書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

横山宏章 『陳独秀の時代 「個性の解放」をめざして』

2012年08月31日 | 東洋史
 再読。胡適が陳独秀のマルクス主義者になったのを批判して以下のように言ったことにあらためて注目する。

 以前に陳独秀先生は、プラグマティズムと弁証法の唯物史観が近代の重要な思想方法であるといわれ、この二つの方法を一つの連合戦線として合作したいと希望された。しかしこの希望は間違いである。弁証法はヘーゲル哲学から生まれたもので、生物進化論が成立する以前の非科学的方法(玄学)である。プラグマティズムは生物進化論が生まれた後の科学方法である。この二つの方法は根本的に相容れない。 (「第二部 研究論文」、「協調と論争の友情――陳独秀と胡適」本書407頁)

 422頁の注16によれば、この胡適の意見は「介紹我自己的思想」(『胡適選集』天津人民出版社、1991年、272頁)にあるそうだ。
 唯物史観ひいてはマルクス主義は、たしかに胡適の言うとおりであろう。しかしプラグマティズムとてそうではないか。胡の杖と恃む生物進化論そのものが、こんにちの見地からすればいまだ検証されない部分を多分に抱えた理論で科学とは言い難かった。さらにいえば進化と進歩とを一緒くたにしていたような当時の俗流進化論は、とうてい科学とはいえない。
 胡はここに名言しているとおり、そういった自然淘汰=弱肉強食の如き俗流理解とは一線を画して純粋に生物進化論を信奉していたのかもしれない。しかしこの“信奉”という態度がまさに――それがすべての正偽や善悪を下すもととなりえるという「疑わない」態度が――、すでに科学的ではない。
 陳にとっての唯物論およびマルクス主義が玄学であったとすれば、胡にとってのプラグマティズムもまた、それ自身の本質は別として玄学であったと言ってよいのではないか。
 
(慶應義塾大学出版会 2009年9月)

徳永和喜 『薩摩藩対外交渉史の研究』

2012年08月31日 | 地域研究
 江戸時代、鎖国令の発令後、次第に対外貿易への統制色を強めていく幕府のその裏を掻いて密貿易に励む薩摩藩、その薩摩藩の締め付けをかいくぐって私貿易を行おうとする琉球王国政府、その琉球政府の取り締まりの目を盗んで運び屋商売に励む進貢船の乗員すなわち琉球の士民、そして内地の需要をバックにその琉球士民から唐物を買い付け抜荷品を本土で売りさばこうとする海商――という構図があったそうな。

(九州大学出版会 2005年12月)

喜舎場一隆 『近世薩琉関係史の研究』

2012年08月31日 | 日本史
 江戸時代、鹿児島に置かれていた琉球王国の公館もしくは連絡事務所である琉球仮屋が、天明4・1784年に琉球館を名を変えていたことを知る。中国福州にあった琉球館と同じ名だが、別にそちらの面で統一したわけではなく、その少し前(元文2・1737年)、薩摩藩内の数カ所で「仮屋」から「屋敷」の名称変更が行われていることと関連があるらしい。なお琉球に置かれた薩摩側の「薩摩仮屋」は、そのままの名で存続した。なお「仮屋」は近世では中世の軍営または軍政機関から転じて民政官庁および役所の意味となったが、薩摩藩の琉球関係においては「仮屋」は在地の「民政を優先した民政・軍政の中枢機関」という意味を持っていた由。

(国書刊行会 1993年2月)

宮良當壯 『宮良當壯全集』 10 「琉球官話集」

2012年08月31日 | 地域研究
 中松竹雄『沖縄県のことば』(げんけん 1999年1月)で紹介されていて(注)、気になったので原本を読んでみた。琉球王国時代の口語中国語(北京官話)と琉球語の対訳・語学学習用テキストである。収録語彙数4,492語、成立年月日は記載がないため不詳。収録語彙や中国語から判断して日本史でいえば江戸時代末期から明治初期にかけての時期であろうと、喜舎場一隆氏による巻末「解題」にある。著者の宮良當壯(みやらとうそう 1893-1964)は、石垣島出身の国語学者、方言研究家。
 
 。「Ⅳ 琉球官話集にあらわれた近世琉球語」、同書131-156頁。

 内容は、一字、二字、三字、四字、五字と、次第に単語、句、短文へと進んでいく。その間、文法説明もなにもない。久米村(唐栄=中国系住民の住む集落)の子弟が通事試験を受けるための教科書として使ったものだったからだろう。其れ以外の受験者も、基本的に士族であるから漢文の素養があったはずで、それならばやはり文法説明は無用である。

 そしてこれら漢語の下につく琉球語(標準語たる首里方言に那覇ほかの他地方の方言の入り混じった、これも問題らしいけれど)は、全編片仮名でしるされている。カタカナか、ひらがなではないのだと、浅学者はちょっとあてがはずれて驚いた。

(第一書房 1981年6月)

戸部良一 『日本陸軍と中国 「支那通」に見る夢と蹉跌』

2012年08月30日 | 現代史
 副題がすべてを物語っている。夢は貴方の夢、醒めるのも貴方の自由、勝手。
 それにしても文革や天安門事件を軸にすれば『日本東洋史・中国学界と中国 『中国通』に見る夢と蹉跌』という本もものせそうである。あほらしいので私は金輪際やる気はないが。

(講談社 1999年12月)

王陽明著 溝口雄三訳 『伝習録』

2012年08月29日 | 東洋史
 黄仁宇氏は、「王陽明には、真理のための真理という傾向がない。朱熹と同様に、彼の目的も、自分の思想体系を利用して、小さい頃から受け入れた儒家の教条を立証し、国家統治に役立てようということにあった」というが(注)、正直微妙な感想である。悩み抜いて思想遍歴をくり返したあげくやはり儒教が優れていると判断して戻ったのか、それとも黄氏のいうとおり結局は始終儒教の枠組から脱け出ることができなかったのか、あるいは儒教のフレームワークと語彙を借りて外表はその保護色を装いつつその実は己独自の思想を開陳しようとしたのかという見極めが、まだつかない。このことは朱熹についても程度の差こそあれ同じ。

 。黄仁宇著、稲畑耕一郎/古屋昭弘/岡崎由美訳『万暦十五年 1587「文明」の悲劇』(東方書店 1989年8月)「Ⅶ 李贄」、同書295頁)。

(中央公論新社中央クラシックス 2005年9月)

宮崎市定 「中国における奢侈の変遷 羨不足論」(『史学雑誌』51-1、1940年1月)を読み直して

2012年08月27日 | 東洋史
 ※テキストは砺波護編『中国文明論集』(岩波書店 1995年12月)に収録されたものを使用。同書9-46頁。
 ※なお、羨不足論はこの講演の冒頭のみで語られる、いわばつかみであって、本題とはほぼ関係ない。以下の私の文章をウェブログ=自分の随想・エッセイに分類したゆえんである。

 宮崎氏は、『塩鉄論』第二十九に表題としても掲げられる「散不足」という語はその儘では意味が通らぬとして、『管子』などに見える「羨不足」に直すべきだという。しかしどうだろうか。『塩鉄論』の原文では「聚不足」と対を成す概念だから、このままでいいのではないか。
 「散」と「聚」、「散じる」と「聚(あつ)める」は、意味と形式において対比を成している。「散じて足らず」、「聚(あつ)めて足らず」。ところが宮崎氏は、これを意味が通らないとして「羨不足(剰〔あま〕ると足らざると)の意味であるとする。私にはこの方がかえって意味がわからない。

 宮崎氏は、この『塩鉄論』の第二十九「散不足」章は、人民の経済的な格差問題を論じた章であるから、散不足ではおかしい、羨不足だと仰る。しかしそれはおかしくはないか。
 氏は、例えば『管子』の、これもやはり経済財政を論じた「国蓄」に、「鈞(均)羨不足(あまるとたらざるをひとしくす)」とあるではないかと言われるのだが、それは根拠にはなりにくいと思う。これで羨不足には「あまるとたらざる」という意味もあるということはわかる。しかしそれだけである。
 だいいち、原文が「散じて足らず(財政支出が〔困窮した〕人民に分配して行きわたらない)」「聚めて足らず(国家の税収が支出に及ばない)」という表面通りの意味でとりあえず文意は通るのだから、無理に文字を変改する必要がない。

 どうもこの無理は、宮崎氏は「羨不足」を、「跛行景気」「凸凹景気」という氏のマクロ史観からの解釈に引きつけて訳そうとしたために出たもののように見える。「羨不足」は、氏も言うとおり、基本は「財産の不平均」であろう。まさに「剰(あま)ると足らざると」なのである。(ちなみに、冒頭の言と矛盾するようであるが、宮崎氏が、どうしてこの羨不足をまくらに持ってきたかの理由がこれでわかる。氏の講演の根本のテーマは、景気から中国史を捉えるという氏の史観に基づくものなのであり、その点からいえば、羨不足は、ただのつかみではなく、この全体テーマの象徴なのである。)

 そしてこの「羨不足」という言葉は、これも氏の仰るとおり戦国時代から漢代にかけての古い時代に専ら用いられた語で、そのあとはあまり常用されなくなったかもしれぬが、「盈不足」と羨の同意語の盈に字句を変えて中国数学の用語としてその後も長く使われ続けた。漢代成立の『九章算術』の第7章「盈不足」は、こんにちでいう過不足算についての説明である。まさに「あまるとたらざると」である。

 以上、桑田幸三「『散不足』と『聚不足』(一)(二)」(『経済論叢』86-5/6、京都大学経済学会、1960.11/12)に啓発されて。

李沢厚著  坂元ひろ子/砂山幸雄/佐藤豊訳 『中国の文化心理構造 現代中国を解く鍵』

2012年08月26日 | 東洋史
 現在の中国は「マルクス・レーニン主義の中国化」即「中国化した社会主義の道」の段階にあり、それは要するに「中体西用」ならぬ「西体中用」の実施だという。なんだ中国(人)自身が、自分たちはいまだに19世紀清朝の洋務運動の段階にあると認めているではないか。その他にも、孔子の再評価だの、愚かしいことが沢山書いてある。

(平凡社 1989年10月)