一音寺
醍醐寺の北側にある。この辺りにあるお寺はどうしても人々が醍醐寺の方へ行ってしまうので、ほとんど訪れる人はいないだろう。お寺の西側に府立東陵高校の校舎があり、部活などの時には声がよく聞こえてくる。お寺の門は扉が閉まっているが横の通用門から入ることが出来る。
境内は非常によく整備されており、特に松の木々が綺麗に剪定されていてちょっと見とれてしまうような感じだ。正面には本堂が控えていて一般的なお寺の本堂そのものと言える。境内はあちこち自由に行けるというものではなく、緑が豊かで通路が整備されている。誰もいないのでゆっくりと落ち着いた雰囲気になれる。
浄土宗西山禅林寺派のお寺であり、法然を開祖とする浄土宗のこの宗派は、京都市左京区の禅林寺、別名永観堂を総本山とする宗派として、徳川家康から受領の朱印を受けており認められたという形になる。徳川幕府そのものは特に西山派を信仰することはなかったと言う。明治になってから西山派がいくつかの流派に分かれ、そのうちの一つがこの禅林寺派だ。この派のお寺は役340寺ほどあると言う。
一音寺そのものの創建や由緒については特にこれといった資料もなく、よくわからない。 しかしネット上にひとつだけ情報があった。「京都名所図絵」を紹介した短文の中に次のようにある。
「一音寺(いちおんじ) は天子社の西に隣る。本尊十一面観音は長三尺七寸にて弘法大師の作なり。
淳和帝御宇に天下おほいに疫す。このとき天皇、万民のために伊勢・春日両宮へ令弊使を立てられ、神託によつて和州長谷寺の観音をうつし、弘法大師に勅して造らしめたまふ尊像なり。洛陽観音巡りの第二十五番。」
記されている淳和天皇及び弘法大師(空海)は共に平安時代初期の人だ。一音寺に安置される本尊の十一面観音は弘法大師の作とあるが、もし仮にこのお寺が当時からこの地にあったとするならば、大変な歴史を誇る古いお寺となる。また洛陽観音巡りのお寺にも入っているとなれば、もう少し地域だけではなく幅広い人々に知られていても良いのではないかと思える。天皇や空海が平安時代初期の人物であり、そこに関わる観音像などが様々な変遷を経て、ずっと後に創建されたお寺に行き着いたということもあるかもしれない。多くのお寺自体は京都においては度々の戦禍や災禍によって焼けている。その度に再建を繰り返しているので、このお寺そのものに見られる古さというものはあまり感じられない。このような事情があるということは、古かろうが新しかろうが、やはりそれ相応の由緒を持った お寺なんだろうと思えた。
醍醐御陵西裏町稲荷神社
醍醐寺の北側にある。道路沿いの脇に張り付くように狭い細長い境内があり、小さな祠がある。名称は長いが実際には醍醐御霊西浦町と言う地名の場所にある神社ということで、本来は単に稲荷神社という名称なんだろう。便宜的に町名が付けられているだけだと思われる。
小さいながらも神社としての形態はしっかり整えられていて、木製鳥居があってその少し奥に本殿が構えている。そして横には末社らしき小さな祠がある。稲荷社ということで小さなきつねさんも置かれていた。
この神社についての情報は一切無く何一つ分からない。稲荷信仰は全国に広まっており同時に稲荷社も全国に大小様々ある。今までも小さな稲荷社も見てきた。
撮影を終えて戻ろうとした時に石灯籠があり、そこに「愛宕燈明」と彫られていた。この「愛宕」というのは、今までも神社などで何回か見た記憶がある。少し調べてみると愛宕とは京都で最も高い山である愛宕山のことを表し、この頂上に愛宕神社がある。そしてそれに基づく愛宕信仰というのがあって、それが各地に広まって、ここにもそれが具体的に愛宕灯籠として立っていたわけだ。この愛宕信仰については次のような説明を見つけた。京都市が山科区について公表している資料だ。
「 愛宕信仰は、右京区の愛宕山山頂にある愛宕神社から発祥した信仰で、全国 にも広まっています。愛宕神社の神様は、「火伏せ」に霊験のある神として広 く信仰されるようになり、古くから修験道の道場であって、愛宕山に集まった 修験者によって江戸時代中頃から愛宕信仰が日本全国に広められたといいます。」
ここの神社の愛宕灯籠は直接修験道場との関連というよりは、「火伏せの霊験」を祀ることによって、火事などの災禍から守ってもらおうという趣旨のものだろうと思われる。それ以上の具体的なことはわからないが、神社というのは色々なものが意味づけられて祀られており、その意味でも非常に興味深いものだと言える。
醍醐寺の北側にある。この辺りにあるお寺はどうしても人々が醍醐寺の方へ行ってしまうので、ほとんど訪れる人はいないだろう。お寺の西側に府立東陵高校の校舎があり、部活などの時には声がよく聞こえてくる。お寺の門は扉が閉まっているが横の通用門から入ることが出来る。
境内は非常によく整備されており、特に松の木々が綺麗に剪定されていてちょっと見とれてしまうような感じだ。正面には本堂が控えていて一般的なお寺の本堂そのものと言える。境内はあちこち自由に行けるというものではなく、緑が豊かで通路が整備されている。誰もいないのでゆっくりと落ち着いた雰囲気になれる。
浄土宗西山禅林寺派のお寺であり、法然を開祖とする浄土宗のこの宗派は、京都市左京区の禅林寺、別名永観堂を総本山とする宗派として、徳川家康から受領の朱印を受けており認められたという形になる。徳川幕府そのものは特に西山派を信仰することはなかったと言う。明治になってから西山派がいくつかの流派に分かれ、そのうちの一つがこの禅林寺派だ。この派のお寺は役340寺ほどあると言う。
一音寺そのものの創建や由緒については特にこれといった資料もなく、よくわからない。 しかしネット上にひとつだけ情報があった。「京都名所図絵」を紹介した短文の中に次のようにある。
「一音寺(いちおんじ) は天子社の西に隣る。本尊十一面観音は長三尺七寸にて弘法大師の作なり。
淳和帝御宇に天下おほいに疫す。このとき天皇、万民のために伊勢・春日両宮へ令弊使を立てられ、神託によつて和州長谷寺の観音をうつし、弘法大師に勅して造らしめたまふ尊像なり。洛陽観音巡りの第二十五番。」
記されている淳和天皇及び弘法大師(空海)は共に平安時代初期の人だ。一音寺に安置される本尊の十一面観音は弘法大師の作とあるが、もし仮にこのお寺が当時からこの地にあったとするならば、大変な歴史を誇る古いお寺となる。また洛陽観音巡りのお寺にも入っているとなれば、もう少し地域だけではなく幅広い人々に知られていても良いのではないかと思える。天皇や空海が平安時代初期の人物であり、そこに関わる観音像などが様々な変遷を経て、ずっと後に創建されたお寺に行き着いたということもあるかもしれない。多くのお寺自体は京都においては度々の戦禍や災禍によって焼けている。その度に再建を繰り返しているので、このお寺そのものに見られる古さというものはあまり感じられない。このような事情があるということは、古かろうが新しかろうが、やはりそれ相応の由緒を持った お寺なんだろうと思えた。
醍醐御陵西裏町稲荷神社
醍醐寺の北側にある。道路沿いの脇に張り付くように狭い細長い境内があり、小さな祠がある。名称は長いが実際には醍醐御霊西浦町と言う地名の場所にある神社ということで、本来は単に稲荷神社という名称なんだろう。便宜的に町名が付けられているだけだと思われる。
小さいながらも神社としての形態はしっかり整えられていて、木製鳥居があってその少し奥に本殿が構えている。そして横には末社らしき小さな祠がある。稲荷社ということで小さなきつねさんも置かれていた。
この神社についての情報は一切無く何一つ分からない。稲荷信仰は全国に広まっており同時に稲荷社も全国に大小様々ある。今までも小さな稲荷社も見てきた。
撮影を終えて戻ろうとした時に石灯籠があり、そこに「愛宕燈明」と彫られていた。この「愛宕」というのは、今までも神社などで何回か見た記憶がある。少し調べてみると愛宕とは京都で最も高い山である愛宕山のことを表し、この頂上に愛宕神社がある。そしてそれに基づく愛宕信仰というのがあって、それが各地に広まって、ここにもそれが具体的に愛宕灯籠として立っていたわけだ。この愛宕信仰については次のような説明を見つけた。京都市が山科区について公表している資料だ。
「 愛宕信仰は、右京区の愛宕山山頂にある愛宕神社から発祥した信仰で、全国 にも広まっています。愛宕神社の神様は、「火伏せ」に霊験のある神として広 く信仰されるようになり、古くから修験道の道場であって、愛宕山に集まった 修験者によって江戸時代中頃から愛宕信仰が日本全国に広められたといいます。」
ここの神社の愛宕灯籠は直接修験道場との関連というよりは、「火伏せの霊験」を祀ることによって、火事などの災禍から守ってもらおうという趣旨のものだろうと思われる。それ以上の具体的なことはわからないが、神社というのは色々なものが意味づけられて祀られており、その意味でも非常に興味深いものだと言える。