ほそかわ・かずひこの BLOG

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インド72~ラーム・モーハン・ローイとブラーフマ協会

2020-04-20 13:01:59 | 心と宗教
●「西洋の衝撃」とインドからの発信

 ヨーロッパ諸国のインド進出は、インド文明に「西洋の衝撃」を与えた。
 クシティ・モーハン・セーンは、18世紀から19世紀初頭の時期を、西洋がインドに衝撃を与えた第1期としている。この時期には、ヒンドゥー教からキリスト教への改宗がかなりの数にのぼった。しかし、その期間は長くは続かず、衝撃の大きさの割に、改宗者は少なかった。
 現在も、インドのキリスト教徒は、人口の2.3%に過ぎない。日本よりは比率が高いが、西洋文明諸国の直接的な支配を受けたにもかかわらず、キリスト教はそれほど浸透していない。
 セーンによると、この第1期において、ヒンドゥー教の指導者たちは、キリスト教への改宗を防ぐために、儀礼の大幅な改革やヒンドゥー教各派で忘れ去られていた多くの古い思想の復興を余儀なくされた。そして、19世紀前半から第2期に入り、ヒンドゥー教の信仰復興運動または改革が行われた。特にイギリスの植民地にされた後は、キリスト教からの刺激とキリスト教への反発によって、ヒンドゥー教改革が進められた。
 次に、ヒンドゥー教の改革者及びヒンドゥー教を世界に広めてきた指導者について述べる。ラーム・モーハン・ローイ、ラーマクリシュナ・パラマハンサ、ヴィヴェーカーナンダ、シュリ・オーロビンド・ゴーシュ、パラマハンサ・ヨガナンダ、サティヤ・サイ・ババらである。

●ラーム・モーハン・ローイとブラーフマ協会

 西洋の衝撃の第2期において、ヒンドゥー教改革の先頭に立ったのが、ラーム・モーハン・ローイである。ローイは、生涯を通じて、インドの宗教的・社会的・政治的な改革に取り組み、近代インドの父と呼ばれる。インド独立の父・ガンディーの先駆者といえる。
ローイは、1772年にベンガルの裕福なバラモンの家に生まれた。家はヴィシュヌ宗だったが、若い時にイスラーム教のスーフィズムに触れ、唯一神の信仰を知った。その後、ヴェーダーンタ哲学を学び、ヒンドゥー教にも一元論的な思想があることを確認した。またキリスト教や西洋哲学をも学び、すべての宗教は共通の神を各々の仕方で礼拝するものであるという思想に到達した。
 ローイは、インド社会の停滞と腐敗は、ヒンドゥー教の偶像崇拝や因習、迷信にあると見て、その弊害の除去に努めた。教育・新聞等を通じて民衆の啓発を行った。キリスト教・イスラーム教のような一神教を意識して、ヒンドゥー教を改革すべきだと考え、唯一の神としてブラフマンのみを崇拝すべきだと説いた。キリスト教の宣教師と教義論争を行い、ヒンドゥー教の宗教と哲学を断固として擁護した。
 1828年に、ブラーフマ協会(ブラーフマ・サマージ)を設立した。同会は、『ウパニシャッド』の一元論的な思想に基づく合理的な有神論を唱道した。その一方、ヒンドゥー教以外の宗教に対しては、友好的な姿勢を取った。これは、根底に、あらゆる宗教の根本にあるのは、同じ神への信仰であるという信念に基づくものである。
 ローイは、ヒンドゥー教正統派から、その思想や行動を非難された。また、自分の家族、地主、宣教師、高官等と衝突することも度々あった。だが、それに怯むことなく、自分の信念を貫いた。
 ローイは、ヒンドゥー教の改革を進める一方、社会改革運動を指導した。インド人は西欧の科学を学ばねばならないと主張し、科学を教育する必要性を説き、科学教育を奨励した。また、カースト制や幼児婚の廃止を主張した。寡婦の再婚を認め、寡婦殉死の風習の廃止を呼びかけた。ローイは兄の死による義姉の殉死に立ち会い、生きながら焼死する惨たらしい光景を見て、寡婦殉死の廃止を決意した。20年に及ぶ請願運動を続け、1829年にイギリス人ベンガル総督にサティー禁止の条例を出させることに成功した。以後、寡婦殉死の禁止が各地に広がった。
 1830年にインドの知識人として初めてイギリスに渡り、議会でインドの現状について発言し、独立を訴えた。だが、道半ばで1833年に客死した。
 ローイによるブラーフマ協会の活動は、ドワルカナート・タゴールによって継承された。アジアで最初にノーベル賞を受賞したラビーンドラナート・タゴールの祖父である。ドワルカナートは、インドの近代企業の最初の経営者として成功し、巨万の富を築いた。ローイの親友として彼の宗教改革・社会改革運動に協力し、ブラーフマ協会の創設者の一人となり、ローイの死後はその活動を拡大した。
 その子デベーンドラナート・タゴールは、ブラーフマ協会の最高指導者となり、「偉大なる聖者」といわれた宗教家・哲学者だった。カースト制の因習を改革する運動を行うなどインドの社会改革にも重要な役割を果たした
 その息子のラビーンドラナート・タゴールも、ブラーフマ協会の会員だった。彼は、インドが生んだ偉大な詩人であり、1913年にノーベル文学賞を受賞した。インドの近代化を促すとともに、東西文化の融合に努めた。インドの独立運動にも貢献し、ガンディーらの独立運動の精神的支柱となった。日本に4回来訪し、日本の知識人にも大きな影響を与えた。1924年(大正13年)には、インドの独立に協力した頭山満と会談し、頭山について、「インド古代の聖者を目のあたりに見る感じである」と語った。
 ブラーフマ協会の会員には、タゴール一族以外にも知識人が多かった。また、次に述べるラーマクリシュナも会員だった。

 次回に続く。

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