書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

水谷尚子 『「反日」解剖 歪んだ中国の「愛国」』

2005年09月30日 | 政治
 再読(→9月24日「今週のコメントしない本」③)。

“中国の反日青年たちは、何事につけ「日本の右傾化・右翼勢力の拡大を懸念する」と言うが、右傾化と言うよりも日本では「『左』が駄目になった」(左翼的価値観が崩壊した)と表現したほうが現実にちかい” (「中国『反日』運動家“紳士”録」 本書157-158頁)

 確かに。いまや「無意味なウヨサヨ論争につきあっている暇はありません」と、ひたすら逃げの一手というていたらくである。そしてこんな左翼陣営の卑怯で見苦しい人間風景が(正確に言えば右翼とちがって弁が立つので、うまく言い逃れようとして卑怯さと見苦しさがより一層際だつ)、日本における左翼的価値観の崩壊に大いに一役買ったのである。

参考:
“こうしたラディカルな世代〔引用者注・ドゥールーズやデリダを指す〕の後から出発した人々、日本でいう「全共闘世代」にあたる人々は、一九六八年にはいたずらに過激なマオイスト(毛沢東主義者)だったのが、すぐに転向して、ヌーヴォー・フィロゾーフ(新哲学派)を自称しつつ反共宣伝に奔走し、今では「ヨーロッパの人権思想に勝るものは結局なかったのだ」と言ってヨーロッパ中心主義に居直っている始末です” (浅田彰 『「歴史の終わり」を超えて』 「第3章 エドワード・サイードとの対話」 中央公論新社中公文庫版 1999年7月 同書96-97頁)

“中国の庶民とバトルを繰り返し、生の声を伝え合ってこそ、相互理解は生まれてくる。/それは確かに骨の折れる作業だ。だが、めげない・逃げない・諦めない。反日青年よ、かかってきなさい。私はまた、君たちに会いにゆく!” (「中国『反日』運動家“紳士”録」 本書158頁)

 偉い。同胞でもわけのわからん奴とは話をしない私には、とてもできない真似である。

中国のわけのわからん奴の典型例:
→戴文武 「軍国思想教化民衆 日本侵華謀劃三百多年」 
    (http://world.people.com.cn/GB/14549/3713819.html)
  いつまでも井上清・遠山茂樹流の受け売りをしている。戸部良一『日本の近代 9 逆説の軍隊』(中央公論社、1998年12月)でも読んで勉強してから物を言え(→2003年6月17日欄)。もっとも学習能力と内在的批判能力があればの話だが。私はないと思う。明らかな馬鹿だから。私なら、はなから口も利かない。  

“では私たち日本人は反日感情渦巻く中国に対して、どう接していけばいいのか。/「反日教育をやめろ」ではなく、より具体的な事象――「田中メモランダム」「疑わしき写真」「倭寇」・・・・・・について、再考を促すなど、事実と実態をしっかり把握し、不条理な反日には一つ一つ反論していくべきであろう。自身のテリトリーの中で相手を糾弾するのは容易いが、相手のテリトリーに出て行って、こちらの主張を伝えるのは骨の折れる仕事ではあるが・・・・・・” (「共産党プロパガンダの大行進 愛国主義教育基地を往く」 本書201頁)

 「馬鹿と口を利くのは無益であり一秒なりとも時間の無駄である」という自分の行き方が間違っているとは思わない。けれども私は著者を尊敬する。

(文藝春秋 2005年9月)

劉青著 是永駿訳 『チャイナ・プリズン 中国獄中見聞録』

2005年09月30日 | 政治
 柴玲と同じく、西側に来て、ちやほやされて、おかしくなった中国民主化運動のスター。それとも公益を掲げて私利を貪るのはあさましい権力争いと並んで“中国の特色を持った民主化運動”で、西洋の物差しで批判するのはお門違いか?

 →茉莉 「中國人權主席劉青的權力腐敗」
   http://caochangqing.com/big5/newsdisp.php?News_ID=1001

 →曹長青 「角色不清的“中國人權”」
   http://caochangqing.com/big5/newsdisp.php?News_ID=474

 →曹長青 「台湾経費和民運腐敗」
   http://caochangqing.com/big5/newsdisp.php?News_ID=1001

   (金谷譲訳 「台湾の秘密資金と民主化運動の腐敗」)
     http://www.eva.hi-ho.ne.jp/y-kanatani/minerva/

 →曹長青 「權力夢對人的腐蝕」
   http://caochangqing.com/big5/newsdisp.php?News_ID=354

 →曹長青 「一篇文章引起的風波」
   http://caochangqing.com/big5/newsdisp.php?News_ID=507

 →曹長青 「民運人士,丟死人了!」
   http://caochangqing.com/big5/newsdisp.php?News_ID=208

(凱風社 1997年5月)

▲おまけでクイズ。

 海外の中国民主化運動団体とかけて、近頃靖国神社損害賠償訴訟で有名な(本日大阪高裁の控訴審で敗訴した)台湾の“先住民族”立法委員・高金素梅女史と解く。そのこころは、
 「同じ穴のムジナ」。

参考(ひとつ目の穴について):
→http://www.koryu.or.jp/Geppo.nsf/0/21abdfe36f25bdd649257084002ed8a0?OpenDocument (日本語)

さらに参考(ふたつ目の穴について):
→http://www.koryu.or.jp/Geppo.nsf/0/91ba9cfddf12bb1e4925707e001af6da?OpenDocument (日本語)
→http://search.people.com.cn/was40/people/utf8/japan_index.jsp?type=1&channel=japan (日本語) 
→http://caochangqing.com/big5/newsdisp.php?News_ID=1229 (中国語)

 ふたつ目の穴を掘った者にとっては、ひとつ目の穴はまかりまちがえば「人を呪わば穴ふたつ」の穴になりかねない可能性あり。

岡田英弘 『だれが中国をつくったか 負け惜しみの歴史観』

2005年09月29日 | 東洋史
 南宋時代に生まれた中国の尊皇攘夷思想は、夷狄の女真族が建てた金に中国の北半分(いわゆる中原)を取られたヒステリーの発作のようなものだと前々から思っていたが、岡田氏も同じような見方をしている。

“新疆ウイグル自治区は古代から中国の不可分の一部であり、かつては「西域」と呼ばれた。前漢が西域都護府を設置した紀元前60年、新疆は正式に中国領土の一部となった。1884年には、清朝政府が省を設置した。新疆は1949年に平和解放され、1955年10月1日に新疆ウイグル自治区となった” (「人民網 日本語版」インターネット「新疆ウイグル自治区成立50周年」欄「編集者付記」)
 →http://j.peopledaily.com.cn/zhuanti/Zhuanti_193.html

 北宋・南宋を通じた宋代(紀元10-13世紀)の中国は、西域(=新疆)とはほぼ没交渉だった。
 新疆地域は、前漢時代にたしかに漢の版図に編入された。だが後漢時代(紀元1世紀-3世紀)にはすでに「三通三絶」といわれて、領土としてはほとんど喪失した状態になっている。魏晋南北朝時代はずっとそのままの状態で推移し、それを承けた清以前では最強最大の王朝といっていい唐でも、7世紀半ばから8世紀半ばの約100年間しか統治できていない。いまのべたように次の宋代ではまったくそうではない。元でもあやしいものだ(元と大モンゴル帝国は別個の存在である)。明代も違う。新疆が確実に支配下に入るのは清朝、しかも18世紀後半になってからである。
 これだけの歴史的事実を踏まえて以上の「人民網 日本語版」の文章を読むと、姑息なごまかしが臍で茶を沸かしそうなほど笑止である。こんなすぐ種の割れる詭弁が通ると思っているなら、この編集子は大間抜けである。それとも本当に自国の歴史を知らないのか。「二十四史」というものを聞いたことはないか? 『資治通鑑』はどうか? 「歴史を鑑にする」という書名だが? 

(PHP研究所 2005年9月)

香山リカ 『いまどきの「常識」』

2005年09月29日 | その他
 他人を馬鹿と批判するときは前もって本人に通知せねばならないそうだ。それが人としての礼儀だそうである。それをしない今時の日本人の常識はと著者は嘆く。
 ではきくが、貴方は自分のところに山ほど来るとかいう罵詈雑言のメールや書信にすべて返事をしたためているのか。手紙をもらったら返事を書くのもまた人としての礼儀であろう。
 この人の意見のいかがわしさと言論人としてのうさんくささについては前に書いたことがあるけれども(→2002年5月15日『若者の法則』。また同年10月13日宮崎哲弥『身捨つるほどの祖国はありや』も参照)、この本で著者が露出する思考回路のあまりの疎漏さを見て、この人は商売や人気取りで馬鹿の振りをしているのではなくて本当に馬鹿なのだと思った。この人の嘆く“日本人”とは御自身のわずかな体験例をそのまま拡大して一般化しただけの抽象的な概念であって、著者の頭の中にしか存在しない。
 例えば私は著者に匿名で誹謗中傷メールを送ったことはないし、批判した相手から「あなたは私についてこれこれと書いていましたね」と面と向かってきかれても、「はいそうです。書きました」と答える人間である(相手によっては「本心からそう思っていますから」とまで言うかも知れない)。ということは私は日本人ではないのか、馬鹿!

(岩波書店 2005年9月)

松尾正人編 『日本の時代史』 21 「明治維新と文明開化」

2005年09月27日 | 日本史
 明治以前の天皇は拝むと御利益のある「神様」だった。江戸時代は全国レベルで見たら目が潰れると思われていた。明治になってもしばらくはこの種の「神様」扱いで、明治11(1878)年の全国巡幸の際、新潟では「行列に向かって賽銭を投げるな」という諭告が出された。中国地方では家々に注連縄を張ったうえ、御鏡餅や御神酒を台の上に供えて巡幸を迎えた所があった(以上、本書「Ⅱ 巡幸と祝祭日」より)。
 江戸時代は公家も神様(“生き神”、“現人神”)扱いで、京都の住民は験があるというので公家が入った風呂の水をもらって飲んでいたと聞いたことがある。この本でも、御所に入る公家に手を合わせる庶民が描かれた当時の絵画資料(「拾遺都名所図絵」1787年)が紹介されている。
 「日本は神の国」の「神」とは、元来はこういう意味の「神」である。何遍でも言うが、土俗神道と明治以後敗戦までの国家神道とを一緒にするな。聞く方も言う方も。

(吉川弘文館 2004年2月)

佐々木寛司 『地租改正 近代日本への土地改革』

2005年09月26日 | 日本史
“(地押丈量とは)個々の土地境界を明確にし、その面積を測量する作業である” (本書 162頁)

“(地押丈量の)作業を通じて農民の土地に対する権利が確定する。この地押丈量をまって、近世以来発展してきた近代的―一元的土地所有の権利が体制的に保障されるといってよい” (本書 162頁)

“(地租改正の)特徴を一言でいえば、個人の土地所有権を体制的に法認し、その土地所有者を地租負担者とするものであった。ということは、地租負担者を確定するために、その前提として土地所有者を決定する必要があった。(略)だからこそ、維新政府はその実施に先立って、「土地所有権の公認」を改組理念の一つとして設定したのである” (本書 190-191頁)

 最後まで読んで、66頁の、以下に書き抜く著者の言がやっと理解できた。

“統一的単位に基づく丈量作業が、「地租負担の公平」化の必須条件であったとするならば、地押作業による境界の確定は、排他的な所有権の及ぶ範囲を明確に設定したことで、その土地に対する所有権保障の条件を完備したことになる。それは、もう一つの改租の理念である「土地所有権の公認」の基礎作業にもなった。
 この「土地所有権の公認」は、地券制度と結合することで、制度的に完成される。地租改正における地券は、土地に対する排他的な権利の確証手段としての意味をもつ。つまり、私的所有権の証なのである。
 地押丈量と地券制度が合体することによって、土地が個人の私有財産として認められ、旧来の重畳的な土地所有関係に代わって、新たに一元的、排他的な私有関係=近代的な土地所有関係が公認され、旧い土地制度が解体されたのである。
 地券制度は、また、統一的な丈量基準に基づいて厳密に測量された土地面積を前提として算出された地価額をこの地券に記載し、これを基準とする金納地租を賦課する統一的、公平な地租制度、近代的な租税制度を確立することにより、旧来の貢租制度を解体する手段としても機能した。
 つまり、地押丈量は、地租改正に特有な地券制度存立の重要な構成要素なのである。この制度は、土地所有権の公認と地租負担者の確定という二側面を有する権利―義務の関係を明確に設定したものといってよい。一方では、権利の確証手段として私的所有権の証の意味をもち、他方では、義務の履行手段としての地券税法たる意味をもっていた。日本における近代的土地所有―近代的租税制度の確立は、したがって、地券制度―地押丈量の確立をまって、はじめていえることなのである” (Ⅲ「土地改革の基本理念」)

 つまり、土地の私的所有権が公認されていない社会では近代的な土地税制度が確立できず、ひいては全体としての近代的租税制度も確立され得ないので、国家の近代化は不可能であるということだ。

(中央公論社 1989年11月)