対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

表出論の系譜

2009-07-19 | 吉本隆明

 許萬元の『弁証法の理論』を読んでいて、ヘーゲルとは違った「媒介の論理」の可能性があるのではないかと思ったのは、1995年だった。そのときをふりかえって、わたしは「弁証法試論(試論2003)」のなかで、次のように述べている。

 わたしは吉本隆明の表現論を認識論に応用して、認識の形成過程のモデルを作っていました。二つの異なる認識の自己表出と指示表出が組み合わされて、新しい自己表出と指示表出が形成され、新しい一つの認識が生まれるというモデルです。

 そして、わたしは認識の形成過程をさらに分析していくために、価値形態論にヒントを求めているところでした。すなわち、二つの商品(リンネルと上着)が対立するとき、それぞれの商品の価値と使用価値にどのような関係が新しく生まれてくるかという点に着目していました。二つの商品の価値と使用価値の関係が、二つの認識の自己表出と指示表出の関係に転移できないかどうかを模索していたのです。

 しかし、実をいえば、許萬元の「弁証法の理論」を読みはじめた頃は、自己表出・指示表出ということばで考えてはいなかった。これは、あくまでも2003年の時点で整理し述べたものである。価値形態論を参考にして形成過程のモデルの試作をしていたのは事実である。しかし、その過程を、「自己表出」と「指示表出」ということばでは考えてはいなかったのである。1990年代のほとんどすべてにおいて、わたしは、次の2つの間に分裂した状態のままで、考えていたのである。そこには、自己表出や指示表出はなかったのである。

  A 抽出過程(自己抽出と指示抽出)と構成過程(自己構成と指示構成)
  B 形式性(自己抽出と自己構成)と指示性(指示抽出と指示構成)

 この2つに分裂した状態は黒田寛一の認識論を継承することによって引き起こされていたものである。わたしの考えによれば、黒田認識論には3つの契機があった。

  1 分析的下向と上向的綜合
  2 科学=哲学
  3 対象認識と価値判断

 「対象認識と価値判断」という認識に構造が想定されていない欠陥を乗り越えるものとして、わたしは吉本隆明の表出論(「自己表出と指示表出」)を参考にしていた。そして表出論に1と2を取り込もうとしたのである。

 Aが、下向と上向の関係を把握しなおしたものである。下向が抽出過程にあたる。上向が構成過程である。
 Bは、科学=哲学という構造を把握しなおしたものである。

 Aについては、「表出の分節化」で概略はわかると思う。ここではBについて、述べておきたいと思う。

 黒田のいう「科学=哲学」というのは、『資本論』の学的構造の分析に基づいているが、わたしは「科学=哲学」という構造を解く鍵は次の戸坂潤の『科学論』にあると思っていた。

 哲学とは範疇体系(=方法・論理)の他の何物でもない。F・エンゲルスが「フォイエルバッハ論」において将来の哲学は形式論理と弁証法との他にないと云ったのはこの意味だろう。所謂科学は特定の認識内容である。これに対して所謂哲学は夫れの特定形式と、その一般形式への拡大とを意味する。方法や論理は、このような認識の形式を指すのでなければならぬ。ただこの形式は、内容自身からの所産であり、内容が分泌した膠質物であって、内容以外から来たものでもなく、ましてアプリオリに天下ってきたものでもない。だから今の場合形式に相当するこの方法や論理、すなわち哲学は、内容に相当する処のこの科学そのものからの抽出物として以外に、またそれ以上に、その独自性を持つことはできない約束なのである。

 要するに、認識の内容が科学、認識の形式が哲学である。わたしはその答を、吉本の表出論に見出したのである。

 吉本は『言語にとって美とはなにか』のなかで、次のように述べていた。

  文学の内容と形式は、それ自体としてきわめて単純に規定される。文学(作品)を言語の自己表出の展開(ひろがり)としてみたときそれを形式といい、言語の自己表出の指示的展開としてみるときそれを内容というのである。もとより、内容と形式とが別ものでありうるはずがない。あえて文学の内容と形式という区別をもちいるのは、スコラ的な習慣にしたがっているだけである。しかし企図がないわけではない。文学の形式という概念の本質をしることは、じつに文学表現を文学発生の起源からの連続した転換としてみようとする特別な関心につながる。また、文学の内容という概念には、文学を時代的な激変のなかに、いいかえれば時代の社会相とのかかわりあいのうえにみようとする特別な関心につながっている。

 この形式内容論は簡潔で優れていると思った。あえていえば、この形式内容論こそが認識論に表出論を導入させたのである。自己表出と対応するのが形式である。指示表出と対応するのが内容である。わたしは、自己抽出と自己構成を形式性と考え、指示抽出と指示構成を指示性と考えればよいと思った。

 「形式性と指示性」は、認識の「形式と内容」に対応する。そして、認識の媒介機能は、この「形式性と指示性」によって担われていると考えた。ケストラーのバイソシエーションを把握する鍵は「形式性と指示性」にあると考えた。「形式性と指示性」ということばは、的確なものとは思えなかったが、他のことばは思いつかなかった。不満だが、これで行くより仕方なかった。

 価値形態論を参考にして、商品の価値と使用価値に対応させていたのは、認識の「形式性と指示性」であった。起点となったのは、リンネルと上着のあいだの価値関係あるいは交換関係が、2つの認識の形式関係あるいは変換関係に対応するのではないかということであった。

 わたしは1990年代において、認識を抽出過程と構成過程の複合体として、また、形式性と指示性の複合体として捉えていた。複素数のモデルでいえば、次のような式で認識を捉えていたのである。

    認識=構成過程+抽出過程×i

    認識=形式性+指示性×i

 しかし、細部に立入ってみると、次のような式になり、自分でも把握しにくいものだったのである。

    認識=構成過程(自己構成と指示構成)+抽出過程(自己抽出と指示抽出)×i

    認識=形式性(自己抽出と自己構成)+指示性(指示抽出と指示構成)×i

 もちろん自分で引き起こしたものである。停滞していたのである。しかし、2000年近くになって、あるとき、いったん二重化した抽出過程と構成過程を表出過程に統一して、形式性を自己表出に、指示性を指示表出にすれば、2つに分裂した認識をひとつに統一できることに気づいた。止揚できるかもしれない。

    認識=自己表出+指示表出×i

 2000年に、『もう一つのパスカルの原理』を書きなおしたとき、表出論はやっと見通しのよいものになったのである。

 整理しておこう。最初に、吉本の表出論(言語の自己表出と指示表出)があった。次に、黒田の認識論によって、表出論は、「抽出過程と構成過程」・「形式性と指示性」に分裂した。そして、再び表出論が出現することによって、そのなかに「抽出過程と構成過程」・「形式性と指示性」が止揚されたのである。

 わたしはすこし前に、次のように述べた。

 「表出の場――指示と関係」(自己表出は関係の表出、指示表出は指示の表出)という関係に思い至ってみると、「論理的なもの」の構造として想定している「自己表出と指示表出」も、検討した方がよいように思われてきた。表出という主として「動作」を表わすことばで「構造」を表現している点が気になってきたのである。(「論理的なもの」の動的・静的側面――「自己表出と指示表出」・「関係性と指示性」)

 表出論の基礎がゆらいでいるような気がしていた。しかし、「動作」を表わすことばで「構造」をも表現している点は、欠点ではなく、むしろ利点であるといまは思う。

 「論理的なもの」に「自己表出と指示表出」の構造を想定することは、もっと積極的に主張してよいと思う。そしてまた、自己表出と価値(交換価値)、指示表出と使用価値を対応させることも、もっと積極的に主張してよいと思う。

   〈わたしの表出論はどこから来たのだろう。そして、どこへ行くのだろう。〉

 わたしの表出論は、吉本表出論と黒田認識論の「間」から出現した。そして、あなたの「心」に向かうのである。


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