書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

鎌田茂雄 『中国仏教史』 全6巻

2017年12月18日 | 宗教
 同じ著者による同名の著書(岩波全書版 1978年9月)を読んだきりだったので、読んでみた。こちらは基本的に唐代で終わっている。

(東京大学出版会 1982年1月~1991年1月)

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『植村正久と其の時代』

2017年12月15日 | 宗教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%9D%91%E6%AD%A3%E4%B9%85%E3%81%A8%E5%85%B6%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3

 第4巻に明治初年の聖書の日本語翻訳についての記述と資料紹介がある。植村はこの明治元訳に携わり、のち大正改訳を提起・参画するのだが、その提起の議論(とりわけ改訳の理由)が、案外保守的であると思える。とりあえずの備忘。

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横山紘一 『唯識思想入門』

2017年08月08日 | 宗教
 出版社による紹介

 この本と著者のお陰で、ようやく門をくぐれたらしい。

(第三文明社 1976年10月)

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Ernst R. Wendland, "Translating the Literature of Scripture"

2017年07月22日 | 宗教
 副題:"A Literary-Rhetorical Approach to Bible Translation"
 出版社による紹介

『聖書』とは経典、神の言葉を記したものであるから、内容に関しいかなる意味上の変更も、今日の時代状況や翻訳先の言語や文化に合わせてのいかなる修正・翻案もまかりならんと、開巻すぐ釘を刺してある。『聖書』を翻訳するとはそういうことだと言うのである。'Preface', p. xix.
 疑うな、おのれの賢しら(理性?)で解釈しようとするな、書かれているとおりに、正確に解釈し翻訳せよということなのだが、だがそのテキストを書かれているとおり“正確に”“解釈”するのは人の精神における何なのであろう。

(Dallas: SIL International, June 2004.)

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日本聖書学研究所編 『聖書外典偽典』 3 「旧訳偽典Ⅰ」

2017年05月07日 | 宗教
 出版社による紹介。

 「第4マカベア書」(土岐健治訳)がたいへんおもしろい。注もまた非常に教えられる。あと「スラヴ語エノク書」(森安達也訳)。

(教文館出版部 1975年9月)

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外典 - Wikipedia

2017年05月04日 | 宗教
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%85%B8

 同項の英語版露語版漢語版もあわせて参照した。書記する言語によって表現できる概念や世界が異なってくることについては、むかしもいまもたいして問題にはならなかったのだろうか。これらではさほど触れられてはいないが、外典は現存テキストのみならず最初からヘブライ語・ギリシア語に限らない言語で書かれた(らしい)テキストも存在すると聞く。

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秦剛平訳 『七十人訳ギリシア語聖書』 Ⅰ 「創世記」

2017年02月03日 | 宗教
 出版社による紹介

 劈頭いきなり、「神は~を見て、よしとせられた」のくだりがセプトゥアギンタでは「神は~を見た。美しかったからである」となっているのに驚き、ついで興味深く思った。元のヘブライ語では単に連続する動作として叙述されたものがギリシア語訳では因果関係として捉えられ時間的な順序も逆になっていること。

(河出書房新社 2002年10月)

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井波律子訳 『完訳 論語』

2016年11月11日 | 宗教
 “訳”、つまり翻訳だから、これで当然だが、原書のテキストクリティーク(本文の校訂を含め)は、一切行われない。だがこれがもし研究書ならそれは必須である。先行研究になる宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店 1974年6月)よりも方法論としては後退していると言える。万が一、これが経書の文字は改むべからずというような理由であるなら、心事はさらに前へと遡ることになる。

(岩波書店 2016年6月)

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C. H. ドッド著 室野玄一/木下順治訳 『神の国の譬』

2016年07月02日 | 宗教
 おそらく譬は、ただ非ユダヤ的環境においてのみ、寓喩的に神秘化されたものと思い違いされたのであろう。ユダヤ人教師の間では、譬は一般的でよく了解されていた説明の方法であり、イエスの譬も形式においてはラビの譬と類似のものであった。それゆえ、なぜ彼が譬で教えたかという問題が起こったとは思われないし、なおさら、そんな当惑するような回答をうけとることもなかったであろう。これに反して、ヘレニズムの世界においては、寓喩的解釈を施して神話を用いることは、密教的教理の道具とされて、広く行きわたっていた。そしてこの種のあるものは、キリスト教の教師達の中にも見いだされるであろう。これが何ものにもまして、解釈を誤った線にもっていったのである。  (「第一章 福音書の譬の性格と目的」 本書18頁。下線は引用者、以下同じ)

 それでは、もしそれが寓喩でないとすれば、譬とは何であるか。それは、真理を抽象観念で考えるよりも、むしろ具体的な光景の中で見ようとする心の自然な表現である。  (同、19頁)

 寓喩=アレゴリー。

 もっとも単純な形では、譬は自然とか日常生活から取り出された隠喩 (metaphor) か直喩 (simile) で、聞く者達をその潑剌さや珍しさで捕え、それを的確に適用するに当たって心にかなりの疑惑をおこさせ、次第にそれを生きた思想にかえていくのである。  (同、19-20頁)

(日本基督教団出版部 1964年8月)

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「良知(リョウチ)とは」 コトバンク

2015年07月21日 | 宗教
https://kotobank.jp/word/%E8%89%AF%E7%9F%A5-659427

 『世界大百科事典(第2版)』の説明。

 王陽明の場合,良知はもはや単なる知覚能力とか判断能力ではなく,人格的統一主体を意味する。王陽明がこの意味で,良知説を発見するのは49歳の時である。それ以前は人格的統一主体の意味をあらわす語としては心を用いて心即理と主張していた。これでは心のもつ背理可能性が危惧されるので良知とおきかえたのである。
 (下線は引用者)

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