価してもいいではないかなどと思い込む生徒も出てくるだろう。「暗くて、遅くて、集団に迷惑な生徒」は、道徳が指導すべき「4の4」にある「自己が属する様々な集団の意義についての理解を深め,役割と責任を自覚し集団生活の向上に努める。」から見て問題がある。よって、道徳的に劣った生徒は「クラス皆で引き上げてあげる」べきである。これは実際は「皆でちょっかいを出す」という意味である。こうして、かえって「いじめ」は増加してしまう。そんなことはないか。

 「道徳教科化」のあかつきには、全国の様々な小中学校で、「道徳の評価法」に関する「研究」が盛んになるだろう。文科省や都道府県教委指定の「道徳教育研究校」がいくつも生まれる。かつて、大津市でいじめ事件が起きた中学は直前に「文科省指定道徳教育研究校」になっていた。僕もかつて、道徳研究校の直後に「荒れ」を経験したことがある。不思議というか、当然というか、教員が「道徳」を勉強する学校で問題が起こりやすいのではないか。偶然かも知れないが。でも、目の前の生徒を置き去りして、会議ばかり必要になるんだから当然かもしれない。特に「道徳」は全教員が関係するし、内容が内容だから、研究発表の論文などでも指導主事からのチェックが厳しい。正直言えば、生徒指導に手が回らない時もあるだろう。対応が後手後手になってしまうこともある。「道徳教科化」の果てに、かえって学校と教師の荒廃が起きる…という悪い予測をしてしまうのは僕だけではないだろう。
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「道徳」授業の実際-道徳「教科化」問題②

2014年11月13日 23時07分47秒 |  〃 (教育行政)
 自分が中学の教員で「道徳」を担当していたのも、もう20年以上前になる。その頃は「心のノート」なるものもなかったし、今とは相当に違うと思う。道徳の授業は、基本的に学級担任が行うとされているので、担任を持った年に「何かをやっていた」はずだけど、もう全然覚えていない。もっとも担当の教科でやっていた授業も全然覚えていない。学校行事などに比べれば、ほとんど記憶に残らないものである。ただ、はっきり言えることは、最近よく批判されるように、「道徳の時間」に「道徳」ではなく、「席替え」だの「(運動会などの)選手決め」を行うことは確かにけっこうあったと思う。

 今は「年間授業計画」の作成は義務付けられているし、「道徳」実施時数の調査などもあるので、昔よりは「道徳」をきちんとやっているのではないか。自分の時代は「月曜日の1時間目」に「道徳の時間」が設定されることが普通だった。それでは休日が多くなる。「ハッピーマンデー」なるものが出来た今では、「月曜の1時間目」では時数確保が難しすぎるので、他の時間にやっているのだろうか。でも、何かを月曜日に授業しないといけない。「学力向上」がこれほど叫ばれて、学校評価にも大きく影響するわけだから、ホントは「道徳」を月曜日に置きたいだろう。

 それに学校行事が近づいてくると、運動会や文化祭の準備に時間を取られる。どこかの授業をカットして、準備時間を作らないといけない。今は準備も短時間に減らされているかもしれないけど、昔はそういう時にも「道徳の時間」は大体最初にカットされていた。そして、それが問題であるとは全く思ってなかったし、今も思わない。なぜなら…という理由はいくつかあるけど、「道徳の時間」とは一体何なのだろう。「席替え」に使ってはいけないのか。確かにそれは本来は「学級活動」の内容だろう。でも、同じ担任がやってるんだし、「学活」が祝日や行事でつぶれることも多い。クラスの気分一新、新しい班作りで協力態勢を再編成することは、クラスにとって「道徳の実践」以外の何物でもない。

 「心のノート」などを使って、思いやりだの協調性だのと教師がいくら「道徳」を説いても、修学旅行の班決め運動会の選手決めなんかの時に、そのクラスの人間関係が試される。生徒と教師の底力はそういう場合に現れるのだと思う。行事の時期や休日の予定などを考え合わせ、「道徳の時間」を「柔軟に運用する」ことは、学校現場に必須のことであり、「道徳の実践」そのもので何ら非難されるものとは思わない。ましてや、そうやって「道徳」ではなく「学活」に使うから、いじめが増えるだなんてバカなことがあるわけがない。「道徳の時間」をもっと大切にすることが「いじめ対策」であり、そのために「教科化」するなどという発想そのものが現場的には理解不能だろう。

 ところで、「道徳」では一体どんなことをやっているのだろうか。実は僕は「文部省指定」の「道徳教育研究校」を経験したことがある。だから、中学の道徳教育にはある程度詳しいのだが、現行の指導要領を見ると、ものすごく詳しくなっていることに驚いた。1977年告示の中学学習指導要領は、国立教育研究所のホームページで見られるが、その当時は「16項目」と言っていた。(なお、いわゆる「愛国心」=「日本人としての自覚をもって国を愛し」という項目は、その当時から文言としては入っていた。)今の現行要領を見ると、4分類、24項目にわたって指導することになっている。 いやあ、これは考えるだけでも大変だなあ。あんまり細かく見てもどうかと思うけど、資料的な意味で触れておきたい。面倒くさいから飛ばしてけっこうです。

 まず、道徳の内容は4つに分かれている
1 主として自分自身に関すること
2 主として他の人とのかかわりに関すること
3 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること
4 主として集団や社会とのかかわりに関すること
  具体的な中身は文章による表記なので、全文を引用すると長くなり過ぎるので、簡潔にまとめる。
 例えば、「1の(1)」は「望ましい生活習慣を身に付け,心身の健康の増進を図り,節度を守り節制に心掛け調和のある生活をする。」が正式だけど、これは「望ましい生活習慣」と略する。

1 主として自分自身に関すること。
望ましい生活習慣 ②強い意志 ③自律の精神 ④真実を求める心 ⑤自己を見つめる、個性を伸ばす
2 主として他の人とのかかわりに関すること。
礼儀の意義 ②人間愛と思いやり ③友情の尊さ ④異性に対する正しい理解 ⑤個性尊重と寛容の心 ⑥感謝の心
3 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。
生命の尊重 ②美しいものに感動する心 ③生きる喜び(弱さや醜さを克服する強さや気高さ) 
4 主として集団や社会とのかかわりに関すること。
法やきまりの意義 ②公徳心及び社会連帯 ③差別や偏見のない社会の実現 ④集団生活の向上 ⑤家族の一員としての自覚 ⑥学級や学校の一員としての自覚 ⑦郷土愛、先人や高齢者への尊敬と感謝 ⑧日本人としての自覚、伝統の継承と新しい文化の創造 ⑨世界の平和と人類の幸福

 以上をちゃんと全部読んだ人は少ないと思うけど、教師でもあんまり指導要領を見ることはないかもしれない。でも、こういう項目に分かれていることは中学教員は大体知っているだろう。(小学校はもう少し少なくなっている。)今の「3の⑧」を僕は「日本人としての自覚、伝統の継承と新しい文化の創造」と略したけど、全部引用すると「日本人としての自覚をもって国を愛し,国家の発展に努めるとともに,優れた伝統の継承と新しい文化の創造に貢献する」である。だから「愛国心」とまとめてもいいのかもしれないが、単なる愛国心に触れることが目的ではなく、「新しい文化の創造」と結びついている。だからいいじゃないかということではないが。大体、学校現場では「3の8」「3の9」あたりまでは時間的にやりきれない。

 「道徳」の時間は担任がやると言っても、勝手に自分の考えで進めることは普通ない。学校の年間計画を受けて、学年会で来週の時間はどこをやると決めるのが普通だろう。学年や学級の課題(いじめがあったとか、修学旅行が近いとか)に応じて、内容を柔軟に変えていくことは普通。時事問題も使う。例えば、マララさんのノーベル賞受賞などは、一体どこに該当するかと言えば、もういろんなところにあてはまるだろう。「強い意志」でもあるし、「寛容の心」「差別や偏見のない社会の実現」「世界の平和」などいろんな切り口がある。まあ、そういう題材を選びながら、これらの項目を進めていく。「集団や社会とのかかわり」が昔より重視されている気はするけど、「国を愛する心」などは教育基本法に盛り込まれているわけだから、「道徳」にも当然ある。しかし、そこだけを重視するなどということは学校現場ではありえない。(年間計画を公表しているはずである。)問題は、これらの項目を「道徳の時間」で取り上げることと、「教科として学習して評価する」ことには大きな違いがあるのではないかと思うのである。
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道徳の「教科化」問題を考える①

2014年11月12日 23時04分34秒 |  〃 (教育行政)
 「道徳」の教科化という問題が起こっている。これは「戦後教育の転換点」だと思う。しかし、その現場的な意味が十分に理解されているとは思えない。反対派の中にも、これは「安倍首相の『戦争をできる国作り』を支える政策だ」などと思っている人がいるらしい。例えば、週刊金曜日11.7号(1015号)に北村肇氏が書いている「『道徳』教科化を笑う」という小文などは、その一例ではないか。「安倍氏らの考えているのは『修身』の復活なのだろう。自己よりも国家を優先する思想に染め上げれば、戦争をしようが、労働力を搾取しようが、言論の自由を奪おうが、国民は国家に盾つかなくなる。『非国民』は獄につないでしまえばいい―。」小学校と中学校で、週に一時間教えるだけで、そこまでの凄いことができると本当に思っているのだろうか。教える教師は、その目論見をそのまま教え込むのか。

 そう考えてくると、道徳の「教科化」にそこまでの過剰な危機感(あるいは期待)を覚えるというのも、一種不思議な「現場無視」ではないかと思う。この問題の流れを見て来れば、これは直接的には「いじめ対策」から出てきたものだと判るだろう。だから、道徳「教科化」がいじめ対策としてふさわしいか、効果的なのかを論じなければ意味がない。次回以後に書くように、この「教科化」がもたらす「教師の負担増」はものすごく大きいだろう。それに見合った「負担軽減策」がなければ、いじめはかえって増加するだろうし、多分多くの学校はふたたび「荒れ」を経験することになるのではないか。

 さて、本格的にこの問題を論じる前に、基本的なおさらいと現状を書いておきたいと思う。戦前まで、日本の小学校には「修身」という教科があった。これは「忠君愛国」を教え込む性格のものだったので、占領下に廃止され、以後確かに右派は「修身復活」を主張している。今でもそういうことを言う人はたくさんいる。占領後にそういう議論があったが、「修身」ではなく「道徳」に「教科」ではなく、「道徳の時間」という扱いで、1958年に告示された学習指導要領で小中学校に新設され、(非常に例外的なことに)告示の年から直ちに実施された。その後、ずっと週に一時間「道徳」の時間が置かれているわけだけど、「道徳」以外のこと(主に学級活動)に使われることは確かに多かった。

 今回の「教科化」の流れを見ると、「上から」進められていることが明らかである。(だから、「安倍復古教育」を危ぶむ声が出てくるのも理解はできる。)安倍首相の下で「教育再生実行会議」が首相官邸に設けられ、その第一次提言に、いじめ対策として「道徳教科化」が打ち出された。(2013年2月)続いて、その具体化をめざすために「有識者会議」が作られた。正式には「道徳教育の充実に関する懇談会」で、2013年12月26日付で報告書が出された。続いて、2014年2月に、文科省が中央教育審議会に「道徳に係る教育課程の改善等について」を諮問した。その答申は2014年10月21日に出された。「道徳に係る教育課程の改善等について」である。このように、教育行政の手順を踏んできているので、このまま何もなければ次回の学習指導要領で正式に「教科」となるわけだろう。しかし、具体的な細かい問題が山積しているので、僕はそう簡単には進まないと見ている。要するに、ただ「教科」と呼ばれるようになっただけ、ということに当初はなるのではないか。

 では「教科」とは何なのか。法的な用語ではなく、どこかで正式に決まっている定義もない。だけど、学校で教えるべきことは、歴史の流れの中でいくつかの分野にまとめられていることは間違いない。寺子屋だったら「読み、書き、そろばん」とか。その場合の「3つの分野」が、言ってみれば「教科」ということになる。だから、道徳を「教科」にするということは、国語とか数学とかと道徳を同列の「学習対象」にするということである。なお、高校は「教科」の下に「科目」があるが、小中は「教科」しかない。中学社会科の地理、歴史、公民は、それぞれ違う教科書を使うが、それは「分野」と呼ばれて同じ社会科の一部分である。落第のない小中と科目ごとの「修得単位数」で卒業が決まる高校の違いである。

 中学校ではどのような教育活動を行うのだろうか。それを「中学校学習指導要領」で見てみたい。大きく分けると4つになり、「各教科」「道徳」「総合的な学習の時間」「特別活動」になる。一応書いておくと、「各教科」というのは、国語、社会、数学、理科、音楽、美術、保健体育、技術家庭、外国語の「9教科」である。「特別活動」は、学級活動、生徒会活動、学校行事に分かれる。「道徳」の中身がどのようなものかは、ここで書くと長くなるので次回に回すが、この「教科」とそれ以外の違いは何だろうか。言うまでもないだろう。「教科」は5段階で評価され、それが上級学校進学に大きな影響を及ぼす。「総合学習」も確かに「評価」らしきことはするのだが、これは「活動の時間」だから、「しっかり活動し、成果を挙げたか」といった評価基準となる。

 一方、「教科」は「学習」なので、「学習到達目標」に応じて、各生徒の到達度を数値で評価する。それがどれだけ客観的なものか、正確な評価かどうかは問題になるけど、「二次方程式を解けるかどうか」とか「英単語をどれだけ覚えているか」は、大体の評価はできるだろう。テストで100点を取ったら、それは求めるべき学習到達度から見て、成績は「5」だろう。そのテストがどれだけ客観的な学習能力を反映するかには疑問もあるけど、まあ、そう難しいことを言わなければ、教師による評価はできる。それが学校成立の根拠だし、それを皆が重要視している。では、「道徳」を「教科」にするとどうなるのか。「道徳」は「学習」の対象になってしまうのである。だから、「評価」の対象になってくる。今のところ、数値による評価ではなく、文章による評価という方向で検討されているが、「評価」が必要なのは間違いない。でも、一体「道徳」の何を評価できるんだろうか。「理解度」だろうか、「実践」だろうか。でも、道徳は「理解」すればいいというもんではないだろう。結局、この問題を深く考えていけば、「学校」とか「教師」とは何だろうという問題になってくる。その問題を考えずに、道徳教育を強化するのはいいことじゃないか、程度で進めてしまうと、ものすごく大変なことになってしまうと心配である。
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