尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

大阪の「学テ結果入試利用」を批判する

2015年04月30日 23時02分36秒 |  〃 (教育行政)
 4月21日に、今年も全国学力テストが行われた。さまざまな弊害があると思うのだが、未だに実施されている。教育現場の力が落ちていると同時に、「学テ」という形で地域の学力差を測らざるを得ないほど地域格差が大きくなってしまった時代相を反映しているのだろう。今年は初めて理科が全校で実施され、小学6年と中学3年で、国語、数学(算数)、理科の3教科が行われた。

 ところで、今回の学力テストに関しては、大阪府が学テの結果を高校入試に使うという不可思議な方針を打ち出している。そのことを新聞記事で知った時には、いやあ、さすがだと思ってしまった。さすがに、維新支配下の大阪府教委、やることのおバカ度が抜群であるという意味である。そのことを知らない人もいると思うので、まず解説したうえで、その方針の間違いぶりを批判しておきたい。

 新聞記事を見てみると、その方針はこんなものである。
 「全国学力テストで、学校ごとの平均正答率を府全体の平均正答率と比較し、府教委が学校間の成績の差に応じて各校の内申点の平均値の範囲を決定学校はその範囲内に生徒全体の平均値が収まるように個々の生徒の内申点をつける。これにより学校間の成績の差を考慮するという。」
 そのような「操作」を行う理由は、以下のように評価方法を改めるためである。
 「府教委は、来春の高校入試から内申点の評価方法を校内の他の生徒との比較を元にした「相対評価」(10段階)から生徒ごとの目標達成度をみる「絶対評価」(5段階)に切り替えるため、学校ごとに評価の仕方に差が出るとの懸念が出されていた。」

 大阪府教委のホームページを見ると、「平成28年度大阪府公立高等学校入学者選抜における調査書の評定の取扱いについて」という文書が掲載されている。その中にある「調査書における目標に準拠した評価(いわゆる絶対評価)について」を見ると、具体的なことが載っている。それによると、例えば府全体の正答率が60.0%であるとして、A校は57.0%、B校は63.0%だったとする。そうすると、府全体を「1」とするときに、A校は「0.95」、B校は「1.05」の比較差が生じる。それに応じて、府全体の評定平均の目安が3.22であるとして、A校では「3.06」、B校は「3.38」を評定平均の目安とするというのである。それに応じて、評定平均はA校は「2.76~3.36」、B校は「3.08~3.68」とする。

 一読、一体これは何なんだろうかと思った。幾つもの論点があるが、まずは「学力テスト」の実施目的にそぐわないということである。文部科学省も、現時点では「懸念が十分解消されるか、引き続き協議する」と言っているようだ。(下村文科相の記者会見発言)テストを行えば、順位が生じる。当たり前である。普通はそのために、つまり順番をつけるために、試験とか試合とかを実施する。でも、そのために「学校そのものの学力差」を順位付けすると、さまざまな弊害が生じる。本来、学テの目的というのは、学習状況の実態把握、成果と課題を検証し、改善につなげるということである。文科省のタテマエではそうなっている。しかし、それを「競争」に利用した政治家が各地にかなりいた。だけど、日本では政治家などもともとあまり信用されていない。それに対して、「教育委員会」そのものがルール違反を公然と行うこととは、大きな違いがあるのではないか。まあ、教育委員会制度も変えられてしまった今では、言うのも空しいのかもしれないが。

 続いて、「学力テスト」そのものの問題である。学力テストは4月に行う。よって、実質的には「中学2年時の到達度を見る」ことになる。進路決定に使う評定は、3学期制なら2学期の成績である。夏休みまでは部活動を行い、夏休みから受験勉強に必死に取り組むというのが、部活動によって違いはあるものの、多くの運動部の生徒の生活である。まあ、数学や英語は急に伸びるものでもないけれど、それでも夏以後に本気を出して急速に学力を上げる生徒は毎年いるはずである。でも、こういう制度が実施されると、高校受験に中学2年時の学力が大影響を与えるではないか。2年の時には、「学力テスト向けの対策を実施する」ということが、学校全体の最大の教育活動になってしまうだろう

 また、調査書(内申書)をなぜ入学試験に利用するのかを考えてみれば、当日一発だと風邪を引いていたりすると不利だということもあるが、第一の理由は平常の学習活動を評価する、特に入学試験を行わない実技教科の成績を評価するということだろう。だから、試験を行わない教科の評定を1.3倍にするなどの措置を取ることが多い。また、そうでなければ、実技教科の授業にマジメに取り組まない生徒が出てくるのも避けられないのだろう。一方、府教委の方針だと、その辺りは何も触れていないから、国語や数学の成績を他校と比較して、体育や美術の評定も操作されるのだろうか。テストで測れる学力には限界があるわけだが、その中でも国語や数学(今年は理科も)のテストだけで、学校の評定範囲を決めてしまおうというのである。英語や社会の成績は、国語や数学に連動するのか

 さらに、学校全体の評定平均を学力テストの平均点で決めてしまうという問題。府教委の例でいうと、ある学校の正答率が63%、もう一つの学校が57%だというが、90点以上を取るような優秀な生徒がどっちに多いのかは実は判らない。下の方の生徒が多ければ、学力が高い生徒がいても相殺されて平均点は下がる。だから、学力が低い生徒でも、学校に居場所があり毎日来ていれば、その結果学校全体の評定を下げてしまうのである。学力の低い生徒が学力テストに参加すれば、学力の高い友人の足を引っ張ってしまう。どう考えても、明言するわけではなくても「無理してこなくていいよ」というムードが校内、地域内に満ちてしまうだろう。「イジメのない学校」ほど不利になるという不可思議な仕組みである。(大人のホンネを反映しているだけかもしれないが。)入学試験というのは、やり方はいろいろあれど、ベースは個人戦のはずである。だけど、大阪では今後「学テ団体戦」というのが登場することになる。

 そのような問題がすぐに思いつくのだが、一番根本的な問題は、これでは絶対評価ではないということである。絶対評価というのは、生徒一人ひとりの学習到達度を基準に照らして評価するというもののはずである。だけど、他校と比べて、学力テストの成績で評定を調整する。この「他校と比べて」というのが、つまり「相対評価」なのである。他校の成績と比べることなく、日常の学習活動を丁寧に見ていくことでしか、絶対評価というものはできない。大阪の公立学校教員は、(形の上では義務制は市町村教委の管轄で、また政令指定都市は独自の教員採用をしているかもしれないけど)、広い意味では「大阪府教委の部下」ではないか。その教員が付ける評定が信用できないというのだったら、そもそも絶対評価に変更することそのものが間違っているのではないか。絶対評価に変更するに当たっては、当然評価基準をどうするかを府全体で、また校内で研修を積んで行くはずである。それでうまくいくのか、いかないのか。別にこんな変な操作をしなくても大丈夫なように研修していくことがまず大事な時期なのではないか。この「相対評価」と「絶対評価」という問題は、もっと大きな問題につながっているので、もう一回書いておきたい。
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「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」

2015年04月29日 23時18分25秒 |  〃  (新作外国映画)
 映画「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」を見た。今年の米国アカデミー賞作品賞受賞作である。ついでに言うと、監督賞脚本賞撮影賞も受賞している。監督はアレハンドロ・G・イニャリトゥ(1963~)。「アモーレス・ペレス」や「バベル」を作ったメキシコ出身の監督である。これを見て、僕は二つの感想を持った。「傑作を見た」というのと「一体、これは何だったんだろう」である。

 アカデミー賞の作品賞は、昨年からさかのぼって見てみると「それでも夜は明ける」「アルゴ」「アーティスト」「英国王のスピーチ」「ハートロッカー」…といった具合で、「政治的な配慮?」とか「業界受け」が多い感じ。悪い映画ではないとしても、自分で今年のベストワンだなどという映画に当たるのはほとんどない。(多分、クリント・イーストウッドの「許されざる者」以来、僕の個人的1位と共通する年はないかと思う。)だから、僕もこのブログで記事を書いたことがない。どうせ賞の名前で、そこそこヒットして映画ファンなら見るだろうから書くまでもない。だけど、今年の「バードマン」は、やはり「業界もの」には違いないけれど、内容や技法もそうだし、映画の世界観のようなものが珍しく「革新性」を持っている。ちょっとビックリの映画で、「訳の分からなさ」を抱えつつも疾走するカメラとともに画面に見入ってしまう魅力を持っている。いやあ、すごかったとも思うけど、もう一回見ないと評価できない気もする。

 この映画を簡単に言うと、ニューヨークの演劇界(ブロードウェイ)を舞台にしたバックステージものである。リーガンは20年も前に大ヒットした「バードマン」の主役で人気を得たが、「バードマン4」を下りて以来、泣かず飛ばずの俳優人生。妻とも別れ、娘サムは薬物中毒で退院したばかり。そこで自分で脚本を書き、演出、主演する演劇をブロードウェイで上演する企画を進めていて、初日も近い。そんな中、共演俳優が気に入らないのだが、偶然(あるいはリーガンの超能力で?)照明が落ちてきて、ケガした俳優は使えない。代役を探していると、共演のレズリー(ナオミ・ワッツ)と付き合ってるマイクが急に日程が空いたという。そこでマイクを呼ぶと、俳優としては凄いが人間的に人と折り合えず、プレビュー公演もぶち壊し。初日を見るニューヨークタイムスの記事で彼の人生も決まってしまうというのに、果たして無事に初日を迎えられるのだろうか…。

 この主役のリーガンには、実際に20数年前に「バットマン」シリーズの主役を務めたマイケル・キートン。現実と映画が同調する緊迫感が素晴らしい。マイクがエドワード・ノートン。父親リーガンの付き人になり、この演劇プロジェクトの裏を見ることになるのが娘のサムで、父のわがままに付き合わされながら、ツイッターもFacebookもブログもしない父親はもう忘れられてるだけと言う。屋上で下を見ているとマイクが来て、父とマイク両者の心の中を聞く役柄を好演するのが、エマ・ストーン。ウッディ・アレンの「マジック・イン・ムーンライト」で霊能者役の女の子をしている。「アメイジング・スパイダーマン」に出た人。以上の3人は、アカデミー賞の主演、助演部門でノミネートされた。

 公私ともに危機にあるリーガンは、時に「バードマン」の声を聞く。時に「バードマン」に変身する。つまり、この映画は単なるバックステージものに留まらず、現代人の「心の闇」を追求する「マジック・リアリズム」的な映画になっている。まあ、あえて解釈すれば「二重人格」とか「統合失調症」かもしれないが、そういう精神疾患を描くのではなく、そういう世界をまるごと肯定するような描き方。そういう難しい世界を描き出したのが、撮影のエマニュエル・ルベツキ。昨年の「ゼロ・グラビティ」に続き2年連続のアカデミー賞受賞で、他に「スリーピー・ホロウ」や「ツリー・オブ・ライフ」などを撮った人である。ほとんど全部のシーンで移動撮影しているのではないかという感じで、すべてがワン・ショットでつながって撮られているかのようなすごい映像である。もっとも技術の進展した現代では、そのこと自体はあまり驚くほどでもないと思うが、舞台上と舞台裏、そして街の中を縦横に動き回り、現実と幻想を行き来するカメラには驚くしかない。特に、ローブが扉に引っかかって動けなくなってしまい、裸になって裏口から街へ出て人々の中を歩いて正面玄関から劇場に入り、客席から登場するシーン。何を言ってるのかよく判らないかもしれないが、こんなすごいシーンも滅多にない。

 ところで、劇中劇になっているのは、なんとレイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」なのである。カーヴァー未亡人のテス・ギャラガーの承認を得ているという話。カーヴァーは村上春樹が全集を翻訳しているから、日本でもよく知られている。短編作家だから、短編の評価が高い日本の方が有名かもしれない。世界の断片を鋭く切り取った素晴らしい作品をたくさん残したが、本人は地方の労働者階級に生まれ、家庭の危機やアルコール中毒に悩みながら、創作を続けた。そういうカーヴァーの世界がリーガンの危機的な「肥大した自己」とシンクロして、深さを増している。

 バックステージものは、アメリカ映画だと「イヴの総て」や「女優志願」など、若い女優がのし上がる話が多い。日本だと芸道ものが昔からあるが、女優の話では「Wの悲劇」を思い出す。だけど、男優の世界は少ないかもしれない。幻想的に危機にある人生を描くという意味では、バレエ界が舞台だがダーレン・アロノフスキーの「ブラック・スワン」にちょっと近い。ミュージカルだけど、作家の世界を描くという意味では「バンド・ワゴン」もあるか。だけど、この映画はそれらのどれとも大きく違っている印象が強い。バックステージという意味では、これほど演劇界の事情を描き出し、劇場のムードを的確にカメラでとらえた映画もないのかもしれない。だけど、演劇界の裏を見たという感じもあまりしないのである。リーガンという存在を通して、ダメおやじでもありバードマン(ヒーロー)でもある追いつめられた人間を見たという感じである。

 イニャリトゥ監督は、今まではむしろ「世界の断片」を描いてきたが、今回は「全部つながっている」映画を作った。「アモーレス・ペレス」「21グラム」「バベル」「ビューティフル」と長編監督作品は5作目。最近好調のメキシコ映画界を代表する映画作家だが、この作品が一番いいと思う。意味不明の長々しい副題が付いていて、しかもなぜかカッコに入っているわけだが、その意味は映画の最後の方で判る仕組み。この映画の魅力は一度だけではよく判らない感じだが、とりあえず紹介して、どこかでまた見てみたいと思う。
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寄席紙切り百年「正楽三代展」

2015年04月28日 23時17分44秒 | 落語(講談・浪曲)
 寄席の芸の中に「紙切り」がある。客の注文に応じて、即座に白い紙を切っていき、見事に仕上げていく。機知に富んだ話芸をはさみながら、よくある「馬」や「藤娘」何かを仕上げていく芸である。これを寄席の芸として磨き上げ「ハサミの魔術師」と言われたのが、初代林家正楽という人。その初代以来100年ということで、2代目、3代目と合わせた「正楽三代展」が上野松坂屋で行われた(4.22~27)。これはもう終わっているが、そこに置いてあった割引券で、上野・鈴本演芸場の記念公演に行ってきた。

 落語協会には紙切り芸人が3人いるというが、今回は3人とも出ている。最初に林家楽一(29は出演せず、30は出演)、仲入り後の7時半過ぎからは、3代目の正楽と2代目の息子、林家二楽の共演、二人が並んで出て一緒に切るという、二度とないかもしれないパフォーマンスを見せてくれる。同じお題で切り比べもあるけれど、両者のコラボ、片方が娘を切り、もう一方が頭上の藤を切るというような珍しい芸も見られた。残り二日(29.30)とも、この共演が見られるので、是非お勧め。

 ということで、どうせポール・マッカートニーには行かないんだけど、今日にした理由の交代制トリの柳亭市馬師匠の印象も薄れてしまった感がある。市馬師匠は何度も聞いてるが、会長就任後は初めてかも。春風亭一朝桃月庵白酒など何回か聞いてる名人も、今日ばかりは紙切りの方が印象深い。何しろ、正楽、二楽の持ち時間は、いつも倍の30分~40分はあるのである。今日は、楽一のときに「闇夜のカラス」、正楽・二楽の時には「アリが千匹」という難題が出た。これは僕はあまり感心しない注文だなあと思うけど。「アリが千匹」は、トンチを効かせて両者が違ったテイストで仕上げて感心した。と書くだけだと忘れてしまうので、無粋ながら細かく書くと、正楽は「カウンターを持った人間が、アリを三匹数えてる(それが998,999,1000ということで)というやり方。二楽は「アリが線引き」とシャレで。

 寄席では「色物」というジャンルで一まとめされてしまうが、落語の合間にやる、曲芸(大神楽)や奇術(マジック)、音曲や音楽漫談(ギター漫談とか、○○ボーイズなどの芸人)などが結構ある。それらも面白いんだけど、中で一番「自分では絶対できなさそう度」が断然高いのが「紙切り」である。絵にかけと言われてもできないのに、それを瞬時にハサミで切りぬいてしまえるというのは、どういう才能なんだろう。努力すれば、ある程度はできるものなんだろうか。動物やアニメの登場人物を切れるので、学校での落語教室なんかにもよく呼ばれるらしい。「三代展」を見て判ったのは、寄席では「一瞬芸」を披露するが、もっと本格的な紙切りを自宅でやっていて、それは「作品」というべきものなのである。そして、注文で何でも切るとはいえ、「横綱土俵入り」とか「勧進帳の弁慶」など、日本の伝統的なお題の方がしっくりくるということである。「お月見」とか「花火」など「季節の行事」的なものの方が見ていても面白い。やはり、「伝統の力」のようなものが寄席にはふさわしいのかな。
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十条台の旧軍施設-王子散歩②

2015年04月27日 21時53分53秒 | 東京関東散歩
 地名で言うと、王子ではなく「十条台」と言う、王子(京浜東北線)と十条(埼京線)の中間あたりに「赤レンガ建築」が残されている。駅からはちょっと遠いので、王子から「コミュニティバス」(「北とぴあ」の真向いに、王子・駒込ルートのバス停があり、100円で利用できる)を利用するので、「王子散歩」の2回目とする。この地帯に旧陸軍施設がたくさん残されていることは、「カラー版 地図と楽しむ東京歴史散歩」(竹内正浩著、中公新書)という本で知った。以来、見てみたいと思っていたのだが、後述の理由でこのあたりを歩く機会が増えてきた。

 明治からあった赤羽火薬庫に続き、第一師団工兵第一大隊、陸軍兵器支廠造兵廠とか、名前を書き移していても仕方ないからやめるけど、とにかくたくさんあったようだ。関東大震災で大被害を出した被服廠跡地(今は墨田区の横網町公園となり、東京都慰霊堂などがある)という場所があるが、大震災の前年の1922年に赤羽に移ったのである。つまり、この地域は軍関係の兵器、軍服等の工場が集中していた。保管のための赤レンガ倉庫がいっぱいあるのも納得できる。まずはコミュニティバスに乗って、北区立中央図書館に行く。ここは、元「東京第一造兵廠第一製造所二七五号棟」で、残されていた赤レンガ倉庫を図書館に利用しているのである。(元の名前は前掲書)
   
 区民でなくても入れるし、オシャレっぽいレストランもある。図書館の前はオープンカフェ風に座れる場所になってる。もちろん、倉庫だけでは狭いから、もっと大きな建物が併設されているが、赤レンガ倉庫も中から見ることができる。北区にゆかりのある「ドナルド・キーン・コーナー」もあるし、北区の観光地図を得られる場所もある。公園の中だから、子ども連れで遊べるところも多い。というお得な場所。
  
 まあ何枚乗せても同じようなもんだけど。図書館の近くに広い施設があり、何だろうと思うと「陸上自衛隊十条駐屯地」だった。先の本によると、駐屯地内には近年まで戦前来の倉庫が23棟も残されていたという。しかし、平成に入って次々と取り壊されていき、今は変電所として使われていた二五四棟のファサード(正面)だけが残されている。(普段は遠くからしか見られない。)ということは、ずっと回っていくと駐屯地のレンガ作りの正門があるが、それは戦前からのものではないわけだろう。
    
 さて、図書館と駐屯地の隣が中央公園になっている。その一番南の方に、白い建物があり、北区の中央公園文化センターがある。ここが旧「陸軍東京第一造兵廠本館」である。というより、もっとビックリしたのが、ここが米軍の「王子野戦病院」なのである。つまり、この広大な旧陸軍施設用地は、戦後は占領軍に接収され、講和後も無期限に米駐留軍用地とされていたというわけである。そして、ベトナム戦争の激化に伴い、1968年に「米陸軍王子病院」となったのである。当時のことは子どもで場所は知らなかったのだが、「王子野戦病院反対闘争」は何となく記憶している。その場所がここだったのか。今は白くてきれいな感じだけど、こういう風に白くしたのも米軍。後の2枚は背面。
    
 文化センターの隣に、東京砲兵工廠銃包製造所のボイラーと煙突が残されている。横には赤羽台第3号古墳も残っている。いろいろと「近代遺跡」の残る場所だが、突然古代遺跡が出てくるのも面白い。そこから歩いてぶらぶら王子駅に戻る。ところで、この一帯は米軍から次第に返還されていき、跡地は自衛隊、公園などになった。また東京家政大学などの教育施設、都立北療育医療センター、王子特別支援学校などの障がい者施設も集中している。その中に「都立障害者スポーツセンター」もあるのである。そこに精神障がい者施設のスタッフとして、時々ソフトバレーボールをしに行っている。そういう時に先の本を読んで、いろいろ付近を歩き始めたというわけである。さて、ちょっと方向が違うが、王子駅から線路の西をずっと北へ歩くと、「名主の滝公園」というのがある。どんなところか寄って見ると、思った以上に落ち着いた庭園だった。もちろんちゃんと滝がある。いろいろある場所だった。
   
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赤レンガ酒造工場-王子散歩①

2015年04月26日 21時42分23秒 | 東京関東散歩
 東京都北区に「王子」という町がある。以前、「飛鳥山散歩と渋沢栄一」を書いたけれど、その飛鳥山(あすかやま)がちょうど王子駅の真ん前にある。ところで、その周辺に「赤レンガ建築」がいろいろ残っていることを知って、ちょっとまとめて歩く。まずは「赤レンガ酒造工場」である。ここは2014年12月に国の重要文化財に指定された。4月4日、まだ桜が咲き誇る時期に特別公開が行われた。すぐにまとめたかったんだけど、その後、雨の日が多くて近くの散歩ができなかった。25日にもう一回見にいくと、もう新緑に囲まれて赤レンガもよく見えないではないか。
  
 この場所は、現在は「独立行政法人酒類総合研究所 東京事務所」という長い名前の場所になっている。一年に2回ぐらい無料の特別公開をやっていて、蔵の中を見られるほか、日本酒の試飲もやってた。お酒をめぐる様々の知識が得られる各種のパンフも置いてあって、なかなか面白い。だけど、思ったより小さく、昔の敷地の半分は公園になっていて、「醸造試験所跡地公園」となっている。
  
 中身は上の写真のような感じ。白い部屋は表面のみ白い釉薬を掛けたレンガで、日銀の地下金庫にも使用されている。旧麹室だったところ。初めの写真は特別公開時だけど、一番最初の写真と比べると、桜の花が満開だった。もともと1903年に作られたという100年を超える建物である。「醸造試験所第一工場」として、冬しか作れなかった日本酒を四季を通して作れるように、ドイツから冷却機を輸入して作った最新鋭の酒造工場だった。桜の時期に撮った写真をまとめて何枚か。
   
 ここを作ったのは、妻木頼黄(つまき・よりなか 1859~1916)という人で、米国、ドイツなどに留学し、全国で活躍した。神奈川県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店)や横浜赤レンガ倉庫(旧横浜新港埠頭倉庫)など、今に残って知られる建物や、日本橋の意匠装飾を設計したという人である。
   
 行き方は説明しにくいのだが、王子駅北口から飛鳥山を向かいに見ながら進んで、音無橋を渡って脇の道を進む。これでは判らないだろうから地図で調べて欲しいけど、駅に近いけれど、案内もないし判りにくい。そこに行く前に、左側の方に古そうな神社がある。それが王子神社(王子権現)で、1322年に当時の領主豊島氏が熊野新宮の浜王子から「若一王子宮」を勧請したという。これが「王子」という地名の由来になったという、東京でも由緒ある神社である。けっこう大きく、立派な神社。
  
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西村健「地の底のヤマ」を読む

2015年04月25日 23時47分41秒 | 〃 (ミステリー)
 ここ数日、ひたすら西村健「地の底のヤマ」(講談社)を読みふけっていた。いやあ、こんなすごい本、面白い本も久しぶりだなあ。2011年12月に出た本だけど、僕の持ってるのは2012年8月に出た第7刷である。2年以上読まずに積んどいたのだが、何しろ「2段組み863頁」という超巨編なのである。頑張って4日半で読み切ったけど、持ち歩くには難儀した。今は講談社文庫に入ってるけど、それでもこれほど長い本は手に取りにくいだろう。でも、これは読むべきだ。普段、ミステリー系に縁遠い人も、日本という国の仕組みをこれほどスリリングに描いている本も少ないから、読んだ方がいい。

 この大河小説は、体裁としては「警察小説」である。だけど、ある警官の半生を追いながら、三池炭鉱を抱えた福岡県大牟田市(おおむた)という町が実は主人公になっていると言ってもいい。主人公の猿渡鉄男(さわたり・てつお)は父に続く2代目の警官として、福岡県警に勤務している。高卒だから警察で出世するとしてもタカがしれているが、様々な事件に関与して行きながら、どういう人生を送っていくのか、読者は最初は判らない。最初に「序」があって、結局は出世もできず地元の海で密漁取り締まりをしていて、妻子もいない人生になっていることが読者には示される。それどころか、時々は悪夢にうなされることがあり、何か幼少時に関わる「闇」を抱えているらしきことも示される。

 第1章は1974年で、猿渡は警官になって間もなく交番勤務。ある「死体発見事件」に関わり、地元に詳しいということで、本部の優秀な警官の助手役に引き抜かれる。死体は、「旧労」の幹部であり、組合の激しい対立関係が絡んでいる可能性がある。ということで聞き込みに回ると、「あの猿さんの息子か」と言われて、口を開いてくれる人が多いのである。言うまでもなく、大牟田市の三井鉱山の三池炭鉱と言えば、1960年に「総資本対総労働」と言われた大争議が起こったところである。途中で第2組合が出来て分裂するわけだが、猿渡の父は、旧労、新労にこだわらず、差別なく接してくれる稀な警官として慕われていたらしい。ところで、争議後3年経った1963年11月9日に、三池三川鉱で死者458人を出す大規模な炭塵爆発事故が起きた。ちょうどその日に、猿渡の父は殺されてしまったのである。そして、この警官殺害事件は大事故の陰に隠れて迷宮入りしてしまったのである。

 そういう過酷な運命を町も主人公も背負っているのだが、小説が進むにつれ、主人公はちょうど同じ日に、まだ少年時代の友だちとともに「もう一つの運命」を背負っていたことが判ってくる。このように、歴史と個人史が大牟田という町で交差していく構造が、驚くほど心に刺さるのである。第1章では、そもそも殺人か事故かも判らないまま捜査が進行し、もはや真相不明かという段階で、主人公の苦労が実るのだが、その結末は苦いものだった。第2章は1981年で、主人公は県警のエースと言われている。筑豊で殺人事件を起こしたヤクザが大牟田に潜んでいるらしいということで、一時的に大牟田に帰って捜査している。

 その問題に少年時代の4人組のその後が絡んでくる。結局は法の裏を生きる友もいるが、一人は高校から鹿児島にいき、東大を経て大蔵省へ。三井の金持ちの息子だったもうひとりは、早稲田を出て検事になっている。その検事が福岡地検にいて、地元の政界につながるネタを追っている。どうもあの大争議の時から続く「政財界の裏金」の存在があるらしい。その黒い人脈は警察内部にも通じているかもしれない。しかも法の裏を生きる友を通して、地元政財界の大スキャンダルも知ってしまう。そんな主人公が果して、警察内部でどのような生き方を選択するか。そのとき、妊娠中の妻も地元の大牟田に帰っていて、どうもうまく行かなくなってきた結婚生活が再生するのかどうか。

 この第2章の選択が以後の主人公を決めていくのだが、その人生がいいのかどうか。だんだん、主人公が世俗的には成功せず、私生活でもうまくいかない人生になっていくことが判ってきて、読者も自分と思い合わせて、それがいいのか悪いのか、どうしたら良かったのか、さまざまに悩むことになる。不完全な人間として、公私ともに幸福というものは難しいのか。だが、友に恵まれ、のんびり暮らす生き方ではいけないのか。第3章(1989年)は大牟田の端っこの方で駐在所勤務、第4章(現在=2011年)は密漁機動取締隊勤務だから、そういう部署も警察には必要とは言えど、出世どころか警察の端っこの方でかろうじて生き延びているという感じで、かつて県警のエースと言われた面影はない。だけど、父親以来の信用もあり、地元の人脈を生かして捜査を進展させる情報をもたらすのである。第3章では地元の殺人事件の犯人の母をめぐる事情を追う。第4章は覚せい剤を密輸する漁師を追う。そこらはまあ小説だから面白く出来ているのだが、だんだん終わりが近づくと、僕も「あれはどうなる」と思う。

 つまり「父の事件の真相」が出てくるのか。実はその前から、父親が単に組合差別をしないというだけの警官ではなく、実は組合情報を会社側に流していたのではないかという問題が出ているのである。ジェームズ・エルロイの母が亡くなった事件は、事実だから解明できなかったが、マイクル・コナリーのボッシュシリーズでは、小説だからボッシュの母が若くして殺された事件の真相をボッシュが解明する。この小説ではどうなる。そうすると、第4章で定年間近の主人公が再捜査するという話になって、今までのすべてが絡んでくる。いや、驚きましたの真相ではあるが、人間には見えない部分があるということである。ここでほとんど詳述しなかった第3章が、ミステリー的には一番面白かった。

 だけど、この小説の凄味は、警察小説としての面白さだけではない。事故によるCO中毒事故の悲惨、組合分裂の実情、朝鮮人強制連行の問題、少年犯罪、政界のスキャンダル、高度成長からバブルの時代相、そういったものが混然一体となった「日本という国の闇を見た」という思いである。そう、「強制連行」がどうの、「少年犯罪は厳しくせよ」などという輩は、これは小説に過ぎないなどと侮らず、じっくりと読んで欲しい。だけど、それらを超えて、人情の厚さ、さらにはいかにもうまそうな郷土の料理の描写の数々が印象的である。有明海の魚のあれこれ、ラーメンもおでんも実にうまそう。結局、ここまで人間と社会の闇を描いた小説ではあるが、ベースにあるものは人間と郷里への深い愛なのである。だから、どんな厳しい、苦しい、寂しい描写と展開が続いても、読後感は案外爽やかである。読んで、感じて、考える。小説の魅力。

 こんな小説を書いた作家、西村健とはどういう人か。1965年生まれ、福岡県福岡市に生まれ、6歳から大牟田に住む。鹿児島のラ・サール高校から東大に進み、労働省に入るも、4年で退職してフリーライターに。1996年の「ビンゴ」でデビュー。日本冒険小説協会大賞を受ける。以後、「劫火」「残火」などの作品で評価され、この「地の底のヤマ」で日本冒険小説協会大賞、吉川英治文学新人賞を受けた。と言うんだけど、僕は知らなかった。初めて読んだ。登場人物に少し似ている経歴である。これだけの本は大牟田育ちでないと書けないと思ったら、やはりそうだった。長いからなかなか読めないと思うけど、ちょうどゴールデンウィークが来るではないか。是非、読んで欲しい本。
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追悼・船戸与一

2015年04月24日 23時23分52秒 | 〃 (ミステリー)
 作家の船戸与一が亡くなった。4月22日没、享年71歳。20世紀後半にむさぼるように読んでいた作家。もう船戸与一が亡くなるような時代になってしまっていたのか。71歳とは、もうそんなになっていたのかとも言えるし、まだまだ若いとも言える年齢だけど、最近は読んでなかったなあ。最後の頃に書き継いでいた「満州国演義」は完結したという話だが、文庫になってないので読んでなかった。

 80年代後半頃から、世界の「辺境」の視座から「帝国」を撃つ大長編を続々と著して、僕は大興奮して読みふけったものだった。学生時代は早稲田の探検部にいたというから、その頃から辺境志向があったのである。ちくま文庫に入っていた豊浦志朗「叛アメリカ史」という本があるのだが、その本を1977年に書いたのが、この人。ゴルゴ13シリーズの原作も外浦吾朗名義でたくさん書いているという。小説家としては、1979年の「非合法員」がデビュー作となる。

 僕が読み始めたのは、「このミステリーがすごい」で続々と上位を獲得していたからである。だから日本冒険小説大賞や吉川英治文学新人賞を受賞した1984年の「山猫の夏」はしばらく知らなかった。(「このミス」は1988年から始まった。)そこで文庫で読んだのだが、ブラジルの荒野に怨念と流血がほとばしる迫力に驚愕の一語。何でそこに日本人が出てくるのかだけが不思議だったけど、黒澤の「用心棒」というか、ハメット「血の収穫」だと思うが、要するに対立をあおって両方とも片付ける話なんだけど、ここまで凄まじい環境で展開したのは全く凄いと思う。次に読んだのは「神話の果て」だと思うが、それより1987年に出た「猛き箱舟」がすごかった。日本の大資本に捨て駒にされた男が復讐にいのちを賭ける話だが、それがアフリカの西サハラを舞台にしているというのだから、スケールがでかい。フィクションではあるが、世界の構造をくっきりと描き出していた。

 その後、このミスで1位になった「伝説なき地」「砂のクロニクル」なども面白いのは保証できる。でも、僕は「山猫の夏」「猛き箱舟」が一番すごいような気がするのである。それから、歴史をさかのぼり、アイヌ民族の最後の抵抗であるクナシリ・メナシの乱を描く「蝦夷地別件」(1995)という超ど級の傑作を書いた。これも凄かった。こうして、世界の辺境から、さらに歴史の辺境にまで視野を広げ、あくまでも「抵抗の作家」であり続けるのかと思っていたら、2000年の「虹の谷の五月」というフィリピンを舞台にした作品で直木賞を受けるに至った。そういう文壇での評価を受けられないのかと思っていたのだが、確かにこの作品は「受け入れられやすい作品」にはなっていた。特にミステリー系の作家によくあるように、「何で今ごろこの作品で」という受賞である。だけど、まあ、いいか。調べてみると、今では文庫も数少なく、電子書籍にはもう少し残っているようだけど、今では読んでない人も多いかもしれない。安倍政権時代、ニッポン万歳、五輪万歳的世界では読まれないかもしれないが、世界の苛烈な闘いを描き続けた作家がいたということを忘れてな行けない。それに現代日本でもっとも面白い作家のひとりであることは間違いない。生半可なミステリーや純文学を破壊しつくすエネルギーに満ちている。何をしたらいいか悩んでいる人は、本屋か図書館に行き、船戸与一の本を探すところから始めるのが良い。
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藤井聡「大阪都構想が日本を破壊する」を読む

2015年04月22日 23時49分20秒 | 政治
 藤井聡氏(京都大学教授)の「大阪都構想が日本を破壊する」(文春新書)という本。僕もちょっと前に「大阪都構想」について書いたので、読んでみた。自分の記事に訂正、補足等もあると思ったが、最後の方に書いてある藤井氏の「大大阪構想」という「代案」も結構ぶっ飛んでいる。新書本なので、740円+税。こういう簡単に入手できる批判本が他にないので、都構想だけでなく、日本の政治や経済に関心のある向きも、手に取ってみる価値はある。読まないと批判のしようもない。新書ぐらいはきちんと読んで欲しいものだ。(「文春」は個人でボイコットしてるという人もいると思うけど、例外で。)

 帯の裏に「知って欲しい7つの事実」というのが載っている。大阪市民には、せめて本屋でそこだけでも読んで欲しいと思う。だけど、その最初が住民投票賛成多数でも、「大阪都」は「大阪府」のままって、そんなところから議論しなくてはいけないのかとビックリした。大阪市民しか住民投票できないということを知らない府民もいるとか。都構想とは、つまり「大阪市5分割」だから当然だけど、大阪の人でも知らない人がいるのだとか。「東京23区には「特別区はダメ、市にしてほしい」という議論があるとか、東京の繁栄は「都区制度」のおかげでなく、「一極集中」の賜物という話はブログでも強調しておいた。

 だけど、外部の人間として、ある種薄めて書いておいたのが、大阪市の人口が府の中で3割しかないという問題である。東京の場合、23区の人口が都全体の3分の2に達している。だから、東京市が廃止されて、市税が都に吸い上げられても、都議会でその分を23区の発展にために使うと決めることが可能である。(というか、実際は各政党の考え方が違うわけだが。)一方、人口の3割しか占めていない大阪市を廃止して、市税が府に行ってしまったら、大阪府はそれを大阪市のためでなく、大阪府全体のために使うだろういうことである。もちろん、それが悪いということでもなく、大阪市民が納得して自己犠牲を払うというのなら問題ないけれど。橋下氏自身が大阪府知事だった時は、「大阪市の持っている権限、力、カネをむしり取る」と力説していたという話である。これに賛成する大阪市民が半分ぐらいいるということの方が理解不能だろう。

 僕がよく知らなかったことは、「一部事務組合」なるものがものすごく大きいらしいということである。特別区は基礎自治体だから、当然やるべき行政は特別区がやるんだと思い込んでいたが、そうではないらしい。だから、大阪市を廃止して「府と区」にするのではなく、正確には「府と一部事務組合と区」に分けるらしい。二重行政を廃すると称して、三重行政になるらしいのである。その「一部事業組合」で行うとされる事業は、本書124頁に出ているが、健保、介護保険、水道、住民基本台帳システム等の住民情報システム、福祉施設、市民利用施設(青少年野外活動施設、市民学習センター、大阪市立体育館、大阪市立大阪プール等)、診療所、斎場、霊園、処分検討地とされた土地の管理など…。

 ええっと驚く。健保も住民基本台帳も自分でできない「特別区」とは。特養も自分でやらないで、基礎自治体と言えるのか。水道は、東京は「東京都水道局」だから、当然「大阪府水道局」に統合されるんだと思ったら、大阪市地域だけで事務組合を作るの?一体、どこが「特別区」なんだろう。どう考えても、今より面倒くさい。これはつまり、「郵政民営化」なんだと思う。政治家が思いつきで叫びだし、結局形だけは実現するが、住民サービスは低下し、官僚組織には傷がつかない。大阪市分割も、結局は「住民サービスが低下するが、官僚機構には変りなし」で、政治家の思いつきに振り回されるだけ。

 大阪都構想が賛成多数になると、今後の5年間、大阪市は各事業と人員をそれぞれ「府」「一部事業組合」「特別区」に振り分ける内部作業に振り回される。藤井氏によれば、東京が五輪に向けて「未来に向けての投資」を行う間に、大阪は行政機構の分割をめぐる後ろ向きの行政しかできず、未来に向けての投資が停滞する。「大阪都構想」により、東京と大阪の差が追いつけないものになってしまうというのである。なるほど、それは東京ではあまり気付かなかった視点である。もっとも、僕には東京五輪に向けての再開発など、都民にはムダで過剰なものだとしか思えないが。だけど、「公務員」という業種を思い浮かべてみると、大阪市という政令指定都市で働くつもりで行政マンになったものが、区役所職員になれとなったら「格下げ」意識を避けられないと思う。東京でも、都庁職員と区役所職員には意識差があるだろう。そういう問題に職員の意識が向かってしまうだけで、確かにずいぶん行政のマイナスになるだろう。

 ところで、藤井氏はどういう人かと経歴をみれば、公共政策論、都市社会工学が専門とあり、同じ文春新書で「公共事業が日本を救う」とか「列島強靭化論」などの本を出している。そう言えばそんな本を見た記憶も。いまどき、そんな主張をする人がいるのかと思ったけど、最後の方では「リニア新幹線を大阪まで同時開業しよう」とか、どうかと思う主張を繰り広げている。まあ大風呂敷としては面白い面もあるが。そこらへんの問題は、大阪都構想に直接関係しないので、今は詳しくは触れない。ただ、地震の危険性は西日本も同様であって、東京が首都直下地震で首都機能が低下した時に、大阪が残っていることが日本を救うという議論は、どうなんだろう。また、文楽の補助金削減や大阪市音楽団の廃止などの文化行政の問題に全く言及がない。本人に関心がないのかもしれない。

 ところで、橋下市長は例によって藤井教授を「罵倒」するなどして、大阪では丁寧な議論ができにくい状況があるようだ。マスコミも批判しにくく、そういう言論状況そのものが困ったもんだと思う。もしかしたら、そういう「ポピュリズム的な独裁」こそが目的なのかもしれないが。それにしても、多くの人が大阪市民であるにせよ、そうではないにせよ、話題には違いないから、この本ぐらい読んでから議論して欲しい。あとひと月ほどで住民投票だけど、こういうバカげたことで時間を空費して、大阪が自己破滅して行っていいのだろうか。
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映画「インヒアレント・ヴァイス」

2015年04月22日 00時11分24秒 |  〃  (新作外国映画)
 アメリカ映画界の鬼才、ポール・トーマス・アンダーソン(以下、PTA、1970~)が、アメリカ文学界の伝説的巨匠トマス・ピンチョンの「LAヴァイス」という作品を映画化した。これは是非見たい。いつもは終了直前にあわてて見るんだけど、今回は時間の関係で公開4日目に見に行った。
 
 これが1970年のロスを舞台にした「探偵映画の脱構築」のような快作(怪作?)で、非常に面白い傑作だと思った。60年代末の、例えばマンソン事件(女優シャロン・テートがカルト集団チャールズ・マンソンらに殺害された事件)に言及されるような「時代を反映した物語」で、主人公の探偵ドック(ホアキン・フェニックス)は、「ヒッピー」と呼ばれて、ラフな服装でマリファナをやりまくっている。そこに昔の女シャスタが現れ、今付き合っている不動産王ミッキー・ウルフマンが、妻とその愛人によって精神病院に入れられ財産を取られようとしていると訴える。ドックが聞き込みに行くと、なぐられて気絶。目覚めた時はウルフマンのボディガード、チャ―ロックの死体と一緒。ロス市警の因縁の刑事、ビッグフットに取り調べられ、ウルフマンと愛人は失踪したと告げられる。こうして、探偵ドックは陰謀に巻き込まれ、謎を追う破目になるわけである。

 謎の帆船「黄金の牙」とは何か。歯科医の謎の組織、アジア系の性風俗店、死んだはずのミュージシャンが生きていたり、ドックが女性検事(リーズ・ウィザースプーン)と付き合っていたり。海運専門の弁護士(ベニチオ・デル・トロ)が出てきたり…。何だかよく判らないままに、謎が謎を呼ぶが、それらは一種の「ロスの探偵もの」のパロディのように進行していく。過去の小説や映画、音楽、さらには時代そのものを風刺するような進行に、楽しんでみていると、突然日本語(らしき)まで飛び出し、「スキヤキ」(上を向いて歩こう)まで流れ出すんだから、楽しくなってしまう。この昔のポップ・カルチャーに彩られた謎めいたユーモアの連鎖は、しかし結局はちゃんと「合理的」(?)な結末に収束はしていき、ミステリーとしてのまとまりは付くかのように見える。主人公ドックの決断もよろしく、「終わり」に至る。149分と長いので、クレジットを見ないで去っていく客も多いが、最後の最後にある言葉が出るので見逃さないように。それはパリ五月革命の落書きなんだけど、妙に心に残る。

 「インヒアレント・ヴァイス」では、何のことだか意味不明だけど、作中で解説されるところによれば「内在する欠陥」という意味だという。海上保険の用語で、卵は割れる、チョコレートは溶けるという「内在的欠陥」を有しているので、そのことに保険は掛けられないという使い方らしい。では、一体この物語における「内在的な欠陥」は何だろうと考えてしまうが、それは自分で見て考えること。探偵物語として作られているが、現代社会への風刺がベースにあるということだろう。トマス・ピンチョン(1937~)はノーベル賞候補にものぼる作家だが、「スローラーナー」に歯が立たず、近年まとまって訳された大長編には挑んでいない。だけど、この映画の原作は判りやすいほうらしく、調べてみると原作にかなり忠実な筋立てらしい。今年のアカデミー賞で、脚色賞と衣装デザイン賞の候補になった。だけど映画賞なんかには恵まれなかったが、そのことが逆にこの映画の魅力を増している。

 PTAはアメリカの監督には珍しく作家性が強い作品を作り続けているが、最初の「ハードエイト」(未公開)を除いてずっと見て来た。それもこれも、ポルノ業界に生きる若者を描く第2作、「ブギーナイツ」が気に入ったからで、以下「マグノリア」「パンチドランク・ラブ」「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」「ザ・マスター」と奇作、怪作が多い。ダニエル・デイ=ルイスに2度目のアカデミー賞をもたらした「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」が一番普通の意味での傑作だろうが、他の作品は好みが別れるだろう。そういう作風は今回も共通していて、「変な映画好き」には見逃せない。かつて、チャンドラーの「ロング・グッドバイ」をロバート・アルトマンがエリオット・グールドのマーロウで映画化したが、あれも当時の風俗を満喫できるヒッピー風探偵だったと思う。だけど、ぶっ飛び具合は今回のホアキン・フェニックスの方が印象的で、それも時代が経って、一種のパロディとして作れるからだと思う。冒頭とラストで、建物の間に海が見えるショットを見るだけで、「これが映画だ」という思いを喚起させる。PTAもそんな映画作家になったんだと感慨を覚える。
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歌丸の塩原多助を聞く

2015年04月20日 21時38分39秒 | 落語(講談・浪曲)
 先週、親族の葬儀があり、いわば今年の一番の出来事が終わった。そのために、行きたかったところ、マレーシア映画ウィークや世田谷美術館の東宝スタジオ展、あるいはいくつかの演劇や映画に行けなかった。完全に日程が重なったのもあるが、疲れている時に行かないでもいいかという気もしたのである。だけど、逆に行かなくてもいいかなと思っていた国立演芸場4月中席に行きたくなった。目玉はトリの桂歌丸三遊亭圓朝作「塩原多助」のうち「青の別れ」である。

 「コント山口君と竹田君」や瀧川鯉昇師の「ちりとてちん」などを堪能して、仲入り。その後は、桂竹丸の落語が快調、やなぎ南玉の曲独楽も面白かった。ということで、いよいよ長講の歌丸。そこまで頑張ってたので、不覚にもここで少し寝てしまう。疲れていたからやむを得ないか。芸協(落語芸術協会)には聞いてない人が多いのだが、歌丸師匠は最近圓朝をやってて、同じ国立で「牡丹灯籠」を、新宿末廣で「怪談乳房榎」を聞いてるはず。それに対し、「塩原多助」はほとんど知らない。映画にもなってないから、名前しか知らない。そういう点、怪談ものの方がよく残るのかと思っていたら、これも一種の怪談仕立てだった。大体、実在人物の「塩原太助」(1743~1816)と圓朝の語る「塩原多助」で字が違うではないかと今回初めて知った。江戸に出て苦労して炭商人として成功したという塩原太助の立身出世物語は、もう僕らの世代にはほとんど知られていないだろう。

 塩原だから塩原温泉にゆかりかと思い込んでる人がいるのだが、上州水上の近く、新治(にいはり)村の物語である。というのは、そこらをドライブした時に「太助の郷」なる「道の駅」に寄ったからである。ここでは「太助まんじゅう」を売っていた。資料館もあったけど入らず、今ホームページを見ると実在人物の由来が判った。「塩原多助」の方になると、もっとおどろおどろしい人間の欲が絡まりあった話になっていて、塩原多助は塩原温泉の出だという話になっている。故郷にいては殺されかねない(友人が代わって殺される)ほどの事態となり、そこで江戸へ出奔する。名前だけ僕もよく聞いたことがある「名馬 青」は、多助が殺されることを予知(?)してか、いつもは従順な多助に従わずに一歩も動かず、結果的に多助の命を救うという、まさに名馬の働き。それはフィクションとして、先のホームページを見ると、太助と青の銅像が作られている。

 最初に人間関係が入り組んでいると警告(?)している通り、途中で誰が誰だかと思うような展開はまさに圓朝。青との別れは前段で、後半部分はまた次の機会に。それは来年4月だというから、今にも危ういかのように「笑点」を見てると思いかねないが、まだまだ元気なようである。テレビでやってた笑点メンバーの健康診断でも、特に大きな問題もなかったようだし。うまいんだか何だかよく判らないところもあるんだけど、当代で圓朝をかける噺家は珍しいので気にかかる。最近、新作映画や演劇よりも、昔の映画と落語に気が向くことが多く、しばらく演劇より落語の記事が多いかも。映画は何となく東映時代劇をフィルムセンターで見たりしているのは、またそのうちまとめて書きたい。落語は来週の鈴本、紙切りの正楽三代展の記念公演を見たいなあと思ってる。紙切りの芸に特化した寄席公演なんて二度とないかも。
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映画「神々のたそがれ」

2015年04月19日 21時44分05秒 |  〃  (新作外国映画)
 ロシアのアレクセイ・ゲルマン監督(1938~2013)の3時間近い(177分)遺作「神々のたそがれ」を見た。久しぶりに「とてつもない映画」を見たという気分に浸った。東京だと渋谷・ユーロスペースで24日までだから、もう見ないといけないと思ったわけだけど、今調べたら同じビルの2階「ユーロライブ」で続映すると告知されていた。でも、どうしてもすべての映画ファンが見るべきというわけでもないだろう。アートフィルムのマニアでも、これはちょっとと敬遠する人もいるかもしれない。でも、この映画の素晴らしいモノクロ撮影の驚くべき世界にはビックリすること請け合い。
 
 旧ソ連のSF作家、ストルガツキー兄弟というと、タルコフスキーの「ストーカー」の原作者だけど、その兄弟作「神様はつらい」の映画化だという。(この原作の邦訳は、ハヤカワから昔でていた世界SF全集に入ってる由。)ある惑星があり、そこは地球から歴史の発展が800年ほど遅れている。しかし、探検の結果、初期ルネサンスに近い文化があると認められ、地球から30人の学者が送られる。だが、期待された進歩は訪れず、その惑星は反動の時代を迎えて、大学は閉鎖され知識人は弾圧される。そのような非知性主義が吹き荒れる「中世」の社会の中で、地球人ドン・ルマータは神の子と見なされ…。

 と言った筋書きのようなものを書いていても、ほとんど意味はない。大体、見ていてもストーリイはよく判らない。800年前と言えば、つまり「地球歴1300年」頃であり、そういう「中世ロシア」に紛れ込んだという映画である。画面はひたすら泥まみれ、血まみれで、人間や動物の排泄する汚きもの、処刑された死体や動物の死骸などの死に満ちている。タルコフスキーの「ストーカー」も近寄りたくない世界を描いていたが、この映画はそれを上回るグロの氾濫で、見ていて確かに気持ち悪い。でも、世界を縦横に動き回るカメラとともに、冥界をめぐりゆく映画は、いっそ清々しいとさえ言いたいほどにぶっ飛んでいる。フェリーニの映画を「祝祭」と評するなら、この映画はその反対で、ふさわしい言葉が思いつかないが、一種の反「祝祭映画」になっている。(フェリーニの「サテリコン」をグロテスクにしたような。)

 中世という意味では、タルコフスキーの「アンドレイ・ルブリョフ」の世界の方が近いかもしれない。だから、SFという言葉にこだわる必要はないと思う。これは一種の歴史映画だと思うが、一方では「これこそが現代だ」「これこそが人間だ」とでも言いたいような迫力が画面にみなぎっている。アフリカで起きている様々の紛争、かつてのルワンダや近年のコンゴ、ダルフールなどの出来事は、実際この映画の「800年前の惑星」とほとんど同じではないか。映画はほとんど大弾圧、大虐殺の連続で、ストーリイもよく判らなくなってくるのだが、僕は不思議と長さを感じずに見入ってしまった。

 アレクセイ・ゲルマンという人は、1971年に作った「道中の点検」が検閲で公開禁止になり、ペレストロイカ時代にやっと公開された。その時代に日本でも公開されたけれど、あまり感心しなかった。その後「戦争のない20日間」「わが友、イワン・ラプシン」を作り、ソ連崩壊後は「フルスタリョフ、車を!」(1998)という作品を製作した。だけど、ずっと見逃してきたので、あまりよく知らない監督。これらの映画は、すべてスターリン時代を描いた作品であるが、遺作となった「神々のたそがれ」も一種の「スターリン体制」を描いているように思う。大学の卒業式で国旗・国歌をなどと政府高官が発言する時代、テレビが政治的批判に及び腰になる時代。そういう「一種の反知性主義」に侵された惑星に住んでいるわれらを「800年先の地球人」はどう評するのだろうか。
コメント (4)
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追悼・愛川欣也

2015年04月19日 00時30分10秒 | 追悼
 愛川欣也が亡くなった。4月15日。享年80歳。3月初めまで、「出没!アド街ック天国」に出ていたから、驚いたと言えば驚いた。まあ、収録はもっと前なんだろうけど、毎回とは言わずとも結構見ていたにもかかわらず、健康に大きな問題があるようには感じ取れなかった。でも、今から考えると、「トラック野郎」シリーズの鈴木則文監督と菅原文太が昨年相次いで逝去したときから、何となくこういう日も近いのかと心の中で予感していたのではなかったか。

 愛川欣也と言えば、「司会者」であり、「俳優」であり、「声優」であるが、僕にとっては圧倒的に「深夜放送のパーソナリティ」だった。TBSラジオの「パック・イン・ミュージック」に愛川欣也が出ていたのは、今調べると、1971年4月~1975年9月に火曜深夜(水曜)、引き続いて1975年9月~1978年6月まで水曜深夜(木曜)のことだった。僕の高校から大学のころで、かなり聞いていたと思う。もっとも、一番よく聞いていたのは林美雄や野沢那智・白石冬美の回だったと思うが、他局(ニッポン放送の「オールナイト・ニッポン」や文化放送の「セイ!ヤング」)を聞く日もあるし、必ず聞いていたわけでもない。深夜放送というのは、あの当時「深夜の解放区」(©桝井論平)であって、僕はここで映画や音楽、そして社会の様々な問題を知った。愛川欣也を「キンキン」と呼ぶのも、この深夜のラジオからだった。名物は「カトリーヌ」のコーナーで、カトリーヌ・ドヌーヴがマルチェロ・マストロヤンニと付き合っていた時期で、カトリーヌからマルチェロへのラブレターというのをリスナーが書いてくるわけである。

 深夜放送の番組内でも、映画や演劇への思いを語っていたが、1975年に「トラック野郎」シリーズが始まった時は、ずいぶん番組でも語っていたような記憶がある。でも、僕は映画を見なかった。その前、1974年に「さよならモロッコ」という映画を自主制作して、番組内でずいぶん語って一般公開されたことがあるが、僕はそれも見ていない。それほどファンではなかったのである。でも、深夜の運転中に聞いてたトラック運転手が番組を聞いて、映画館にたくさん来てくれて、それで「トラック野郎」の情の篤さに感激し、それが「トラック野郎」につながると、ウィキペディアに出ている。そう言えば、そんな話を当時聞いていたかもしれない。

 愛川欣也は、俳優座養成所の3期生だった。この今はなき「俳優座養成所」という場所は、単に戦後新劇史だけではなく、戦後の精神史の上で極めて重要な場所だと思う。ここは1966年に桐朋学園芸術短期大学に引き継がれるまで、演劇を志す若者が多数集う場所になっていた。2期生から公募が始まり、2期生には小沢昭一、高橋昌也、菅原謙二ら、3期生に愛川欣也の他、安井昌二、穂積隆信、渡辺美佐子、楠侑子ら、4期生に仲代達矢、宇津井健、佐藤慶、佐藤允らを輩出している。これらの人々が、卒業後俳優座だけではなく、さまざまな劇団を結成したり(分裂したり)、映画やテレビに進出していくわけである。そんな中で、1970年代になっても、ラジオの深夜放送や外国映画のジャック・レモンやジーン・ケリーの吹き替えで知られるというのは、本当は不本意なことだったはずである。だが、それまでの経験が培った「語りの芸」が、人生の後半期になって、テレビの名司会者という形で花開いたのである。そして、日本中で誰もが知る人になった。でも、僕にすれば、落合恵子や久米宏などとともに、「深夜放送から出てきた人」という思いを抱いてきたわけである。

 愛川欣也は、近年になって「映画監督」を本格的に再開していた。2007年の「黄昏て初恋」から2015年完成の「満洲の紅い灯」まで7本も作っている。外部で公開せず、自分の映画を掛ける劇場を自分で作ってしまった。東京・中目黒にある「キンケロ・シアター」というのである。そういう話も聞いていたが、僕はここも行ったことがない。ちょっと後悔しているのは、昨年の夏、新文芸坐で「昭和の紅い灯」「黒駒勝蔵」の2本が上映され、愛川欣也のトークもやった日があり、行こうかとも思っていたんだけど、ちょっと疲れていたので行かなかったのである。最近になって、こんなに作っていたのは、好きなことをしたいというのもあるだろうが、やはり「平和への思い」からだろうと思う。

 朝日新聞の東京版に、墨田区が募集したはがきによる平和メッセージに、毎年メッセージを寄せていたという話が載っていた。「平和 大切なのは平和 忘れてはいけないのが平和(97年)」から、「何百回でも何千回でも平和が大切(09年)」となり、「平和ぼけと言われようとも、平和が大切と言い続けましょう。(13年)」となっていった言葉の歩みを見るだけでも、最近の状況が反映されている。東京新聞17日夕刊は、1面トップで訃報を伝え、その中の「評伝」で「戦争をしない。平和憲法を守るってテレビがどこもないから、おれがやってるんだ」という言葉を最初に書いている。インターネットテレビを愛川欣也が始めた目的の話である。今日たまたま産経新聞の見本紙が入っていたのだが、こっちに載ってる「評伝」は「愛された『おしゃべり』キンキン」と題されて、平和を語ってきた生き方を全く伝えていない。いかにも産経的だった。文化勲章や人間国宝には縁遠くても、戦争と平和を語ってきた小沢昭一や菅原文太、愛川欣也のような人の思いは忘れずにつないで行きたいと思う。
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それは「慰霊の旅」なのか-天皇のパラオ訪問

2015年04月13日 23時51分32秒 | 政治
 天皇のパラオ訪問(2015年4月8日~9日)を各マスコミは大きく報道した。それをほとんどのマスコミは「慰霊の旅」と表現している。例えば、朝日新聞の社説(4月9日)では「天皇の慰霊 歴史見つめる機会に」と題されている。読売新聞の社説(4月10日)も「陛下パラオ訪問 戦地に立つ「慰霊」への使命感」と題している。毎日新聞、東京新聞、産経新聞などは社説の題名には「慰霊」という言葉は出てこないが、中の文章では「慰霊」と書いている。また、東京新聞9日付夕刊では、一面トップで「両陛下 平和祈り慰霊」と大きな見出しを付けている。つまり、安倍首相の靖国神社参拝や安保政策の転換に関しては評価を異にする東京のマスコミ各紙も、「天皇の慰霊」という表現を使うことに置いては、全く同じ感性を有しているということになる。

 ところで、果たして「天皇は慰霊しているのだろうか」という問いを立ててみる。むろん、天皇の「内心」を垣間見ることはできない。もしかしたら「慰霊」をしているのかもしれない。だけど、公的に表明された言葉を見る限り、「慰霊」という言葉は注意深く避けられているのではないかと思う。

 宮内庁のホームページにある「天皇皇后両陛下 パラオご訪問時のおことば」を見てみる。(なお、当然のことだが、外国訪問にあたっての「おことば」なるものは、天皇の個人的文章ではなく、「内閣の助言と承認」により作成され、内閣が最終的責任を有する種類の文章である。)

 出発時の言葉を見ると、「私どもは,この機会に,この地域で亡くなった日米の死者を追悼するとともに,パラオ国の人々が,厳しい戦禍を体験したにもかかわらず,戦後に,慰霊碑や墓地の清掃,遺骨の収集などに尽力されてきたことに対し,大統領閣下始めパラオ国民に,心から謝意を表したいと思っております。」とある。また、晩餐会の答辞では、「ここパラオの地において,私どもは先の戦争で亡くなったすべての人々を追悼し,その遺族の歩んできた苦難の道をしのびたいと思います。また,私どもは,この機会に,この地域の人々が,厳しい戦禍を体験したにもかかわらず,戦後に慰霊碑や墓地の管理,清掃,遺骨の収集などに尽力されたことに対して心から謝意を表します。」とある。

 どちらにも、「慰霊碑」という言葉はあるが、それはいわば「固有名詞」として使われているだけである。訪問の目的は「死者を追悼する」ことと「パラオ国民に謝意を表する」という二つである。いや、「追悼」と「慰霊」は同じだろうという人もいるのかもしれない。だけど、よく考えれば、この二つは全然違う。「追悼」は一般的な言葉だけど、「慰霊」は宗教的行為を行う時の言葉である。そして、政教分離を定める日本国憲法のもとでは、天皇が宗教的行為を行うことはできない。だから、「誤解」を招かないように、「慰霊」ではなく、「追悼」という言葉で統一されているのではないかと僕は考えるのである。だが、マスコミ各紙はそこに問題意識を感じ取らないらしく、平気で「慰霊」と使っているのは何故なんだろう。

 憲法問題もあるけれど、僕が問題にしたいのは、そもそも慰霊を行うためには「霊」が存在しなければならないということである。霊はあるということを当然視する人には何の問題もないだろうけど、霊の存在自体を疑問視する立場からすると、慰めたくても慰めようがないではないかということになる。これは戦死者の霊に留まる問題ではない。もっと一般的な問題である。ところが、近年の日本では戦死者のことを「英霊」などと表現することに疑問を持たないような人が増えてきたように思う。「英霊」とは「英雄の霊」ということだから、「戦死者」は「正しい戦争で死んだ英雄」という意味が入り込む。というか、そのようなイデオロギー用語として、近代になって作られた新語である。「英」も「霊」も僕には使えない言葉である。果たして、霊は存在するとあなたは思っているのか?と僕は問いたいのである。ちなみに、日本人の多くは仏教寺院で葬儀を行うと思うのだが、仏教は本来「霊は存在しない」という立場だったはずである。(日本仏教は違うのかもしれないが。)

 ところで、天皇の言葉には、問題のある部分もかなりある。それが「問題」に見えないのは、その言葉に責任を有する安倍内閣の歴史認識に歪みがあるということだろう。例えば、「玉砕」(ぎょくさい)などという言葉が出てくる。これは戦時中の典型的な「インチキ言い換え語」であり、要するに「全滅」と表現するべき出来事だろう。また「祖国を守るべく戦地に赴き,帰らぬ身となった人々」とあるけど、これは当時の軍隊が「皇軍」だった事実を隠ぺいする表現である。例えば、軍人勅諭(陸海軍軍人に賜はりたる勅諭)には以下のように書かれている。

 「朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親は特に深かるへき朕か國家を保護して上天の惠に應し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を盡すと盡さゝるとに由るそかし」
 なんのこっちゃという人が多いだろうから、その部分の現代語訳をあげておくと、
 「朕は汝(なんじ)ら軍人の大元帥である。朕は汝らを手足と頼み、汝らは朕を頭首とも仰いで、その関係は特に深くなくてはならぬ。朕が国家を保護し、天の恵みに応じ祖先の恩に報いることができるのも、汝ら軍人が職分を尽くすか否かによる。」

 つまり、朕(ちん=天皇の一人称表現)が国家」であり、軍人勅諭などには「国家」という言葉が確かによく出てきて、一般論で「軍人は国を守る」と思われているかもしれないが、その守るべき国家は「朕が国家」なのである。そして、「大元帥」である天皇の股肱(ここう=手足)として働くのが軍人ということになる。戦前の軍隊だから、当然天皇の命令で戦地に赴くとされていたわけで、そこで戦死した土地に天皇が赴き「慰霊」すると、「これで戦死した家族も報われた」と感じる。少なくともNHKニュースに出てきた何人かの生存者や遺族はそのように言っていた。非常に判りやすく、「天皇制の存在意味」が可視化された瞬間である。「御仁慈」に触れて、国家への疑問や怒りは雲散霧消するわけである。ある人などは、「草葉の陰で兄も喜んでいるでしょう」などと語っていた。そうか、戦死者の霊魂は、靖国神社にではなく「草葉の陰」にいるのかと僕は驚いてしまった。それにしても、草葉の陰にいるためには草がなくてはならないから、砂漠の宗教には出てこない感性だろうなあ。
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東京でまた「失職者」

2015年04月13日 21時08分13秒 |  〃 (教員免許更新制)
 東京都でまた教員免許更新制に関わる失職者が出た。2015年4月13日付で、都教委にホームページに「東京都公立小学校教員の失職について」なる文書が載っている。それによると、区部の34歳の男性小学校教諭が、昨年の3月31日にさかのぼって、失職となった。法の要請するところにより、自動的に失職してしまうという摩訶不思議な制度なので、「失職処分」ではない。しかし、34歳という年齢など、その経過に理解できない点が多い。

 都教委によれば、その経緯は以下のようになる。
①失職者は、平成21年度に免許状を交付され、免許状に記載されている有効期間満了の日が平成26年3月31日であることを認識していたが、更新手続は平成26年4月1日から平成28年3月31日の間に行うものと誤認していた
②失職者は、平成26年9月、免許状更新講習を受講し、修了した
③失職者は、免許状更新手続を行うため、平成27年3月16日付けで手続関係書類を都教育委員会宛て郵送した。同年4月8日、郵送された免許状の写しを確認したところ、免許状が失効していることが判明した。

 これを理解できる人はいるだろうか。教員免許更新制や更新講習の仕組みには本質的に問題が多いが、それはそれとして、この人は更新講習を受講して終了しているのである。ただし、受けるべき年を一年間間違えていた。だけど、受講に際しては、所属長の承認がいるはずである。東京では何回も、更新制がらみの失職問題が起きていて、管理職もきちんと理解していないとおかしいと思うのだが、校長や都教委自身にチェック機能はどうなっていたのだろうか。

 そこでまた不可思議なことが起きる。ということは、この制度が正しいとすれば、この教師は本来昨年の4月に失職していなければならなかったのである。だが、誰も気づかなかった。学校でも都教委の担当者も。そして、1年間勤務した。もちろん、その間、問題は起きなかった。というか、それは判らないけれど、少なくとも懲戒処分になるような問題はなかった。だから、教員免許更新制なんて、関係ないのである。この人の場合、本人だけでなく、現場の長である校長も気づかなかったんだから、それに気付いてしまった都の担当者も気づかずに、免許更新を受理していれば、それで問題は起きないのである。それではダメなのか。そういう人も、きっと全国には何人か、いそうである。

 こういう問題が起きて、これに限らないけど、東京都教育委員会はどういう対応をするのか。本来なら、一昨年度には更新講習を受け、昨年度には更新していなければならなかった。本人や現場の管理職にも責任はないではないだろうが、今まであれほど言ってきた都教委自身の態勢に問題はないのか。それとも去年は高校入試の答案チェックに忙殺されて、免許のチェックを怠ったのか。(これは可能性が高そうである。)その結果、年度当初に教員が代わることになる。それに対して、都民である保護者や生徒に対して、謝罪はしないのだろうか。都教委のホームページには、以下のように最初に述べられている。

 都教育委員会では、教育職員免許状の失効等については十分注意するよう、教員や学校管理職に対し、注意喚起を行うとともに、任用に係る事務処理の改善やチェック体制の強化に取り組んでまいりましたが、標記の件について、以下のように任用の取消しをしましたので、お知らせします。
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「大阪都構想」再論②

2015年04月08日 23時20分12秒 | 政治
 「大阪都」問題の続き。大阪市を解体して、5つの特別区を作るとする。僕がすぐに思うのは、区議会教育委員会も…いろんなものを新たに5つ作るわけだから、かえって手間と多額の税負担がかかるんじゃないかということである。大阪市会の議員定数は、86人となっている。しかし、5つの区議会議員の数を合わせれば、もっと多くなるだろうと思われる。いや、86を5で割った17ぐらいに抑えるんだというかもしれないけど、そうもいかないだろう。

 東京の場合を見てみると、一番少ない千代田区議会で25人。ここは人口が4万程度しかないのに、議員数は多い。大阪の場合、各区の人口は50万前後になるだろうから、同程度の区を東京で見てみると、杉並区(54万)が48人板橋区(53万)が46人江東区(45万)が44人…となっている。もっと小さな区でも、30人以上の議員がいる。大きい区では50人を超えている。だから、大阪でも30~40人程度はいるのではないか。

 なぜなら、福祉や教育など、基本的な行政サービスに特別区が独自に取り組むわけで、行政をチェックするためにはそれなりの議員数がいるからである。例えば、大阪市教育委員会が解体され、各特別区に教育委員会が置かれる。それぞれ独立していて、地域の教育に責任を持っているわけである。今までは大阪市会でまとめて全市の教育をチェックしたわけだが、特別区が出来れば特別区議会がそれぞれ別個にチェックすることになる。それなりの人数がいるはずである。議会は各委員会に分かれていて、議案はまず委員会で審議する。議員の人数があまりに少ないと、委員会の審議がおざなりになってしまう。主要な政党の議員が各委員会に入れるぐらいの規模がない限り、区議会を置く意味がなくなってしまうのである。だから、地方議員数が倍増するのではないか。また、そうしないと特別区を作る意味がないということである。これだけで、けっこうムダな感じがしてしまう。

 5つの特別区は、大阪市の人口を5で割れば約50万強になるわけだが、これは政令指定都市になるには少ないが、中核市の指定を受けるには十分な人口である。並みの県庁所在都市より、ずっと大きい。だから、それぞれの区が様々な特徴を出そうと様々な施策をするだろう。今、「大阪府と大阪市の二重行政」などと言ってるものが、各特別区の「五重行政」になってしまうのではないか。日本によくあることだが、隣の区が何か箱モノを作れば、自分のところも作りたいとなる。県庁所在地レベルの人口があるんだったら、体育館は当然必要だし、美術館ぐらいは持ちたいだろう。東京を見てみると、世田谷美術館を筆頭に、練馬、板橋、目黒、渋谷などに区立美術館があるし、スカイツリー直下の墨田区では北斎美術館の建設が進められている。郷土資料館や劇場、科学館、自然公園など各区で競って作っている。それが東京の状況と言える。

 それが一概に悪いとは思わない。だけど、練馬や板橋の区立美術館など、都心から離れすぎていて、違う自治体の住民は行きにくい。けっこういい展覧会をやってるんだけど。東京は首都だから、国立の施設も集中しているわけだが、国立の博物館、美術館、劇場、競技場などは大体山手線内にある。(新国立劇場は、新宿から京王新線でひとつ先の初台というところが最寄駅になっている。)東京都立の美術館(上野)、芸術劇場(池袋)、体育館(千駄ヶ谷)なども山手線内である。だけど、区立の劇場になると、当たり前だけど、それぞれの区に作られる。世田谷パブリックシアター(三軒茶屋)、杉並区の座・高円寺(高円寺)、足立区のシアター1010(北千住)など、都心から少し離れたところにある。しかも、それらの劇場のチケットを買う時には、区民割引があったりする。他の区や市の住民にとっては、「もし東京市があったら」、もっと23区内の市民が行きやすい場所に施設が作られ、割引なども市民全員が受けられたはずである。文化行政などは「大きい単位」で推進していく方がずっと効果があるのではないか。いや、だから大阪府(大阪都)でやればいいのであって、分割後の区は文化には手を出さないというかもしれないが。だけど、小中学校は区立になるんだから、スポーツや文化の施設がゼロでは教育にならない。結局は、文化施設は各区にいっぱいいるのである。

 もともと、国の地方行政の方向性は、「大きくする」ことで「スケールメリット」を図ることにあった。だから「平成の大合併」を進めたわけだし、有力な地方都市は周辺の都市を合併して政令指定都市を目指した。大きくなることの不便もあるけれど、福祉行政などを考えれば、規模の大きさが必要な場合はあるだろう。現在の制度では、一番身近な「基礎自治体」である「」から「中核市」に、さらに「政令指定都市」になるほど、都道府県の権限が委譲される。それに対して、「特別区」は、普通の市ほどの権限もない。そのことに対して、特別区長会などは長く権限委譲の要求を東京都に行ってきている。(特別区長会のサイトを参照。)その権限のない特別区に、わざわざこれからなりたいという政令指定都市があるなんて。それほど「都道府県」を大きくしたいということか。アメリカの方ばかり見ている日本政府高官のようなもんだろうか。

 大都市の場合、小中は地元に通っても、高校入学段階からは他の自治体に通う場合が多い。大学や職場も同じである。だから、友人知人の多くも、基礎自治体が違う人たちになる。友人グループでスポーツや学習をしようと計画しても、区営の施設は区民(在勤でもいいが)が半分以上いるグループ登録をしないと使えなかったりする。じゃあ、どうするかと言えば、どうしても使いたければ、まあ名前だけ知人を借りてグループ登録することが多いのではないか。私営の集会所もないわけではないが、数は少ないし高い。会議をするだけなら、結局「喫茶店」(ドトールなんかじゃなく、ルノワールなど)でやるのである。都民全体に向けた施設がもっとあればいいけど、公民館などのサービスは基礎自治体の仕事だから、区立しかないのである。

 こうして、僕なんか昔から「何で各区に分かれているんだ」「何で東京市に戻さないんだ」と思い続けてきた。東京市が無くなって、特別区になって不便ばかり受けているからである。その不便さを東京都民だけに味あわせるものかと、大阪市民が義侠心を発揮して同じような不便さに甘んじようとするのだろうか。だけど、客観的に見て、もはや東京市の復活は不可能だろう。人口の集中度合が大きすぎるからである。東京は首都であることの恩恵で、大会社の本社が集中して税収のメリットを受けている。だけど、首都であることで政府機関や外国公館が集中し、警備などの負担が大きい。また、日本最南端の沖ノ鳥島を始め、島しょ地区も東京都である。伊豆諸島はももと伊豆の国に帰属し、明治以後は一時は静岡県になるが、1878年に東京府に移管された。世界遺産の小笠原諸島などの自然を保護していくためにも、特別区に集中する税収を東京都全体で利用する必要があるからである。

 常識で考えれば判ると思うが、「大阪市」が「大阪府」と二重行政だから、大阪の経済が不振になると言ったことになるわけがない。東京一極集中は、大阪市の行政組織の問題ではない。今まで橋下氏は教育などでは、「競争」こそ煽り立ててきたように思われる。その考え方で言えば、「大阪府」と「大阪市」が両方あって競争する方が、大阪の発展につながるはずではないのだろうか。まあ、大阪市民が特別区の不便さを実感して声をあげてくれれば、東京の特別区制度の改正につながるかもしれないから、「やってみなはれ」というのも一案なのかもしれないが。それにしても、一番大事なことは何かを間違えてはいけない。それは「住民の権利」から発想するということである。
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