中国では“漢奸”(売国奴、裏切者)という倫理的非難の大義名分のもとに、その人物の業績までを否定抹殺してしまう。だから周作人が示した入神の日本洞察も、民族や国家の共通財産として承け継がれることはなく、後の世代に影響を与えることもない。
1966年8月22日、周作人は北京八道湾の自宅を襲撃した紅衛兵の集団によって暴行を受けたあと、浴室に監禁された。以後、1967年5月6日に隣人によって死んでいるのを窓越しに偶然発見されるまで、彼は日の差し込まぬうす暗い浴室の床板の上に横たわって過ごした(本書「後日編」附録、文潔若「晩年の周作人」による)。
“けだしある友人(同意を得てないからしばらく名は言わずにおく)が言ったように、和は戦よりもむつかしく、戦い敗れても民族英雄になれる(昔は自分が命を犠牲にせねばならなかったが、今は逃げる所まである)が、和が成れば万代の後まで罪人だ。それゆえ主和のほうが、よほど政治的定見と道徳的毅力を要するのである” ――周作人「再論油炸鬼」1936年。本書19頁に引用。
“秦檜が和平を主張した結果、国の半分を温存することができた” ――劉傑『漢奸裁判』(→昨日)259頁に引く1936年の周作人の文章。出典の言及なし(「岳飛と秦檜」?)。
“子供の頃、西湖を訪れたとき・・・・・・岳飛の墓前に四つの鉄の彫像が置かれていた。それは秦王の四人を表しているのではない。むしろ中国民族の醜さを表しているのだ” ――同上。
(岩波書店 2004年7月)
1966年8月22日、周作人は北京八道湾の自宅を襲撃した紅衛兵の集団によって暴行を受けたあと、浴室に監禁された。以後、1967年5月6日に隣人によって死んでいるのを窓越しに偶然発見されるまで、彼は日の差し込まぬうす暗い浴室の床板の上に横たわって過ごした(本書「後日編」附録、文潔若「晩年の周作人」による)。
“けだしある友人(同意を得てないからしばらく名は言わずにおく)が言ったように、和は戦よりもむつかしく、戦い敗れても民族英雄になれる(昔は自分が命を犠牲にせねばならなかったが、今は逃げる所まである)が、和が成れば万代の後まで罪人だ。それゆえ主和のほうが、よほど政治的定見と道徳的毅力を要するのである” ――周作人「再論油炸鬼」1936年。本書19頁に引用。
“秦檜が和平を主張した結果、国の半分を温存することができた” ――劉傑『漢奸裁判』(→昨日)259頁に引く1936年の周作人の文章。出典の言及なし(「岳飛と秦檜」?)。
“子供の頃、西湖を訪れたとき・・・・・・岳飛の墓前に四つの鉄の彫像が置かれていた。それは秦王の四人を表しているのではない。むしろ中国民族の醜さを表しているのだ” ――同上。
(岩波書店 2004年7月)