尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

いじめ問題、あらためて考える

2016年12月13日 23時32分13秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 2016年も残り少なくなり、書かずにいた問題をいくつか書いてしまいたいと思う。「教育問題」について、折々に書きたいと思いながら、そのままになることが多い。今年の「教育事件」としては、「いじめ問題」がかなり多かった。前回この問題を書いたのは、2013年末の「いじめ防止対策法はできたけれど…」である。法成立から数年たって、そこで書いたように「形骸化」しているのかもしれない。

 最近の傾向として、「ネットいじめ」が特に多いのと、「原発事故避難者」へのいじめという問題が起こったことが挙げられる。日本も含めて世界中に、理想社会などどこにもない。どこも不完全な社会に、不完全な人間が住んでいるのだから、さまざまな社会問題、オトナ社会のゆがみが子ども社会に反映されてくる。それにしても、「原発事故」という日本にとって非常に衝撃的な出来事が、こうして矮小化されていくのかと思うと、「これが今の日本なんだ」と痛感する。

 文科省の有識者会議は、いじめ防止対策を議論した結果、「自殺予防、いじめへの対応を最優先の事項に位置付ける」と提言するそうである。(朝日新聞2016.10.25)一見して、いいこと、当然のことのように思われるが、恐らく「教師いじめ」としてしか機能しないだろうと思う。新聞に載るようないじめ事件は、教師人生で一生に一度あるかないかである。(というか、普通はない。)いじめ対応が「最優先」と言われても、毎年必ずある「全国学力テスト」の方が目の前の課題に決まってる。テスト結果を公表し、それが学校評価に使われ、教員の評価にも関係してくるといった「競争的教育政策」をそのままにして、「いじめ対策が最優先」と言われても…。

 学校という職場は、企業として考えれば「小企業」である。業種ごとに多少違うが、「中小企業」というときの「中」に入るには、従業員数100人超が必要だろう。教職員が100人超なんて学校は大学しかないし、小規模の小中学校では20人~30人程度だろう。そこに〇〇委員会をやたらに作っても機能するのは難しい。僕が先に書いたように、「学年会」と「生活指導部会」がきちんと機能する方が大事だ。そこがいじめ防止の最前線であり、いじめ問題が広がる前に事前対策を打ち出せるのは、当該生徒を抱える学年教員団しかない。そのためにはどうすればいいか。

 それなのに、「認知件数少ない自治体に『指導を』」などと先の新聞記事にある。それじゃあ、教師が頑張って、大きないじめが発生していない学校はどうなるのか。いじめる生徒がいないと困ってしまうではないか。本末転倒もきわまる事態になる。どうするかと言えば、大した事件でもないものを、いじめ認知も少しは必要だからと「格上げ」して報告し、「解決に至った」とするしかないだろう。管理職の作文能力がより必要になるということなんだろう。

 昨今のニュースで報じられたいじめ事件に関しては、学校側が「家庭がいじめとして相談しなかった」とか、たかり行為がひんぱんに起こっていながら危機感を持たないなど、ちょっと考えられない事態が多い。「いじめ」を法的に規定したために、一種の行政用語になってしまい、「いじめかどうか」といった問題で堂々巡りをしてしまう。「いじめ」だとしたときに、指導や報告の義務を大きくし過ぎると、現場的感覚で「まあ、いじめとまで言わなくてもいいんじゃないですか」となりやすい。

 背景にある「教員多忙問題」を何とかしない限り、同じようなことは繰り返されると思わないといけない。大体、文科省や政治家が要求しているのも、「いじめなんか起きないように、生徒をよく管理するように」と、教師の「生徒管理能力」を高めたいという発想が強い。それでは「教師の前では、管理された言葉しか使わない子ども」を量産するだけである。

 「教員の人権センサー」をみがき、子どもたちの中の暴言、暴力にひそむ反人権文化を変容させていくといったことは考えていないだろ。そういう「人権センサー」のすぐれた教員は、当然のように教育行政の問題点にも敏感になるし、子どもたちの現実批判力も付けてしまう。本来は教師が主導して、子どもたちの中の人権感覚を高め、自らいじめ撲滅につながる試みをしていかないといけない。

 原発事故避難者へのいじめ多発が報じられる今こそ、「原発事故とは何か」「原発は今後どうすればいいのか」を、教師も子どもも、また保護者も含めて、自由闊達に討論する場が必要なはずだ。でも、そんなことはできないんだろうと思う。政権の原発維持方針がはっきりしているから、「政治的中立を冒す」とかなんとかいう輩が出てくる。少なくともそういう心配をする人がいる。でも、学校でその問題をタブーにしていながら、子どもへのいじめだけは防ぐということはできるのか。いや、それはいいから、タテマエを言い続けろということか。

 これも以前に書いているが、「いじめゼロ」は学校目標ではない。「思いやりのある子どもを育てる」とか、そっちの方が目標である。目標達成に近づけば、自然にいじめは減るわけだ。そのためには、「子どもが生き生きとした学校」でなくてはならない。そして、さらにその前に「教師が生き生きとした学校」でなくてはいけない。いまの教員は、毎日学校で楽しいんだろうか。子どもたちのこと以前に、僕は最近はまずそっちが心配になるんだけど。教師が生き生きとして、知的活力にみちて働いている学校は、それだけあるんだろうか。
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いじめ防止対策法はできたけど…

2013年12月28日 00時21分41秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 いじめ問題に関する本として、尾木直樹「いじめ問題をどう克服するか」(岩波新書)が11月に出た。「いじめ」に関しては、2012年に「大津事件」が問題化し、2013年6月に「いじめ防止対策推進法」が成立した。過去30年ほどの間に「いじめ」をめぐって何度か重大な悲劇が起こり、その度にマスコミ等でも大きく取り上げられた。今回は初めて対策法が出来たわけで、画期的な出来事と言ってよい。尾木さんは、大津事件の第三者委員会に遺族側推薦で参加した。また当時の民主党政権下での「対策法」作成にも関わった。だから、今この問題を語るべきもっとも適任の人によるタイムリーなまとめの本。教師、教育行政関係者、あるいは子供を持つ親の必読本。

 対策法が成立した時に記事を書こうと思ったけど、まあやめておこうと思った。こういう法律は「ないよりはいい」「あれば役に立つ」という部分が当然ある。でも、それは使いようで、尾木さんは「(問題も課題もあるが)歴史的な意義は大きい」という考え。この法律は、自民党の政権復帰に伴い「復古的色彩」が強くなった。「保護者は子どもの規範意識の指導や学校の取り組みへの協力に務める」「学校は道徳教育や体験学習の充実を図る」「いじめた子には懲戒や出席停止措置をする」など。ここだけ見ると、何じゃ、これという感じだ。現場の意見を無視しているとして、共産党と社民党は反対した。

 法律では、教育行政にいじめ防止の研修や人材確保を義務付けた。また、いじめが発生したときに、学校に事実確認や被害者支援、加害者指導・助言を義務付けた。それらが法的根拠を持ったことが大事という考え方は当然あるだろう。だけど、尾木氏自身が書くように、「学校の多忙化」を解消しない限り、この法律自体が多忙化を促進し、法の形骸化を招く恐れも強い。この法で「いじめ防止組織」を各学校に作ると決められている。「複数の教職員、心理、福祉等の専門家その他の関係者」で組織される。僕はこの組織が形骸化し、多忙を促進し、やがてやっかい者扱いされ、書類上開いたことにするようになるのは間違いないと思う。そして、何か問題が起こった時に、「法で決められているのに形骸化させている学校の責任は大きい」と現場を責める道具に使われる。そうなることは目に見えていると思う。

 いじめ(に限らないが)を防止する学校の組織とは何か、それは学年団所属の教員で構成される「学年会」であり、校内で生活指導を担当する「生活指導部会」ではないのか。複数クラスがあれば必ず学年会がある。生活指導部は名前は学校により違うと思うが、どの学校にも必ずある。「学年会」「生活指導部会」が機能していない学校で、その他に「いじめ防止組織」を作っても、校内で機能するはずがない。この問題はこれ以上書かないが、教師が一番身近に話し合える学年会で、生徒の変容がつかめるか。大津事件では、いじめ深刻化の前に「クラスの授業の荒れ」があったと同書にある。この段階で対処できるのは、学年会と生活指導部会しかないではないか。

 ところで、この法律では「いじめをどう定義しているのだろうか」。定義しなければ、法律を作れない。法律の最初の方に以下のように書いてある。「この法律において「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいうこととした。」

 「児童等が心神の苦痛を感じている」「ネットいじめを含む」という点が評価できると尾木氏は書いている。「いじめ定義」は文科省にいじめ発生数を報告するために決められているが、1994年に変更されている。あまりに細かい話になって行くので、ここでは触れない。

 それより同書には、アメリカの事例が紹介されている。マサチューセッツ州のものである。アメリカでは教育は州ごとに法を作る。50州中49州でいじめ対策法があるという。なんと、アメリカは自由放任かと思えば、きちんと対処しているのである。かなり長いが、引用しておきたい。僕はこの定義は非常に優れたものだと思う。特に「所有物にダメージ」「学校内での権利侵害」「教育課程または学校の秩序を妨害」をいじめと理解するのは、なるほどと納得させられる。日本でも、教員の意識をクリアーにするためには役に立つ定義ではないか。

いじめの法的定義
 いじめとは、一人または複数の生徒が他の生徒に対して、文字や口頭、電子的表現、肉体的行動、ジェスチャー、あるいはそれらを組み合わせた行動を過度に、または繰り返して行い、以下のいずれかの影響を生じさせることを指す。

「いじめ」と定義される具体的な行動
①相手生徒に肉体的または精神的苦痛を感じさせるか、その所有物にダメージを与える。
②相手生徒が自身の身や所有物に危害が及ぶ恐れを感じる。
③相手生徒にとって敵対的な学校環境をつくり出す。
④相手生徒の学校内での権利を侵害する。
⑤実質的かつ甚大に教育課程または学校の秩序を妨害する。

特徴
①いじめの存在に気がついた教職員に対し、校長などに報告する義務を課す。
②教職員はいじめの予防と介入的方法に関する研修を毎年受けなければならない。
③いじめ問題を扱う授業を各学年のカリキュラムに盛り込む。
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いじめ「報告件数」が多すぎる

2013年12月25日 00時18分09秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 ちょっと前の話になるが、文部科学省が12月10日に2012年度の「問題行動調査」のまとめ結果を発表した。文科省サイトの「平成24年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」結果について」で見ることができる。翌日の各紙朝刊は一斉にこれを報道し、「いじめ認知19万8千件」と大きく報じた。2011年度は7万件ほどなので、3倍近くに増えたことになるが、もちろんこれは「報告が増えた」ということである。大津事件を受けて、緊急アンケートなどを行い「軽微ないじめの認知が進んだ」と一応考えられる。

 「一応」と書いたのは、都道府県により報告数の違いが多すぎるからである。それは各紙とも指摘してるし、表を載せている新聞も多い。でも新聞を取っていても見出ししか読んでいない場合も多いし、新聞そのものを読んでいない人も多い。ましてや文科省サイトを見てみる人はほとんどいないだろう。そこで簡単に紹介しておきたいと思ったわけである。僕も文科省の統計そのものをじっくり検討はしていない。一緒に「問題行動」として統計が発表されたのは、暴力行為、いじめ、出席停止、小・中学校の不登校、高等学校の不登校、高等学校中途退学等、自殺(学校から報告のあったもの)、教育相談の全8項目にわたっている。本来はこれを総合的に考察し、また学力テストの結果、さらに県民所得など他の数値も含め総合的に考える必要があるだろう。

 報告数の違いを九州を例にとって見ておきたい。九州各県は多少の経済的、文化的な違いはあるけど、まあ例えば「北海道、秋田、東京、大阪、愛媛」などとアトランダムに取り上げるよりは、社会的に似ていると思う。だから多少の違いはあるのは当然だけど、以下のようにあまりに違い過ぎるのは本来おかしい。小中高特別支援すべて含めた「1000人当たりの件数」を見ることにする。
 福岡(2.5)、佐賀(2.0)、長崎(12.5)、熊本(29.1)、大分(28.9)、宮崎(13.0)、鹿児島(166.1)
 
 いくらなんでも、佐賀県と鹿児島県で80倍もいじめ数が違うとはだれも考えないだろう。鹿児島県の前年は「2.0」で、佐賀県と同じ。鹿児島県は一年で80倍に増えた。これはいじめが増えたのではなく、「報告が増えた」わけである。新聞によれば、鹿児島県は各校ごとのアンケートではなく、「統一アンケート」を実施したという。一方、佐賀県でも前年は「0.6件」で、3倍に増えている。佐賀県は各校で教員の責任で判断しているという。「調査委員会」を校内に設置するなどして芽の段階でいじめをなくそうと努めているらしい。

 和歌山県では「0.9件」が「21.2件」と20倍に増えたが、県教委の指導主事が全高校と全市町村教委に行き、教員が「ささいな冷やかし」と判断したものもいじめに加えたという。(朝日新聞)つまり、簡単に言えば、「19万8千件」には「ささいな冷やかし」も含まれているわけである。もっとも「ささいな冷やかし」ならいいのかと言えば、そうは言えない。言えないけれど、教師側から見て「ささい」と見えるものが、本当に児童・生徒の心には「ささい」なのか「重大」なのかは、本人にだってよく判らない場合もあるだろう。それを「報告すべきか」「報告しなくてもいいか」は判らない。それは報告すべきだろうと思うかもしれないが、小さな事例にも大人が全部対応するのがいいのだろうかという観点もあるからである。人間がたくさんいればトラブルもおこりうるが、それを全部「上から」解決するのがいいのかどうか。この辺の機微は、判断が難しい。

 問題はその「判断の難しさ」を教員が共有していることであって、何かあったらすべていじめ、何でも報告というなら、それは「学びの場」というより、「行政官庁」になってしまうのではないか。2013年度以後の統計も見て行かなければならないが、「多い方に合わせる」、他県はあんなに多い、いじめが多いのは本来よくないはずだが、報告数が多いということは、教員の「いじめ認知」が多い、つまり「教員が熱心に取り組んでいる」、よって「いじめ件数が多い方が熱心に見えて評価される」などという本末転倒が起こらないことを望む。しかし多分、そうなって行くのではないかと思うが。校内に報告すべきいじめ事件が起こらないと、教員が困ってしまうなどという「カフカ的世界」は日本の学校では起こりそうな話である。

 なお、本当は校種別に考えるべきだけど、校種別の報告数はあるけど、「1000人ごと件数」が統一のものしか発表されていない。学校基本調査を参照して自分で計算すればいいわけだが、それは面倒すぎる。ここでは小中校特別支援すべて合わせて計算した数字で見ておくしかない。最後の報告件数が多い県、少ない県を少し挙げておきたい。(なお、いじめの問題は続けて書くことにする。)
多い県
 鹿児島(166.1)、奈良(47.8)、宮城(42.0)、山梨(35.9)、京都(33.9)、千葉(32.2)、熊本(29.1)
少ない県
 佐賀(2.0)、福岡(2.5)、香川(3.3)、福島(3.4)、山形・埼玉(4.5)、広島(4.6)
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「歴史認識」としての「体罰問題」

2013年02月22日 00時23分58秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 「体罰」と教育の歴史と言うような視点は、数日前の朝日新聞で論じられていた。僕もそれは非常に重要な問題なので、一度書いておきたいと思っていた。さて、今井正監督が1972年に作った「海軍特別年少兵」という映画を見たことがあるだろうか。海軍で特別にまだ14歳の少年兵を受け入れる制度を作った時の、その「年少兵」の物語である。これがほぼ「体罰か、愛の教育か」という展開の話になっている。地井武男が毎日映画コンクール男優賞を受ける名演で、体罰を信条とする工藤上等兵曹と言う役を熱演している。彼は下士官として、兵の教育は「連帯責任」と「体罰」と確信している。そして、その確信をもとに少年を鍛え続ける。その結果、確かに少年との絆も深まるのだが、どうしてもついていけない少年もいる。一方、それを見ている教官の中には、兵と言っても年齢を考えると「愛の教育」がベースになければならないのではないかと工藤の方針に疑問を抱く者もいる。こういう対立の中で、様々なエピソードが起こる。

 この映画を昨年何十年ぶりかで見直し、こういう「教育の映画」だったかと驚いた。しかし、この映画の中では「海軍の兵を育成する」という大方針は前提になっていて、その上で対象の少年兵の年齢がかつてなく若いため、従来の軍隊教育と同じでいいのかという問題があるわけである。工藤が悪役としては描かれていないので、「軍隊内の体罰」を問題視しているわけではない。しかし、この映画だけでなく、様々な映画で判ることは、帝国陸海軍は恐るべき「体罰」が日常化した社会であったということだ。そのことは「真空地帯」などの純文学作品を左翼独立プロで映画化した作品だけでなく、大映の「兵隊やくざ」シリーズなど大衆的な映画シリーズでも印象的である。というか、特に陸軍の内務班が暴力の巣であったことは、誰でも知ってる常識というべきだろう。

 戦前は中高等教育に「軍事教練」が必修化されていた。これは1925年以来のことで、ほぼ昭和の教育の問題と言える。「総力戦」時代となり、やがて兵となる男子には学校時代から訓練を施しておく必要が増したが、それより軍縮条約による師団削減からくる将校のリストラ対策だったのは周知のことだろう。当時の宇垣一成陸相はいわゆる「宇垣軍縮」を進めたが、人員を減らす代わりに、装備の近代化と教練の必修化を勝ち取った。この結果、軍隊流の訓練が教育現場にはびこるようになるんだと思う。さらに戦争の激化とともに教師もどんどん兵隊に送られ、軍隊の暴力的指導を経験した。戦後、兵隊帰りの教員が大量に教壇に復帰したが、そのころは公務員の給料は非常に低かったから、中にはモチベーションの低い人もいた。一方、生徒は戦後の自由な価値観を持って育っているから、教師と生徒の価値観が違う場面が多かった。そういう時に、すぐに「体罰」を行う教師がいたわけである。1950年代、60年代には、そういう軍隊経験者ですぐ体罰に走る教師、というタイプがいたのである。

 僕は学校教育法に「体罰禁止」が明記されているのは、このような軍隊教育との断絶宣言戦前教育の負の遺産を引き継がないという宣言だろうと思っている。そこには「過度の精神主義の否定」も含まれる。運動部の指導に限らず、受験勉強だって「気合い」というハチマキを締めさせたりする人(塾や予備校など)もいるし、学校の行事をすべて「精神鍛錬目的」にしてしまう教師もいる。そういうことも全部含めて、精神主義的指導がどこから来ているのかという「歴史認識」が教師にないと、熱心さのあまり「軍隊流指導」にすぐなってしまう風土があるのである。教師には、教育技術だけでなく、教育史への深い知識も必要なのだと思う。

 また「連帯責任」と言う発想を問い直すことも大事ではないか。部活で試合に負けて主将が殴られるのは、チームの責任を責任者が一身に負うという発想である。そのやり方で、一致団結したチームが頑張るということもありうる。というか、そうやって生徒同士の責任制度、江戸時代の年貢の村請制度のように、生徒同士で助け合う、または生徒同士でお互いに責任をなすり付け合うというシステムを作ってしまえば、教師の指導は非常に楽になる。楽するためではなく、生徒同士で助け合う心を育てる目的でやり始めても、今の生徒には通じない。「足を引っ張る生徒」がいるために班ぐるみ叱られたら、いじめのきっかけにもなりかねない。このような「班活動による生徒の連帯感の育成」という戦後の教育運動の中で培われてきた方法も、再検討がいるのだろうと思う。右も左も、歴史の再認識をしていかなければ、現代教育のアポリア(難問)は解けないまま、眼前に立ち広がるのみと言う時代なんだと思う。
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「心罰」という大問題

2013年02月21日 00時35分35秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 体罰問題を先に書いてしまいたい。何回か断続的に書いているけど、「『体罰』と『私的制裁』の間」の中で、「体罰」の「体」の方の問題を書くと言ってる。その問題を。「いじめ」でも警察に訴えるということが最近は多いが、警察としても「暴行罪」に認定できる材料がないと、なかなか今のところ難しいようだ。「体罰」は、実は「私的制裁」だと書いてるように、行き過ぎた暴力は刑事責任も問われる場合があるのは当然だ。そういう風に、「暴力」が刑事罰を科されることもあるのは当然なんだけど、そうすると「暴力がなければいいのか」「暴力なきいじめはまだましなのか」などと言われてる気がしてきて、それは違うだろうと思うわけである。

 僕は「体罰」問題を書く中で、「量刑の平等性」という問題提起をしてきた。それが「体罰」であれ、「罰則」である以上は「罪刑法定主義」がいる。体罰であれ、そうでない指導であれ、あの子は軽い、あの子は重いとなれば、誰も学校を信用しなくなる。実際、ほとんどすべての高校でそうだと思うが、「喫煙が見つかれば、原則○日の自宅謹慎」などとあらかじめ決まっているはずである。大体一回目だと3日くらいが多いのではないかと思うが、要するに事前に平等性が確保されている。だから、高校を辞めてもいいと思っているのでなければ、生徒はさっさと反省の態度を示した方がいい。(未成年の喫煙禁止は、国法で決まっている以上、学校で認められるはずがない。)

 ところが、大津市のいじめ問題でも、大阪の「体罰」問題でも、新聞等で見ている程度しか知らないが、「なんで自分が」という問題もあるけれど、もう一つ「この苦しみがいつまで続くのか」というその精神的苦悩が非常に大きいように思うのである。どんなにひどいいじめや暴力であれ、あるいは家庭内のDVやストーカー被害などにせよ、もし今日が確実に最後で以後は絶対ないと確信できるなら、その日に自殺する人はいないのではないかと思う。「許す」とまでは行かないかもしれないが、あえて訴えたりもせず、そのままそっとしておいて欲しいということになるのではないか。もし絶対その日が最後になるのなら。でもDVなんかの場合、一度は反省しもう二度としない、許して欲しいと言いながら、また際限のない暴力が繰り返されるということが多いらしい。こうなると、その暴力そのもの以上に、「いつまで繰り返されるのか」という精神的苦悩がその人を追いつめるだろう。ストーカーの場合なんかもそう。行為そのものは携帯電話に電子メールを送ってくるだけだったりするかもしれないが、それが一日1000通にもなり何カ月も続いたりすれば、精神的に追い詰められてしまう。

 つまり「量刑」の問題で、事前に量刑が示されないので、事実上「終身刑」のように思えてしまう。このような苦しい日々を毎日送るくらいなら、死んでしまいたいという位の苦しみ。もちろん学校なんだから、実際には「終身刑」と言うことはありえない。卒業までで終わりである。だから多くの生徒は、学校でいろいろ嫌なことがあっても、卒業までだからガマンしようという風に思って暮らしている。でも、そこまでがあまりに遠くに思えるほどの苦悩があったということなんだろう。そう言う風に考えて行くと、「体罰」や「いじめ」と言っても、実際は「心の苦しみ」の方が重いのではないかと思う。だから、「体罰」というより「心罰」を問題にする視点が大事なんだと思う。

 どうしてこういう風に言うのかと言うと、「いじめ」「体罰」などと細分化していくのではなく、卒業後の企業での労働条件の問題も含め、行き過ぎた「パワー・ハラスメント」の問題と捉えた方がいいと思っているのである。会社の中で暴力はなくても、お前は仕事ができない、お前は会社にいらない、お前は早く辞めてしまえなどと精神的に追い詰められてしまうことは多い。よく「いじめ」「体罰」で「学校と言う閉鎖的な社会で起きる」などと言う人がいるんだけど、僕はそれはおかしいと思う。「保護者」と言う存在があるだけ、まだ学校は開かれている度合いが広く、実際は「ブラック企業」などと言われる会社の内情の方がずっと不可思議で閉鎖的なのではないか。そういう「リクツが通らない」社会に生徒は出ていかざるを得ない。だから親は「学校では厳しくしつけて欲しい。社会はもっと厳しいんだから」という。これが「体罰」などが容認されてしまう背景にある。だから、学校だけでなく、社会の方も変えていくという視点がないと、学校だけ良くなるということなどありえない

 学校では「いじめ」や「体罰」も確かにあるので、それを問題にしていく必要があるのは言うまでもない。しかし、「暴力はいけない」と言う風にだけ進んでしまうと、「言葉ならいいのか」という勘違いが出てくると問題だなと思う。現実は、子ども同士の間であれ、教師と生徒の間であれ、言葉で傷ついたという経験の方が圧倒的に多いはずだ。教師の場合でも、冗談半分に言い過ぎてしまうことは防ぎようがない部分もあるけど、何もあそこまで言葉で追いつめて行かなくてもいいのではないかという場面に出会うことがある。これは「体罰」より多いし、その後の「被害」は体罰より大きいことが多い。学校の校則は正しいし、校則を破った生徒は間違った行動をしたことになるが、その正邪がはっきりしていて、生徒の側で言い返せないだけ、その気になれば教師は生徒をどこまでも追いつめられる。特に高校は義務教育ではないので、なんで好き好んでこの高校に来たのか、そんなに嫌なら退学すればいいだろうと、どこまでも追及できるのである。リクツでは間違っていないとも言えるのだが、こうして追いつめられてしまう生徒もいるだろうと思う。特に、スポーツ推薦で部活目的で入学した生徒が、やる気を失ったり、怪我したり、レギュラーになれなかったりする時に起こりやすい。部活は課外活動だから、部活を辞めても退学する必要はないわけだが、事実上学校内の居場所を失ってしまうこともあるだろう。

 さて、このように「体罰」あるいは「暴力」と言うようにだけ捉えるのではなく、「教員による生徒に対する精神的な圧迫」として問題化していかないと、また別の問題が起こるのではないか。そして、僕は確信しているのだが、もうすぐ暴力だけでなく、「暴言」も「傷害罪」に問われる時代が来るだろう。例えば、教師の言葉で追いつめられ、「うつ病」となり不登校になってしまったというケース。あるいは会社でのパワハラで、「うつ病」になり自殺してしまったというケース。今までなら、教師が行政上の処分を受けたり、会社が労働法上の責任を問われたりすることはあっただろうが、そこまでである。しかし、「精神的な病を発病させた」ということをもって、「業務上過失傷害罪で刑事告発する」と言うケースが必ず起こってくると思う。今までも重大事案では、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を傷害罪と認定するケースがあった。(女性監禁事件では精神的な後遺症を傷害罪と認定することが最高裁判決で確定している。)そういうことまでも見通して、生徒にも指導し、教員も気をつけて行かないといけない。
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「体罰」なきのみをもって「善し」とはせず

2013年02月14日 00時13分34秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 「体罰」の問題に戻って。この問題も早く書き終わって、本や映画、国際問題などを書きたくなってきたが、「体罰の『体』問題」や「暴力そのものの考察」、「歴史認識としての体罰」「教員の成績評価制度の問題」などと続くと、あと数回は必要。そういうことを書いてるうちに、自分自身の体罰論を書くのが億劫になってくる気がするので、先に書いてしまおうかと思う。

 僕は「体罰」という名の「私的制裁」は、今は「教員は身を守ることが優先の時代」になっている以上、必ず避けるべきだと思っている。早期退職だろうが定年退職だろうが、何十年も勤めれば2000万以上には退職手当が出ることを考えると、家族の顔も頭に浮かべれば、生徒にバカにされようが、部活で負けようが、それがなんだというのか。こういう言い方は批判されるかもしれないが、世の「教師批判」は政治的思惑を持って行われているので、標的にされたら助からない。いじめでも体罰でも、一度問題化してしまったら、管理職は自分が助かるために平気でウソの報告をして、現場教員は切り捨てられる。僕はそのように認識しているので、残念ながら、そこまで考えて「身を守る」必要がある。諸書類の提出、もちろん教員免許の更新等は、部活指導や補習などに優先して処理しておかなければいけない。落とし穴はどこに仕掛けられているか判らない、そういう時代なのである。

 ところで、「体罰」というか、「暴力による生徒指導」を完全に否定できる教員も、正直に言うならばほとんどいないはずである。僕が書いている「私的制裁」が行き過ぎると、「私刑」(リンチ)に近づいてしまう。これは刑法上の傷害罪に他ならず、正当化することは全くできない。しかし、「体罰」的要素を持つ「私的制裁」はありうる。それは「量刑の平等性」が確保されたうえで、「あの先生は忘れ物をしたらゲンコツ一回だ」などとなっている場合である。これは望ましい「良い指導法」ではないと思うが、こういうのはよくあったはずだ。それは「体罰が効果をもたらす現実」があるからである。生徒は内心不満をため込んでいるとは思うが、嫌なことは避けたいから気を付けるという効果はある。(ただそれで効果をあげる生徒は、言葉で注意することで同じ効果が期待できる。)一方、もう一つの類型として、「思わず手を挙げてしまう」というのがある。それは生活指導や部活動で起こりやすい

 結局のところ、教師も生徒も人間なのだから、全くどうしようもない言い逃れやヘリクツを並べ立てる生徒を前にすれば、熱心な先生ほど「怒り心頭に発する」こともあるはずだ。ぼくはそういう現実があることは否定できないので、「一度も体罰をしたことがない」などと自分がいかにも理想的な指導をしてきたかのように語る教員は信用していない。教師は、理想的な教員として、理想的な学校に配置されるわけではない。右も左もよく判らぬ新米教員として、いじめや対教師暴力、暴言のはびこる学校に採用されたとしたら、一番下っ端の教員に何ができるのか。「大学では体罰は禁止と教えられました」と言うのか。あるいは、見て見ぬふりを続けるのか。それとも、体を張って生活指導をしている教員にならって、自分も体罰を始めるのか。それとも「問題生徒」の中にとびこみ、徹底的に話を聞く役を演じるのか。そういう現場を知らずに教員生活を続けていける幸福な教員は別だが、今50代、60代の教員なら、そういう修羅場の時を知ってる人も多いのではないか。今のような少子化時代ではなく、ちょっと前までは「第二次ベビーブーム世代」が学校にあふれ返り、生活指導も進路指導もムチャクチャ大変な時代だった。

 例えば、こういう生徒がいたとする。成績もよくスポーツも得意で、級友の信頼も厚いためクラスの選挙で男子学級委員に選ばれた。ところが「マジメにコツコツ」が苦手で、というか学力も運動神経も抜きん出ているので、塾や少年スポーツしか一生懸命にならず、学校では手を抜いているのである。そこで清掃の時間なんかは、率先してさぼりまくり、女子に大変な役を押し付け、自分は男子を引きつれ、毎日ほうきでチャンバラをしている。だから担任は、毎日注意をしている。学級委員で男子のリーダーが先頭に立って遊ぶので、男はマジメに掃除をしなくなる。女子の不満も爆発寸前である。「先生がちゃんと注意しないから男子がさぼって困る」と訴えてくる。そこで担任はその生徒を「学級委員が先頭に立って掃除をさぼってていいのか。恥かしいと思わないのか」と語気もきつく注意したわけである。そうしたら、その生徒は「みんなサボってるのに、先生は何で僕だけ注意するんですか。僕が学級委員だからですか。それだったら、それは「差別」なんじゃないですか。みんなサボってるんだから、同罪で同じように注意して欲しいと思います。第一、なんで僕たちが掃除しないといけないんですか。僕の親はちゃんと税金を払っているんだから、清掃業者を学校でお願いするべきじゃないですか。生徒が掃除するなんて、そんなの日本だけだと思います」とか何とか言い張るわけである。

 この生徒の気持ちが判らないわけではない。これで掃除まで一生懸命なら優等生すぎるので、あえて女子の嫌われ者になるというのも思春期の行動として自然だろう。勉強も運動もできるのだから、掃除くらい一緒にさぼらないと、男子の中で居場所がなくなるかもしれない。しかし、学級委員が女子に掃除を押し付けているのは良くない。すいませーーんと言って、注意されたらさっさと掃除をして終わりにした方がいい。ヘリクツを言い立てるから、担任も女子の声を受けて引けなくなるわけである。こういう場合、親を呼んで一緒に考えようなんてしても逆効果である。そういう親に限って、「先生はなんで、そうじのことだけで連絡してくるんでしょうか。学校は学習だけしっかりやってくれればいいと思っています。何でも他の生徒も一緒にさぼっていたとか。うちの子だけ特に怒られてると子供は言ってますが、先生の対応はおかしいんじゃないですか」とか言うに決まってる。「うちの子は確かに学習も運動能力も恵まれていると判っています。そういう人間は、生活面でもしっかりしないといけないと、常々「ノブレス・オブリージュ」をしつけているつもりなんですが、行き届かなくて恥ずかしいと思っています」なんて言う親が日本にいるわけない。

 
 こういう場合、ヘタすると教師と生徒でヘリクツ合戦になってしまい、消耗戦が始まってしまう。それくらいなら、ふざけてんじゃねえとゲンコツ一回お見舞いして、それでオシマイにした方がお互いずっとすっきりする場面があるだろうと思う。今の場合は、まあヘリクツに対抗する「体罰」という場合だが、成績もよく顔も可愛い女子が、裏でいじめの張本人だということもある。はっきりした証拠を付きつけても、言い逃れして絶対に認めない。顔もまともにあげず、明らかに反抗的な姿勢を示している。そういう卑劣な行為を止めるためには、担任が悪者になるしかない。お前のやったことは絶対に認めない。一発ビンタして今回は終わりにするから、二度とするんじゃない。いいか。では、歯を食いしばれよ、と声かけて、一発張り手をするということが、良い指導法であるとは思わないが、僕は絶対にないとは言えないと思う。大人が怒ってることを判らせるためには、暴力を使わないと判ってもらえない場面があるのが、日本社会の現実ではないかと思うのである。

 そういうことが一回もない教員人生なら、いいのだろうか。男の教員である程度大変な学校を何校も経験していれば、そういう場面に何回かぶつかったことがあるのではないか。そういう場面を経験しないで済んだ教員は以下のようなことが考えられる。初めから体罰が無理なような女性教員は除く。(女性教員で「体罰」を行う人も結構多いと思うけど。)
①体罰の必要もないくらい生徒の能力が高く、落ち着いている学校の場合。(進学高校を渡り歩いた場合)
②もはや誰も立て直しようがないくらい学校が荒れてしまい、生徒の暴力はあっても、教員側で押さえられないような学校。
③一部の教員の「暴力的指導」に生徒が脅えていて、他の教員はその傘の下で自分は体罰をしないで済んでいる学校。
④学校の性格上、教師が暴力を使ってはならないような生徒が集まっている学校。

 もし、そういう学校でなければ、特に「いじめ」「校内暴力」が多発した80年代の中学を経験したことがある教員ならば、自分が被害者になったことも加害者になったこともある場合が多いと思う。仮に自分が「体罰」をしていなくても、他の教員が暴力を振ったり振るわれたりしたケースを見てしまい、心痛む思いをしたこともあるのではないか。そういう中で「体罰」を行うのは、やはり「熱心な教員」であるということが多いという事実がある。熱心でなければ、そこまで体を張った指導はしない。熱心な教員でなければ、生徒は誰も付いてこない。暴力があっても付いてくる生徒がいるのは、やはり熱心さはあるのである。そうすると、他の教員は、自分はそこまで熱心に指導しているのだろうかと自問自答しないわけにはいかない。個々の教員がバラバラに頑張らさせられれば、中には熱心さが力の指導に頼る場合を生むこともある。それが「暴力のエスカレート」に陥りやすい。

 だから、自分の場合も、暴力的指導を一回もしていないという風には言わない。一回もなかったという教員は忘れてしまったのである。あるいは、そこまで熱心でなかったか、たまたま恵まれた学校ばかりを回ってきた「教員の特権階級」なのである。僕はそう思っている。(「夜回り先生」水谷修さんも、体罰の経験はないとブログに書いて、いや俺は殴られましたよと卒業生から言われたと書いている。)だけど、体罰経験があるということは、そういう大変な時代もあったという証ではあるが、別に誇るべきことではない。もっとうまく指導する力が自分になかったか、自分も未熟で感情的になってしまったかである。反省の材料でしかない。

 そしてやはり、体罰に限らず「力による指導」は、教員集団を引き裂き、生徒の心を遠ざける。一回の体罰だけなら、かえってすっきりした関係になることはありうる。しかし「継続的な暴力」になれば、それを止められない周りの教員も周りの生徒も皆傷を負ってしまう。教員集団の誰もが力の指導をできるわけではないから、力で押さえることが優先の学校では、「生徒が言うことを聞く先生」と「暴力を使わないから生徒が言うことを聞かない先生」に、学校が分断されてしまいやすい。そして、「体罰で生徒を押さえている教員」は、他の教員がだらしなくて強い指導ができないから自分が憎まれ役をやってやってると考えて、周りの教員に不信の念を強める。こうして学校がバラバラになっていくのである。こうなってしまう学校と言うのは、管理職の指導力が不足しているということではないかと思う。

 さて、長くなってしまったが、日本の現実の中で教師は指導して行かなくてはならない。大津市のイジメ事件では、学校や教育委員会が襲われたり非難された。大阪市立桜宮高校では、関係ない生徒が嫌な目に合っていることもあるようだが、この学校のガラスが割られたという事件もあった。学校のガラスに「体罰」を加えたわけである。このようにイジメや体罰が問題化すると、今度はその学校がイジメや体罰の対象になってしまうくらい、日本社会には暴力の根深い衝動があるのである。そういう中で、ただ「体罰をしなかった」というだけで、僕はそれがいい教員である証になるという風には思っていない。人生の中に数回、強い指導をせざるを得ない場面に遭遇することもあるし、そのときの指導のあり方があれで良かったかどうかと悩み続けるという方が自然な教員人生だと思っている。ただ、そういう場面の話ではなく、一般的な指導のあり方を論じるとすれば、やはり生徒が自ら考えて行けるような心の指導を心がけて行かなくてはならない、というしかない。しかし、教員集団が連帯して生徒に一致して「心の指導」をできる学校がどれだけあるだろうか。タテマエではなく、現実の学校現場を考えていくとするなら、「体罰がないというだけで、いい教員だというわけではないだろう」と思っているわけである。

 そして最終的には、加害者であれ被害者であれ、教師が「暴力」に直面した時に、生徒が味方になってくれるかが分かれ目なんだろうと思う。「あれはやり過ぎだ」と他の生徒に思われるか、「あの場面は生徒の方が悪い」とその生徒の友人も「早く先生に謝りなよ」と忠告してくれるか。
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「体罰フィフティー・フィフティー論」の間違い

2013年02月12日 00時57分08秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 この間「体罰」に関する議論を見ていて、僕が一番おかしいと思ったのは「体罰フィフティー・フィフティー論」である。これは朝日新聞のスポーツ欄1月30日付の「スポーツと体罰 番外編」という企画の中に書いてあった。「ある高校の球技の監督は練習中に生徒を殴る。一度に数十回殴ったこともある。『生徒たちも一生懸命でないから指導された、と分かってくれている部分が大きい。体罰は一方的だと言われるが、私はフィフティー・フィフティーと思っている。生徒が公にすれば私は職を失うわけです。生徒はそれを分かった上でついてきてくれている。1発で暴行になるのか、10発でも愛のムチだと思ってくれるか、結局は信頼関係」

 これはないだろうと思う。いや、指導力のある教員が暴力を振うが、生徒は信頼してついてくるということはあるだろう。指導される方にも力の差があり、この顧問の指導について行き、自分も評価されるような成績をあげ選手として認められたいと思う生徒はいる。でも、そうでない生徒もいる。強い部活で、それを承知で頑張るつもりで入学してきた生徒でも、ケガしたり人間関係に悩んだりして、なかなか部活に集中できないこともある。実力差もやる気も様々な生徒を「一生懸命でないから」と言って暴力でやる気を出させようという発想は、「教育」とは言えない。

 そういう問題もあるけど、「それを公にすればその先生が職を失うという情報」と「暴力」が、フィフティー・フィフティーで「対等の関係」だと思っているということが間違っている。そんな情報を持たされたら、生徒の心は真っ暗でものすごい負担である。「おれはこれから体罰をするが、おれの指導を信頼できないと思ったら、教育委員会なりマスコミなりにばらして、おれをクビにしてもいいぞ」と思いながらやる「体罰」が、対等の関係のはずがない。これは典型的な「パワハラ」的な発想である。こんなことをされたら、暴力そのものも嫌だろうが、その際の「信頼関係があるからおれのことを密告しないよな」という上からの思い込みの方が生徒に嫌な感じを与えるだろう。

 生徒からすれば「密告」は非常に大きな負担である。校内に信頼できる教員がいればいいが、これほど指導力に思い込みのある教員を注意できる人は、管理職でもそうはいないだろう。うっかり相談して、お前がもっと頑張れと突き放されたら、その学校で居場所がなくなる。では、教育委員会やマスコミに訴えればいいかと言えば、その場合は自分の身をさらして「清水の舞台から飛び降りる」決心が必要だ。精神的負担をおいても、それに取られる時間を考えるだけで、心がなえてくるというのが普通の生徒だろう。顧問の教員にも家族がいるだろうから、自分が「体罰」を公にした結果本当に失職でもしたら、生徒の側も一生心の負担である。強い者(上司など)が「セクハラ」をしてきて、「訴えたければ訴えればいいよ」というのは、パワハラそのものでしょ。セクハラを公にすれば上司も飛ばされる、だから「セクハラはフィフティー・フィフティーだ」と主張するとすれば、どれだけ非常識か判ると思う

 こういうのは、典型的な「冷戦思考」だと思う。双方に「マイナス」があれば、それで「恐怖の均衡」が保たれるだろうという考え方である。貿易や文化交流などでは、今は「wín-wín」(ウィン・ウィン)関係でないといけないだろう。片方が一方的に利益を得るのではなく、両方が勝つという関係である。「教師には暴力があるが、生徒は公にすれば教師を失職させられる」というのでは、「zero-sum」(ゼロ・サム)関係である。これはこれで「対等」かもしれないが、現代の教育では間違っている。

 このような主張は、その指導で傷ついた生徒を思いやることがないからできるものだと思う。学校と言う場で教師が誰をも何ら傷つけずに仕事をすることは不可能だと僕は思っているが、それでも「弱い側」の存在を思うことは大事だ。教師の暴力、パワハラで心に傷を負う生徒はいっぱいいる。特に部活で高校に進学して、途中で挫折した生徒は誰にもケアされず、自分が弱かった、自分が下手だったと思って悩んでいる。高校によっては、退部したら事実上退学せざるを得ないような高校もある。強い部活で教師についてこられた生徒はいいけど、そうでない生徒は必ずいて悩んでいる。教師と言う存在は、「できる生徒」と「できない生徒」では、別のものに見えている。そのことを忘れてはいけない。同窓会なんかで話していると、そういう見え方の違いに気付かされたりする。教員はできる生徒だったことが多いわけで、勉強ができない生徒、運動神経がない生徒、絵や音楽が不得意な生徒の気持ちがなかなか判らない。肝に銘じて置かないと、思わず強者の主張をしてしまい、自分が強者だということにも気づかないでしまう。この「体罰フィフティー・フィフティー論」は典型的な例ではないか。
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「体罰」と「私的制裁」の間

2013年02月10日 23時38分47秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 「体罰」の問題について、「『体罰』の本質は『DV』である」を書いた後、早期退職問題や映画などを書いてて話が途中になっている。この問題について何回か書いてみたい。まず、「学校内で起こった暴力事件を全部、体罰と呼ぶ」という定義で話が進んでいるような気がするのだが、それでいいのだろうか。「暴力」と「体罰」は違うのではないだろうか

 「体罰」という言葉の「」は「身体に対して直接加えられる」という意味である。これも考える問題があると思うのだが、それは次回以後に。「」は「罪に対して償いの意味で課される刑」と一応書いておきたい。刑罰の本質が、応報か教育かという問題は刑事政策上の大問題だが、「体罰」の場合は「応報でもあるが、本人にとっては教育の意味を持つ」ということになるだろう。そうすると、「罪」があることと「刑の平等性」があることが「体罰の前提」であるはずだ。

 戦前の小説や映画なんかを見ると、「授業中に騒ぐ」「宿題をやってこない」「そうじをさぼる」などのルールに反した行為があると、よく「水をいっぱい入れたバケツを持たせて廊下にたたせる」なんてことがあった。こういうのが本来「体罰」というものだろう。大体、授業中だけのつもりが、教師が忘れて放課後ずっと立ちっぱなし…といったドラマが起こることが多い。授業や清掃などで迷惑な行為があると、それは悪いことだという了解が教員と生徒集団の間に存在する。そういう「罪」が犯された場合は、大体「廊下に水バケツで立たせる」罰になる。そういう「量刑の平等性」もまあ承認されていた。その「刑罰」は明示されてはいないが、大体一定の時間に限られている。「しばらく立っとれ」と言われたまま、教師が職員室へ戻ったら他の仕事が入って立たせてる生徒を忘れてしまう。今度は忘れた教員の方に非があある。いやあ、すまんすまんという展開になる。大体の了解として「しばらくしたら教員が戻ってきて、これからはしっかりやれ」と言って解除する運びに決まっているわけだ。そういう「量刑の平等性」を皆が了解していないと「体罰」は機能しない

 よく「イギリスでは体罰が認められている」という人がいる。伊吹衆議院議長もそういう発言をしている。いやイギリスでは禁止されたという話もあるし、一部復活したという話も聞く。アメリカの一部の州でも体罰は容認されているようだ。そういう世界の事情はよく判らないが、はっきりしているのは、それは「正式の体罰」であるということだ。つまり学級担任または教科担任の訴えをもとに、校長が生徒を呼び出し話を聞いて、校長の権限で「ムチ打ち5回」などと決めて校長自身がムチを振う。多分多くの場合、そうなっているのではないかと思う。つまり、「犯罪」のあとに「事情聴取」と「刑罰の言い渡し」がある。これは「刑罰」の最低限のルールだろう。正式の刑事裁判ほど厳格なルールはないけれど、少なくとも保護者には事前連絡され、本人や保護者の言い分は聞く。日本ではそういう意味では、「体罰」は確かにない。「体罰は禁止されている」わけだから、校長が正式に言い渡す「体罰」はありえない。諸外国で「体罰を認めている国もある」などと言っても、教科担任や部活顧問が誰の意見も聞かずに、勝手に暴力を振うことを認めている国はないだろうと思う

 刑事事件の場合で考えてみたい。まず「刃物を持って暴れている男がいる」という通報が警察に入る。警官隊がやってきて、男を取り押さえる。これは「暴力」を振う現行犯を「暴力」で押さえこむわけだが、このとき「銃」や「警棒」が使われたとしても、基本的には合法であり「職務の遂行」である。(不必要だったりやり過ぎな銃の使用だとして、警官が殺人罪等で起訴される例はかなりあるが。)その後、身柄を確保された容疑者を逮捕、勾留して強制的に取り調べる。起訴後も重要事件の場合は裁判終了まで拘置される。これを個人が勝手にやれば「不法監禁」だけど、裁判所が認めた逮捕や勾留、拘置という「国家権力による暴力的監禁」は合法で、普通それを暴力とは言わない。その後、裁判で刑罰が決まり、懲役15年などと決まる。甚だしい場合は死刑である。こうして罪は「体罰」によって償われる。罰金だって払わない場合は拘留されることになるので、結局国家の刑罰は「体罰」なのである。(死刑を存置している日本という国家は、「体罰」を制度化している国である。)

 ところで、以上のような「暴力」によって支えられた法秩序体系を持つ日本(だけでない近代国家)は、システムとしての司法機関が機能している限り、それを国民は「暴力」とは認識しない。しかし、では逮捕時の警官個人が「お前みたいなヤツは、生きて裁判を受ける資格なんてない」と言って射殺してしまったらどうだろう。今度はこの警官の方が犯罪者である。システムの一員として銃の使用を許可されることはあっても、警官が個人の考えで刑罰を執行してはならない。取り調べ時に「いつまで黙ってるんだ」と殴ったり椅子を蹴ったりするのはどうだろうか。これは「拷問」であり、憲法で禁止されている。しかし、戦後もかなり行われてきたし、強圧的、威圧的取り調べは現在でも珍しくない。しかし、明るみに出れば警官の方に非があることになる。警察、検察は否定して、やったやらないの議論になり裁判所は認めないことも多いが、はっきりした証拠で暴力や威圧的取り調べが証明されたら警官の犯罪となる。

 さて、こういう司法システムを見ていくと、今「体罰」と呼ばれているのは、警官が裁判を待たずに勝手に射殺したり、逮捕時にやり過ぎ的に殴る蹴るの暴力を振う場合にあたるのではないか。それは「体罰」ではなくて、「私的制裁」というべきだろう。また取り調べ時に教員の方が激昂して殴りつけるというようなものも「拷問」と捉えることができる。学校に認められた合法的な「懲戒権の発動」だというためには、言い分を十分に聞く事情聴取、校長等の責任者による言い渡しや罰の執行、保護者への連絡と同意などが最低限必要だろう。そして実際、いじめ、ケンカ、喫煙等の事件が起こった時、暴力を使わず事情聴取をして、保護者に連絡の上、謹慎、反省文等の罰を言い渡すことをしている。ところで、それらの場合はいじめや喫煙が校則に違反していることははっきりしている。従って、教師が例えば喫煙している生徒を見つけたら、勝手に殴りつけて終わりにしたりはしない。そういう「個人プレー」はやってはいけない。ちゃんとした指導のルールが決まっていて、生活指導部や学年教員団が事情聴取や保護者連絡を行い、決められた検討を経て校長が罰則を決める。一方、今「体罰」と問題化しているケースのほとんどは、部活の試合でのミス、部活練習中の気合い等、そもそも「罪」ではない、校則上定められていないことを問題にしている。だから、そもそも「体罰」の対象になるはずがない。教員の側の思い込みによる「指導という名の私的制裁」なのである。

 一方、考えておかないといけない問題がある。「体罰も必要な場面もある」という人がいるのは、そうしないと「教室内の秩序が保たれない場合もある」「ケンカしている生徒を分けるため力で引き離す場合はどうか」などと言うのである。常識で考えて、教室を抜け出してさぼろうとする生徒を引きとめて、手や体をつかんで座らせようとする行為が「体罰」のはずがない。今、教師が生徒の身体に触れて強制的に座らせようとすると、「体罰だ」とか(男性教師が女子生徒に行うと)「セクハラだ」などと騒ぎ立てる生徒も多いのではないか。しかし、それは「体罰」ではない。刑事事件で言えば逮捕時の強制にあたり、言ってみれば「公務の執行」である。(「校務執行」と言うべきか。授業妨害は「校務執行妨害」である。)

 小田原の中学で「ハゲと言われて、体罰を振った」というケースがあった。この場合、生徒が集団で教師に(教師に対してだけではないが)「ハゲ」とからかうのは、「暴言」であり「暴力」と言ってもいい。「対教師暴言」は指導の対象であり、本当はそういう正規の指導のルートに乗せるべきだった。でも、教師の側が体罰をしたというけれど、本質は「暴力に対して暴力でやり返した」というものだと思う。教師が暴力でやり返していいのかと言うと、不適切だと思う。でも言われっぱなしでガマンしている必要はない。そういう事例は案外多いと思う。生徒がかげで何を言うのも止められないが、授業妨害になるような行為、また明らかに人権侵害、差別にあたるような言動は許されない。

 こういう風に、今「体罰」と言われる行為の多くは「私的制裁」で、明るみに出れば教員側の非になるしかない、非合法な暴力である場合が多い。でも、実力で「校務の執行」を行う場合や「暴言に対抗する場合」などは、(それがいいか悪いかの問題とは別に)「体罰」というのが不適当な場合も多い。
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「体罰」の本質は「DV」である

2013年01月23日 00時49分39秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 大阪市立桜宮高校の問題では、皆が「体罰」と表現している。あまり言葉にこだわるのもよくないと思うけれども、この「体罰」とは何かということを考えてみたい。もちろん、「①学校内で②教員によって③生徒に対して行われる④暴力的行為」はすべて例外なく「体罰」と呼ぶと決めてしまえば、話は楽だし大方は問題ないだろう。でも、実際に「体罰」が行われる時には、様々な事情や経緯があるものなので、もうちょっと考えてみたいのである。

 学校には簡単に言って、「教師」と「生徒」がいる。事務職員などもいるが少数だし、保護者や卒業生は常時いるわけではない。この中で「暴力事件」が起こるとしたら、4つの類型があるはずだ。
①教師が教師に対して行う場合
②教師が生徒に対して行う場合 → 体罰
③生徒が教師に対して行う場合 → 対教師暴力
④生徒が生徒に対して行う場合 → いじめ

 かつて30年位前だが、③の生徒が学校内で暴れまわる事件が多発した時代があった。その頃は「校内暴力」と呼んでいたが、考えてみれば以上のすべてが「校内暴力」である。だから今は「対教師暴力」などと呼ぶことが多いだろう。一方、①の「教師対教師暴力」というのは、まずはほとんどないだろう。僕も見たことはない。教師だってストーカー事件を起こしたりはするし、暴力事件は絶無ではないだろう。でも、「教師という立場」にあるわけだし、すべての人が大学卒という「高学歴職場」だから、さすがにすぐに手が出るということはない。しかし、だからといって教師は皆仲が良いなどということはもちろんない。手は出さないけれど、「口は出る」わけだ。特に、管理職などによる少数職種、新採用教員などに対する「パワー・ハラスメント」的な言動は、最近は特に多いのではないか。

 「教育現場に暴力はあってはならない」などとすぐに言ってしまうが、言われるとその通りだし、「体罰」は学校教育法で禁止されている以上、誰も反論できない。しかし、その結果「物理的暴力」ばかり問題になってしまうとしたらおかしい。今回の事例でも、暴力そのものと同じくらい「主将をやめるか」と強く問われたことが心の傷になったのではないかという指摘もある。②から④のすべての行為を「いじめ」とか「体罰」とか言葉を分ける必要もなく、ただ「暴力はいけない」と言えばいいのではないか。そして、その「暴力」には「人をからかう言動」「人を追いつめる言動」などの「パワハラ行為」を入れる必要がある。昨年夏にいじめ問題について何回も書いていたが、その中で「いじめアンケート」を取るなら、教師の言動も聞く必要があると指摘しておいた。今さら体罰アンケートを取ったりもするようだが、誰の誰に対する暴力であれ同じように聞くべきだった。(ところで、きちんと調査をすれば、生徒同士のいじめや教師の体罰以上に、「対教師暴言」が明るみに出るのではないかと思う。)

 ところで、先の定義に関して「①学校内で」と書いておいた。ここが重要な点で、帰宅途中のコンビニ前で喫煙している生徒を見つけたとしても、その場でなぐる蹴るの暴力を振う教員は多分皆無だろう。「周りの目」があるし、学校外では「単なる暴力事件」であることは判っているからである。それが学校内に連れてきて「指導」の場になると、暴力が出てくる場合がある。それは何故だろうか。いろいろ理由はあると思うけど、「力による指導への幻想」もあるし、「言うことをきかない生徒への見せしめ」とか「自分の担当のときに問題を起こしたことへの腹いせ」「今まで期待をかけていたのに裏切られたという思い」などもあるだろう。「先生は怖い」と生徒に認識させて問題行動を減らすというやり方を取ってきた学校では、教員が言葉で説得をしても聞かない状態になっている場合もある

 そしてもう一つ重要な問題は、「家父長意識」である。暴力的指導が逆効果になることは実際は多いのだが、「強い指導」をする教員には生徒は何も言えないから、本人はなかなか認識できない。そして、本人は本当に「問題行動を減らしたい」「部活動を強くしたい」と主観的には思って行動しているのである。その思いのベースには、確かに「愛情」がある。それは「ゆがんだ愛情」「間違った支配欲」であるかもしれないが、本人が生徒に良かれと思っていることは疑いない。本当は愛情も何もなくてただ暴力を振っているだけということは少ないだろう。僕は前から「指導力不足教員」は大した問題ではなく、学校で一番問題なのは「指導力過剰教員」だと言ってきた。今回の教員も指導力は十二分にあるというか、あり過ぎるくらい熱心な教員だったのだと思う。実際生徒の言葉を見ると、熱心で指導力がある先生というような声がある。

 部活やクラスなどは、長く一緒に活動しているから「同じ釜の飯」意識が高まってくる。この「クラス一丸」「部活一丸」が面白いと同時に、問題も起こす。ずっと指導してきて、もっと強い部活にするために、どうすればいいか。そのときに、自分が指導者で「上の立場」にあることは疑わない。つまり、部活動が自分が家父長(親)である「擬制的家族」と意識されてくる。そうした場所での暴力は、「体罰」と呼ぶよりも、「行き過ぎたしつけ」と言う名前の「家庭内暴力」に近いのではないか。だから、この問題を考えるときには、教育公務員には体罰は禁止されているなどと言うタテマエ的議論よりも、DVをくり返す男性へのケアをどう進めるべきか、というような議論の方が生産的なのではないかと思っている。(部活動の扱いなどにつき、さらに続く。)
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大阪市立桜宮高校入試問題

2013年01月21日 21時00分15秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 大阪市立桜宮高校の入試について、決定前に書いておいたけれど、21日の市教委で「体育科」「スポーツ健康学科」の入試が中止され、代わりに普通科の入試が行われることになったという。僕は普通科と体育科では日程も受験科目も応募要件も全然違うので、中止したら中学生への影響が大きすぎると批判していた。ところがニュースをよくみると、日程も選考方法もすべて現行のままだそうである。「普通科」だというのに、運動技量検査があるらしい。入学後も体育系の授業が多いカリキュラムのままだとも言う。これでは「市長の顔」を立てて、名前だけ体育科を普通科に変えるけど中身は同じ、ということと等しい。これはまずいでしょ。同じ学校に普通科もあるのだから、同じ普通科なら同じカリキュラムでないとおかしい。選考方法も「3科目入試の普通科」と「5科目入試の普通科」が同じ学校にあるのはおかしい。初めからそういう別の選考方法を取ると言ってるならいいけど。こういう「大人の知恵」みたいな「すり抜け」が一番いけないと思う。

 こういうことが起こると、「やはり内部告発はしてはいけない」ということになってしまう。自分の学校で体罰やいじめが横行しているのを外部に訴えたら、自分の学校がなくなってしまうかもしれないのだから。これでは「外部に訴えるな」というメッセージを発しているようなものである。今、桜宮高校では部活動が全面的に中止されているらしいが、それもおかしい。「対外練習試合中止」とか「顧問が複数ついて時間限定(例えば午後5時半まで)で行う」などなら理解できるが。もっとも部活中止で毎日クラス討論をしているというなら別だけど。ただ帰宅させるだけなら意味がないし、生徒が考えるきっかけにもできない。「何か問題が起こったら、とりあえず全面的に中止」という発想では、問題を隠ぺいする方向に動機づけしてしまう。高校野球なんかで「不祥事を起こした生徒が出て出場を辞退するかどうか」などと言う場合と同じである。様々な生徒を抱えている学校現場で、場合によっては問題を起こしそうな生徒は受け入れないほうがいいということになってしまう。なんで当該校の教員や生徒と一緒になって立て直していこうと考えないのか。まあ、そういう発想がないのは、いつものことだが。

 それはともかく、「内部で改革できないのか」「学校の体制はどうなっているのか」などと思う人もいるだろう。しかし、僕にはそれはちょっと難しいという感じがする。教員が内部で何か意見を持つのはダメで、教育行政や管理職に従うだけでいいのだということを橋下氏の教育行政はずっとすすめてきた。内部で批判の声を上げるのは、教員組合の役割だろうが、大阪ではあれだけ組合弾圧を進めてきたのだから、皆首をすくめて何も意見を言いたくない状態になるのは当然である。橋下市長は今まで「体罰容認」発言を続けていたのだから、それに対して内部から体罰批判の動きが起こるとは思えない。「体罰容認」発言をトップがすれば、学校に暴力がはびこるのは当然だなどと教員が言えば、ツイッターで「組合のバカ教員がまた批判のための批判をしてる」などとあることないことボロクソに罵倒されるのが目に見えている。誰も何も言えない風土にしたのは誰なのか?部活の問題もあるが、特別支援学校の問題も出てきたらしい。とともに、2012年11月に、「ホームレス殺人事件」が起こり府立高校生を含む少年が逮捕されている。本来ここで、大阪の教育をもう一回取り上げるべきだったのだが、僕も(選挙ばっかり書いてたこともあるが)、川西市とか品川区とかブログで取り上げた場所で決まって「教育事件」が起こるので、やがて大阪でもっと大きな問題が起こると思っていたけど、あえて書かなかった。

 さて、本当は部活動そのものの問題を書こうかと思ったのだが、入試問題で長くなってしまったので、これで一回終わることにする。ニュースを見ていたら、今日在校生による緊急記者会見が行われたのを見た。僕は非常に心打たれたのだが、入試中止、教員総異動などという発言は、本当に権限を振りかざしたパワー・ハラスメントだと思う。まず大人が生徒の声を謙虚に聞くことから始めた方がいい。僕も永遠にこのままでいいと言っているわけではない。体育科、スポーツ健康学科のあり方などについて、抜本的に考えることは大切である。しかし、それには時間がかかる。受験を希望して、入学説明会にも出席して、桜宮高校を受けようかと言う中学生が願書を提出する間近になって、突然やり方を変えるというのが納得できないというごく自然な感想である。
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「反いじめ文化」を育てる②

2012年09月17日 00時42分37秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 つい他のことを書いてしまって、書き切ると言った「いじめ問題」が終わらない。まあ前回の続きを書いてしまいたい。
 
 一体学校で「いじめ」が起きたら何が悪いのだろうか?いじめは防げないが、学校や教育行政が「隠蔽するのが怪しからん」という人もいるようだ。「生徒がルールを守らないのに、学校がきちんと指導できていないのがおかしい」という人もいる。そういう考え方によれば、学校がもっと毅然と対応すべきだし、また毅然と対応する教員の給料を上げて教師を競わせればいじめがなくなるという意見もある。もっと極端になると「いじめを犯罪にして警察が解決すればいい」という人までいる。僕からすれば、あまりにもナイーブな人間観に驚いてしまう。きっと「いい家庭」「いい学校」で育った「二世議員タイプ」で、実際にルール違反をする生徒や女子グループの複雑な人間関係のもつれなんかと格闘したことがないんだろう。だから、そんな「厳しくすればいじめは防げる」みたいなバカみたいなことが言えるんだろうと思う。

 もっとも僕も「深刻ないじめ事件」を緊急に止める必要があるときは、教師の強制力で指導したり、警察力を導入することも大切だと思う。でも、大人になっても職場や家庭で人間関係がもつれることはつきまとう。未成熟な生徒がいっぱいる学校内で、人間関係でトラブルを起こさせないことだけが学校の目標ではダメだろう。教師の力で学校にいる間だけは守られていても、卒業して「狼の群れ」の中に放されたら何もできない人間であることを暴露してしまうことはけっこう多い。学校時代に、基本的な「反いじめ文化」が育てられていないということで、それが一番問題なのではないかと思う。

 「いじめ」のニュースを見聞きすれば、「かわいそう」な事例が一杯ある。教科書を隠されたり、虫の死骸を入れられたり、誰も話しかけてくれなかったり、カネを持ってくるように強要されたり、そんな行為を受けている生徒を「かわいそう」と思う。それは自然である。かわいそうだから「同情」するというのは、確かに「何かを考え行動するときの最初の一歩」になることが多い。戦争で子どもが死んだり、飢餓が広がり難民になったり、津波で家族や家を失ったり、原発事故で突然村ごと住めなくなったりするのは、まさに「かわいそう」。子どもも大人もそういうニュースを聞けば皆「同情心」が高まる。それを否定する必要はないし、最初は同情からでもいいだろうと思う。でも、「同情」には明らかに限界がある。「緊急の時期」を過ぎてしまえば、どんなところに住む人間にも「日常生活」がある。被災地にもある。いじめ事件が起こった教室にもある。「忘れてはいけない」とマスコミは言ったりするけど、「だんだん忘れていく」ことは避けられない。そして「同情される側」も「同情だったらもういらない」と普通は思うようになる。非日常の緊急時期には同情も大切だったけど、「かわいそうだから助けてあげる」という発想では、「同情する側が上」で、同情される側の自立が阻害される

 それと「同情」から発する行動は、「義務感」と結びついてしまうことが多い。「経済が発展した我々は、飢えと戦争に苦しむ発展途上国を助けなければいけない」「被災地の人々を支援するのは国民の義務である」などなど。まあ、そういう「義務」もあるかもしれないけど、義務感だけでやっていると、楽しくないし疲れてくる。皆の熱が下がってくると、義務だと思って頑張る人だけ負担が多くなり、冷めてきて手伝ってくれない人を批判する気持ちが起こる。そうして気持ちがバラバラになって終わってしまうと言うのが、多くのボランティア活動や社会運動のてん末である。「いじめ問題」も似ていて、同情と義務感だけでやっている学校だと、「いじめ防止ポスター」なんかを作らされる生徒会役員や学級委員なんかだけ負担感を感じてしまい、結局試験勉強と部活動の日常に呑み込まれてしまう。

 人間は楽しくなければ続かない。これが大原則であって、いじめがいけないのは「かわいそう」だし「ルール違反」だからでもあるけれど、一番は「いじめがあるクラスはつまらない」からである。そのことを教師はもっと発信していかないと行けないと思う。そうでないと何だかマジメ主義になってしまい、みんながいじめはないかと見張っているようなムードになってしまう。「いじめはないけど、つまらない学校」は、いじめ問題のニュースが報じられなくなった数年後にいじめ事件が起きてしまうかもしれない。いや、いじめが起きないにしても、それでは「反いじめ文化」を育てたことにならない。では、「楽しい学校」をどうしたら作れるのか。教員処遇の問題は別に書くとして、「大胆に外部の風を入れる」ことと「マイノリティの文化を学ぶ」ことかなあと思う。

 「マイノリティの文化」と書くのは、やはり差別や偏見をなくすと言うのが、いじめを学校から減らしていくことと結びついていると思うからだ。差別について学ぶということは、「差別がかわいそう」ということではない。「差別の中でも差別に負けない生き方を作ってきた人から学ぶ」ということである。「差別や偏見はありません」という人が、実は「部落出身者だからと言って差別する気はない」と自分で思っているだけで、「学歴がない人はダメ」という理由で「被差別部落や外国人や経済的に大変だった人」を排除している、そしてそれを「合理的な理由だから差別ではない」と思い込んでいるということはかなり多い。実際にマイノリティで素晴らしい生き方をしてきた人を具体的に知らないから、「偏見はない」と思い込んでるだけで、「マイノリティへの敬意」もない。「敬意」がなければ「無関心」なだけで、「無関心であることを差別してないことと思っている」のである。それでは「反いじめ文化」は育たない。これは大切な点で、無関心であるということ自体が偏見を持っていることだと判らないと、「いじめを傍観する」=友達ではないから無関心だっただけでいじめてはいない、という子供たちの多くの心を動かすことができない。
 
 また「楽しい学校」と言うのは「遊びがある学校」という意味ではないわけで、もちろんレクリエーション大会をいっぱいやるというようなことではない。「生徒にも教師にも、深い知的、身体的刺激があって、人間や社会について新しい考え方、生き方を学ぶこと」である。学校なんだから「学ぶ楽しさ」を教えられなければいけない。「身体的」とわざわざ入れたのは、人間関係作りのゲームや演劇のワークショップ、伝統芸能や伝統工芸の体験授業などを想定しているからだが、基本は講演で「話しを聞かせる」ことが多くなると思う。聞かせるだけでは生徒は飽きるので、テーマ設定と講師の選定はよく考えなければいけない。今は「総合学習」もあるし、外部の講師を呼ぶことも昔より難しくない。仮に予算措置がなくても、僕の体験では「学校で生徒に話してほしい」と頼めば、日時さえあえば断られることはほとんどないと思う。

 「マイノリティ」と僕が書いたのは、いわゆる「差別問題」だけを指しているのではない。大企業に対しては中小企業が「少数派」であって、地域の中で「技術で頑張っている中小企業」を見つけて話してもらう。地域の中で「有機農業」を続けてきた農家、厳しい環境の中で頑張っている伝統工芸家、そういう人々も広い意味で「マイノリティ」と考えて、頑張ってきた姿に学ぶところが大きい。また、もちろん地域の中の外国人文化との触れ合いも大事だし、自分の地域ではない問題(アイヌ民族や沖縄の文化など)を特別に呼ぶことも考えられる。(特に高校の修学旅行で、北海道や沖縄へ行く場合。)ただ学校としてどうしても考えておかなくてはいけない問題もある。教員も一般社会の差別の中で生きてきたのであって、もちろん部落差別や女性差別、障害者差別などについては勉強したことはあっても、一般社会でまだ認知度が低いような問題については特に意識が高いというわけではない。今イメージしているのは、性的マイノリティホームレス刑余者(前科のある人、刑務所から出所した人)、難病を比喩に使う問題実験動物や毛皮などの問題などである。

 難病を比喩に使うというのは、例えばいつも掃除をさぼりがちな生徒を「お前はこの班のガンだな」と教師が言ってしまい、身内にがん闘病中の家族がいるマジメな女子が傷つくと言った場合である。「そんなに勉強しないと、お前の将来はホームレスだ」とか「そんなことをしたら刑務所行きだぞ。二度と誰も雇ってくれないぞ」などと教師が言ってしまうこともあるかもしれない。生徒の中に親が刑余者である場合がいないとは言えない。教師がホームレスの差別意識を持っていると、生徒が襲撃事件に関わらないとも言えない。(これは都市部では緊急に教員全員に対する研修が必要である。)そして何より深刻なのは性的マイノリティの問題で、教師が一生懸命制服の指導をすればするだけ、性同一性障害の生徒を傷つけてしまうことが現に起きている。なんとか全日制の高校に入っても制服でつまづき、制服のない定時制高校へ変わるという例も多い。中学段階では学校側にカミングアウトできず、高校段階で自分の「性自認」をはっきりさせたということである。それもできないで悩んでいる生徒がいるということを中学や全日制高校の教員は一応頭の中に入れておかないといけないだろう。この性的マイノリティ(いわゆるLGBT)の問題がいじめに直結していることもあるので、問題自体を意識するとともに、「性的マイノリティの人々の豊かな文化」を紹介することは重要である。

 そういう問題を一度にできるものではないだろうが、学校の特色を生かしながら、特別授業(人権や健康の講演会)、進路指導、行事(文化祭の講演会など)、道徳、総合学習、各教科の授業などで試みていく。問題は生徒に教え込むのではなく、生徒の心と触れ合う授業を作って、「大変だけど教師も楽しむ授業」を探っていくこと。そのためには「教師の感度を高めること」が必要である。学校自体が差別やいじめを生み出す場合も多いので、「自分を見直す」ことも求められる。従って、自分を見直すことができない教育委員会が開く「官製の人権研修」には全く期待はできない。人権研修会と言いながら都教委の反人権的施策を自己批判できない。そういう人しか講師に呼ばれない。そういう中で、現場で教員一人ひとりが自分の感度を上げて、できることをやっていくしかないだろう。でも、義務でやらなければいけないのではない。自分がもっと納得して働ける学校を作っていくということである
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「反いじめ文化」を育てる①

2012年09月13日 19時48分34秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 いじめ問題を書いてしまいたい。この何十年か、何度か時々「いじめ」問題が大きく取り上げられる。そのたびに「いじめ対策」とか「いじめ調査」とか「強い対応」とかが言われる。そして、数年後にまたいじめが大きな問題となってしまう。それは「学校の対応が問題」だとして捉えられ、特に「公立学校バッシング」と結びついて取り上げられることが多かった。その言説の構造こそが、いじめ問題を大きくしてきたのではないか。

 「いじめが根絶できない理由」は前に書いたけど、学校外部の負の影響を受けるだけでなく、「評価」を避けられない「学校そのもの」の中に「いじめの芽」が存在する。だから、いじめを根絶するという目標を作ると、かえって「いじめ隠ぺい」を招くと考えられる。「いじめ事件」を仮に防止できたとしても、「いじめ的言動」のすべてを学校からなくすことはできない。学校だけでなく、すべて人間の住むところどこでも、差別や偏見を完全になくすことはできない。

 では何をすればいいのか。事件になるような大きな問題さえ起こらなければ、それでいいのか。そうではないだろう。本当は生徒を取り巻く「差別社会」の中で、それに巻き込まれず立ち向かっていけるような「反いじめ文化」を育てていくことが学校の目標ではないかと思う。しかし、それはなかなか難しい。生徒を取り巻く「現実社会」の影響力は強い。生徒は教師の言葉よりも、テレビやインターネットの伝える「怪しい話」の方を信じている場合が多い。テレビのヴァラエティ番組などは、出演者の中に「差違」を見つけて、からかったりバカにしたりする趣向がとても多い。そういう番組を見て育つ生徒が、「普通と違う」生徒をバカにしたり偏見を持つようになるのは当然だ。

 最近は偏見を持つ段階から進んで、今回の大津市の場合のように「教育長を襲う」というような暴力的直接行動(テロ)をもてはやす段階まで来てしまった。いじめに反対するように見えて、実は自分がいじめを行っている。それをまたネット空間で持ち上げる。このような「匿名空間」ではなんでも可能になる。「教室」(クラス)も、そのような「匿名空間」化してしまうと、皆が無関心になる中で「いじめ」が起きても誰も止められなくなってしまう。だから、クラスが「学習集団」として機能するような、行事の盛り上がりや生活規律作りが必要なのである。そしてそれを作るのが、学年担任団の仕事であることも前に書いた。

 このように生徒の世の中は、差別や偏見に満ちているのだが、それを今「差別社会」と表現すると誤解されるかもしれない。日本社会にあった歴史的な社会的差別(部落差別や性別差別など)は、学校では否定されているし人権教育を通して理解が進んでいることになっている。もちろん完全ではないが、数十年前よりは「あからさま差別事件」が起きることは少ないだろう。「いわれなき差別」については、確かに量的には減っているのではないかと思う。しかし人間集団である以上、一人ひとりは「差違」を抱えており、学校と言う「能力によって評価される社会」では、「いわれある違い」は大きな問題になってしまう場合がある。「行事」を通してクラスのまとまりを作ると言っても、球技大会をやれば優勝もあればビリもできる。優勝したクラスはいいけど、ビリになったクラスで「戦犯さがし」が始まれば「いじめ」のきっかけを作ってしまう。「クラスでまとまる」「みんなで決めて、みんなで頑張る」などと言うクラス目標だけでは、うまく行ったときはいいけど、条件の違いで他の仲間と同一のペースで頑張れない生徒はかえって排除されてしまうこともある

 ではどうすればいいか。「マイノリティへの配慮」がすべての活動の前提に必要なのではないか。「誰も悲しい思いをしないクラス」というようなスローガンである。学校では勉強やスポーツをするが、勉強もスポーツもできる方がいいに決まってる。そして少しの努力や協力で、みんなで試験を頑張ったり、スポーツ大会でいい成績をあげたりできることが多い。その「少しの努力や協力」をしない生徒に対しては、教師が努力や強力を求めるのは当然である。だけどその時の加減が難しいのだが、十分努力してるけど結果が付いてこない生徒や、努力自体が大変な生徒(障がいや病気を抱える生徒など)もいるわけである。そういう生徒のプライドにも配慮しつつ、どうやってクラスのまとまりを作っていけばいいのか。それは難しい。うまく行ってるクラスを見て、「技を盗む」ことを繰り返して教師も成長していくんだと思うけど、今のように「教師どうしを競争させれば、教育がうまくいく」みたいな競争政策の下ではそれも難しい。それぞれの教師が孤立しながら悩んでしまうのが今の学校ではないか。

 多くの場合、「いじめ事件」の前に「いじめ言動」があり、その前に「いじめ的な言葉が飛びかう教室空間」がある。「言葉」が重要だと思う。人を馬鹿にするような言葉遣いを生徒がするようになるときがある。強い者へのへつらいか、テレビなどの影響か。例えば、本当に友達同士の間で、「こんな問題もできないのか」「うるせえな、チビのくせに」などなど。この「くせに」がいけない。友達同士だからいじめではなくても、いけない。こういう言葉が教室で当たり前になると、皆が自分の偏見(ホンネ)を出しやすくなってしまう。今は「キモイ」というような言葉が一番問題だ。「テレビを見てたら、タレントの誰それがキモイこと言ってんの」と誰かが言う。別にこの学校の生徒や教師を言ってるわけではない。だけど、この言葉は使わない方がいいと教師が言う方がいい。これは難しいと思うけど。「反いじめ文化」を育てるには、「言葉」に敏感になることから始まると思う。

 その時に生徒は「なんで使ってはいけないの」と聞くだろう。言葉で説得するのも大切だけど、最後の最後は「先生はその言葉が嫌いだから、このクラスでは禁止だ!」と決めてしまう方がいい。そうでないと、うまく説得に応じない生徒がヘリクツを述べたてて(「言論の自由」とか)、問題がこじれてしまうことがある。「賢い生徒」の方が問題で、自分が傷つかない立場にいて教師をやり込めることを喜びとしがちなのである。「キモイ」は人を不快に思う時の言葉だから、教室で使う必要はない、と言い切ってしまう方が問題は少ない。それで問題が見えなくなるようでは困るんだけど、「うちの担任は誰かが不快な思いをする言動を許さない人だ」と思ってもらう必要がある。しかし、このような「担任権限で禁止」がうまく行くためには、それ以前の前提として「学校と担任教師への信頼」が存在してなければならない。そうでないと「何か、うちの担任、変なこと言ってたよ」になってしまうだろう。だから、今はなかなか難しいだろう。「学校バッシング」「教師バッシング」こそが学校の体力を擦り減らしてしまい、いじめを防げない「内向きの学校」を作ってしまったのではないかと思う

 以上は主に中学を念頭に、「原論」として書いた。もう少し具体的な話、あるいは高校段階での話は次回に書きたい。
 なお、中学と高校の違いは以下の通り。現在、日本社会では大きく学歴の三層差が存在する。(橘木俊詔「日本の教育格差」、2010、岩波新書)「有名大学卒」「大学卒」「高卒」である。専門学校や短大は中身に応じて、大卒(それほど有名でない大学)や高卒のカテゴリーに入れる。「高校中退」は「アウトカースト」である。この三層はおおむね、入った高校で決まる。どこの大学を受けるかは受験料さえ払えば自由だが、いわゆる有名大学に入るには進学高校(普通科上位校)へ進む場合が多い。普通科中位校では「それほど有名ではない大学」または専門学校、職業高校では就職というコースが多くなる。いじめなど多くの問題が中学で起こるのは、発達段階もあるが、一番大きいのはこの「人生の大選抜」に直面しているからである。しかし、まだ選抜前なので、できることはかなり多いとも言える。高校は「選抜後」の生徒たちに直面するので、有名大学へ向けてスルーしていくだけの生徒か、選抜に敗れてしまい教師の役割をもう必要としない生徒が多い。この基本的な現実を踏まえない教育論議はすべて意味がない。
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品川区の「いじめた子は出席停止」問題

2012年09月06日 23時21分04秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 昨日旅行から帰ってきてNHKニュースを見たら、品川区教委「いじめた子は出席停止に」という制度を積極的に適用するという方針を打ち出したというニュースを伝えていた。午前0時からの番組には若月教育長が出演して意義を語っていた。今日の新聞を見ると、東京新聞は大きく取り上げているが、朝日新聞には全く載っていない。全国紙に載っていないので知らない人も多いだろう。この問題をどう考えればいいだろうか。

 結論を最初に書いてしまえば
①今回区教委は積極運用するという方針を打ち出しているが、その方針には意味がないものが多い
②現場で使いづらい制度であることは変わらないので、品川区教委の方針は今のままでは無意味である
③この「出席停止」制度は、制度そのものに疑問が多い

 順番に説明しておきたい
 品川区の小中学校では、今まで出席停止措置を実行したことはないと言う。この措置自体は従来からあって、東京新聞によれば2010年度には全国で中学校51件に「とどまっている」。新聞記者は「とどまっている」と書くが、全国で50人以上が出席停止になっているのか。それは知らなかった。「相当多く使われている制度」であると言うべきだろう。しかし、「保護者に理解を得にくいなどのこともあり」、なかなか使われていない制度であると言う。それに対し、事務手続きのマニュアルを定めた冊子を小中教員1000名に配布。保護者会でも説明し、子どもたちにも授業で教えるように求めた。

 これでは、積極的な適用を求める新政策になっていない。テレビで説明があったが、出席停止にするためには、学校と保護者と教育委員会の間に、結構複雑な書類のやり取りがある。今まであまり使われていない理由の一つは、この手続きの面倒くささである。よって、本当に「出席停止で学校がよくなる」と信じているのなら、大胆に制度設計を見直し、教育行政の責任をはっきりさせなくては意味がない。
出席停止の権限を全面的に校長の判断にゆだねる
保護者等と問題が起きた場合の責任は全面的に区教委が負う
出席停止中の生徒の家庭訪問などは、全面的に区教委の指導主事が行う
 
 ここまで打ち出すと言うのなら、区教委は全面的に学校現場を支援してこの制度を使う気だと皆思うだろう。全教員に「マニュアル」を配るなんてしても、数年すれば教員はほとんど異動してしまう。事務手続きの流れは管理職に周知徹底されていればいいのであって、担任一人ひとりが細かく知っている必要はない。だからマニュアルは学校に数部あればいいのである。

 僕が昔中学に勤務していた頃は、「出席停止」という措置があるということは知っていたが、ほとんど実用の対象になっていなかった。高校に異動したら、「特別指導」という名前で、問題行動を起こした生徒を自宅謹慎または学校登校謹慎をさせるという「指導」を行っていた。恐らく全国どの高校でも行われているのではないかと思う。中学に比べて恵まれているという思いも最初はあったのだが、だんだん様々なケースを経験してみると、「一長一短」あると思うようになった。

 高校は義務教育ではないので、「退学」「留年」という措置がある。生徒がなんとか高校を卒業したいと思っている場合、学校側が生徒に「授業に出席せずに反省を求める」ことには有効性がある。高校で問題行動を複数回起こせば、学校ごとに細かいルールは違っているだろうが、「進路変更を求める」ことになるだろう。事実上の退学処分に近いが、あくまでも「自発的に退学願を提出する」という形を取る。何度も指導を繰り返す中で、これ以上この学校で学習を続けていくことは難しいという判断を、学校もだが保護者、本人も大体共有していくものである。(大体は「今度問題を起こしたら進路を変更する」という事前確認をその前の事件のときにやっておくことになる。)

 一方中学では生徒を退学させられない。授業に出ていなければ、卒業・進学が不可になる制度があることはあるのだが、教室で授業を受けられなくても保健室登校、フリースクールや適応教室などでも出席とみなす柔軟な対応をするようになっているから、ほとんど適用されないだろう。成績が「1」でも留年はないし、問題行動を起こしても(たとえ鑑別所や少年院に入ったとしても)、元の学校に籍があって戻ってくれば進級するわけである。こういう中学の状況では、確かに「出席停止」が意味を持つ感じもするだろう。

 でも、「出席停止」は実際は難しい。本人・保護者が納得していなければ、「出席停止」は逆効果の場合が予想される。最初から「出席停止1か月」はありえないので、一週間もすれば戻ってくる。その間に授業や行事なども進んでしまっている。本人が納得して反省しているなら、あえて出席停止にする意味はないし、反省せず指導に従う気持ちがないなら無意味である。「出席停止」にしても、納得していないで学校に来てしまったらどうするんだろう。いじめ問題の話なんだから、家でおとなしく謹慎していないで公園かななんかで「待ち伏せ」して、校外でいじめを続けるのを誰も防げないだろう。また「出席停止」はインフルエンザとか忌引きと同じで、学校の側が来なくていいと言ってるわけだから「欠席数」には入らない。学校に来て部活したいと言う生徒には「来るな」は効くが、粗暴タイプで勉強嫌いのいじめっ子には「出席停止」が嬉しくて仕方ないだろう。自習課題はたくさん出す、毎日家庭訪問する、担任は朝電話するなどはするだろうが、いつもより朝寝して昼間もテレビ見たりゲームしたりできてしまう。親の大部分は働いているだろうから、子どもをずっと見張っているわけにはいかない。そういう生徒の実態があるから、「出席停止」には意味がなく、逆に「野放し」にしてしまう危険性を感じてしまうわけだ。

 ところで、そういう実際には使いづらい制度を、どんどん使っていこうと言うのは何故だろうか。今、高校では「退学」「留年」があるが、中学にはないと言うことを書いた。ということは、義務教育段階でも「留年」制度があれば、出席停止で授業に出させない状態が続いたら「留年」(卒業不可)の可能性が高くなる。ゆえに「留年」したくない生徒は「出席停止」を非常に恐れると言う可能性が考えられる。大阪市の橋下市長が「義務教育の留年」を言い出したことがあるが、どうもそこにつながっているのではないか。その問題が出てくる前提として、「いじめっ子は出席停止」、授業にほとんど出ていない生徒は「留年させるべきではないか」という方向に進んで行くのではないかと思うのである。

 僕は小中での留年は全く無意味であると思う。学校が純粋に「学力養成機関」であるならそれもいいが、実際は義務教育段階では「地域の同年齢集団」的性格が強い。高校でも留年すると退学してしまう生徒が多い。一緒に入った同学年生徒から「脱落」するのが嫌だからである。中学段階で「留年」すれば、大病(大ケガ)で入院していた場合などを除き、ほとんどは下の学年になじむことは難しいと思う。その結果、中学卒と言う学歴がない低学力青年を大量に生むことになる。何とか同年代集団のまとまりを利用して、できるだけ高校まで、最低でも中学卒にはしなければいけないだろうと思う。

 もう一つ、実際に使うかどうかは別にして、「抑止力」として「出席停止」を使う。学校はそれほど強い権力を有していると生徒に示す手段にするということもあるだろう。そうすると制度は使わないといけないので、各校一人は在任中に出席停止にしないと校長は評価されないという時代が来るのかもしれない。しかし、これは「死刑制度」に対する僕の反対論と同じで、制度の理解を間違え生徒の心を荒廃させる結果につながると思う。「いじめっ子」も怖いかもしれないが、先生も怖いわけで、さらに権力を誇示されると相談したくてもしにくくなる。

 品川区は東京で一番最初に、義務教育段階での「学校選択制」を始めた所で、以後も小中一貫校など「先進的」な教育行政を打ち出してきた。「先進」というのは新自由主義的に突出と言う意味で、教員からすれば大変な勤務地区だと言われる。品川区からは早く異動したいという声があると前に聞いたことがある。「品流し」という言葉さえあるという。そういう競争的な教育政策を見直していく方向ではなく、学校権力を強めると言う方向で打ち出したのが今回の方針だと思う。が、今書いたようにそれだけではほとんどいじめ防止に意味はないはずだ。
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鍵は「学年団」の結束-「減いじめ」のために④

2012年09月01日 01時17分18秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 いじめを早期に発見し、レベルがまだ低い段階で指導できる学校体制をいかに作るかある程度の学級数がある中学や高校を対象に考える。(少子化に伴い「1学年1クラス」の学校もあると思うけど、そういう小規模校は事情が違う場合が多い。夜間定時制高校や離島・へき地の学校も生徒像が違う。小学校は教科担任制ではないし、自分で勤務体験もないから事情がよく判らない。)

 最近の教育行政や世論などを見ると、「教員の指導力」をそれだけで取り出して資質を向上できるものと考えているらしい。そうでなければ、「教員免許更新制」とか「教員給与への成績率導入」などを行うはずがない。しかし、それは間違いで、「教員の指導力」というものは、他の教員や生徒との「関係性」の中でしか発揮されないものである。特に中高では「教科担任制」なので、自分の教科だけ一人で頑張っても、自分の担任するクラス、学年の成績向上はできない。もちろん生活面の問題解決もできない。問われているのは、一人の教師の指導力ではなく、「学校の指導力」なのである。

 そのことは学校に勤めている人はほぼ全員判っている。しかし、ドラマなんかだと理想に燃える先生が一人で頑張ると生徒も変わり、学校全体も変わるかのごとく描かれる。そういうのを見ると、教員が一人で頑張れば学校を変えられると錯覚してしまうけれど、それは現実離れした発想である。いいとか悪いとかではなく、学校も行政が法的根拠に基づいて設置した行政組織である。一人の教師はその行政組織の一員に途中から加わることしかできない。

 教師はある年に、新規採用されたり異動を命じられて、ある学校に赴任する。たまたま全くの新設校一年目ということも、ごくまれにはあるだろう。だけど、普通は創立何十年かの伝統がすでにある。自分が来る前の去年も、生徒がいろいろ活動していた。自分がその学校に転勤しても、進学実績が急に上がったり部活で急に勝ち進んだりはしない。1年生を受け持てばともかく、上級生を担当させられると、まず「去年までの先生はこうだった」「前の先生の方がいい」という生徒の大攻撃に会う

 その学校の生活指導の方針は大体決まっている。「朝全員の教員であいさつ運動をして、服装や頭髪をチェックしている」と言われたら、疑問を持っても一緒にやっていくしかない。「この学校の生徒は落ち着いている」と言われる学校もある。それも、今までの教員と生徒がそういう「伝統」を作ってきた成果であり、新1年生にも指導して誇りを持たせていくわけである。このように、自分の「指導力」を発揮するより前に、「学校の伝統」みたいなものがあって、それは生徒実態の変化とともに次第に移り変わっても行くが、とりあえず目の前にいる生徒は自分一人の頑張りで急に変容するわけではない。

 そして、各学年数クラスあると、学年の担任と副担任で「学年団」が結成される。高校だと各科目の専門性があって、例えば日本史が専門だと3年を主に教えて、1年担任だけど自分のクラスも教えなかったりする。でも中学や、高校でも国数英や体育の教員は自分の学年を中心に教えることが多い。各学年に数クラスあれば、教師も他学年の学年の生徒はよく判らない。生徒の側も部活や委員会で接点がある場合もあるけど、大体学年の先生以外は顔と名前が一致しない。つまり、学年に数クラスある学校の場合、学校は(教師も生徒も)「学年」が基盤なのである。教師にいじめを発見せよと言っても、名前も知らない生徒の事情はよく判らない。(名前を知らなくても、喫煙やケンカが問題なのは当然で、そういうケースを見つけることはある。)一方、生徒が教員に相談する場合でも、養護教諭や部活顧問に相談するときもあるが、クラスの問題は学級担任か学年の教師ということになる。

 この「学年教員団」は普通一週間に一回、「学年会」(学年会議)を開いて、学校行事の調整や生徒情報の交換、分析をしている。だから、その学校である学年に問題が多発したとするなら、その学年団がうまく機能していないことになる。一方、学年会で出た問題を皆で共有して、共通の指導態勢で生徒に当たっていけば、すぐに生徒の問題が解決するわけでなくても、少なくとも「先生は皆同じように対処する」ということが生徒に伝わる。それは例えば、こんな具合。

・「修学旅行の班分けを来週のホームルームの時間に行う」→「班作りが難しい可能性が高い生徒がいる場合は、事前に担任がそれとなく周りに声を掛けておく
・「最近ガサツな言動が多く、掃除の時間にさぼる生徒も多い。弱い生徒に掃除をやらせたり、抜け出してタバコを吸ったりすることに結びつきやすい。修学旅行を前に心配がある」→「班分けをする前に、来週のホームルームの時間に臨時学年集会を行ったらどうか。小さなことでも全体で注意した方がいい」→「臨時に学年集会を開く」というように、生徒実態を見て指導のあり方を作っていく。

 そして、臨時の集会はこんな様子。まず集会担当の教員が集合させ、号令をかけ並ばせる。その間、例えば副担任の教員が追い出しを担当し、クラスやトイレでさぼっている生徒を体育館に連れてくる。集会は最初に生活指導担当の教員が、大声で多少威圧的に「最近の様子を見ていると、修学旅行が心配だ。行って事故が起きたら取り返しがつかない。いじめなどにつながる心のスキがあるのではないか」などと強く話す。そのあと学年主任が「修学旅行は学年最大の行事で、今までみんなで勉強や部活を頑張ってきたのに、ここでダメにしていいいのか。この後班分けをするけど、もめて仲間はずれを出したりすると楽しいはずの旅行が、クラスや先生にとっても一番辛い行事になってしまう」と心に訴えるような話をする。そのあとに修学旅行担当の教員が、具体的な班分けの人数、係生徒の問題(各班で班長、副班長、生活係、保健係を決めるなど)を説明する。そして話が重くなり過ぎないように、事前に行ったホテルの様子とかレクの話などを紹介して楽しい旅行になるように終わる。

 僕が何を言いたいかというと、こういう「仕事の分担」が教師の仕事であり、全体統括の教員もコワモテの教員も、事務的な説明も、追い出し担当の副担任も皆同格で学年団を構成して仕事が進む。生徒はそれをよく見ていて、この学年の教員はみんなでまとまっていて、一緒に修学旅行を成功させたいとどのくらい本気で考えているのかを判定しているのだ。そういう「学年団」の結束が生徒に見えたときに、「いじめ」に限らず、心配な生徒の情報が集まってくる。一方、教員間の指導にすきまがある場合、そのすきまが少しずつ広がって行って、ダムの決壊のような大問題の多発につながっていく。

 だから僕は学年教員団が結束していくことが、学校で一番大事なことだと思う。学年団は教科が違う教員で組むことになるので、教育に対する考え方や趣味なんかは必ずしも一致していない。組合に入っている教員も入っていない教員もいる。しかし、組合未加入の教員でも管理職や教育行政の専横には怒っていることも多いから、実際の学年団で問題になることは少ないだろう。どこの人間関係でもそうだと思うが、最後は「馬が合うとか合わないとか」で決まってくるのかもしれない。教師には一風変わったワガママな人もたまにいて、そういう人と組むと大変な場合がある。指導力の有無ではなくて、指導力があり過ぎて自分で勝手にどんどん生徒指導してしまい、他の教員は指導してしまったんなら追認するしかない状況になるのが一番問題。「指導力」なんてそんなにいらないから、他の教員や生徒と一緒に地道に苦労できる人がいいのである。

 いじめを防ぐことに限らず、様々な学校の課題は、とりあえず自分が所属している学年の生徒をよくすることから始めるしかない。一緒に学年を組んでいる教員の協力で、成し遂げるしかない。それを支援するのが管理職の仕事だと思うけど、最近は教育行政の圧力で現場のジャマをすることが多い。学年会で決まった要望が生きて行かないことが多くなると、誰もアイディアを出そうという気にならない。

 学年団の結束と言っても、時には教育観のぶつかりあいもあるし、自分の考えが通らず腐るときもある。でも一緒に仕事をしていく中で、お互いの持ち味が判ってきて、生徒もそれを理解していくようになると、かなりうまく回りはじめる。そのためには地域になじんだ教員が、主任や生活指導担当になっている方がいい。短期間に異動させる方針は、学校の力を削いでしまう。「減いじめ」というより、学校の組織の話そのものになってしまったけれど。
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生徒会長は集めないのか?-「減いじめ」のために③

2012年08月29日 23時59分58秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 今まで何回か書いてることは、「いじめを減らすためには、どういうことができるだろうか」ということなんだけど、7月頃に「減いじめのために」とサブタイトルをつけて2回書いていた。少し具体論を書いてみたいので、「減いじめのために③」として書くことにする。

 学校で「不祥事」が起きると、きまって教育委員会が校長を臨時に集める。集まりの冒頭の映像がニュースで流れる。なんでそういうことをするんだろうか?僕には、「教育委員会のアリバイ作り」だと前から思っていて、「税金のムダ遣い」だと思ってきた。(校長の出張費が公費負担である。)何故かと言って、いじめ調査をやると言う程度の話なら、今では学校と教育委員会はインターネットでつながっているので、他の無数の調査と同じく、電子メールの添付ファイルで送りつけてくればいいのである。校長は直接は生徒をほとんど知らない。生徒の問題も校長が最高責任者ということにはなってるけど、授業や部活動を担当しないんだから、生徒の名前もあまり知らない。よほど表彰が多いか、逆に問題行動が多いかしないと、校長も覚えられない。(小規模校なんかだと、校長が毎朝校門に立って挨拶を続けて、名前も知ってると言う人もいるけれど。でも、全校生徒が千人近い大規模進学高校なんかだと、教師だって自分の教えている学年の生徒しか判らないくらいで、校長が知ってるわけはない。)最高責任者だから、大事な時に教委に呼ばれているのではなく、校長は「学校にいなくても一番不都合がない人」だから呼ばれているのかもしれない

 それより僕が昔から思っているのは、地方の小都市の中学なんかで「生徒会長会」をやるところはないんだろうか。生徒会長も「内申書ねらい」の「雇われマダム」みたいな存在の学校も多いとは思うけれど、副会長でも書記でもいいけど、各学校の生徒に直接行政が働きかけることはしないのか。そういう面倒なのはいやだと思う会長も多いだろうけど、それは今までやってないからで、続けていれば誇りに思う人も出てくるはずだ。今は何かと言うと、教師を通して「ボランティアという名前の強制動員」を学校にかけてくる。町の祭りだの、スポーツ大会のお手伝いだの、外国から誰か親善訪問団が来たの、なんてときに都合のいい動員対象と考えている自治体は多いだろう。でも、行ってみると言われた通りのお手伝いに使われて、Tシャツだの弁当とお茶かなんかはくれるけど、つまらない。外国の姉妹都市から子ども使節団が来るなんて時に、行事の企画そのものから子どもの声を生かし、子どもの力でやらせてみるというところは少ないだろう。でも、ホントはそういう積み重ねがあったうえで、地域の学校で問題が起こったら生徒の代表も集めて「君たちの力が今こそ必要だ」と呼びかける試みがあるといいなと思う。

 大体学校の中で「生徒会」の意味がとても小さくなってしまった。行事の補助、教師の手伝い機関という感じが強くなり、「学校に生徒の意見を伝える」という発想が無くなってきた。伝えられても、教師も多忙な上、教師の意見も職員会議で取り上げられない時代になってしまって、生徒の声を職員会議で議論することができない。教師も「我々に言われてもどうしようもない。学校に不満があるなら直接校長か、教育委員会へ伝えて欲しい」なんて、ホントのことを言いたくなってしまう。まあそれも何なので、何とか生徒会担当で引き取るが、他の教員集団の支援が得られない。

 生徒会活動がもう意味を持たなくなって長いので、教師の側も「生徒会を通して生徒の自治を育てる」などと言う取り組みを経験したことがない人ばかりになってしまったのである。生徒会の意見を聞くなどと言うと、生徒のわがままを容認していく危険性しか頭に浮かばないのである。どうせ教師に認められないと判っているんだったら、活動するだけ時間と労力のムダで、だから生徒会役員の成り手を見つけるのに苦労する時代である。高校では部活や受験勉強が大変な上、それらに関係ない生徒は「バイト」があるので、放課後に奉仕的に生徒会活動をする時間がない。高校に入った時点で、(有名大学合格とか就職とか)路線が大体決まってるので、それに向けた限られた時間と言うことで、生徒も「自治」を必要としないと思い込んでいる。推薦で大学へ行きたい人なんかが有利な点数稼ぎで生徒会をやるという風に思われているかもしれない。修学旅行も文化祭も「先生が決めてくれれば、それでいい」。それで学校が決めた範囲内で楽しんでいる。その範囲内で楽しめない生徒は、校外でバイトして自分のお金でコンサートに行ったりする。

 中学はまた少し違うと思うけど、他の目を気にする世代だから、生徒会活動は難しい。でも僕の経験だと、生徒会役員を見つけるのに苦労する学年は他の問題でも大変。うまく教師と生徒の相互関係が出来ている学年では、生徒会役員にどんどん立候補してくれる。いまどき定数以上が立候補して選挙で落とすしかなかった選挙も何回かあった。そういうこと(生徒会役員になりたい生徒が多くいるような生徒の状態)がいじめや他の問題の情報が教師に集まってくる前提条件だと思う。行事などで生徒会、各委員会組織の力をもっと付けていくこと。それは大変面倒くさいのである。教師がどんどんやってしまう方がはるかに早い。「だったら先生やってよ」というのを押しとどめて、生徒がやらなきゃ学校ではないと押し切る。その面倒くさいプロセスに付き合えるだけの、「生徒と関わることを楽しめる教員」であるかどうか

 教師の側が意識して、生徒の中に生活リーダーを育成していく意識を持たないとリーダーは育たない。忙しいから簡便な方に教師は流れやすい。でも生徒の中に「学校を自分たちで良くしていく」意識がないと、結局は何もできない。いじめを深刻なものにしないためには、生徒の関心をもっと他のポジティブなものに向けていくことが必要だし、またここまで行ったら先生に相談しないと大変だという感覚を生徒が持っていることが大切である。そういう感覚は、行事を生徒会とともに作っていく中で養われていくものではないか。生徒のリーダーが育ってもすべての情報が集まるわけではない。気を付けていないと今度はその生徒が浮いてしまって情報が集まらなくなる。またそれよりも、「悪い情報」は教師にあげても、「いい情報」は自分たちの中で留めるということも多い。点数稼ぎみたいな「いい話」はあえて教師には秘密にするのである。でも、そうなって初めて「自治」が少しは根付いたと言えるのではないか。卒業して数年してから、あのときこんなことがあったんですよ、などと聞くわけである。

 「リーダー育成」というのは「エリート育成」とは違う。成績優秀な生徒を選抜して英語などをたたきこみ留学などカネもかけて、日本の次代のリーダーを育てるなどと言う発想が最近は多い。それじゃ実際の社会では働けない。大学を出て正社員になると、すぐにパート従業員のリーダーにさせられ、人間関係が作れないで辞めてしまう「エリート」は多いはずだ。エリートだけ選抜するのではなく、それぞれの学校で意識の高い生徒が皆を行事などで引っ張っていく、などという体験。人は「真のリーダー」になる前に、小集団の「サブリーダー」で鍛えられる体験を積む必要がある。その原体験として、行事や生徒会活動がある。今こそいじめ防止に生徒会の総量を結集する運動がいるのではないかと思う
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