●産業革命とユダヤ的価値観の浸透・普及
近代資本主義は、18世紀半ばから爆発的に進んだ産業革命によって、真の意味での資本主義となった。産業化した資本主義の主体は、産業資本である。マルクスやウェーバーに依拠する経済学者・経済史学者の多くは、産業資本を近代資本、それ以前の商人資本や高利貸し資本を前近代的資本とし、前近代的資本からは近代資本主義は発達しなかったという。
私はこれに異論がある。産業資本が近代資本主義をもたらした資本の形態であることは、そのとおりである。しかし、産業資本は生産、商業資本は流通、銀行資本は金融において価値増殖を行う資本である。生産を行う資本は、流通・金融の資本と結びついてこそ、生産力を発揮できる。作ったものを売る商人がいなければ、産業資本は維持も発展もできない。また、産業資本に投資したり信用を扱ったりする銀行家がいなければ、大きな事業を展開できない。これらの役割を軽視すべきでない。
産業資本の発生後に、出来た製品を売ったり、産業資本家に金銭を工面したり、為替で外国貿易を支えるところでは、ユダヤ人が重要な役割をした。ユダヤ人を中心とした商業資本・銀行資本なくして、産業資本はこれほどの発達はできなかったに違いないというのが、私の見方である。
資本制的生産様式が支配的になった社会では、すべての価値は、市場において、貨幣をもって数理的に表現される。その貨幣は、賃借によって増殖する。それゆえ、貨幣を持つ者は、一層の富を集める。貨幣による富を追い求める者は、拝金主義者となりがちである。拝金主義者は、いつの時代、どこの社会にもいた。重要なのは、ユダヤ人がユダヤ的価値観を広げたことにより、西欧社会には非ユダヤ人の拝金主義者が多数現れたことである。そうした西欧社会が有色人種の植民地から富を収奪し続け、その収奪の上に産業資本が発生して生産力が飛躍的に向上したのである。
生産を担う産業資本は、資金を求める。生産した商品の流通には、信用制度が便利である。そこにおいて貨幣の所有者は、信用による貸し付けによって、限りない価値増殖を追求できる。
西欧における貨幣の所有者は、やがて貨幣を産業資本家よりも、政府に貸し付けるほうが、巨大な利益を生むことを認識した。その最大の機会が、戦争である。戦費を調達し、政府に貸し出す。戦後は、その債権によって、貨幣は増殖する。平時においても、国債を購入することで、債権を得て、貨幣は増殖し続ける。これらの過程の全般において、銀行資本家は富を蓄積し続ける。そこでもユダヤ人が活躍した。ユダヤ人は既にドイツ30年戦争の時代から、戦費の貸し付けで蓄財をしてきていた。
ウェーバーは、ユダヤ人の活動を投機的な的資本主義として、その意義を軽く見ている。それは、生産に重点を置き、消費・流通・金融を軽視する経済理論によるものだろう。だが、生産中心の見方に偏ると、流通と金融、特に金融におけるユダヤ人の活動が近代資本主義の初期から21世紀の現代まで一貫して持っている重要性をとらえ損なう。キリスト教徒の生産活動に焦点を合わせた経済理論と歴史記述は、ユダヤ人資本家にとっては、自分たちの活動が目立たなくなるので都合がよいだろう。ユダヤ人の経済学者の中にはそうした意図をもって、経済理論及び経済史を抽象化しているのではないか、と思われる者が少なくない。
産業資本の発達、さらに銀行資本の発達による貨幣経済の拡大は、ユダヤ人の活躍の場を広げ、彼らに膨大な富をもたらした。それとともに、資本主義世界経済の発達によって、ユダヤ教の価値観がヨーロッパ文明のみならず、非ヨーロッパ文明にも浸透していった。ユダヤ人だけでなく、ユダヤ的な価値観を体得した非ユダヤ人が、ともに世界的に資本主義経済を推進しているのである。
次回に続く。
近代資本主義は、18世紀半ばから爆発的に進んだ産業革命によって、真の意味での資本主義となった。産業化した資本主義の主体は、産業資本である。マルクスやウェーバーに依拠する経済学者・経済史学者の多くは、産業資本を近代資本、それ以前の商人資本や高利貸し資本を前近代的資本とし、前近代的資本からは近代資本主義は発達しなかったという。
私はこれに異論がある。産業資本が近代資本主義をもたらした資本の形態であることは、そのとおりである。しかし、産業資本は生産、商業資本は流通、銀行資本は金融において価値増殖を行う資本である。生産を行う資本は、流通・金融の資本と結びついてこそ、生産力を発揮できる。作ったものを売る商人がいなければ、産業資本は維持も発展もできない。また、産業資本に投資したり信用を扱ったりする銀行家がいなければ、大きな事業を展開できない。これらの役割を軽視すべきでない。
産業資本の発生後に、出来た製品を売ったり、産業資本家に金銭を工面したり、為替で外国貿易を支えるところでは、ユダヤ人が重要な役割をした。ユダヤ人を中心とした商業資本・銀行資本なくして、産業資本はこれほどの発達はできなかったに違いないというのが、私の見方である。
資本制的生産様式が支配的になった社会では、すべての価値は、市場において、貨幣をもって数理的に表現される。その貨幣は、賃借によって増殖する。それゆえ、貨幣を持つ者は、一層の富を集める。貨幣による富を追い求める者は、拝金主義者となりがちである。拝金主義者は、いつの時代、どこの社会にもいた。重要なのは、ユダヤ人がユダヤ的価値観を広げたことにより、西欧社会には非ユダヤ人の拝金主義者が多数現れたことである。そうした西欧社会が有色人種の植民地から富を収奪し続け、その収奪の上に産業資本が発生して生産力が飛躍的に向上したのである。
生産を担う産業資本は、資金を求める。生産した商品の流通には、信用制度が便利である。そこにおいて貨幣の所有者は、信用による貸し付けによって、限りない価値増殖を追求できる。
西欧における貨幣の所有者は、やがて貨幣を産業資本家よりも、政府に貸し付けるほうが、巨大な利益を生むことを認識した。その最大の機会が、戦争である。戦費を調達し、政府に貸し出す。戦後は、その債権によって、貨幣は増殖する。平時においても、国債を購入することで、債権を得て、貨幣は増殖し続ける。これらの過程の全般において、銀行資本家は富を蓄積し続ける。そこでもユダヤ人が活躍した。ユダヤ人は既にドイツ30年戦争の時代から、戦費の貸し付けで蓄財をしてきていた。
ウェーバーは、ユダヤ人の活動を投機的な的資本主義として、その意義を軽く見ている。それは、生産に重点を置き、消費・流通・金融を軽視する経済理論によるものだろう。だが、生産中心の見方に偏ると、流通と金融、特に金融におけるユダヤ人の活動が近代資本主義の初期から21世紀の現代まで一貫して持っている重要性をとらえ損なう。キリスト教徒の生産活動に焦点を合わせた経済理論と歴史記述は、ユダヤ人資本家にとっては、自分たちの活動が目立たなくなるので都合がよいだろう。ユダヤ人の経済学者の中にはそうした意図をもって、経済理論及び経済史を抽象化しているのではないか、と思われる者が少なくない。
産業資本の発達、さらに銀行資本の発達による貨幣経済の拡大は、ユダヤ人の活躍の場を広げ、彼らに膨大な富をもたらした。それとともに、資本主義世界経済の発達によって、ユダヤ教の価値観がヨーロッパ文明のみならず、非ヨーロッパ文明にも浸透していった。ユダヤ人だけでなく、ユダヤ的な価値観を体得した非ユダヤ人が、ともに世界的に資本主義経済を推進しているのである。
次回に続く。