書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

木山秀雄 『周作人「対日協力」の顛末 補注『北京苦住庵記』ならびに後日編』 

2005年07月09日 | 東洋史
 中国では“漢奸”(売国奴、裏切者)という倫理的非難の大義名分のもとに、その人物の業績までを否定抹殺してしまう。だから周作人が示した入神の日本洞察も、民族や国家の共通財産として承け継がれることはなく、後の世代に影響を与えることもない。
 1966年8月22日、周作人は北京八道湾の自宅を襲撃した紅衛兵の集団によって暴行を受けたあと、浴室に監禁された。以後、1967年5月6日に隣人によって死んでいるのを窓越しに偶然発見されるまで、彼は日の差し込まぬうす暗い浴室の床板の上に横たわって過ごした(本書「後日編」附録、文潔若「晩年の周作人」による)。

“けだしある友人(同意を得てないからしばらく名は言わずにおく)が言ったように、和は戦よりもむつかしく、戦い敗れても民族英雄になれる(昔は自分が命を犠牲にせねばならなかったが、今は逃げる所まである)が、和が成れば万代の後まで罪人だ。それゆえ主和のほうが、よほど政治的定見と道徳的毅力を要するのである” ――周作人「再論油炸鬼」1936年。本書19頁に引用。

“秦檜が和平を主張した結果、国の半分を温存することができた” ――劉傑『漢奸裁判』(→昨日)259頁に引く1936年の周作人の文章。出典の言及なし(「岳飛と秦檜」?)。 

“子供の頃、西湖を訪れたとき・・・・・・岳飛の墓前に四つの鉄の彫像が置かれていた。それは秦王の四人を表しているのではない。むしろ中国民族の醜さを表しているのだ”  ――同上。

(岩波書店 2004年7月)

周作人著 木山秀雄編訳 『日本談義集』 

2005年07月09日 | 東洋史
DVD-ROM 平凡社『世界大百科事典 第2版』より

周作人 1885‐1967
しゅうさくじん Zhou Zuo ren

中国の散文作家。原名は交寿,またの名が作人。みずから起孟または啓明と号し字を兼ねる。筆名は仲密,豈明,知堂,遐寿など多数。浙江省紹興の人。1906年兄樹人(魯迅)に続いて日本に留学,立教大学で古典ギリシア語と英文学を学ぶ。この間民族革命運動の潮流の中で兄と東欧弱小民族の文学の紹介(《域外小説集》)に努めたが,本格的に過ぎて反響がなかった。貧しい日本娘羽太(はぶと)信子と恋愛結婚,辛亥革命直前に帰国。郷里の教育界で活動ののち,17年北京大学に迎えられ,おりからの文学革命運動に呼応して,〈人の文学〉〈平民文学〉などの評論で,日本の白樺派風の清新な個人主義ヒューマニズムを鼓吹,同時に日本語,ギリシア語,英語を通じて古今の海外文学を精力的に紹介した。作家としては早くから自由な小品散文の中国独自の可能性を洞察,全生涯を通じて《雨天の書》以下約20冊を数えるうっそうとした随筆群を残した。それは文芸を〈生活の芸術〉とすることによって,偽善的な禁欲主義と節制なき欲望耽昏とが相表裏するという固有文明の悪をつぶさにはらおうと志した,彼の思想的な選択と無関係でない。こうして初期の無政府主義,社会主義,世界人類主義等々を主義の形では次々に捨て,さらに北伐国民革命の分裂,変質前後からは反時代的な隠逸の色をも深くしていきながら,生活意識や趣味の隅々にわたって民族文化の〈再生〉を求め続けたところに,彼なりの一貫性を認めることができる。そこで,彼が古典ギリシアの現世主義的な〈霊肉一致〉の人間観と並んで日本文化の〈簡素〉〈自然〉〈人情美〉を愛し,とくに江戸文芸に深入りしたのも,上のような伝統批判の大きな構想にかかわる事実であった。そういう文化的〈親日派〉の態度は,当然,日本の軍国主義化に鋭い反応を起こし,〈支那浪人〉や〈支那通〉への執拗な批判や一連の苦渋を極めた日本文化論が書かれることとなったが,全面戦争開始後,不幸にも日本軍占領下の北京に留まったあげく,協力政権の閣僚職に就くところへ追い込まれ,このため日本降伏後に国民政府の手で〈漢奸裁判〉にかけられ,南京の獄に投じられた。共産党の勝利が彼の釈放をもたらし,人民共和国では魯迅に関する著述,日本,ギリシア古典の翻訳,香港で発表された自伝等を残したが,政治ならびに道義上の汚名はついにそそぐことができなかった。 (木山 英雄)

“最初日本へ行った時は、魯迅と一緒に暮らしたが、私どもの東京生活は全然日本式だった。留学生の多くは日本の生活に馴染めなくて、下宿でも立机や椅子を使い、寝台が買えないというので押入れに寝たり、食事も熱いのでなければ食べなかったりした。こういう連中を私どもはいつも嘲ったものだ。つまり、不自由が忍べぬくらいならなにも外遊することはないわけだし、だいいち、日本へやってきて少しばかり技術をおぼえて帰っても結局は上っ面をなでたにすぎず、生活から体験してかからぬ限りは日本のことは深くわかるまい、とそう思っていたからである” (「留学の思い出」1942年。本書333頁)

“要するに、私どもは衣食住ともにまったく日本式の生活を送っていたのであるが、一向に不自由はしなかったし、慣れてみれば面白くさえあった。そして私の方は(魯迅とは違って)東京に六年いた間一度も帰国していない。私が東京を第二の故郷と呼ぶのも、いってみればこのようなわけからである” (「留学の思い出」1942年。本書334頁)

 魯迅はまとまった日本論は一編も書いていない。この点周作人と対照的である(もっとも魯迅のほぼすべての作品はある意味裏返しの日本論とも言えるが)。
 周作人の日本論は日本と日本人に対する文化的な面からの洞察の深さにおいて、他の中国人の手になる日本論の追随を許さぬものがある。
 彼の日本論は、日本人が中国人と異なるもっとも重要な一点(と少なくとも私は思う)を正しく射抜き、そしてそれを中国人が日本を理解する上でのおそらく急所中の急所であるとした認識の上に組み立てられているところ、百科全書的でかつやや総花式なきらいのある戴季陶の『日本論』を凌ぐ。

 以下はその証拠としての抜き書き。

“デモクラシーの思想はわが「民主」中国よりもよく理解伝達され、しかも我々よりも自身の短所によく気づいているところは、日本にとっての好もしい現象であろう。ただし(略)、日本は五十年来のドイツ流の帝国主義教育で国民精神が大分そこなわれてしまったが、中国は歴史的な因襲の他には制度や教育の上で何ら新しい建設がなされていないおかげで、維新の利が得られぬ代りに新しい障碍も植えつけられてはいない。だから、それだけ徹底した改革が望めるのである” (「日本旅行雑感」1919年8月。本書32頁)

“このごろ中国に排日家が多くなったのは動かしがたい事実である。中国人の日本人に対する反感がとくに深いのはなぜだろう。原因はいろいろと複雑にちがいないが、思うに最も重要なのは、日本人が中国人の悪い性質をよく心得ていて、それにふさわしいやり方で片をつけようとするからである。/私どもは、そんなことをするのは日本の一部の軍国主義者だということを知っている。そこで我々は、自国の掠奪階級の連中に反対するのと同じように彼らに反対するのでなければならぬ。だが排日家の多くは、あらゆる日本人を一括して排斥排斥と叫び、ひたすら国民同士の憎悪を助長する。これにははなはだ同意しかねるのだ。(略)そもそも自分の側のこととして、溜飲を下げる程度の小利のためにそんなに大きな犠牲を支払う必要があるものか――国民同士の憎悪を助長し、専横にして有耶無耶なる思想を育成し、国民の品格を失墜するほどの犠牲を” (「排日の悪化」1920年。本書45-46頁)

“中日間の外交関係のことはいわぬにしても、それ以外の面で彼ら(日本人)が私どもに与える不愉快な印象もすでに相当なものだ。中国にやって来る日本人の多くは浪人と支那通である。彼らはまるで中国がわかってない。僅かに旧社会の上っ面を観察し、漢詩の応酬だの、中国流の挨拶だの、麻雀や芸者買いだのおぼえたばかりで、すっかり中国を知った気になっているが、何のことはない、中国の悪習に染まり、いたずらによからぬ中国人の頭数を殖やしたようなものだ。また別の種類の人間は、中国を日本の領土と心得ている。彼は植民地の主人公として、土民に対し祖先伝来の武士道を発揮すべく乗り込んで来たのだ。かくて本国の社会では羽を伸ばすことのできぬ野性の存分な発露と相成る。北京在住の日本商民の中にこのような乱暴な人物はどっさりいるし、ほかの所もおおよそ察しはつく” (「日本と中国」1925年。本書63頁)

“日本は毎日「日支共存共栄」を叫びたてているが、実際は侵略の代名詞であって、豚が食われて他人の体内に存することを、すなわち共存共栄という” (「排日平議」1927年。本書127頁)

“日本ではごく少数の文学者、美術家、思想家以外は、ほとんどが皇国主義者であって、彼らは自国の忠臣ではあるかも知れぬが、決して中国の良友ではない” (「排日平議」1927年。本書127頁)

“日本人は単純質直なる国民で、それなりに好い性質があるけれど、狭量で短気なところが欠点であろう” (「日本管窺」1935年。本書183頁)

“日本人の愛国とは、外と戦うことに限るのが普通らしく、それ以外に国家の名誉などはさほど愛惜せぬものと見える” (「日本管窺」1935年。本書183頁)

“日本の生活中の習俗もあるものは好きだ。例えば清潔なこと、礼儀正しいこと、洒脱なこと。洒脱と礼儀は一見矛盾するようだが、実はそうでない。洒脱は粗暴無礼のことではなくて、ただ宗教的ないし道学的の偽善と、淫佚に由来するところの君子面を持たぬまでのことである” (「東京を懐う」1936年。本書284-285頁)

“日本民族には一つだけ中国とひどく異なるところがある。すなわち宗教的信仰だ。このことにつき私どもが多少の理解を持てぬ限り、そこがついに越えられぬ障壁となり果てるだろう。中国人にもそれなりの信仰はあり(略)、自分は神滅論でも、菩薩を拝する信士信女の気持ちがよくわかる。我々の信仰はつまるところ功利的であって(略)、けだし中国の民間信仰は多く低級ではあるが、決して熱烈でも神秘的でもないのである。日本はそこが違うらしく、彼らの崇拝儀式ではしばしば神憑り(kamigakari)ないしは柳田国男氏のいう神人和融の状態が現出するが、これは中国では滅多に見られない。卑近なところで、村の神社の出巡を例にとれば、神輿の中に置かれた神体というのが、神像ではなくて、石や木やあるいは触れも見もできぬような物から成る不思議なしるしなのだ” (「日本管窺の四」1937年。本書310-311頁)

“日本の上層の思想界は中国の儒教とインドの仏教を受容し、近くは西洋の科学もつけ加えられたが、民族の根本信仰はいぜんとして南洋から来たらしい神道教であって、これがひきつづき国民の思想感情を支配し、少数の賢哲が時に離脱したりあるいは多少醇化することはありえようけれど、ちょっとでも動かすことができない。そして有事の際に事態をひきずって行くのは、やはりかの(祭礼の神輿をかつぐ壮丁たちのような)神憑りした英雄たちであり、演じられるのは例の一連の芸当だ。たぶん、神輿をかつぐ壮丁の心理がわかれば、私にも日本の対華行動の真意が納得できるであろう” (「日本管窺の四」1937年。本書312頁)

“こんなこと(日本の祭礼における神憑りもしくは神人和融状態は)は中国の神像出巡の際には絶対に起こらない。日本国民は宗教心に富み、祭礼は宗教儀式そのものだ。だが中国人は現世主義者であって、神もこの世の人生のために存在し、かつ両者の間には越えがたい塹壕が横たわっている” (「祭礼について」1943年。本書347頁)

(平凡社 2002年3月)

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