対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

抽象的なものの枷

2014-11-27 | ノート
 この言葉は、『法の哲学』序文にある。「ここに薔薇がある、ここで踊れ」の直後の段落である。
 さっきの慣用句は少し変えればこう聞こえるであろう――

   ここにローズ(薔薇)がある、ここで踊れ。

 自覚した精神としての理性と、現に存在している現実としての理性との間にあるもの――まえのほうの理性をあとのほうの理性とわかち、後者のうちに満足を見いだせないものは、まだ概念にまで解放されていない抽象的なものの枷である。
 理性を現在の十字架における薔薇として認識し、それによって現在をよろこぶこと。この理性的な洞察こそ、哲学が人々に得させる現実との和解である
 「抽象的なものの枷」が捉えにくかった。「抽象的なものの枷」の格助詞「の」は、「限定」なのか「同格」なのかがすぐにはよくわからず、しばらく空白が続いた。ヘーゲルの本、これは限定である。哲学者のヘーゲル、これは同格である。「抽象的なものの枷」の格助詞「の」は、同格と解釈するのだろうと落ち着いた。

 ここのところをヘーゲルは次のように書いている。
Was zwischen der Vernunft als selbstbewußtem Geiste und der Vernunft als vorhandener Wirklichkeit liegt, was jene Vernunft von dieser scheidet und in ihr nicht die Befriedigung finden läßt, ist die Fessel irgendeines Abstraktums, das nicht zum Begriffe befreit ist.
 日本語とドイツ語を比べてみると、訳者の藤野渉氏はヘーゲルに忠実に訳していることが見て取れる。しかし、ドイツ人が、die Fessel irgendeines Abstraktumsを読んだとき、私が限定か同格かで迷い、空白を感じるようなことは起こらないのだろうか。起こるのではないかと思われる。
 いま、上の枝葉を取り払い、幹だけ取り出してみる。( )内が枝葉である。
Was (zwischen der Vernunft als selbstbewußtem Geiste und der Vernunft als vorhandener Wirklichkeit liegt), was( jene Vernunft von dieser scheidet und in ihr nicht die Befriedigung finden läßt), ist die Fessel irgendeines Abstraktums, (das nicht zum Begriffe befreit ist.)
   Was… ,Was… ist die Fessel irgendeines Abstraktums

 日本語だと、

    …もの―…ものは抽象的なものの枷である

 ドイツ語はWas(もの)が先行する。これに対して日本語は(もの)があとに来るので、ドイツ語の方が意味をつかみやすいであろう。しかし、Fessel と Abstraktums、枷と抽象的なものとが結合しているので、ドイツ語も日本語も意味をつかむまでに空白が生まれる可能性はあると思われる。

    「Was」?「もの」?

 これに対して、英語の翻訳はよく工夫されているようにみえる。同格であることがはっきりしているのである。
The barrier which stands between reason, as self-conscious Spirit, and reason as present reality, and does not permit spirit to find satisfaction in reality, is some abstraction, which is not free to be conceived.
 枝葉をとって、幹をみよう。
The barrier (which stands between reason, as self-conscious Spirit, and reason as present reality, and does not permit spirit to find satisfaction in reality), is some abstraction,( which is not free to be conceived.)
    The barrier is some abstraction.
  
 barrier とabstractionは分離していて、同格であることが明確になっている。

 このように、日独英を比べてみると、英語が一番わかりやすいのではないだろうか。

 さて、こうしてヘーゲルは次の段落で、「抽象的なものの枷」を取り去って、「理性を現在の十字架における薔薇として認識し、それによって現在をよろこぶこと」へと歩を進めよと述べていくのである。