切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

2024年 梅の花 御香宮神社・・・なかなかのもの  京都市伏見区   2024.3.7 訪問

2024-03-12 22:13:16 | 撮影
  

『御香宮神社
 御祭神は神宮皇后、仲哀天皇、応神天皇など九柱を祀る。
 社伝によれば、貞観四年(八六二)境内から清泉が湧き出て、その香気が漂い、その水を飲むとたちまち病が癒えたので、「御香宮」を賜った。
 以後、伏見の産土神として人々の信仰を集めたが、度々の兵乱や天災により荒廃した。文禄年間(一五九二~九六)豊臣秀吉は、当社を伏見城内に移し、鬼門の守護神としたが、慶長十年(一六〇五)徳川家康により旧地である当地に戻され、現在の本殿(重要文化財)が建立された。表門(重要文化財)は、旧伏見城の大手門と伝えられている。
 宝物として、秀吉の寄進した金熨斗付太刀(きんのしつけたち)(重要文化財)を蔵する。境内には、伏見義民文殊九助らの顕彰碑がある。
 毎年、十月の神幸祭は、伏見祭・花がさ祭とも呼ばれ、神輿や花傘、獅子などが出て、盛大に行われる。 京都市』
     (駒札より)

     

『御香宮神社
当社は安産と子育ての神様「神功皇后」をお祀りしています。 初めは「御しゃ神社」といいましたが、八六二年(貞觀归年)九月。境内に清泉が湧いてその芳しさが四方に広がり、様々な奇跡が起こって、清和天皇より「御香宮」の名を頂きました。中世に伏見宮家の庇護を受けて休見庄九郷の産土神として信仰を集め、近世には 豊臣秀吉の寄進を受け 、また 一六〇五年(慶長十年)德川家康は現在の地へ現本殿を建て、社領三百石の寄進も受けました。特に伏見で誕生した紀伊、水戸、尾張正派三侯の藩祖は、いずれも当社を産土神とあがめ、江戸時代に社名が益々高まりました。
一八六八年(慶應四年)一月、 伏見 鳥羽の戦いに、当社は薩摩藩の陣営となり、 大手筋をへだてて南の伏見奉行所の幕府軍と戦いましたが、幸いにして戦火を免れました。
十月一日から十日までの「神幸祭」は古くから「伏見祭」と呼ばれて、今も洛南一の大きなお祭として有名です。
  洛南保勝会』

  

 こちらへは何度も訪れており、特に春の桜は名所とも言えるほど見事なもので、重要文化財の本殿と非常によく合う。神社のすぐ横を国道24号線が通っており車も多いが、神社の参道や境内が非常に広く、そういった音は全く気にならない。すぐ近くにアーケード商店街があり、京阪電鉄や近鉄の駅もすぐ近くで人も多い。平日でも神社には比較的多くの人が参拝に訪れている。

  

 梅の花については、以前にも撮影に来ており当ブログに掲載もしている。名所と言えるほど決して多くはないが、特に本田の周辺にはよく目立つほど紅梅が花開き、本殿を引き立てている。神社そのものに見所も多く、境内やその周辺に巨木が何本も立っていて実に風格を感じさせる。そういった風格は神社の山門にも見られる。本来ならば入り口には大きな鳥居が建てられているものだが、御香宮神社においては巨大な山門があって、これは豊臣秀吉が建設を命じた伏見城の遺構だと言われる。山門の柱には伏見城の銘が取り付けられている。 伏見城があったとされる場所からは非常に近いところになる。

 梅の後は桜ということになるが、それ以降は特に何らかの花などが境内を覆うようなことはない。また紅葉の時期も、もみじの木や銀杏の木など特になく、ずっと緑の葉に囲まれたままとなる。

 なお門を入ってすぐに「桃山天満宮」 という 末社があり、その本殿前にも紅梅と白梅が見られた。画像の前半はその場所のものだ。

    
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