切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

2024年 梅の花 金剛王院(一言寺)・・・まだあった  京都市伏見区 2024.3.16 訪問

2024-03-27 22:20:09 | 撮影
  

『一言寺
 高台にある一言寺は、四季折々の花に彩られた静かな寺である。
 この緑に覆れた寺は、高倉天皇の中宮・建礼門院徳子に仕え、「大原女」のモデルとも言われる阿波内侍(後白河天皇の側近である藤原信西の娘)によって創建された。
 本尊の千手観音は、「ただたのめ 仏にうそは なきものぞ 二言といわぬ 一言寺かな」という御詠歌で歌われるように、一心に祈れば、一言だけなら願い事が叶う、ということで、多くの信仰を集めている。
 現在の本堂は、江戸時代の再建で、「一言観音」と呼ばれる千手観音菩薩像や不動明王像等の他、元禄七年( 一六九四)に造られた阿波内侍像が安置されている。
 山門の近くにある大きなヤマモモの木は、樹齢四〇〇年以上と言われ、京都市の天然記念物に指定されている。幹の内部が大きく空洞になっているが、今でも樹勢は衰えることなく、毎年六月頃には多くの赤い実を付ける。
 京都市』 (駒札より)

  

『一言寺
 真言宗醍醐派のお寺で金剛王院、通称一言寺と言います。一八七四年(明治七年)金剛王院の祖聖賢を開山とする醍醐三流の一つ金剛王院と合併しました。ご本尊の千手観音さんに一心に祈れば言下に願いがかなうことから、一言寺の名がおこったと伝えられています。
「ただたのめ、仏にうそはなきものぞ、二言といわぬ、一言寺かな」の御詠歌の額が本堂の軒下にあります。
 寺伝によれば、 高倉天皇の中宮「建礼門院」に仕えた少納言藤原通憲(信西)の娘「阿波内侍」が出家して「真阿」(しんな)と名乗リ、清水寺の観音さんの霊告によって、一言寺を建立したと伝えます。
 仁平年中珍海はここに住み、密教の仏画を多く残し、阿波内侍座像は、元禄七年画像を基に造られたと記録に残されています。
 本堂は、一八一〇年(文化七年)の再建で、江戸時代を代表する建築の一つです。内陣の中にさらに土蔵造りの奥内陣がある珍しいものです。一言観音と呼ばれる秘仏千手観世音菩薩像は、この中に安置されています。』
  (説明書きより)

   

 一言寺は山科盆地に位置するが、行政区としては伏見区となる。 少し北側に行くと醍醐寺に達する。寺は外環状線の脇道を東山の方に上がった山裾にある。正式には金剛王院という。創建については説明書きの中に阿波内侍によるとあるので、平安末期となる。その意味では800年にわたる長い歴史を持つ。阿波内侍は「大原女」のモデルになった人物と言われ、墓は大原にあるという。

  桜及び紅葉については境内にいっぱいに広がり、私としては名所と言ってもいいくらいの見事なものだ。梅はそこまでは至らずとも、本堂前あるいは鐘楼の近くに木が数本立っている。今年は遅いかなと思いながらも期待を込めて訪れた。

   

 はたして梅の木は山門をくぐり、ずっと奥の本堂の前に見える。近づくとある意味、予想通りかなり散っていたが、まだ長く伸びた枝にそこそこ咲いているのが見える。白梅だ。少しクローズアップを中心にして丁寧に撮っていく。境内全体が広い上に池などもあり、かなり時代を感じさせる古さが風情を醸し出す。そういった点では昔ながらのお寺の状態を保っているという意味では、貴重なまた私が好きなお寺といえる。

  一通り撮影を終えて帰ろうとした時に、山門横の鐘楼の近くに小さな紅梅の木が見えた。早速近づいて撮影を始める。やはりクローズアップを中心に撮影していく。背景に鐘楼や池、あるいは遠くの本堂を入れようとしたが、本堂を入れるためにはロープで仕切られた内部に入らなければならず、これは遠慮した。従って近くの 鐘楼の背景が中心となる。護摩堂も近くにはあったが、少々分かりにくい。まあしかし時期的にやや遅いものの、これだけ咲いていれば、そこそこ満足はできる。なお門前の駐車場の梅の木は全て散り落ちていた。

  
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