対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

自己表出と内臓系の感覚

2014-11-05 | 自己表出と指示表出

 私は「論理的なもの」の構造として「自己表出と指示表出」を想定している。 吉本隆明氏の表現論を参考にしてきたが、吉本氏が指摘する「自己表出と指示表出」と「人間の内臓系の感覚と体壁系の感覚」の関係は、私の「自己表出と指示表出」と接点はないと思っていた。

 言語のタテ糸である自己表出性は内臓の動きに、ヨコ糸である指示表出性は感覚(五感)の働きと関係が深いと見做されると言っていい(『定本 言語にとって美とはなにかⅠ』文庫版まえがき)

 こんど『吉本隆明が僕たちに遺したもの』(加藤典弘×高橋源一郎)を読んでいて、私の「自己表出と指示表出」にも「無意識の内臓系と意識の体壁系の共存」が存在するのではないかと思えるようになった。

 それは「腑に落ちる」という表現がきっかけだった。親鸞「仮に法然が間違っていてもついていく」についての高橋源一郎氏の発言)

それは正しいからついていくのではなくて、間違っていてもついていくという考え方は、吉本さんの思考のスタイルに、一番腑に落ちるのではないでしょうか。つまり間違っていると考えるのは、たぶん感覚器官のほうで、内臓的にはこれでいいというのがやはり吉本さんらしい、という気がするんです。

 「論理的なもの」に「内臓系の感覚と体壁系の感覚」との接点を発見できたのは、吉本表現論・黒田認識論・武谷方法論のつながりが背景にあったと思われる。これまでほとんどの時間、「論理的なもの」の構造は吉本表現論と黒田認識論のなかに閉じられていた。しかし、少し前に、武谷三段階論とつながったのである。

 武谷三段階論の、現象論や実体論のうち構造に関する知識を指示表出に対応させ、一方、自己表出には、実体論のなかの法則性に関連する知識や本質論を対応させたのである。周期律の法則を例にとれば、具体的な原子の構造や性質の周期性を指示表出に対応させ、自己表出には、個々の元素の構造や性質を関連させて法則として統一するもの(周期表やパウリの排他原理)を対応させたのである。このように考えれば、「論理的なもの」の構造は見通しのよいものになると思えてきた。

 極端にいえば、自己表出は本質の把握である。対象を把握する過程において、現象論的段階(ティコの段階)、実体論的段階(ケプラーの段階)、本質論的段階(ニュートンの段階)と段階が進むにつれ、本質の把握の度合いは大きくなってくる。本質論的段階(ニュートンの段階)において、太陽系の構造と惑星の運動は、完全に把握される。実体論的段階(ケプラーの段階)まではあいまいだったものが克服されるのである。それは「腑に落ちる」という表現と対応していると思われたのである。

 認識の分野においても、自己表出は内臓の動きと関係が深いのである。

 「自己表出と内臓系の感覚の関係」の例を、『吉本隆明が僕たちに遺したもの』の中からとりあげておこう。ここに図がある。言語論の基軸(自己表出と指示表出)についてのものである。
         
 加藤典弘氏は次のように述べている。

私は、これを角川ソフィア文庫の『定本言語にとって美とはなにかⅠ』の解説で、x軸が自己表出性の度数、y軸が指示表出性の度数を示す座標軸上の一点を占める言語表出 a は、つねにa(x,y)と表現できる、という考え方だと理解するのが、もっともシンプルな受けとり方だろうと、述べています(図1)。これは、よくできた言い方だと思います(笑)。どのような言葉にも、それが表出である限り、自己表出として受けとることのできる要素と、指示表出として受けとることのできる要素があるということです。

 間違ってはいないが、「腑に落ちない」というべきだろう。どうしてタテに自己表出を、ヨコに指示表出を配さないのか。吉本氏は言語のタテ糸である自己表出性、ヨコ糸である指示表出性といっているし、『言語にとって美とはなにか』の図にはすべてタテに自己表出、ヨコに指示表出を配している。この図はこれらと整合していないのである。

 この図の自己表出は「もたれる感じ」なのである。

  参考
      接続詞と自己表出
      表出論の形成と複合論
      表出の分節化
      表出論の系譜
      もうひとつの表出論
      ひらがな表出論
      武谷三段階論と表出論