十三のカーネルおじさん

十三に巣くってウン十年。ひとつここらで十三から飛び立ってみよう。

父のこと

2018-08-31 17:41:48 | 思い出

夢をよく見る。母が出てくることはあるが、父が出てきたことはない。私の父への思いを表しているのかもしれない。でも父は父なりの人生を必死に歩んだことだろう。私が小学5年の一学期、父が亡くなり、その直後、母が腸閉塞で入院。手術中に母が池の中に入っていこうとすると、父が母にこっちに来るな子供はどうするんだと強く言ってあの世へ行くのを止めてくれたと母はよく言っていた。空襲で三津屋の家を焼かれ、十三に引越。当時父は大淀のガラス工場のボイラーマンとしての仕事をしていた。当時南の島の小学校も出てなく田畑もない家庭の子供ができる仕事は過酷な船乗りの仕事しかなかった。古いアルバムに一枚だけ船の写真がある。大阪商船白山丸と鉛筆で記されている。この船かもしれない。母との生活にその少年時代の船員としての経験を生かせたのだろう。船員時代に編み物を覚えたと姉から聞いたが、編み物をしている父を見たことはない。退屈な船員生活の息抜きになったのだろう。母とは島で知り合ったという。先に島を出て、西宮今津の薬局に女中として働いていた母を追って父が来たという。西宮のカトリック教会で式を挙げたが、父が指輪を用意してなく、神父の奥様の指輪を借りたことや、父がキリスト教を嫌い神父さんからもらった本やロザリオを処分してしまったことなど母から聞いた。また映画も父とよく行ったと母が晩年懐かしそうに語っていた。結婚後大阪市北区中崎町、天神橋筋5丁目に住んでいたので、商店街にあった旭座、大阪座に行ったのだろう。お気に入りは林長次郎、大河内伝次郎の時代劇と聞いたが題名はわからない。死の直前はアルコールに漬かっていた父と母が映画を一緒に見に行った青春があったことが不思議な光景として、私は母の笑顔に見ていた。戦後鋳物工場に職を得た。その工場には大きな風呂場があり、父と何度か入った記憶がある。旋盤工として旋盤に安全眼鏡をかけ、厚い胸あてをつけ仕事をする父の姿は残っている。戦時中は酒を控えていた父であったが、戦後は酒を飲み始めた。メチルアルコールを飲んで身ぐるみはがされたこともあったようだ。私が覚えているのは父に手をひかれ、十三南の飲み屋さんに行ったことだ。父はドンブリになみなみと入ったどぶろくを飲んでいた。私は鯨のコロを食べさしてもらっていた。当時どぶろくも禁止されていたが、田んぼが広がっていた加島に行くとどぶろくを売ってくれる家があり、一升瓶をもって分けてもらった。誰と一緒に行ったのだろうか。ここの田んぼではザリガニを取りに行った。バケツ一杯のザリガニはその日の食事に消えた。おいしいと思った記憶はない。家近くの立ち飲み屋に行った。父は焼酎を赤葡萄酒で割って飲んでいた。かすかな記憶に、父と兄それに叔父と従兄の男4人が阪急沿線のどこかの池に潜り沼貝を取りにいき、池のふちで眺めている幼い私がいた。帰りの電車で麻袋いっぱいに入った貝の名前を聞かれていたのを覚えている。これもおしかったという記憶はない。父から聞いた話といえば薩英戦争での薩摩武士の勇敢果敢なこと、小学生の私にはあまりに生々しい話だったが。会話というより一方的な話だった。夜は我が家には工場の人が集まり酒盛り。にぎやかな家であった。酒を一滴も飲めない人も来ていたので父は好かれていたのだろう。父を人は評して竹を割ったような人間と言っていた。そんな家庭が一変したのは昭和28年。朝鮮戦争の休戦。朝鮮特需が終わり、父の会社も不況に襲われ父は解雇された。父たちは越年で会社側と闘ったが失業することになった。父が亡くなったのは昭和29年。50歳。

 

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