都はるみの「北の宿から」を聴いて、思わず涙があふれ出てきた。「あなた変わりはないですか 日毎寒さがつのります 着てはもらえぬセーターを 寒さこらえて 編んでます・・・・・」小学生時代の一景を思い出した。母がほどいた毛糸をまっすぐ伸びた私の両手にかけ毛糸を丸いボール状にした。単調な動作に退屈し、時に両足に毛糸をかけてみたが、このほうが疲れた。当時毛糸のセーターを着ていたのは恵まれた家庭の子で私がねだったかもかもしれない。学生服の袖からセーターの袖口が見えている子はうらやましかった。古い毛糸をほどき編んでいる母の姿がよみがえる。南に向いた,ガラス越しに光が差し込む六畳間でのこと。左側に押入れと仏壇、床の間。右側は隣家と隔てる壁。南側は縁側。その外は小さな庭。庭石の向こうには祖母が挿し木したイチジクの木。このイチジクの木は熟した実を付ける事もなく、切られてしまい、幹は私のチャンバラごっこの刀となった。その後柿の木が植えられたが、この木はアメリカシロヒトリが集団発生したときに切られてしまった。防火用水が庭の西隅にあったが、水がはられることもなく、かくれんぼの時に使われるぐらいで無用の長物とかしていた。この家に住むようになったのは大阪大空襲の後だった。私の家はもともと大阪貨物線の線路沿いにあったが、昭和19年3月13日夜から14日未明の空襲で焼き払われ、焼け残った十三の長屋の一軒に逃げのびた。防空頭巾をいやがる、まだ足元がおぼつかない私を背負い、そして子供たちの手をとって必死であったろう。当時の法律で空き家であれば入居してもよかったので、やっと見つけた家だった。五軒長屋の東から二軒目の二階建ての約20坪ほど家。大家は芦森工業の重役。戦後家賃の徴収に来られる姿を思い出すが、細身の方だった。そんな家での時が止まったような光景。そのセーター。私は一度も着ることはなかった。少しできると私に試着させるのだが、その時には私が大きくなり、毛糸をほどいて編み直し。その繰り返しのうち、父が失業。母も忙しくなりセーターはついに完成することがなかった。でも一生懸命編んでくれた母に感謝。
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