書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

Vivienne Shue "The reach of the state : sketches of the Chinese body politic"

2013年09月25日 | 地域研究
 4篇の論文essaysから成る。型どおりの謝辞のあと、冒頭にこう書いてある。

  These are experimental essays. Their concerns are more critical and conceptual than empirical. ('Introduction', p. 1)

 つまり懐手・思いつき・言いっ放し・中国批評であった。巻末、索引indexもない、いい加減な作り。
 
(Stanford, Calif. : Stanford University Press, 1988)

原由子 『あじわい夕日新聞 ~夢をアリガトウ~』

2013年09月23日 | その他
 図書館で予約して、やっと順番がまわってきた。なんということのない日常の話題が(もちろん音楽のことやそちらの世界のことも書いてあるのだが)、なんの飾り気のなく、しるされている。「あとがき」の旦那さん(もちろん桑田佳祐さん)の言葉によれば、それが「彼女らしさ」なのだそうだ。

(朝日新聞出版 2013年5月)

安本博 「漢文表現と中国的思惟の特質に関する一二の考察」

2013年09月23日 | 東洋史
 『中国学の十字路 加地伸行博士古稀記念論集』研文出版2006年4月収録、同書492-505頁。
 
 以下は、内容にあまり関係なく(とても為になったが)、読んで私が勝手に連想したこと。
 文言文においては、SVO構文のV即ち動詞が、必ずしもSが主体ではなく、Oであっても好いらしい。そして、SOの状況を第三者(つまり話者)から眺めて形容する形の動詞でも可能らしい。だから「借」は(かりる、かす)両方の意味を持ち、「市」は(うる、かう、うりかいをする)となりえるのか。

沈玉慧 「清代北京における朝鮮使節と琉球使節の邂逅」

2013年09月22日 | 東洋史
 『九州大学東洋史論集』37、2009年3月、93-114頁。

 沈玉慧「清代朝鮮燕行使による琉球情報の収集  使節交流を中心として」より続き。ただし書かれた時期はこちらのほうが先。
 周縁部が不安定だった初期に比べ、支配が安定した清中期(乾隆時代)以後は、当初在京中の朝鮮朝貢使節に科せられていた諸々の厳しい制限も緩み、互いに朝貢頻度が多く朝廷の拝謁儀礼において顔を合わせる機会の多かった琉球使節との直接的な交流も可能になった。しかし琉球使節は、依然として厳しい管理下に置かれ、例えば朝鮮使節が賄賂によってではあるが、ほぼ自由にできていた宿舎からの外出も許可されなかった。さらには、通常内城に設置されている朝貢使一行の宿舎も、琉球使節の場合は外城に置かれていた。このような例外的で苛酷とさえ言える待遇を、著者は、清王朝は琉球が清と日本との両属関係にあることを把握しており、日本への情報漏洩を防ぐために取られた措置であろうと推測している。

深澤一幸 「内藤湖南は日本政府のスパイだ」

2013年09月22日 | 東洋史
『中国学の十字路 加地伸行博士古稀記念論集』研文出版、2006年4月収録、同書748-765頁。

 ショッキングな表題だが、これは湖南の学風に嫉妬し、また恐らくは日本人に対して民族的偏見を抱いていた中華の人羅振玉の、感情的な誣言であるとする。だがその一方で、帝国大学教授であっても所詮は一介の学者に過ぎない湖南が彼の地で政府要人に次々と会えたのは、たとえ残された史料からは学問の話しかしなかったことしか証明できなくても、「日本政府の後ろ盾を前提とせずには考えにくい」(763頁)とする。つまりこれは筆者の結論でもあるのだろうか。よくわからない。

吉野作造 『露国帰還の漂流民 光太夫』

2013年09月20日 | 日本史
 表題になっている一篇よりも、一緒に収録されているほかの文章が面白かった。「斯んな奴とは交際するな、来たら直に逐い帰せ、奴等に手足を触れられる丈が身の穢れだ、と云ふ思想」が攘夷思想であり(「攘夷思想」本書129頁。原文旧漢字)、「日本を馬鹿にほめあげて有頂天になる」のが神国思想である(「神国思想」本書49頁、同前)というものなど。

(生活文化研究会 1924年9月)

吉野作造 『新井白石とヨワン・シローテ』

2013年09月20日 | 日本史
 ヨワン・シローテとはジョヴァンニ・シドッチ(1668-1714)のこと。
 面白かった。

 1. シドッチは、日本行きの命を受けてからローマで日本語と日本語を学んだという。どうやってと驚いたが、すでに日本語辞書と簡単ながら日本事情の書籍が存在していたことを、この本で知る。さらに彼はマニラで日本語に磨きをかけ、ついで日本潜入のための和服や刀も手に入れるのだが、1639年の鎖国後半世紀以上経つにも関わらず、当時のマニラには風俗習慣をほとんど失わないまま、3000人の日本人が集団を成して生活していた由。
 2. 著者も指摘しているが、白石は、キリスト教の教義(というより唯一神の概念)がよくわからなかったらしく、「天に事えるのは天子のみの特権で、諸侯以下は不可である。万人が天を祀るキリスト教は尊卑の別を乱すからけしからぬ」と、方向違いの批判をしている。
 3. なお、この書で、切支丹屋敷(切支丹御用屋敷)がもと宗門奉行を兼職していた井上筑後守政重の下屋敷で、正保三年(1646)に獄舎とされて以後、寛政四年(1792)まで存続していたことを知った。井上政重といえば日本の蘭学の濫觴期にその一種支援者もしくは保護者として名が見える。

(文化生活研究会 1924年7月)

廖育羣/傅芳/鄭金生 『中国科学技術史』「医学巻」

2013年09月20日 | 東洋史
 漢代と宋代に行われた解剖についての記述がない。いったいに解剖に関する記述がよわい。秦・前漢時代部分にある「二 解剖知識与医学理論」が一番分量的にまとまっているが、どういうわけか明清以降のヨーロッパ医学の影響と、それによる中国人知識人の、解剖の重要性に対する意識の高まりを、記すのみである(「第四章 秦与西汉的医学 第二节 医学基础理论的确立」本書109-110頁)

(北京 科学出版社 1998年8月)