ほそかわ・かずひこの BLOG

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人権341~ロールズとコスモポリタンの論争

2016-08-19 06:39:56 | 人権
●ロールズとコスモポリタンの論争

 ロールズの「諸国民衆の法」に対する代表的なコスモポリタンの批判を概説した。もしロールズの社会契約説による正義論が正しいとすれば、その正義論を国際社会に当てはめる場合は、主体を民衆に切り替えるロールズの方法と、これを批判し主体を個人で一貫するコスモポリタンの方法のどちらが正しいかという議論になるだろう。
 ベイツ、ポッゲ、ヌスバウムは、ロールズの正義論を支持・継承しながら、ロールズが国際的正義の主体を個人ではなく民衆とすることについては、三者とも批判的である。その一方、三者には次のような違いがある。
 ベイツは、ロールズの原初状態に着目し、グローバルな原初状態を仮設することで、国内社会の正義の原理をそのまま国際社会に適用し、国際的分配の原理として格差是正原理をグローバルに拡張する。それによって、世界的な貧困問題の解決を図ろうとし、偶然的な要素の強い天然資源の配分における公正を追求する。
 ポッゲは、ロールズの正義論が社会の基本構造を重視したことを受け、国際的な制度に焦点を当てる。国際的な財の移転に関わる既存の制度の不公正を指摘し、人権の侵害をグローバル制度秩序に起因するものとして、消極的義務の実行による制度改革で貧困を改善するため、地球資源配当を提案する。
 ヌスバウムは、ロールズが体力、知力、能力においてほぼ等しい当事者たちによる相互利益のための契約を想定したことを批判し、ケイパビリティ・アプローチによるグローバル正義論を主張する。一人ひとりのケイパビリティの向上を目標とし、グローバルな正義の10原理を提示している。
 こうしたコスモポリタンによる批判に対し、ロールズが直接反論したのは、主にベイツに対してである。これは批判者との年齢・年代の違いによる。ロールズの主張はベイツの項目に書いたが、ベイツ、ポッゲ、ヌスバウムに共通することとして、ロールズはコスモポリタンを次のように批判した。
 「世界市民的な見方の究極的な関心は、諸個人の福利にあり、諸々の社会の正義ではない。世界市民的な見方によれば、各々の国内社会が正義に適った諸制度をその内部で確立した後になってもなお、さらなるグローバルな分配の必要をめぐる問題が存在することになる。(略)世界市民的な見方は、諸個人の福利に関心を持ち、それゆえ、全世界で最も困窮している人の状況を改善することができるか否かということに関心を持つからである。だが、諸国民衆の法にとって重要なものは、秩序だった諸国民衆社会の一員として生きる自由な社会と良識ある社会の正義、並びに正しい理由による安定性である」と。
 このようにロールズが説くのに対し、コスモポリタンは反論する。その結果が、ベイツ、ポッゲ、ヌスバウムそれぞれの主張となっている。今日、彼らコスモポリタンの主張は、世界的に影響力を増しつつある。人道的な行為を普遍的な義務とし、人々の道徳心に訴える主張は、一定の説得力を持つ。特に社会民主主義者、アナキスト、フェミニスト、動物愛護運動家等への影響が目立つ。
 私見を述べると、ロールズのコスモポリタン批判には、十分な説得力がない。その原因は、個人と集団の関係に関する考察が浅く、特にネイション(国家・国民・民族)の独自性を把握できていないことにある。ロールズは、基本的に個人主義的自由主義の思想を持ち、社会契約説に固執する。歴史的な事実と国際社会の現実を軽んじ、抽象的な理論の構築を志向する。個人主義的自由主義は個人を単位とする思想であり、社会契約説は抽象的・原子的な個人が集まって国家を形成するという仮説である。そのため、親子・夫婦・兄弟等による家族の生命的なつながり、共有生命に基礎を持つ親族・部族・民族・国民のつながりを把握できない。そのため、ロールズは、「諸国民衆の法」で主体を個人から人民・民衆に切り替える際、もともとの個人単位の思想の問題点を見直すことができていない。コスモポリタンは、ロールズの個人主義的自由主義を国際社会で徹底しようとする立場だから、ロールズ及び「諸国民衆の法」の支持者は、コスモポリタンの批判に対して、有効な反論ができないのである。
 そもそもロールズが採用した社会契約説は歴史的事実と異なる仮想の理論であり、社会契約説を一般化して正義の原理を考案したのは、自己の主張を公共的理性を持つ者なら誰でも当然考えることだとして正当化しようとしたものである。その社会契約説を、個人から民衆へと主体を替えて、国際社会に適用したのは、無理のある手法である。ましてやコスモポリタンがそれをグローバルに拡張するのは、無理の上に無理を重ねている。人権と正義は、歴史的事実と国際社会の現実に基づいて考察されるべき事柄である。また、世界の貧困と不平等の改善は、国連に加盟する国民国家を主要な主体とし、国際機関や民間団体、諸個人の活動を補助的なものとして、進めていくべきものである。
 国連は基本的に国家を単位とし、加盟国は190以上にのぼる。各国は、政治的自由によって国連に加盟し、一個の集団的主体として討論や投票に参加している。この主体を個人単位にすると、70億人もの個人を等しく国連の参加者とすることになる。これは、現実的に不可能である。人権条約は諸個人が直接採択しているのではなく、諸政府が採択している。個人の人権を擁護するのは、基本的に各国の政府が行うべきことである。その国の政府ができない場合やどの国の政府もできない場合に、国際機関や民間団体、篤志ある個人等が補助するという副次的なものでなければならない。
 コスモポリタニズムは、国民国家を政治的単位とすることに反対する思想ゆえ、こういう現実的な考え方を認めない。国境を越えて徹底した個人主義を追求する。国民国家に所属していながら、あたかも無国籍者のような諸個人の連帯を作ろうとする。だが、国連で2000年に採択されたミレニアム宣言は、各国代表の討議の末に合意された。その実行の主要な主体は、国家である。主体を個人へと個別化していくと、大きな国際的な取り組みはできない。

 次回に続く。

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