太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

記憶について

2021-10-03 08:32:36 | 日記
 ブログにも度々子供の頃の思い出とか今はもういない両親のことを書いており、事実の基づいていると確信していたが気になる一節があった。カズオ・イシグロ氏の小説で「・・・子供時代や両親の思い出が、最近ぼやけ始めたのに気づいたからだ。ほんの、二,三年前なら自分の心の中に永遠に染み込んでいると思っていたようなことが、なかなか思い出せなくてじたばたするようなことが最近何度もあった。言いかえれば、年を経るごとに、私の上海での生活はぼんやりしたものになっていき、ついにいつの日にか残っているものといえばごくわずかのあいまいなイメージだけになってしまうのを認めざるをえなくなってきたということだ。ここにこうして座って、私がまだ覚えている思い出になんらかの秩序をもたせようとしている今夜でさえ、どれほど多くの思い出がぼんやりとしたものになってしまったかに改めて驚いている。・・・」と。確かに子供の頃の思い出には断片は事実であったとしても大人になってそれらを都合よく、辻褄が合うように組み立てているのかも知れない。
 ここでは私が犬を嫌いになった事実のみを書いてみる。学校に上がる前の話である。近所のオバサンの家に「ポチ」(今なら信じられない名付けだが本当)という茶色の大きな犬がいた。昔の田舎だから勿論放し飼いである。あるときオバサンが怖がらなくていいよ、おとなしいい犬だから頭を撫でてやりなよと言う。信じられなかったが動き回っている時には撫でられない。ある日、下を向いて動かずおとなしくしている。この時と思いそっと頭に手をやろうとした瞬間、上を向いて牙を剝き出して吠えられた。その恐怖は今でも覚えている。オバサンに言うと、餌を食べている時手を出したら向うも取られると思って必死だもんと言う。初めに言っといてよだ。脚色なしの思い出である。これが犬を嫌いというより恐くなった瞬間だ。この事実がトラウマとなり今でも続いているのは間違いない。大人になってからも犬を見るとまず、もし1:1で戦ったら勝てるかどうか値踏みする。小さいから可愛いというのは犬には通じない。
 人間なら小さいだけで可愛いと言われる。会社の家族リクレーションなんかに赤ん坊を連れてくる者がいた。若い女の子なんかはイヤー可愛いとか騒いで親も満足そうな顔をする。しかしよく見ると親に似ても似つかない残念な顔をした子が殆どである。TVのCMに出るような赤ん坊に出会ったことはない。正確には小さいから可愛いだろう。銀座などで乳母車に乗せた赤ん坊をよく見かけた。親は今風のファッションにバッチリメーク、バギーも高級そうだ。何で銀座なんかで乳母車を押して散歩なのか、ここに来るだけでも大変なのにとちらりと赤ん坊を見ると殆どがぶっさいく。親は整形?などと良からぬ想像までしてしまう。でも赤ちゃんは小さいから可愛い。噛みついてもこない。勝てる。
 流石に大人になってからの記憶は事実のみだが多分記録が補填してくれているのだろう。しかしもっと大人になって、高齢になってからという意味だがリタイアしてからこの方の思い出は殆ど無い。エポックメーキングなできごとがなく、無為な時間を過ごしてきたせいであろう。これから先は年に一つ思い出が残るかどうかだ。ちょっと寂しい気もするがそれも仕方ない。今年の記憶?生まれて初めてネズミ捕りに引っ掛かったことか、ウゥゥッ・・・・寂しい限り。