尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

教員の「出願ミス」という問題ー東京では起こらないニュース

2024年04月25日 22時34分18秒 |  〃 (教育問題一般)
 「クラス替え」に続いて、「願書の提出ミス」という問題を考えたい。これは時々報道されているから、各地で起こる問題なんだろう。『「教師の事務的ミス」という大問題』を2015年に書いたことがある。教師も人間なんだから、当然幾つかのミスを避けられない。自分も同様だけど、進路先の出願を忘れてしまうという致命的ミスは起こさなかった。当然である。東京では高校の出願には生徒本人が行くことになっているから。東京から見ると、何で学校がまとめて出願するのか理解出来ない。

 全国各地の学校には様々な慣習があって、学校にも「謎ルール」がいっぱいある。最近新聞で見てビックリしたのは「水滴チェック」。「修学旅行などの宿泊行事で入浴後、教員が児童生徒の体がぬれていないか全裸の状態で確認する「水滴チェック」と呼ばれる指導」だそうである。何それ? 今どきやってたらセクハラ、パワハラとか問題になりかねない。僕は生徒の時も、教師になっても、こんなことを経験したことはない。大体「体がぬれていないか」なんて、どうでもよい問題である。

 今回の出願ミスは福岡県の私立高校で起きたという。なかなか複雑な背景がありそうだが、まあ一応「解決」したようだから、ここでアレコレ書くこともないだろう。そもそも今回の希望校は「公立」ではあるが、県立ではないという。全国で3つしかない「組合立高校」なんだという。もちろん教員組合が作った学校という意味じゃない。市町村が連合して作った「学校組合」が設置した高校なのである。その由来はどうでも良いけど、問題はその高校の出願日が県立高校とは別の日だったという。大体の生徒が内部進学する私立中学だったらしく、教員も外部受験に関して経験が少ないんだろう。(だからミスしてよいわけじゃないけど。)

 このようなミスを防ぐ方法は一つしかない。それは「生徒本人が願書を提出しに行く」ことである。自分の経験ではそれが当たり前すぎて、学校がまとめて出願するなんて発想が浮かばない。本人が病気などで行けない時は、保護者が行っても良い。一端当日に登校させて、調査書などを渡したあと、一斉にスタートしたように思う。だから、どうして学校がまとめるのか不思議なんだけど、考えてみると「交通事情」かもしれない。朝の登校時間を逃すと、電車もバスもほとんどないという地域も多いだろう。

 しかし、全県的にそういうわけでもないはずだ。試験日には実際にその学校に行くわけだから、出願も本人が行くべきなんじゃないか。あるいは「授業確保」という意味もあるのかもしれない。だけど、進路先への出願は「私事」である。出願に必要な書類(調査書等)の作成、あるいは進路先決定の支援は、教員の仕事そのものである。だが進路先そのものは本人(と家庭)が決めるべきものだ。「学校でまとめて送る」となると、教員の指導、つまり「落ちる可能性があるからランクを下げるべきだ」に生徒が抗しにくいのではないだろうか。

 これからは「インターネット出願」が増えてくるのだと思う。課題も多いだろうが、そういう方向に移っていくと思う。コロナ禍で「郵送」も多かった。学校が郵送するのではなく、生徒個人が郵送するわけである。だけど、試験日の練習の意味でも、実際に行く意味はある。自分の時は都立高校が「学校群」の時代だった。2~3の高校をまとめた「群」を受けるのである。その際、出願指定校と受験校が違うことがある。僕の場合、出願が白鴎高校、試験が上野高校だった。上野高校を見ておこうと出願した仲間同士で行ってみた記憶がある。学校説明会なんかある時代じゃなく、白鴎も上野もその日初めて行ったのである。
(東京のネット出願のイメージ)
 ところで風間一樹というミステリー作家がいた。結構好きだったんだけど、1999年に56歳で亡くなってしまった。今では文庫本にも残ってないだろう。風間一輝(名義)の最初の作品は『男たちは北へ』(1989)だが、この小説では「中学のミスで都立高校を受けられなかった」高校浪人が自転車で国道4号線を北へ向かう。それとともにある「謎」を秘めた男たちも、北を目指していく…という設定である。面白い本なんだけど、以上の説明の通り、都立高校では「中学の出願ミス」は起こらないのである。

 前回書いたクラス替え問題では、これは前にも書いたことがあるが、岩井俊二監督の傑作映画『Love Letter』の問題がある。小樽の中学校で、男女で同名の生徒が同じクラスにいたことから起こる物語である。とても良く出来ていて、中山美穂も最高。だけど、2年4組に「藤井樹」(ふじい・いつき)という同名生徒が男女ともにいたという設定はおかしいだろう。もし事前に誰も気付かなかったとしても、事後にやり直すレベル。何しろ4組まであるんだから、絶対に離すはずである。

 つまり映画や小説に「学校」が出て来たときは、あり得ない設定が多すぎるのである。物語の効果のために、学校のリアルを無視している。カンヌ映画祭脚本賞の是枝裕和『怪物』にも疑問があった。もちろんもともとファンタジーみたいな設定の話ならどうでもよい。だけど、やはり学校のリアルを追求する場合は、誰かアドバイザーを頼むべきだと思う。
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クラス替えはどうするのか②ー様々な配慮を積み重ねて

2024年04月24日 22時50分06秒 |  〃 (教育問題一般)
 「クラス替えはどうするのか」の2回目。1回目では「まず成績順に並べてみる」と書いた。これはおおよそどこの学校でも同じだろうと思う。そこから、いろいろな「配慮事項」を検討していくことになる。おおよそ「要配慮生徒の扱い」「リーダー生徒の扱い」「その他の事項」になるだろう。クラス替えをやり直したというのも、その「配慮」に欠けた点があったということらしい。

 検索していると、「保護者が要望を出して良いのか」という悩みがかなり出てくる。教師がすべて気付けるわけではないから、気に掛かることは伝えた方が良い。1年生の担任が異動して、2年生から新たに担任に入ったようなケースも多い。1年生の時に起こった問題を知らないわけだから、言っておく方が良い。担任に直接言いにくかったら、学年主任や管理職に伝える手もある。学校側は「様々な条件があるので、必ず要望に応えられるとは確約出来ないが、必ず議論して連絡します」と答えるべきだろう。

 さて「要配慮」にも幾つもある。まず最初が「生活指導案件」。多くの中学校では何かしら生活指導上の問題が起こっている。ケンカ、喫煙、いじめ、万引きなどなど。なければいいけど、それでも多少は「ボス的存在」と「子分的存在」(いわゆる「使いっぱ」)が形成されるものだ。良い悪いというより、それが思春期集団というものだろう。だけど学校としては、その集団を「解体」することになる。ボス的存在を別々にしなければ、そのクラスの勉強が成り立たない。ボスと子分を離すのも当然。

 さらに重要なのは、「障害生徒」「不登校生徒」が一クラスに偏らないようにすることである。これは担任の負担平等化である。障害のある生徒は今は「特別支援」という仕組みもあるが、昔はクラスの中に混じっていたことも多い。身体障害、知的障害(傾向)は判るが、かつては「発達障害」の理解が不足していた。当然「自閉症」「学習障害」「ADHD(多動性障害)」、あるいは「緘黙」などの生徒もいたと思う。「不思議な生徒」扱いされていた感じだろうか。「不登校」も昔からあった。

 ところで、「分ける」「離す」と言うけど、具体的にはどうするのか。まあ、4クラス程度あれば、自然に別々になることが多い。それでも同じになっていた場合、「同成績グループ」どうしで交換することになる。しかし、交替可能生徒がまた別の要配慮生徒だったりして、ひとり動かせば玉突き的に大幅な変更になる場合もある。その場合は上下の成績グループで変更可能性を探るしかない。将来はAIでやるのかもしれないが、昔は「紙の生徒名簿」を作って並べ替えていくことが多かったと思う。

 もう一つ「お世話生徒」の問題がある。病弱や障害生徒には、家も近く小学校時代からプリントを届けたり、旅行行事で一緒のグループになったりしてきた生徒がいるものだ。これが難しくて、思春期を迎えると「そろそろ離れたい」と思っていたりすることもある。クラス内で「低位」の生徒を「お世話」していると、自分も「高位」集団に入れない。一方お世話される生徒の方にも「自立」志向が出て来たりする。その問題で保護者から要望されることも多いと思う。僕はざっくばらんに生徒に聞くのも有りだと思う。ちゃんと頼めば、(どっちの場合でも)納得してくれるんじゃないか。

 さて次は「リーダー生徒」である。本当はこれが一番重要だと思う。各クラスには生活面でリーダーになる生徒が必要だ。委員決めや旅行の班分けで、延々と時間を取るわけにいかない。それに3年生だと生徒会役員がいるはずで、普通はクラス委員にはなれない。だから生徒会役員ばかり集まらないように配慮する。またリーダー生徒にも相性があり、やる気があっても打ち消しあってしまうことがある。異性が気になる年代でもあり、リーダーどうしがうまく行くかという問題もある。

 また「行事リーダー」という問題もある。「運動会」にはクラス対抗リレーがあるから、各クラスの足の速い生徒が何人か必要だ。中学では「合唱コンクール」があることが多いだろうが、ピアノ伴奏が出来る生徒が最低一人いないと困る。その他考え始めれば切りがないが、これらのことを考えて当初の案を変えていく。最終的に何が最適か、やってみないと誰にも判らないが、事前にいろいろと練っておくべきのである。

 最後に「その他の問題」。まずは「双子やいとこは別クラスにする」。また4クラス程度あれば、必ず「佐藤」「鈴木」などの生徒が複数いる。出来れば別が望ましいが、同学年に5人以上いれば、どこかのクラスに2人入る。その場合は出来れば性別が違うといいけれど、あまり変えるのも大変ならやむを得ない。それと「旧クラスから最低でも数人入れる」。旧クラスといっても仲が良い関係ばかりじゃないけど、それでも同クラスの人数は数える。中学だと複数の小学校から来ていることが多いが、「卒業小学校別人数」もばらける方が良い。家庭訪問時に同一地区ばかりじゃ不公平になる。
(クラス替えの地域差)
 まあ挙げればもっとあるかもしれないが、およそこんなことを考えるのである。多分「クラス替えの実証的研究」はないんじゃないかと思う。探すと小学校の場合だが、地域差があるという地図が出て来た。その理由などは不明である。実際のクラス替えは、個人情報的観点からはっきりと書けない部分がある。それにいくら配慮したつもりでも、何か忘れてしまうことがある。複数で確認するが、いやあ、しまったという経験もある。だけど、長い目で見れば、新しいクラスが形成されるにつれ、新たな人間関係を作っていくことが多いだろう。教師や親が心配し過ぎない方が良いのかもしれない。
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クラス替えはどうするのか①ーまずは「成績」で分けてみる

2024年04月23日 22時23分16秒 |  〃 (教育問題一般)
 新書本の感想だとどうしても対象テーマが堅くなる。書く方も飽きて来たので、違うテーマで少し。ブログ開設からしばらくの間は、教育問題を書くことが多かった。教育行政への怒りが書くエネルギーとなっていたわけ。自分で読み直すと、案外いいこと書いてるじゃないかと思ったりする。もう教員を辞めてから長くなって、「教育」について書くなら早いうちにと思う気持ちがある。(なお「教育政策」に関しては、国民誰もが発言して良いから別扱いになる。)

 今回は「クラス替えはどうするのか」を書いてみたい。某県の中学校で、一端発表された新クラスが撤回され、クラス替えがやり直しになったとか。これは極めて珍しいケースだと思うが、今までにあったとしてもニュースになってないのかもしれない。新学期になって、突然新しい転入生が来ることになって、その一人のために基準を上回って1クラス増えたという話なら聞いたことがある。しかし、その場合も春休み中(生徒への発表前)にやり直したという話だったと思う。

 自分もかつて中学や高校の勤務時に、何回かクラス分けを経験したものである。もちろん自分が通っていた時代にもあった。昔の小中学校では結構「クラス替えなし」(担任ごと持ち上がり)が多かったと思う。自分の小学校時代は、3年、5年になるときと2回しかクラス替えがなかった。中学は2年になった時だけだった。(高校は毎年。)しかし、自分が教員になったときは、「毎年クラス替え」が一般的になっていた。校内研修で誰かエラい人が来て、「担任と合わない生徒もいるから、毎年シャッフルする必要がある」と言っていたと記憶している。

 高校の場合は、特に一年生の時は「芸術選択」(音楽、美術、書道)で分けるのが普通だ。また専門高校(特に工業高校)の場合、少人数の学科が多くもともと卒業まで1クラスという学校も多い。進学校でも3年間同じクラスという例があるようだ。自分の経験では、夜間定時制高校では「単学級」校だったから、クラス替えをやれなかった。また単位制高校では授業がひとりひとり別々の時間割になる一方、ホームルームは最後まで固定だった。つまり自分は21世紀になってからはクラス替えを経験してないのである。

 だから自分の経験はもう四半世紀以上前のことになるが、「クラス替え」について書いてるブログなどもあって、今もほぼ同じだなと思った。以下は主に中学3年生を想定して書く。今は私立や公立中高一貫校へ行く中学生も多いだろう。また「学校選択制」などもあるが、それでも公立中学は一応「地域の生徒を幅広く集める」場所だろう。そうなると、成績を上中下で言えば、「中」が一番多い「正規分布」に近づくはずである。クラス替えの基本は、各クラスの成績を「正規分布」に近づけることである。

 中高の学習や部活動は、結局は「進路決定」に結びついていく。現実の進路決定と成績は完全にリンクはしないが、一応「成績上位生徒の方が進路決定がうまくいく」蓋然性が高い。また中学では「学習系行事」も多いし(スペリング・コンテストなど)、今は全国学力テストもある。また定期テストでは「クラス平均」を出すことが多い。最初から低学力生徒が多かったら、学習集団として成り立たないだろう。ということで、まず最初にやることは「成績順に分けてみる」ことである。

 「成績」といっても何を基準にするか。昔は「業者テスト」を校内で行って、それを基準にしていたことが多いと思う。ある時から使えなくなって、今は「評定合計」が多いのかと思う。つまり「5」「4」など各教科の成績を足した数字である。それでも何教科を対象にするか、1年の成績を加えるかなどヴァリエーションがあるだろう。それを全員分並べて、高い方から並べていく。4クラスだとすると、「1位から4位まで」を第1グループとして、「5位から8位まで」の第2グループは折り返して並べる。つまり5位を4位の下に置き、そこから6位、7位、8位と置いて、次はまた折り返していく。それを繰り返すわけである。
(4クラスの場合)
 今はパソコンですぐ出来ることも、昔は手作業で出していた。それでも80年代半ばになると、パソコンに強い教員が駆使してすぐに作っていたかと思う。ところで、今は男女混合名簿の場合が多いと思うが、クラス替えのデータは男女別に作るだろう。体育の授業は性別で行うからである。(「技術・家庭」は昔は男女別だったが、今は共通カリキュラムになってるという話。)この成績順名簿がまず最初に作る基本データで、いろいろな配慮事項によって新しいクラスが作られていく。

 案外長くなってしまったので、一端ここで切って「様々な配慮」でクラスが作られていくところは次回に回したい。ところで、この「クラス替え」は誰が担当するのかという問題がある。それは「学年団」の仕事だが、場合によって担任教員が新年度に変わることがある。特に2年生になるときは、異動する教員がいるものだ。異動内示、新校務分掌提示が終わって、その時点の旧担任団が「成績順データ」を作る。おおよその配慮事項を考慮した「原案」を春休み中には完成させる。最終的には4月初めに「新担任団」の学年会議で、持ちクラスを含めて決定するという流れが普通だろう。

 今後は少子化で1クラスの学年、あるいはせいぜい2クラスという学年も多くなると思う。そうなるとクラス替えが出来ない。2クラスあれば替えられるが、「こっちか、あっちか」という問題になる。そこも含めて、クラス替えがうまく行くかどうか、そこに学年団の力量が見えてくると思っている。
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日米地位協定を考える2冊の新書ー『日米地位協定』『日米地位協定の現場を行く』

2024年04月22日 23時00分55秒 | 〃 (さまざまな本)
 日米地位協定を考える2冊の新書。まず山本章子宮城裕也日米地位協定の現場を行くー「基地のある街」の現実』(岩波新書、2022)を読んだ。今まであまり「沖縄の基地問題」や「日米安保条約」などの記事を書いていない。世界のすべての社会問題を書けないので。でも問題意識は持っていて、新書レベルなら買って勉強したいと思う。著者の宮城氏は毎日新聞記者で、山本氏は琉球大学准教授。その山本章子氏は『日米地位協定』(中公新書、2019)で石橋湛山賞などを受賞したと紹介されていた。果たしてその本を読んだのか、買ったけど読んでないのか。そうしたら他の本を探した時に出て来たのである。

 『日米地位協定の現場を行くー「基地のある街」の現実』というのは、まさに題名通りの本で「基地のある街」現地ルポである。宮城裕也氏(1987~)は沖縄県宜野湾市生まれで、沖縄国際大学卒業後、毎日新聞に入社した。つまり沖縄の「基地問題」を身近に知っていて、本土の青森県などで勤務したのである。青森赴任時は米軍基地のある三沢を訪れ取材を重ねてきた。その他に首都圏の厚木基地や山口県の岩国飛行場、そして自衛隊築城基地新田原基地、種子島近くの馬毛島、沖縄の嘉手納基地を取材してまとめたのがこの本である。各地の実情がよく判るので、読む価値がある。

 宮城氏が出た沖縄国際大学と言えば、2004年8月13日に起きた「米軍ヘリコプター墜落事件」を思い浮かべる人も多いだろう。宮城氏は高校2年生だったが、この事故がきっかけになって沖国大に進学して基地問題を学んだという。この事故は夏休み中だったので奇跡的に人的被害がなかったが、大学キャンパス内に米軍ヘリが墜落したのである。一つ間違えば大惨事になりかねなかった。それとともに、事故直後の米軍が一帯を封鎖して日本側の警察、消防、自治体関係者も中へ入れなかった。もっともその措置は「合法」である。「日米地位協定」があるからだ。さらにこの本で知ったが、国会審議を経ない「合意議事録」というのが根底にある。
(沖国大米軍ヘリ墜落事故)
 そのように米軍基地で起こることに日本側は発言権がないとなれば、全国で「民族派」の怒りが爆発するのかと思うと、もちろんそうではない。それどころか、この本で読むと「米軍基地とは共存していく」と思っている現地の声がかなりある。もちろん騒音問題などが揉めているところはあるが、全国各地で「基地は迷惑だから米軍は撤退して欲しい」と思っているだろうという思い込みは間違いなのである。それにしても、最近大問題になっている基地による水質汚染なども、日本とドイツでは対応が違うようだ。「国防」の名の下に「国民生活」が脅かされる。帯にあるように「日米同盟のもうひとつの姿を映し出す」本である。
(山本章子氏)
 じゃあ、その地位協定とは何だろうかと問うときに、山本章子日米地位協定』(中公新書)はまず読むべき本だろう。もっとも新書本と言っても短い学術書という感じなので、全員読むべしというのはちょっと大変か。それでも頑張って読めば、戦後日米「同盟」史のあらかたの流れがつかめるだろう。戦後のサンフランシスコ講和条約と同時に締結された「日米安保条約」。その時に結ばれたのは「日米行政協定」だった。そして、安保条約が改定されたとき(「60年安保」)、行政協定が「日米地位協定」に改められた。しかし、同時に非公開の「合意議事録」が作られたわけである。

 それからヴェトナム戦争、沖縄返還、「思いやり予算」と続き、1995年がやってくる。米兵による少女暴行事件が起こり県民の怒りが爆発した年である。それら全部を細かく紹介する余裕がないが、表面的には覚えているニュースの裏にこういうからくりがあったのかと思った。沖縄県は直接協定改定を要望している。ドイツ、イタリア、韓国と比べても、地位協定改定交渉を日本政府が全くネグレクトしているのは何故だろうか。しかし、現実にはなかなか難しいのだと思う。日本政府はジブチに自衛隊基地を置いていて、そこでは同じような「地位協定」を結んでいるからである。

 そして、問題はそれだけではない。地位協定を改定して、米兵が犯罪行為を起こした場合、直ちに日本当局が身柄を拘束出来るようになったとする。その場合、日本の警察、検察の取り調べ時には弁護士の同席が認められていない。そのような「野蛮な司法制度」を有する国に、米国民を委ねてよいのか。そういう声がアメリカで湧き起こり議会の承認が得られないに違いない。日本の様々な制度が国際的な人権水準を満たしていない現状があるのは間違いない。アメリカから見れば、日本は「アジアの後進国」であって「不平等条約の対象国」とまでは表面的には言わないだろうけど、底流にはそういう見方があるんじゃないか。

 なお、山本書でイタリア憲法に戦争放棄条項があると知った。Wikipediaのイタリア憲法を見ると、以下のような条文である。「イタリアは、他人民の自由に対する攻撃の手段としての戦争及び国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する。国家間の平和と正義を保障する体制に必要ならば、他の国々と同等の条件の下で、主権の制限に同意する。この目的を持つ国際組織を促進し支援する。」イタリアも敗戦国で、国民投票で王政を廃止してから、新たな共和国憲法を制定した。この結果、ドイツがアフガニスタンに派兵し(数多くの犠牲者を出した)のに対して、イタリアは同じNATO加盟国であってもPKO活動以外に自国外に軍隊を送らないという。その制定過程や運用実態はよく知らないが、比較検討が必要だろう。
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桃月庵白酒独演会で、白酒三席を聴く

2024年04月21日 21時59分06秒 | 落語(講談・浪曲)
 北千住のシアター1010桃月庵白酒独演会を聴きに行った。区民割引で久方ぶりに夫婦で落語。劇場は駅の隣(丸井)の11階だが、終わってからホームまで行くより、電車に乗って最寄り駅まで行く時間の方が短い。それぐらい近いのは楽。2時から4時の会で、前座一人(桃月庵ぼんぼり)の後、桃月庵白酒が中入りをはさんで連続三席。「独演会」ならではだが、独演会と言っても弟子の二つ目も入って、本人は二席ぐらいのことも多い。今一番脂が乗っている噺家の一人だから満足したけど、体力は大丈夫かな。

 前座は「元犬」で、白犬が人間になっちゃう噺。割合とよくやられている噺だ。面白いんだけど頑張ってねという感じ。続いて、色物(紙切りとか大神楽など)も入れず、白酒師匠が二席。マクラのとぼけ方や他の落語家の話題が面白いのは有名だ。今日も落語家は人を笑わせる商売だから、本人は笑ってない人も多い。鶴瓶師匠とか目が笑ってないでしょ、「笑点」の宮治さんなんかも。というのが大受けしていた。言われちゃうとそんな気がしてしまう。

 最初は「代書屋」。これは柳家権太楼がよくやる噺で、どうも権太楼節が頭に響いてしまう。三遊亭小遊三でも何度か聴いていて、多くの人がやってる。履歴書を書いてもらいに、無筆の男が代書屋を訪ねる設定だから、江戸時代の長屋じゃない。いつ頃かというと、日中戦争期に上方落語の4代目桂米團治が作った新作だという。米團治は本当に代書屋をやってたという。そこに自分の名前も生年月日も答えられないトンチンカンが「歴史書」を書いてくれとやってくる。抱腹絶倒だが、人によって細部の工夫が違う。鹿児島出身の白酒は、依頼人の名前を西郷隆盛にしていた。誰にも負けぬ可笑しさの爆笑ネタに満足。

 一度引っ込んだ後で、すぐ出て来て今度は「松曳き」という噺。これは知らなかったので、検索して調べた。 お殿様とお付きの田中三太夫のバカ噺である。このコンビの噺は幾つもあって、「妾馬」(めかうま)のような名作がある。この「松曳き」は殿様が松が伸びすぎて月が見えにくいので移植したいと思うが、三太夫は先代お手植えだからと一端止める。「餅は餅屋」ということで、出入りの植木屋に尋ねるが、植木屋はバカ丁寧に何でも「奉る」をくっつけてしゃべるから、何が何だか判らない。そこら辺が聴きどころ。その時三太夫に早馬が届き…。誤解や早とちりが積み重なる噺。白酒の演じ分けが楽しい。

 その後中入り(休憩)をはさんで、今度は「山崎屋」。これも初めて聴いたので調べた。40分近い長講で、吉原に入りびたる若旦那を番頭が諫める。が、実は若旦那も番頭のスキャンダルを握っていて…。ということで、二人でなじみの花魁(おいらん)を身請けして、いろいろと画策して大店の嫁に迎えてしまおうと作戦を立てる。当時は吉原が江戸では「北国」(ほっこく)と呼ばれていたという。その知識がないと最後の展開が判らない。だから最初に解説するんだけど、廓噺の中でも「明烏」「二階ぞめき」「幾代餅」なんかと違ってあまり演じられないと思う。サゲだけでなく、全体の展開が判りにくい点がある。だけど、そういう噺を聴けるのも「独演会」ならでは。持ち時間が短い寄席ではやりにくい。

 桃月庵白酒(1868~)は、1992年に五街道雲助に入門して、2005年に真打昇進。師匠が昨年「人間国宝」に認定され、一門も盛り上がっている。実は昨日、都内で雲助一門会が開かれていた。まあ二日続けて聴かなくてもと思って行かなかったが。真打昇進時期が近く、今はともに落語協会理事を務める柳家三三古今亭菊之丞らと並び、今後の落語協会を引っ張っていく存在になるだろう。多くの人にも聴いて欲しい落語家だ。(忘れないように落語界はすべて記録しておくので書いた次第。)
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『アメリカ人のみた日本の死刑』、死刑の「デュ-・プロセス」とは?

2024年04月20日 22時40分58秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 この際だからとたまっていた新書本を読み続けている。つい買ってしまったまま、今では授業に使うわけでもないから読みそびれている新書がいっぱいある。今読まないと一生読まずに終わりそうだから、読みたい本を差し置いて先に読んでるわけ。日米地位協定に関する本を読んだが、それを後に回してデイヴィッド・T・ジョンソンアメリカ人のみた日本の死刑』(岩波新書)を取り上げたい。2019年に出た本で、著者は日本の司法制度を研究してるハワイ大学教授(社会学)である。 

 死刑制度に関心があるから(というか、死刑廃止論者だから)この本を買ったわけだが、何だか知ってる内容が多いかなと思って読まずにいた。165頁ほどのそんなに長くない本だが、読んでみたらやはり「外の目」で見ることは大切だと思う指摘が多かった。最近「死刑執行の当日告知違憲訴訟」の判決があったばかりである(4月15日)。判決文を読んだわけではないけれど、報道でみる限り論点を外しているんじゃないかと思う。それもあって、この本のことを書いてみたいのである。
(当日告知訴訟判決)
 その訴訟は「死刑執行を当日の朝告知するのは憲法違反」と主張した。詳しく言うと、当日告知は「弁護士への接見や執行の不服を申し立てることができず、適正な手続きを保障した憲法に違反する」として、国に慰謝料や当日の告知による執行を受ける義務がないことの確認を求めたのである。それに対し、判決は「原告の死刑囚は、当日告知を前提とした死刑執行を受け入れなければならない立場であり、訴えは確定した死刑判決を実質的に無意味にすることを求めるもので認められない」とした。

 先の新書にもあるが、アメリカではこのような「当日告知」はあり得ない。もっと早く告知する(というか本人や弁護士に告知だけではなく、社会全体に発表する)ので、死刑囚が州知事に恩赦を請願したりする。(裁判は州ごとで、死刑廃止州もある。連邦犯罪にあたる場合は、大統領が判断する場合もある。)執行当日は家族も見守る中、死刑賛成派、反対派が詰めかける。ある種「騒然」とするわけだが、それが「民主主義社会」の当然のありかたと思うんだろう。その間死刑執行をめぐって様々な「異議申立て」がなされるが、それこそ「適正手続き」(デュー・プロセス)なのである。
 
 この新書を読んで、「日本では死刑が特別な刑罰ではない」という指摘が印象的だった。日本でも一応公的には「死刑は生命を奪う特別な刑罰である」と言っている。死刑そのものが憲法に反するかどうかが問われた裁判では、最高裁は「人間の命は地球より重い」と判示している。だけど「死刑は合憲である」と結論するのである。しかし、著者によれば「死刑が特別かどうか」は「死刑に関して裁判で特別な規定を設けているか」という問題なのだという。
(デヴィッド・ジョンソン教授)
 つまり、「裁判員全員が一致しないと死刑を言い渡すことが出来ない」というような。アメリカの陪審裁判では、全員一致じゃないと決定出来ないし、有罪無罪の認定だけして量刑判断はしないのが一般である。日本では「裁判官3人、裁判員6人」のうち、裁判官1人を含む多数決で事実認定だけでなく量刑まで決定する。いわゆる「先進国」で死刑を存置するのは日本(とアメリカの約半数の州)だけだから、国民が死刑を判断する唯一の国と言えるのである。

 また時には死刑囚が控訴を取り下げて、一審だけで死刑が確定することも多い。諸外国には死刑判決の場合は必ず上訴しなければならず、複数の裁判所の判断を経なければ死刑が確定しない国もあるという。つまり、日本では言葉上はともかく、裁判の運用においては「日本の死刑制度は普通の刑罰」なのだという。こういうことは確かに外から言われてみないと気付かない論点だ。

 先の訴訟は「死刑制度は憲法違反(の残虐な刑罰)だから、執行を受ける義務はない」という訴訟じゃない。そういう論点だったら、裁判所が「死刑執行を受忍する義務がある」と判決しても、まあ当然だろう。しかし、今回の訴訟は当日告知は「デュ-・プロセス」(適正手続き)に反するという主張である。確かに「当日告知」を禁じる法的条文はないから、違法ではない。それ以前の告知を求める法的根拠そのものはない。(執行日の告知は法律で決まってない。)それなのに事前告知を求めるのは「死刑判決を実質的に無意味にすることを求めるもの」とまで言うのは何故か?

 事前に執行日を知らせると、死刑廃止論に立つ弁護士などが執行停止を求める訴訟や、再審、恩赦などを請求する可能性は高い。しかし、それは死刑囚に与えられている「適正手続き」である。この理由では請求を退ける理由にならない。このように裁判所も「適正手続き」に関心が薄いのである。死刑囚には死刑を受け入れている人もいれば、死刑を受け入れてない人もいる。その中には無実を主張している人もあるし、無実じゃないけど死刑判決には納得してない人もいる。死刑を受け入れている人にも、「反省」として受忍する人もいれば、死刑になりたくて犯罪を犯して早く執行してくれと言う人までいる。

 どういう立場の死刑囚にとっても、当日告知より事前告知の方がいいはずだ。当日告知は執行側にとっても負担が重いのではないかと思う。なお、昔は事前に告知していたのはよく知られている。変更のきっかけは「死刑囚の自殺」だと今回法務省が明らかにした。自殺した死刑囚としては、1977年の「新潟デザイナー誘拐殺人事件」の死刑囚が有名だが、その事件ではないようだ。実はWikipediaに情報が載っていて、確定死刑囚の自殺が5件あったことが判る。1975年に2件あり、この頃変更されたのだろうか。それはともかく『アメリカ人のみた日本の死刑』という本はなかなか気付くことが出来ない論点を教えてくれる得がたい本だ。
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映画『カムイのうた』、アイヌ民族の文化を伝える感動作

2024年04月18日 22時33分17秒 | 映画 (新作日本映画)
 『カムイのうた』という映画を見た。この映画は近代のアイヌ民族の苦難と優れた文化を真っ正面から描いた作品である。北海道で先行公開された後、東京では1月末に公開された。その時から見たかったんだけど、上映時間が限定的で見られなかった。今回阿佐ヶ谷Morcという小さな映画館で見たんだけど、そこも今日が最終日。ホームページを丹念に探すと、今後も上映があるようだ。映画館以外でも自主上映や学校などでの上映があるかもしれない。どこかでやっていたら是非見て欲しい力作である。

 アイヌ民族の口承文芸「ユーカラ」を『アイヌ神謡集』に翻訳したと言えば、知里幸恵(ちり・ゆきえ 1903~1922)を思い出す。この映画は明らかに知里幸恵がモデルだが、名前は北里テルに変えている。アイヌ語を研究する学者は金田一京助じゃなくて、兼田教授。この映画を見ようという人の多くは知里、金田一の名を知ってる気もする。だがフィクション化したことで、テルに婚約者がいたり、兼田教授が人類学教室に乗り込んで「盗掘」を非難するなどのエピソードが可能になった。
(ムックリを吹くテル)
 アイヌ民族が登場する映画は少ないけれど、幾つかはある。武田泰淳原作の『森と湖のまつり』(1958、内田吐夢監督)、石森延男原作の『コタンの口笛』(1959、成瀬巳喜男監督)のように、微温的ではあるが一応民族差別を扱った映画もある。しかし、それらは50年代の製作時点を描いた作品である。福永壮志監督の『アイヌモシリ』(2020)も現代の話。劇映画で明治・大正期のアイヌ差別を本格的に描いた作品は初めてではないか。北海道の東川町が製作に協力し、北海道各地の美しい自然が印象的だ。ずいぶん昔の建物があるなと思ったが、札幌近郊の「北海道開拓の村」でロケされたようだ。
(テルに心を寄せる一三四)
 北里テルは道立女学校を受験するも成績優秀なのに落とされて、旭川区立女子職業学校に進学した。これは知里幸恵の実話である。映画では成績に基づき副級長に指名されるも、同級生から排斥されるシーンは心に刺さる。その頃、祖母のイヌイェマツに東京から兼田教授がユーカラ研究に訪れる。小さい頃から祖母から聞いていたテルも覚えていると言うと、兼田教授は是非にと聞きたがる。そして美しいユーカラを是非日本語に訳して欲しいと頼む。テルはその後一生懸命訳したノートを兼田のもとに送ると、上京して自分の家で勉強してはと言う。旭川から東京まで、長い長い旅をして、テルは東京へ行くのだった。
(兼田教授の家で)
 そういう展開はずべて知里幸恵の実話で、あの美しい「銀の滴(しずく)降る降るまわりに」(Sirokanipe Ranran Piskan シロカニペ ランラン ピㇱカン)の訳語が生まれた瞬間を描いている。心臓が弱かった知里幸恵は、その原稿が完成した日に亡くなった。わずか19歳だったが、それも実話である。僕は今まで『アイヌ神謡集』(岩波文庫)を読んで、この美しい言葉を知っていたが、どういうリズムで語られるのかは知らなかった。今回映像で聞くことが出来て感銘深い。才能に恵まれながら、差別と病苦に苦しめられた薄幸の「北里テル」の生涯が心に残る。
(監督と主演女優)
 この映画の監督・脚本を担当しているのは菅原浩志(1955~)で、誰かと思えば『ぼくらの七日間戦争』(1988)の監督だった人である。その後「ぼくら」シリーズを監督したり、『ほたるのほし』(2004)などの作品がある。2018年に全国公開された『写真甲子園 0.5秒の夏』を撮っていて、そこで東川町との関わりが出来たんだろう。主演のテルは吉田美月喜、恋人の一三四は望月歩、祖母が島田歌穂、兼田教授が加藤雅也、教授夫人が清水美砂。神(カムイ)と生きている先住民族の文化を知るためにも、多くの人にどこかで見て欲しい映画だった。
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映画『パスト・ライブス/再会』、24年目の再会を繊細に描く

2024年04月17日 22時19分41秒 |  〃  (新作外国映画)
 映画『パスト・ライブス/再会』(Past Lives)は、米アカデミー賞の作品賞にノミネートされた作品だ。アカデミー賞の作品賞は10本の候補作が選定される。10本になったのは2009年からで、それまでは毎年5本だった(昔の1930年代にも10本があったが)。世界で最も有名な映画賞だけに、候補になっただけでも商業的に有利になる。10本に拡大されたことで、海外作品も毎年のように入ってくるようになった。2024年の候補作では、明らかに『オッペンハイマー』『哀れなるものたち』が抜きん出ていた。5本だったらこの映画のノミネートは難しかったのではないか。

 この映画は先の両作のような、エネルギーに満ちて見る側も疲れてしまう渾身の大作と違い、見ていて切なくなるような「あるある感」満載の恋愛映画である。韓国系アメリカ人のセリーヌ・ソン(1988~)の初監督映画で、自分の実人生を反映しているらしい。若い頃を思い出すと、つらい別れをしたまま再会もままならないような「思い出の人」がいるものじゃないだろうか。そこまで行かなくても、片思いしていた相手が急に転校して二度と会えなかったとか、誰にでも切ない思い出の幾つかががあるものだろう。
(12歳のナヨンとヘソン)
 韓国に住む12歳の少女ナヨンと少年ヘソンもそんな二人だった。成績優秀な二人だが、いつもナヨンがトップなのにあるときヘソンが1位になった。そんな時ナヨンの一家がカナダに移住することになった。その前に親同士が二人を公園に連れて行って思い出作りをさせた。お互い幼いながら好き合っていたのである。移住したのは2000年頃。昔の韓国映画には経済的に外国へ移民するとか、軍事政権に抵抗して亡命するとかいう設定もある。しかし、もうそんな時代ではない。ナヨンの父は映画監督で活躍の場を求めて国を離れただけで、政治的な事情はないのである。

 12歳のナヨンは韓国にいてはノーベル文学賞が取れないと言った。作家を目指していたからである。海外移住を期に英語風の名前に変えることになり、「ノラ」と名乗ることにした。12年後、ノラの母が昔幼なじみがいたよねと言ったのをきっかけにヘソンを探してみる。すると父親のFacebookにナヨンを探しているとメッセージが来ていたのを見つけた。21世紀になった頃からインターネットが普及し、久しぶりに同窓会を開いたなどと言われた。2010年代になると、FacebookTwitter(現X)などのSNSが普及してきて、直接昔の知り合いを探せるようになった。「友だち申請」はしないまでも、検索してみた人は多いんじゃないだろうか。
(セリーヌ・ソン監督)
 そして二人は毎日のように時差を越えてオンラインで話すようになる。ヘソンは兵役についていたときに、昔のナヨンを思い出したのである。しかし、名前を変えていたノラを見つけられなかった。その時ヘソンは工学の勉強をしていた。ノラはニューヨークに移って、若き劇作家として認められつつあった。今はノーベル賞じゃなくて、ピュリッツァー賞が取りたいという。二人は互いに、ソウルに来て、ニューヨークにいつ来るのと会話するが、お互い予定があってなかなか現実の再会は難しい。そこで行き詰まった二人は、一端毎日のような通話を止めようとなった。
(24年目にニューヨークで再会)
 そしてさらに12年経って、ヘソンがニューヨークにやって来る。なんのために? その時ノラはもう結婚していた。24歳のノラが作家のために用意されたリゾートでアーサーと知り合ったのである。そして今はトニー賞が一番欲しい。大人になってからは、ほぼこの3人しか出て来ない。ノラはグレタ・リー、ヘソンはユ・テオという二人で、幼なじみが再会してみれば美男美女だから心が揺れる。アーサーはジョン・マガロ(『ファースト・カウ』の主役)で、これがまた善人を絵に書いたような人物で、久しぶりに幼なじみに再会する妻を温かく見守る。だけど…。

 日本映画には片方が難病になったり、虐待されていたり、災害に襲われたり…という展開が多い。もちろんドラマチックだったり、社会問題を提起するのも大切だ。しかし、この映画は才能ある美男美女がすれ違うだけの物語である。それで十分心に沁みるのは、語り口がうまいのである。ニューヨークが美しく描かれているのも見逃せない。ただし、あまりにも淡彩の映画かなと『オッペンハイマー』を見たばかりでは感じてしまうのも事実。だけど捨てがたいのは、SNSなど現代のツールで再会する設定などに「あるある感」を感じてしまうからだ。でもこの二人はソウルにずっといても、きっと別れていたのではないかとも思った。
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映画『オッペンハイマー』をどう見るかー栄光と悲劇に迫る傑作

2024年04月16日 22時44分25秒 |  〃  (新作外国映画)
 2024年のアカデミー賞で作品賞等最多7部門で受賞した話題作『オッペンハイマー』を昨日見た。早く見たかったが、何しろ180分という長尺で、気力体力充実した日じゃないと見に行けない。じゃあ昨日はそういう日だったかというと、そうでもないんだけど完璧に元気な日を待ってたら見逃しちゃうから出掛けたわけである。新聞休刊日で早めに出られたので、IMAXシアターの大迫力で見ることにした。その分高いけど、値段分の価値はあったと思う。しかし、あまりにも長くて久方ぶりに生理的限界でちょっと出ることになった。まあ寝ちゃう映画もあるんだから、それよりマシか。

 この映画は傑作である。それは疑いようがない。だが同時に「複雑な感慨」を催す映画であるのも間違いない。監督のクリストファー・ノーラン(1970~)は脚本、製作も兼ね、この大作映画を見事に統率している。米アカデミー賞の監督賞受賞作である。(『ダンケルク』に続く、二度目のノミネート。)実は僕はノーラン監督作品が苦手で、高く評価された『ダークナイト』『ダンケルク』などもどうも乗れなかった。SF系の『インセプション』『インターステラー』なども今ひとつ。だから前作の『TENET テネット』は見逃してしまったぐらいである。しかし、今回の『オッペンハイマー』は見事な出来映えだ。

 その最大の貢献者はタイトルロールを演じたキリアン・マーフィーだろう。理論物理学者のロバート・オッペンハイマー(1904~1967)は、確かにこんな人物だったのではないかと思わせる。下に本人の写真を載せておくが、驚くほど似ている。米英では実在人物を扱う映画が数多く作られ、高い評価を得ている。近年のアカデミー主演男優賞を見ても、『ウィンストン・チャーチル』のゲイリー・オールドマン、『ボヘミアン・ラプソディ』(フレディ・マーキュリー)のラミ・マレック、『博士と彼女のセオリー』(ホーキング博士)のエディ・レッドメインなど枚挙にいとまない。『ドリーム・プラン』『英国王のスピーチ』『カポーティ』『ミルク』『Ray/レイ』『ガンジー』…。日本ではどうして本格的な評伝映画が作られないのだろうか。
(オッペンハイマー=キリアン・マーフィー)
 キリアン・マーフィー(Cillian Murphy、1976~)って誰だっけという感じだが、アイルランド出身俳優として初のアカデミー賞主演男優賞を得たという。ケン・ローチ監督のカンヌ映画祭パルムドール『麦の穂を揺らす風』で主演していた人である。若き物理学徒の頃から、「赤狩り」の標的にされた時代まで、苦悩し揺れ動くオッペンハイマーを見事に演じている。この映画は描く時代が複雑に前後するので、物理学やマッカーシズム(戦後アメリカに吹き荒れた「赤狩り」)の知識が見る前にあった方がよい。

 映画には著名物理学者がいっぱい出て来る。ニールス・ボーアケネス・ブラナーアインシュタイントム・コンティ(『戦場のメリークリスマス』のローレンス中佐役)が演じている。他にもハイゼンベルクエンリコ・フェルミなど超有名学者が続々と出て来るのも見どころ。時代的には量子力学が登場した頃で、アインシュタインは(映画にも出て来るが)「神はサイコロを振らない」と言って量子力学を認めなかった。オッペンハイマーはアインシュタインは時代に置いて行かれたと思いながら、折に触れて相談している。ブラックホールを予言する研究などをしていたが、当初は特に原子力研究をしていたわけではない。
(オッペンハイマー本人)
 この映画は「広島・長崎の被害を描いていない」と批判的に紹介されたりして、日本公開が延びたと言われる。ただし、この作品のような「アカデミー賞最有力」の下馬評が高い映画は、賞の発表に合わせて公開されたことはあるだろう。だが配給会社が大手ではなく、『PERFECT DAYS』や『ドライブ・マイ・カー』などを配給したビターズ・エンドだったことは、大手は逃げたのかと思う。オッペンハイマーは投下に疑問を呈したが、後は政治の権限だとトルーマン大統領は取り合わない。現場を見てもいないオッペンハイマーを描く映画で、広島・長崎の現場が出て来たらかえっておかしい。

 公開日が同じで世界的に大ヒットした『バービー』とは、賞レースで大きな差が付いた。見れば一目瞭然で、完成度が違う。『バービー』は作者(グレタ・ガーウィグ)のフェミニストとしての世界観が前面に出ている。そこが興味深いけれど、完成度を低くしたのは間違いない。アート作品は社会的、政治的主張をナマに行う場ではない。(ナマで政治的主張をする作品もあってよい。)クリストファー・ノーランがこの映画で被爆者の苦悩に踏み込んだら、作家が「神の位置」に立って世界を上から俯瞰することになる。そういう作品を求めてしまうことで、日本のアートはどれほど貧しくなってきたことだろう。
(ルイス・ストローズ=ロバート・ダウニー・Jr.)
 今までノーラン監督はつい俯瞰的に世界を見てしまうことが多かった。この映画でも主人公が知らない出来事(裏の政治事情)も描かれるが、それらは最小限に止まっている。オッペンハイマー本人に密着して語るが、彼の複雑な生涯を幾つものピースに分け再構成している。見る側はそれを自分で道筋を付け、オッペンハイマーを通して自分の世界観を作らざるを得ない。これはノーランが慎ましく語ったということじゃないと思う。表現は大仰だし、演出もけれんみたっぷり。ただ俯瞰的に描くとあまりにも長大な作品になってしまい、これ以上の情報を詰め込めなかったのではないか。それが逆に功を奏したのである。
(クリストファー・ノーラン監督)
 この映画の原作は、カイ・バード、マーティン・J・シャーウィンによるノンフィクション『オッペンハイマー 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』(American Prometheus: The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer)で、ハヤカワ文庫から上中下3巻で出ている。あまりにも長いので読む気はないけれど、2006年にピューリッツァー賞を受賞している。原題にも邦題にもあるように、彼の生涯は「栄光と悲劇」に彩られている。原題の「プロメテウス」とはギリシャ神話で「天界の火を盗んで人類に与えた神」である。それに怒ったゼウスは女性パンドラを地上に送り込み人類に災厄がもたらされた。

 オッペンハイマーは「災厄」を人間界にもたらしてしまったことを悔いて、水爆開発に反対したため原爆開発に成功した「栄光」は失墜する。オッペンハイマーを取り上げた時点で、核兵器の悲惨がテーマになるのである。ただし彼は決して組織者として優れていると評価されていたわけではない。語学にも秀で、芸術にも関心があった。30年代の青年の常としてソ連の社会主義にも強い関心があった。ユダヤ系としてナチスドイツに危機感を持っていた彼を原爆開発(マンハッタン計画)の責任者に抜てきしたのは、米軍としても賭けだった。思わぬことに、そこから組織者としての才能が発揮されたのである。

 原爆開発や「成功」の描写も興味深いが、それ以上に戦時中から張りめぐらされていた、彼をめぐる網の目のような罠の数々が印象的だ。彼は原爆開発でノーベル賞を得られると思っていた。ダイナマイトの発見者ノーベルが創設した賞なんだからと言っている。だが幾重もの秘密に閉ざされた軍事研究では、新発見をしても論文を書けないから受賞は出来ない。現代の日本でも「軍事研究」の是非が問われているが、政治に関わることがいかに恐ろしいかをこの映画がまざまざと示している。それこそが最大の教訓ではないか。原爆の惨禍を見た人類は二度と戦争をしないという彼のナイーブな発想は完全に裏切られてしまったのだ。
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『北条五代』(火坂雅史、伊東潤)を読むー北条氏の関東戦国史

2024年04月14日 22時35分29秒 |  〃 (歴史・地理)
 相変わらず新書を読んでるけど、その合間に歴史小説を読んだ。火坂雅志伊東潤氏の『北条五代』上下(朝日文庫)で、2020年に出た本が2023年10月に文庫化された。これは戦国時代の関東に覇を唱えた北条氏(後北条氏)の五代に及ぶ全歴史を書いた大河歴史小説である。何で共作になってるかというと、火坂雅志氏(1956~2015)が書き進めていたが、途中で惜しくも亡くなってしまった。そこで遺族の同意を得て伊東潤氏が書き継いだのである。火坂氏の担当分は、2代目の北条氏綱の嫡男、北条氏康の若い時期で終わっている。その後の関東制覇から豊臣秀吉に滅ぼされるまでを伊東氏が担当した。

 両者の共作は全く違和感がない。ただ火坂氏には伝奇的な描写もある一方、伊東氏部分は戦国大名同士の厳しいパワー・ポリティックスの印象が強い。火坂雅志氏は2009年の大河ドラマの原作となった『天地人』で知られる。上杉景勝の参謀格だった直江兼続を描く小説である。北条氏は上杉氏と何度も戦って、また時に同盟した。景勝は北条氏から謙信の養子となった景虎を破って家督を継いだ。今度は逆に北条氏を描いたわけである。(その時代の執筆は伊東氏だが。)上巻はほぼ勃興期に当たり、親会社(今川氏)から独立した子会社がどんどん発展していく時代を描いて、あっという間に読めてしまう。
(火坂雅志氏)
 関東戦国史に関しては、前に何度か書いたが、北条氏初期時代は『伊勢宗瑞を知ってるか』(2018.4.18)に書いた。伊勢宗瑞は初代の「北条早雲」である。北条を名乗ったのは2代目氏綱からだから、北条早雲という表現はおかしいが普通「北条早雲」で通している。大昔は独力で大名に成り上がったと思われていたが、今は室町幕府の被官だった伊勢氏出身と判明した。姉が今川家当主に嫁いでいて、御家騒動を収めるために伊勢盛時(早雲庵宗瑞)が駿河国に下向した。そのまま今川に仕えながら、半独立的立場で伊豆の堀越公方を滅ぼして戦国大名に名乗りを上げた。続いて隣国相模の小田原を乗っ取り本拠地とした。
(伊勢宗瑞=北条早雲)
 戦国時代を描いた歴史小説は無数にあるが、中央の「天下」をめぐる争いを描くことが多い。または信玄、謙信である。他の大名を描く小説は数は少ない。だから皆関東の戦国時代をよく知らない。関東の歴史ファンは本能寺の変の黒幕はいたかなどは熱く語れても、河越合戦とか国府台合戦のような関東の重大な戦いを知らないことが多い。下巻になると、氏康を中心に関東を席巻していく様子が描かれる。離合集散が複雑なので、どうしても判りにくくなる。それを伊東氏は人間関係を整理して判りやすく書いている。ただ北条氏の本だから、どうしても「北条中心史観」になるのはやむを得ない。

 北条氏から見れば、室町幕府の旧体制、鎌倉公方(分裂して古河公方と堀越公方)と関東管領上杉氏の対立は、旧時代の支配者間の争いである。その旧勢力間の無益な争いで関東の領民は苦労させられている。そこを北条氏が関東を支配し「善政」を布くことにより平和と繁栄がもたらされる。そう思って関東統一に励んでいると書かれているが、昔からの在地領主からすれば北条氏も侵略者でしかないだろう。上野(群馬県)の領主は山内上杉氏が没落した後に北条、武田、上杉が入り乱れ、迷惑でしかなかっただろう。この本だけ読んでると北条中心に見てしまうが、真田氏や結城氏などから見ればまた違って見えてくるはずだ。
(伊東潤氏)
 さて東国が武田、上杉、北条などが複雑に合従連衡を繰り返す間に、中央では織田信長の勢力が強くなり、ついには武田氏が滅亡するに至る。北条は織田信長、続く豊臣秀吉にどのように対応すれば良かったのか。もう結果を知っている我々からすれば、読む意味もない感じがするかもしれない。だが当事者は時代の行く末を知らない。それは現代を生きる我々が米中関係がどうなるかなど判らないままあれこれ考えるのと同じだ。その時代に巡り合ってしまった四代氏政五代氏直の悩みは深い。彼らの苦悩は小説を越えて、「リーダーはいかにあるべきか」を現代人にも問う。上に立つ立場の人は是非読んで欲しい小説だ。
(北条氏康)
 九州には島津、大友、龍造寺などの戦国争乱があったが、僕はあまり知らない。四国や東北も興味深いけどあまり知らない。そういう地域の戦国を研究する人もいて、その大名を描く小説もあるだろう。だが自分は関東地方に住んでいて、江戸時代には日本全体の中心地になるというのに、ちょっと前の時代のことを知らないのはおかしい。そう思って関東の戦国に関する本を読んでるわけ。今後、後北条氏を簡単に知るには最適の本になるだろう。ただ最近注目されている北条氏の在地支配の仕組みなどは出て来ない。その意味ではやはり研究書も読む必要があるんだろう。
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伝説の詩人、谷川雁の全体像ー『谷川雁 永久工作者の言霊』を読む

2024年04月13日 22時58分30秒 | 〃 (さまざまな本)
 読んでない新書を引っ張り出してきて、まず読んだのは青木栄一文部科学省』(中公新書、2021)だが、これは多くの人に(僕にも)詳しすぎるから紹介は止めることにする。次に読んだ松本輝夫谷川雁』(平凡社新書)を取り上げたい。2014年に出た本なので、積んどく間に10年も経ってしまった。関連で谷川雁の兄谷川健一が書いた『柳田国男の民俗学』(岩波新書)も読んでみた。こっちは2001年出版で、近くに置いてあったのに20年以上経っていたのが驚き。谷川健一の本は岩波新書に何冊も入っていた(『日本の地名』など)が、全部なくなっていたのにも時間の経過を感じた。

 谷川雁(1923~1995)が、詩人や社会運動家(むしろ「革命家」というべきか)として活動したのは60年代前半までである。僕も同時代的には全然知らず、70年代にすでに「伝説」もしくは「悪名高き人物」になっていた。日本共産党員として九州で活動し、森崎和江とともに福岡県中間市の大正炭鉱に住み着いた。その時代には「東京へゆくな ふるさとを創れ」という詩を書いていた。そして上野英信、石牟礼道子らと雑誌「サークル村」を創刊したが、60年安保をめぐって党を除名された。60年代前半は大正炭鉱労働者の闘争支援に全力を注ぎ、吉本隆明とともに新左翼のスター的存在だったのである。
(谷川雁)
 ところが闘争に敗れ、森崎との関係も破綻し、詩作を封印して上京したのである。英会話教材会社の重役に迎えられ、会社で起こった労働争議の弾圧者となった。吉本隆明は労働組合の集会で応援の講演をしたという。文学活動から撤退していたので、まるで20歳で詩作を封印しアフリカで武器商人となった19世紀のフランス詩人アルチュール・ランボーみたいな話だ。しかし、その後重役を解任され、新たに「十代の会」を組織して宮澤賢治の童話を演劇にする活動を行った。「十代の会」の活動は、池袋の西武百貨店にあった「スタジオ200」という小さなホールで公演を見た記憶がある。(あまり面白くなかった。)

 そういう谷川雁の後半生を含めた全体像を知りたいと思って、この新書を買ったと思う。しかし、もう緊急性がなかったので読まずに放ってしまったのである。著者の松本輝夫氏(1943~)は谷川雁と劇的に出会い、その後雁のいたラボ教育センターに入社したという人である。会社では経営者対組合運動家として対立し、その後21世紀になってラボ教育センター会長となった。一方で退社後には谷川雁研究会を起ち上げて代表となった。そういう意味で谷川雁を語るにはうってつけの人物だろう。
(若い頃の森崎和江)
 松本氏は若い頃に谷川雁に会いに行ったことがある。福岡の大正炭鉱闘争の熱気が伝わってきて、会ってみたくなったのである。何のツテもなく訪れて、労働者の多い居酒屋に立ち寄り、炭鉱労働者と飲んだのである。そのうち雁が「天皇」と呼ばれているのを批判したところ、殴られてメガネを壊され雁のもとに連れて行かれたという。そんなすごい出会い方が昔はあったのである。そこで松本氏は雁の家に、共産主義の本以上に柳田国男など民俗学の本があるのを見た。これは当時平凡社の編集者(後独立して民俗学研究者)だった兄の谷川健一の影響なんだろうと思ったのである。
(谷川健一)
 谷川雁には『原点が存在する』(1958)という有名な本がある。「下部へ、下部へ、根へ、根へ そこに万有の母がある。存在の原点がある」というフレーズが有名になった。この「原点」とは何か。それは柳田学のいうところの「常民」、日本の農村共同体のイメージなんだという。それは全く気付かなかった。50年代末は高度成長以前であり、毛沢東の「根拠地論」が魅力をもって語られていた。つまり革命家としては「中国共産党派」であり、同時に民俗学的発想で農村共同体を評価していたということか。70年代後半には完全に高度成長以後の社会になっていて、僕は「原点」を詩的イメージ以上に感じられなかった。

 それにしても谷川雁の言語感覚は驚くほど鋭く、呪術的とも言える。もう一つの有名な本『工作者宣言』(1959)では、「すなわち大衆に向っては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆であるところの偽善の道をつらぬく工作者のしかばねの上に萌えるものを、それだけを私は支持する」と宣言する。このフレーズもしびれるような魅力がある。そして東大闘争で知られた「連帯を求めて孤立を恐れず」も谷川雁の言葉だった。こういうフレーズの言霊的呪縛は大きかったのである。

 そして著者によれば、「沈黙」ととらえられてきたラボ教育センターの時期こそ、谷川雁の詩的創作力は絶頂に達したという。そこでは英会話をただ教えるのではなく、子どもの日本語能力も育てつつ演劇的想像力を養う「物語」を重視した。そこで教材化されたものは有名な物語の「再話」だったが、子どもたちに喜ばれる詩的喚起力に富んだ教材がたくさん作られたという。特に「古事記」の国生み神話のドラマ化は素晴らしいという。英訳はC・W・ニコルが担当していた。確かに素晴らしい「物語」が残されている。

 だが解明されない謎は多い。労組への対応以前に、組織人として公私混同が激しかった。鶴見俊輔などの証言を引用して「いばる人」だったと書かれている。その意味では「九州男児」を脱し切れなかった。大正炭鉱闘争でも、雁が組織した行動隊員が仲間の妹をレイプして殺害する事件を起こしたとき、今ではとても許されない無理な総括をしている。人生の中で幾つもの「謎」多き「偽善」を貫いていたのである。この本では若い時に愛児を失った体験が重大だと書かれている。しかし、その母親である結婚の事情は書かれていない。誰も書いてないらしい。森崎和江との関係もそうだが、谷川雁にはまだまだ謎が秘められている。
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笠原十九司『憲法九条論争』を読むー九条の幣原提唱説を「証明」

2024年04月12日 22時56分53秒 |  〃 (歴史・地理)
 積んであった新書本を片付けている。「新書」は専門外の最新知識を学べて重宝するけど、つい読み忘れて長年放ってしまった「古新書」がいっぱいある。その幾つかの感想を書きたい。最初に書く笠原十九司憲法九条論争』(平凡社新書、2023)は、去年の4月に出た本だからまだ「新」の範囲かなと思う。笠原氏は大著『日中戦争全史』(2017年12月に2回にわたって感想を書いた)など、ずいぶん読んできたから買ってみた。1年読まなかったのは、450頁という新書と思えない厚さに理由がある。読み出したら案外スラスラ読める本だったが、史料がいっぱいあって現代史に詳しくない人には取っつきにくいかもしれない。

 「憲法九条論争」と言えば、普通は「護憲か改憲か」の論争である。あるいは「安保法制」のような「集団的自衛権の一部解禁」が解釈上認められるかどうかという論争もある。しかし、この本で「証明」しようとするのは、そういう「九条をどう考えるか」じゃない。そもそも条文を発案したのは誰かという問題である。そこに特化した大著なのである。簡単に言えば、「幣原喜重郎(首相)説」と「マッカーサー(連合国軍最高司令官)説」のどっちが正しいのかである。影響を与えたとか、容認したというレベルでは他にもあり得るが、重大問題だから発案はトップに限られるだろう。
(笠原十九司氏)
 副題が「幣原喜重郎発案の証明」とあるように、本書は最近ちょっと影が薄かった「幣原説」を全面展開している。一応解説しておくと、幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう、1872~1951)は1945年10月に東久邇宮王内閣が崩壊した後、1946年5月まで半年ちょっと総理大臣を務めた。大日本帝国憲法下で最後から二人目の首相である。外交官出身で、1924年~27年、29年~31年に外務大臣を務めたことで知られる。その時は英米と協調的な外交を展開し、軍部・右翼からは「軟弱外交」と攻撃され、戦時中は事実上の引退に追い込まれていた。幣原は高齢(73歳)のため固辞したが、昭和天皇から直接説得され引き受けることとなった。
(幣原喜重郎)
 当時の情勢を細かく説明していると終わらないので省略する。今までは「永遠の謎」などとも言われていた。これまでの論争史は、この本の後半で数多くの研究書を批判しているので大体理解できる。もう80年近い昔の話になって、今になるとどっちでもいいじゃないかと思う人もいるだろう。だが戦後史では「マッカーサーの押しつけだから改正するべきだ」という右派の主張をめぐって、「平和憲法」は「押しつけ」だったのかが大きな政治問題になってきた経過がある。
(マッカーサー)
 マッカーサー(1880~1964)の回想記では、幣原首相が言い出したことになっている。それを信じれば論争は即終了だが、そうもいかない事情が多い。そもそも回想記は死の直前の1964年にアメリカで刊行されたもので、80歳を越えた老人の「回想」である。回想記は長年経ってからの記憶で書かれるため、直接史料が示されない場合は厳密な史料批判が欠かせない。マッカーサーは大言壮語で知られた人物だし、日本占領は成功したと評価されたい動機がある。自分が日本に押しつけたと本人が言うわけもないから、史料価値は低くなる。当時の直接史料がないので信憑性に疑問が付くわけだ。

 幣原喜重郎は首相退任後、1949年2月から51年3月10日に死亡するまで、衆議院議長を務めていた。52年4月まで占領が続いていたので、役目上からも憲法制定の「秘話」は封印したまま亡くなった。直接史料はだから日本側にもないのである。しかし、笠原氏は「傍証」を積み重ねることで真相に迫れるとして、今まで史料価値が低いとされてきた(らしい)「平野文書」の価値を高く評価している。一方で史料価値が高く評価されてきた「芦田均日記」には問題があるとしている。

 細かな論点になるけれど、芦田日記には幣原本人も九条に疑問を持っていたような記述がある。しかし、「日記」は同時代の記録という優れた史料価値があるものの、要するに記録者の主観を書くものだから史料批判が必要だとする。幣原がマッカーサーの言葉を紹介した言辞を、芦田本人が九条条文に疑問を持っていたために、幣原本人が反対意見を述べたように聞いてしまったというのである。これは一般論としてはあり得る話で、今まで芦田は衆議院で「芦田修正」(今は説明を省略)をした人物だから日記の記述も信じた人が多いが、再検討する必要があると思った。

 ところで本書で高い評価を与えられた「平野文書」とは何か。それは衆議院議員で幣原の側近だった平野三郎(1912~1994)が、衆議院落選中の1963年に国会の憲法調査会に提出した報告書「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」のことである。平野は1949年から1960年まで衆議院議員に5回当選した。一期生の時に幣原議長の「秘書」になったと言うが、議員が正式の秘書になるわけもなく、要するに幣原に私淑して秘書のように仕事をしていたということらしい。直接は事情を公に語らなかった幣原も、自宅が近く折々に話を聞きに行った平野には心許して真相を語ったというのである。
(平野文書)
 平野三郎という人物は、片山内閣の農相を務めた(罷免された)平野力三の甥だという。平野力三は戦前の農民運動家として知られるが、無産運動の中の最右派というべき人だった。戦前戦後で衆院議員を8期務め、近代史ではある程度知名度がある人物である。甥の平野三郎は1966年に岐阜県知事選に立候補して現職を破って当選、3期務めた。ただ笠原著では部下の汚職の責任を取って辞任したとあるが、実は本人が1976年に収賄罪で逮捕、起訴され、裁判でも有罪が確定している。1976年には福島県の木村守江知事も収賄で起訴され、当時は両事件が大問題になった。(平野は議会で不信任決議が可決され、これは公選知事初だった。)
(平野知事当選の新聞記事)
 「平野文書」の史料価値には直接関わらないけど、平野三郎という人物の人生最大の汚点に触れないのは疑問だ。この本で読む限り、「平野文書」には一定の史料価値を認めても良い感じだが、自分には最終的な判断は付かない。それより、「昭和天皇実録」の公刊によって、問題の時期に昭和天皇と幣原首相が長時間会っていることが確認された。帝国憲法下だから当然のことだが、時間的には不自然なぐらい長い。幣原がマッカーサーと昭和天皇の間を行き来しながら、「天皇制を存続させるためには如何なる方策を取るべきか」を模索していたことが推測される。その「解」が「憲法九条」であると理解すべきではないかと思う。

 問題が問題だけに、端折りつつも長くなってしまった。この本の核心は「幣原首相は本心を閣僚たちにも隠しながら芝居をしていた」という理解にある。芝居に気付かなかった吉田茂や芦田均の史料を探っても真相に達することは出来ないという。そう言われてしまっては身もふたもない気がする。要するに「憲法九条」を占領軍に「押しつけて貰う」ことなしに、象徴天皇制という形で天皇を存置することは難しいと幣原は考えた。幣原には戦前の「不戦条約」的な理想主義的平和主義があったのも間違いないだろうが、結局は「象徴天皇制」を「押しつけて貰う」のが幣原の目論みではないか。

 ただ「傍証」を積み重ねて事実認定するのは最高裁も認めた手法だと論じるのは疑問がある。直接証拠がないのに有罪認定され、冤罪を主張して再審請求を行う事件も数多い。それは別にしても、「傍証」しかなければ「謎」でも良いのではないか。
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傑作犯罪映画『ラインゴールド』、ドイツの獄中ラッパー!

2024年04月11日 20時35分55秒 |  〃  (新作外国映画)
 『モンタレー・ポップ』を見る前に、ドイツのファティ・アキン監督の『RHEINGOLD ラインゴールド』という映画を見ていた。これがものすごく面白くて是非紹介したい。この映画はジャンルとしては犯罪映画だが、主人公が獄中でラッパーとして成功してしまうという展開が興味深い。これは実話だそうで、主人公の前半生を描く。その後はドイツ人なら誰でも知っているから描かなかったという。日本じゃ全然知らないけど、そんな人がいたのである。題名の「ラインゴールド」はワグナーのオペラ「ニーベルンゲンの歌」にある曲の名前で、「ラインの黄金」の意味。黄金をめぐる犯罪映画と音楽映画に掛けてあるんだろう。

 ファティ・アキン(1973~)はトルコ系ドイツ人で、その出自をテーマにした映画で知られてきた。『愛より強く』『そして、私たちは愛に帰る』『ソウル・キッチン』 『女は二度決断する』などで、若くしてカンヌ、ヴェネツィア、ベルリンの三大映画祭で受賞したことで知られた。しかし、それら社会性が強い作風の作品は、特にヒットしたわけじゃない。しかし、今回の映画はドイツで大ヒットしたという。確かにすごく面白くて、背景に社会性はあるものの、今回は娯楽に徹した感じの作風である。物語がどんどん展開して、飽きる間もなくスピーディに進行するので目が離せない。
(ファティ・アキン監督)
 主人公ジワ・ハジャビはイラン生まれのクルド人で、冒頭は1979年。つまりイスラム革命の年である。彼の父は有名な作曲家で、コンサートで指揮していたところに革命派が乱入して、音楽は反イスラムで止めろという。反論した客は撃たれて死に、客たちは逃げ出す。母はヴァイオリニストとして一緒にいたが、二人はともに逃げる。しかし、革命派はクルド人勢力を攻撃し、妊娠中だった母は一人でジワを産んだ。その後、子どもを連れて、何とイラン・イラク戦争中にイラクに脱出、スパイと疑われて逮捕され拷問される。だから、ジワの最初の記憶は監獄だった。やがて父は有名な作曲家と知られ、フランスへ出国することが認められた。

 フランスからドイツへ(音楽ホールが多いと聞いて)移って、ドイツで難民となった。ジワもピアノを習い始めたが、父はコンサートを成功させた後で愛人のもとに奔った。ジワはピアノをやめ、ストリートでつるむ麻薬売人となった。他のグループにボコボコにされたのをきっかけにボクシングを始め、復讐に成功した。そのためクルド語でガター(危険なやつ)と呼ばれるようになった。逮捕状が出てオランダに逃げるが、知人が叔父を紹介してくれる。その人は実はマフィアの頭で、彼には良くしてくれる。タテマエでは音楽学校に通いながら、ジワは本格的な犯罪者になっていく。
(ジワ)
 その後、大きなしくじりがあって(そのエピソードは笑える)、借金を負ってしまった。そこで情報をもとになんと死体から金歯を取って運ぶ車を襲撃することになる。その犯罪が上手く行くのかどうかが見どころだが、思わぬことから発覚して世界中を逃亡する。ドイツと犯罪者引き渡し条約を結んでない国を探して、2010年に(内戦直前の)シリアに逃げる。そこでアサド政権に逮捕され拷問されるが、結局ドイツに護送されてしまう。こうしてドイツの囚人となったが、もともと音楽の才能に恵まれていた。そんな彼が何故獄中でラッパーになれたのか。日本の刑務所と違う驚きの展開である。
(獄中でラップを吹き込む)
 その間女性には純情で、幼なじみのシリン(イラン人)にずっと熱を上げているが、犯罪者のジワにシリンは冷たい。その恋がどうなるかも興味深い。映画としては、犯罪実行シーンが一番面白く見ごたえがある。そのスリルが受けたんだろう。もともとラップを作っていたが、獄中で作れてしまうのがすごい。それにしてもイラン・イスラム革命はとんでもない災厄だったことが判る。帝政イランには問題も多かったが、少数民族のクルド人でも作曲家として活動出来たのである。ドイツの中東難民事情も垣間見ることが出来るが、やはりいろいろと大変そうである。ただこの映画はそういう社会問題を訴えるよりも、疾走するアクション映画になっている。まあ、僕には次に見た60年代ロックほどラップには熱くなれなかったけど。
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映画『モンタレー・ポップ』、伝説のフェスティバルを永遠に残す

2024年04月09日 22時39分19秒 |  〃  (旧作外国映画)
 一部映画館で『モンタレー・ポップ』4K版を上映している。題名を見れば判る人もいると思うけど、これは1967年6月16日から18日に行われた「あの伝説のミュージック・フェスティバル」の記録映画である。1968年末にアメリカで公開されたものの、何故か日本では今まで正式に公開されていなかった。このフィルムには、まさに伝説となった何人ものミュージシャン、幾つもの演奏シーンが続々と出て来て、今もなお興奮して見られる映画だ。しかし、それに止まらないまらない社会的意味も持っている。

 スコット・マッケンジー花のサンフランシスコ』という曲がある。“If you're going to San Francisco Be sure to wear some flowers in your hair If you're going to San Francisco You're gonna meet some gentle people there” と始まる。(もし君がサンフランシスコへ行くなら 花で髪を飾って行って もし君がサンフランシスコへ行くなら そこで優しい人たちと出会うだろう)この歌はこのフェスティバルを企画したママス&パパスジョン・フィリップスが、このフェスティバルのプロモーションのために作った曲なのである。冒頭でこの歌声が流れる時、あっという間に時空を越えてしまう。

 モンタレー・ポップ・フェスティバルは、69年のウッドストック音楽祭など大規模音楽フェスティバルの最初のものだった。さらにそれに止まらずアメリカの60年代末のカウンター・カルチャーの象徴にもなった。67年の「サマー・オブ・ラブ」と呼ばれたヒッピー・ムーブメントの絶頂でもあった。ベトナム反戦運動、公民権運動に揺れた60年代アメリカで、「gentle people」が集結したのである。そして、このフィルムはその運動の限界をも記録してしまった。

 何より貴重なのは、このフェスティバルがジャニス・ジョプリンジミ・ヘンドリックスの名前を広めたことである。奇しくも二人は3年後に、同じ27歳で亡くなることになる。ジャニスなど、そのシャウトが非常に評判になって2回出たぐらいである。しかし、こう言っちゃ何だけど、アップにすると早くも肌の荒れが気になるのである。ジミ・ヘンドリックスはイギリスで活躍していたが、このフェスで母国アメリカでも知られるようになった。有名なエレキギターを燃やしてしまうシーンが出て来る。
(ジャニス・ジョプリン)(ジミ・ヘンドリックス)
 ギターを壊すと言えば、その前にザ・フーもぶっ壊している。そんなシーンはそれまで誰も見たことがなかったと思う。冒頭にママス&パパス夢のカリフォルニア』が流れ、サイモン&ガーファンクル59番街橋の歌 (フィーリン・グルーヴィー)』が出て来る。いや、懐かしいな。全部書いても仕方ないが、ジェファーソン・エアプレインエリック・バードン&ジ・アニマルズカントリー・ジョー&ザ・フィッシュとか、ロック界の有名どころが次々と出て来る。

 そんな中で特に貴重なのは、オーティス・レディングだ。黒人のソウル歌手であるオーティス・レディングは、異色メンバーである。だけど、映画を見れば一目瞭然、完全に聴衆を虜にしてしまった。僕もこの人はあまり知らなかった。何しろこの年(1967年)の12月10日に自家用飛行機の事故で亡くなってしまったのである。その意味でも、すごく貴重なフィルムなのである。そして歌った『シェイク』、『愛しすぎて』などは全く素晴らしいというしかない。感動的だった。
(オーティス・レディング)
 ところで、この映画に登場するミュージシャンは白人が圧倒的に多い。黒人はジミ・ヘンドリックスとオーティス・レディングだけである。観衆の方も圧倒的に白人ばかりである。観衆を映すシーンもいっぱいあるけど、黒人客は10人ぐらいしか写らない。またカップルで来ている客もいっぱいで、それこそ「サマー・オブ・ラブ」なんだけど、それも異性カップルばかりだ。つまり、ヒッピー・ムーブメントの象徴とも言える祭典だったけど、まだ「ヘテロセクシャルの白人」のものだったのである。後に性的指向に寛容な町として知られるサンフランシスコでも、この時点では同性カップルが公然と行動出来なかったのだろう。
(ラヴィ・シャンカール)
 アジア系観衆はほぼ出てないけど、映画の最後はラヴィ・シャンカールシタール演奏である。当時ビートルズへの影響などでインド音楽が注目されていた。中でもラヴィ・シャンカールは世界的に有名になったが、この映画でも圧倒的である。かなり長く出て来て、終了後に観衆はスタンディング・オベーションで応えている。ロックコンサートというのに、この段階では座って聞いている人ばかり。今なら考えられないと思うが、ラヴィ・シャンカールに対しては皆起ち上がったんだから、いかに素晴らしいかが伝わってくる。とにかく歴史的なフィルム。D・A・ペネベイカー監督は、この後ボブ・ディランの『ドント・ルック・バック』、デヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』などを製作していて、アカデミー名誉賞を受賞している。
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五百旗頭真、鈴木健二、加藤幸子、ポリーニ他ー2024年3月の訃報②

2024年04月08日 22時19分39秒 | 追悼
 2024年3月の訃報特集。1回目に書ききれなかった日本の学者、著述家等と外国人の訃報をまとめて。政治学者の五百旗頭真(いおきべ・まこと)が6日死去、80歳。兵庫生まれで、京大で猪木正道に師事、広島大助教授からハーバード大研究員を経て神戸大学教授となった。このように東大系じゃなく、猪木、高坂正堯の系譜の現実主義的政治学者として名をなした。日米関係史、占領政策などを研究し、1985年『米国の日本占領政策』でサントリー学芸賞、『占領期 首相たちの新日本』(1997)で吉野作造賞などを受賞。2006年から12年まで防衛大学校長を務めた。多くの内閣で有識者会議委員を務めている。95年阪神淡路大震災で被災したのをきっかけに「災害復興」研究に携わった。その経験から2011年に「東日本大震災復興構想会議議長」を託され、「創造的復興」を掲げて復興への道筋を示した。最後まで「ひょうご震災記念21世紀研究機構」の理事長を務めていた。
(五百旗頭真)
 元NHKアナウンサーの鈴木健二が29日死去、95歳。テレビ司会者として、またエッセイストとして大活躍していた80年代には、日本人全員が知っていた人である。ニュースや紅白歌合戦司会なども担当したが、それより『歴史への招待』(1978~84)、『クイズ面白ゼミナール』(1981~88)などの教養・バラエティ番組で有名になった。特に後者では「教授」と呼ばれて人気を得た。また180冊以上の著作があり、1982年の『気くばりのすすめ』は400万部を超えるベストセラーになった。NHK退職後は、テレビにはほぼ出ずに、熊本県立劇場館長(1988~98)、青森県立図書館館長(1998~2004)を務めた。映画監督鈴木清順の弟
 (鈴木健二)
 作家の加藤幸子(かとう・ゆきこ)が30日死去、87歳。5歳から11歳まで北京で過ごし、敗戦後に引き揚げてきた。その後、同居していた叔父(戯曲『なよたけ』などで知られる加藤道夫)が自殺して大きな衝撃を受けた。北大農学部卒業後、農林省、日本自然保護協会などに勤めた理系、自然保護活動家の加藤幸子が作家になったのは、若い時の体験のため。1983年、『夢の壁』で芥川賞、『尾崎翠の感覚世界』(芸術選奨文部大臣賞)、『長江』(毎日芸術賞)などの他、『北京海棠の街』『苺畑よ永遠に』『翼をもった女』などの作品がある。その清冽な世界が好きだった。東京港野鳥公園設立に尽くした人でもある。
(加藤幸子)
 SF作家、ゲームデザイナーの山本弘が29日死去、68歳。SFとしては『去年はいい年になるだろう』(2011、第42回星雲賞日本長編部門)、『多々良島ふたたび』(2016、第47回星雲賞日本短編部門)や『アイの物語』などがある。それ以上に有名なのは、オカルト、UFO、ノストラダムスなどの疑似科学本を「トンデモ本」と名付けて、その世界を楽しんでしまおうという「と学会」を結成して初代会長になったことである。この「トンデモ」という言葉はすっかり定着してしまった。本人はいたって真面目に疑似科学を正面から批判していて、それは『ニセ科学を10倍楽しむ本』(ちくま文庫)でよく理解出来る。是非一読を。
(山本弘)
 ラリードライバーの篠塚建次郎が18日死去、75歳。三菱自動車のドライバーとして、ダカール・ラリーに参戦。12回目の1997年に日本人として初の総合優勝を果たした。2002年に三菱を退社したが、生涯現役を目指して日産と契約するなどした。21世紀になってからはソーラーカーのレースに参戦して活躍した。妻は三浦友和の姉。
(篠塚健次郎)
 大相撲の元関脇、明武谷(みょうぶだに)が10日死去、86歳。驚くことに「明武谷」は本名である。189㎝と当時としては破格の高身長で、「人間起重機」と呼ばれた。1957年7月場所で新入幕、1969年11月場所で引退するまで、豪快な吊り出しを得意技として、殊勲賞、敢闘賞を各4回受賞するなど活躍した。僕はこの人の活躍を幼い頃に覚えているのだが、驚いたのは引退後である。中村親方を襲名して指導に当たっていたが、「エホバの証人」に入信して1977年に廃業したのである。よりによって格闘技を認めない宗派に入信するなんて。その後はビル清掃などをしながら布教したという。
(明武谷)
 経済界ではメニコン創業者の田中恭一が10日死去、92歳。現代音楽の作曲家、篠原眞が3日死去、92歳。イタリア文学者の大久保昭男が12日死去、96歳。イタリアの作家アルベルト・モラヴィアの翻訳は大久保訳でほとんど読んでいる。政治家では鳥取県知事(74~83)、衆議院議員(83~90、93~2003)、郵政大臣を務めた平林鴻三が28日死去、93歳。また冒険家の阿部雅龍が27日死去、41歳。2018年~19年にかけ、単独徒歩で南極点に到達した人である。

 イタリアのピアニスト、マウリツィオ・ポリーニが23日死去、82歳。1960年、18歳でショパン国際ピアノコンクール優勝、ルービンシュタインが絶賛して知られた。その後8年間の空白を経て、1968年から国際的活動を再開し、現代最高のピアニストと呼ばれた。古典から現代音楽まで何でもこなしたが、特にショパン、ベートーヴェン、シューベルト、シューマンなどを得意とした。何度も来日したが、聞きにいったことはない。だがクラシック界の貴公子だったポリーニが亡くなったというのはショックだ。自分も年を取ったということだから。
(マウリツィオ・ポリーニ)(ショパン「練習曲集」)
 スウェーデンの世界的陶芸家、デザイナーのリサ・ラーソンが11日死去、92歳。動物をモチーフにした温かみのある作風で知られる。猫のキャラクター「マイキー」などが日本でも人気を集めた。
 (リサ・ラーソン)
 日本では報道されていないが、フィリピンの女優ジャクリン・ホセが3日死去、60歳。80年代から女優として活動し、近年はブリランテ・メンドーサ監督作品で国際的に知られた。『ローサは密告された』(2016)でカンヌ映画祭女優賞を受賞している。最近公開された『FEAST -狂宴-』でも重要な役を演じていたので訃報に驚いた。重厚な存在感で知られた女優だった。またアメリカの俳優ルイス・ゴセット・ジュニアが29日死去、87歳。『愛と青春の旅だち』(1982)でアフリカ系初のアカデミー賞助演男優賞を得た。テレビドラマ『ルーツ』では、主人公クンタ・キンテの友人のバイオリン弾きを演じていた。
(ジャクリン・ホセ)(ルイス・ゴセット・ジュニア)
 アメリカの心理学者、行動経済学者のダニエル・カーネマンが27日死去、90歳。心理学的見地から消費者行動を分析する独自の研究で、2002年のノーベル経済学賞を受賞した。従来の経済学では人間は経済合理的に行動するとしていたが、現実の人間の意思決定ではそういう前提とは異なる習性があることを示した。
(ダニエル・カーネマン)
 元米上院議員のジョー・リーバーマンが27日死去、82歳。2000年の米大統領選で、民主党候補アル・ゴアの副大統領候補となった。これはユダヤ系として初のことだった。1989年から2013年まで上院議員を務めたが、民主党内では最右派に属し最後の任期では無所属となった。地元の予備選で左派候補に敗れて、本選を無所属として戦って当選したのである。イラク戦争支持、同性婚反対などを主張し、2008年大統領選ではオバマではなく「個人的友情」で共和党のマケインを支持した。
(ジョセフ・リーバーマン)
 2000年にノーベル物理学賞を受けたハーバート・クレーマーが8日死去、95歳。受賞理由は「高速エレクトロニクスおよび光エレクトロニクスに利用される半導体ヘテロ構造の開発」。イギリスの脚本家、デヴィッド・サイドラーが16日死去、86歳。『英国王のスピーチ』で米アカデミー賞を受賞した人。イタリアの彫刻家ジュリアーノ・ヴァンジが26日死去、93歳。2002年に静岡県にヴァンジ彫刻庭園美術館が開館したが、23年に閉館した。アメリカの彫刻家リチャード・セラが26日死去、85歳。鋼板による巨大彫刻で知られる。ヴァンジ、セラ二人とも高松宮世界文化賞を受賞している。
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