切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

紫竹貴船神社~總神社 京都市北区・・・神社の伝承とは

2020-05-28 23:20:44 | 撮影
紫竹貴船神社



『貴船神社 由緒略記

一、鎮座地 京都市北区紫竹西北町五十五番地
一、神社名 貴船神社
一、祭 神 高龗神 (たかおかみのかみ) 一柱 一座
一、御神徳 水徳を司り給う神様で人間の生活は素より動植物宇宙の生きとし生けるもの悉くの生成化育の生命力となって不断にされています。
本社は鞍馬山麓、貴船神社と共に水難除けの御神であり家内安全と商売の隆昌を希い願う人達共に多く万民の崇敬をあつめている。
尚古来一般の神社に見る建築と異り珍らしい北向きにまつら れた御神殿となっており古くから北向きの御神は霊験殊の外あらたかなものがあることはよく衆人の知るところである。
一、由 緒 この地方は古くから賀茂別雷神社の荘園であった関係上同社 の摂社で貴船谷に鎮座せられる延喜式内社たる元官幣中社貴船神社の御祭神を勧請したのである。鎮座年代は明らかでないが、恐らく鎌倉時代の初期頃の鎮座と思われる。その間、 時代の変遷と共に盛衰はまぬがれなかったが氏子との関係は極めて密接なるものがあって現在に及んでいる。(以下略)』 
  (説明書きより)



 この貴船神社は北山大宮にある。数百m南には大徳寺があり、その他にもかなり名のある神社や寺院が多いところだ。
 貴船神社といえば一般的には鞍馬の山にある貴船神社を指すことが普通だが、上記由緒書きにある通り、こちらの貴船神社は鞍馬の貴船の方から勧請されたものだ。祭神の高龗神 (たかおかみのかみ)については、表記や命名が少し違うものが色々とあるが、古事記や日本書紀に出てくる神のひとつだ。この神の物語については、かなり残忍な背景があるようだが、最終的には奈良の神社の御祭神として水難除けの御利益があるとされるものとなった。
 平安遷都と共にその神が京都の貴船に勧請され、さらに後年になってこちらの貴船神社の祭神となった。記紀の中では比較的初期に登場しており、想像上の神話上の神ということになるが、この紫竹地域に勧請された理由についてはよくわからない。多分比較的近くを鴨川の上流である賀茂川が流れており、そのこととも関連するのではないかと考えるのが一般的かなと思う。もちろん平安時代以降には河岸工事なども進められ、氾濫することは少しずつ減少していって、ただ単に水難除けの御利益だけではなく、地域の人々の家内安全や生活の安泰に繋げられ、本来の意味合いとは少し違ったご利益にも関わっているようになったというものだろう。
   


總神社



『総神社御由緒
総神社は山城国一之宮賀茂別雷神社三十八社の一つであります。賀茂御読経所聖神寺の鎮守社として社僧の崇敬した神社であります。創祀年代は詳らかではありませんが、社僧の始りは天武天皇白鳳年間と伝えられていますので、その時代と考えられます。当社の森が「菅宿の森」と呼ばれたのは菅原道真公が筑紫に流刑される際、当社の宮守であった叔母を訪れ、別離の情を述べ、遂に一宿されたという故事によると伝えられています。
紫竹地区は古来源氏とゆかり深い土地であり、源義朝の別邸があったとされています。源義朝の妾、常磐御前が牛若丸(義経)を此地にて出産したと伝えられています。
古図に「常磐の森」と記入されております。 (以下略)』
  (説明書きより)



『總神社天満宮
上賀茂神社境外三十八社の一つ。創祀の詳細は不明だが、白鳳年間に始まったといわれている。祭神は天照大神の御子天穂日命、八幡大神、天満大神、源義朝神霊の4柱。賀茂御読経所聖神寺の鎮守社として、社僧が学問向上を願って崇敬した。鎮座地の紫竹は源氏とのゆかりの深い土地で、源義朝の別邸があったとされており、義朝の妾、常磐御前が牛若丸をそこで出産したとも伝えられる。そのゆかりから、古図ではこの周辺を「常磐の森」と記している。また、古来菅原氏が当社の宮守をしてきたことから「菅宿坊天神」と称し、菅原道真が筑紫へ左遷の際、巫女として奉仕していた叔母に別れを告げるために、当社に一泊したとも伝えられる。毎年4月第2日曜に行われる「やすらい祭」では、上野・川上とニ社のやすらいが、当社を参拝後今宮神社(紫野今宮町)へ参るのが習しとなっている。(以下略)
  (説明書きより)



 總神社は上記の貴船神社から南へ約200m。由緒については上記の説明書きの通り。詳細は不明とはいえども、白鳳年間と言うからかなり古い神社ということになる。
 エピソードとして源氏の話が出てきているが、それとは別に菅原道真の話も出てきている。道真はもっと後年の人物となるので、祭神については後から加えられたものということになる。
 ただ源氏にしろ菅原氏にしろ、これらの逸話についてはどこまで本当なのかどうかはよく分からない。何かの文献や証拠になるものがあるのかどうかも色々調べたところ、特に何もなかった。説明書きにはあくまでも「~と伝えられる。」という書き方になっており、どうしても懐疑的にならざるを得ない。社殿などが一定部分残されているのか、あるいは式内社ではなく一般の神社であり、古文書などにこの名が出てくるのかどうか。そういったことを考えると、神社の中に秘められている様々な逸話というのは、場合によっては10%程度に解釈するべきものなのかもしれない。

    
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