切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

2023年 京都の桜  向日神社・・・桜まつり  京都府向日市  2023.4.2 訪問

2023-04-04 23:38:51 | 撮影
 

『向日神社縁起
 当社は延喜式神明帳(エンギシキジンミョミチョウ)に記載された、いわゆる式内社であり、神名式においては山城国乙訓郡向神社と称され、後に同式の乙訓坐火雷神社を併祭して今日に至っている。この両社は、同じ向日山に鎮座されたので、向神社は上ノ社(カミノヤシロ)、火雷神社ま下ノ社(シモノヤシロ)と呼ばれていた。
 向神社の創立は、大歳神(オオトシノカミ)の御子、御歳神(ミトシノカミ)がこの峰に登られた時、これを向日山と称され、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより、御歳神を向日神と申し上げることとなったのである。
 火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まれた時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祭られたのが創立である。後、養老二年(七一八年)社殿を改築し、新殿遷座の際、火雷大神の御妃神(ゴキシン)、玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を、また創立の因縁により神武天皇を併祭された。その後、建治元年(一二七五年)社殿荒廃により、上ノ社に併祭、以降下ノ社の再興がならず上ノ社に上記四柱を御祭し、向日神社として今日に至っている。
 上ノ社は五穀豊穣の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬の特に篤い神社であったことは、古書に数多く見られところである。』
 (駒札より 抜粋)

   

『祭神
 向日神 ムカヒノカミ
 火雷神 ホノイカヅチノカミ
 玉依姫命 タマヨリヒメノミコト
 神武天皇 ジンムテンノウ

一、縁起

 当社は延喜式神明帳(エンギシキジンミョミチョウ)に記載された、いわゆる式内社であり、神名式においては山城国乙訓郡向神社と称され、後に同式の乙訓坐火雷神社を併祭して今日に至っている。この両社は、同じ向日山に鎮座されたので、向神社は上ノ社(カミノヤシロ)、火雷神社は下ノ社(シモノヤシロ)と呼ばれていた。
 向神社の創立は、大歳神(オオトシノカミ)の御子、御歳神(ミトシノカミ)がこの峰に登られた時、これを向日山と称され、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより、御歳神を向日神と申し上げることとなったのである。
 火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まれた時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祭られたのが創立である。後、養老二年(七一八年)社殿を改築し、新殿遷座の際、火雷大神の御妃神(ゴキシン)、玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を、また創立の因縁により神武天皇を併祭された。その後、建治元年(一二七五年)社殿荒廃により、上ノ社に併祭、以降下ノ社の再興がならず上ノ社に上記四柱を御祭し、向日神社として今日に至っている。
 上ノ社は五穀豊穣の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬の特に篤い神社であったことは、古書に数多く見られるところである。

一 、本殿建物
 現在の本殿は應永二五年(一四一八年)に建造されたもので、室町時代の流造様式の代表的建築物として、重要文化財に指定されている。また明治神宮本殿造営の際には、当神殿をモデルとされている。

一、宝物
 日本書記 神代巻の下巻(重要文化財)
      延喜四年藤原清貫筆と奥書に印されている。
 飾太刀 天狗久光作の銘あり
 額  小野道風の筆による「正一位向日大明神」の額
 棟 札 應永二五年本殿棟札一枚
     慶長二年(一五九七年)棟札一枚
 古 印 「向日神社政印」の銅印
 朱印状 豊臣秀吉および徳川歴代将軍の御朱印状』
  (パンフレットより)

   

 向日神社は春の桜、秋の紅葉ともに有名でシーズンにはかなり多くの人が訪れる。京都全体に知れ渡ってるというわけではないが、阪急沿線の乙訓地域では名所の一つとなっている。向日市のほぼ中央部、阪急京都線西向日駅から北西の方に歩いても遠くはない。鳥居前の道路は細く交通量が多く少し危ない。鳥居から参道を結構長く歩いて、少し小高いところまで登る。その参道の途中、両側に多くの桜の木があり、白や淡い桃色の花を咲かせて、それを本殿に向けて遠くまで眺めるのもなかなか見事な風景となる。秋の紅葉も同様に参道の両側にモミジなどの木々の葉が赤く染まり、これもまた見事な風景だ。
 何度も訪れているが、今回はたまたま向日神社の「桜祭り」当日にあたって、参道には何店もの出店屋台が並び、大勢の人々、特に子供たちがお菓子を買いに集まっていた。参道を上りきった境内にも、中央の拝殿にステージが設定され、お年寄りのグループが大正琴の合同演奏を行っていた。若者向けの楽器ではないので、大勢の観客は椅子に座って聴いているが、大半はやはりお年寄りたちだ。その周辺にも大勢の人たちが、主にファミリーで訪れており、ゆっくり座ったりして境内の桜を楽しんでいた。もちろん本殿にお参りする人も多く、小さな子供達は親に教えてもらいながら参拝している。
 本来であれば静かな参道と境内を、ゆっくりと撮影するというつもりであったが、まさかの桜祭りでこんなに大勢の人たちが来ているとは思いもしなかった。やはり撮影するという点では結構気を遣う。

   

 向日神社の創建については桓武天皇の時代と言うから、奈良時代初めということになる。平安時代に編纂された延喜式神名帳に掲載されており、したがって式内社となる。神名帳には向神社という名称で載せられている。極めて長い歴史と由緒を持つ神社であり、この地域の長岡京遷都以前から信仰を集めた、大きな意味を持つ神社であるといえる。本殿などの建物については何度か再建されていると考えられ、今現在のものは室町初期に再建されたもので、国の重要文化財に指定されている。境内も広く様々な巨木が天をつくように伸びており、神社としての風格を感じさせる。
 桜の花は満開を少し過ぎた頃であり、それでも十分に輝きを放っている。多くの桜の木が大木であるために、張り出した枝もやはり高い位置にあり、写真も見上げるようにして撮影するケースも多かった。桜祭りに訪れた人々は、境内にある比較的小さめの桜の木を見て綺麗だなと言ったりしていたが、さすがに参道にあるような巨木を見上げるような人はあまり見られなかった。地域の人々としてみれば、毎年恒例のことなのでもう慣れ切ってしまっているんだろう。私は年に一回、この桜を撮影しに行ってくる。年によっては秋の紅葉も撮影に行ってくる。特に祭りも何もない時には、鳥居を車のまま潜って参道をそのまま上がり、境内の端に駐車する。もちろん桜祭りでは車は完全に禁止されるので、近くのコインパークを借りることになる。
 乙訓地域で桜の木がこれだけ集まっている場所はあまり多くはない。向日神社以外だと長岡天満宮や勝竜寺の周辺。あるいは大山崎町の山崎聖天、宝積寺などといったところになるだろう。今年は全体的に桜の開花が早かったので、あまり回ることができなかった。もう今週で大半の桜は散ってしまうだろうと思われる。

    
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