書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

「Politkovskaya Acquittals Overturned」 から

2009年06月26日 | 抜き書き
▲「The Moscow Times」26 June 2009, by Alexandra Odynova. (部分)
 〈http://www.moscowtimes.ru/article/600/42/379086.htm

 Politkovskaya's family has accused prosecutors of poorly investigating the murder. Ilya Politkovsky told reporters after the first trial that he believed that the defendants were somehow involved in his mother killing. But he and Politkovskaya's supporters fear that if the trio is convicted, the authorities will stop searching for the real killers and the organizer of the murder.

 なるほどね。

 "We're more interested in the mastermind and the killer," Sergei Sokolov, deputy editor of Novaya Gazeta, said on Ekho Moskvy radio. "It's completely obvious that today's ruling was based on a political decision, not a procedural one. For the authorities, the most important thing was just to make sure someone went to prison."

劉暁波著/野沢俊敏訳 『現代中国知識人批判』 から

2009年06月26日 | 抜き書き
 西洋文化の実証主義の精神は、倫理学においては功利主義の倫理観として現れている。こうした倫理観は古代ギリシャ哲学のなかに早くも芽生えていた。中世の神学がそれを抑圧し、ルネッサンスから始まった近代ヒューマニズムがそれを復活させ、発展させた。
 その最大の特徴は鮮明な個人主義の性格であり、その根本の基準は個人の幸福と権利である。個人の幸福と権利は、社会の政治的利益、道徳規範より貴い。そして社会の公共の法則(政治的なものであれ、道徳的なものであれ)は、個人の幸福と権利を実現するためにつくさなければならない。〔中略〕経済においては、私有財産の権利が至上である。〔中略〕倫理においては、価値選択は個人のものである。〔中略〕法律に違反せず、他人の権利を侵害さえしなければ、誰もが完全に自己に属する。〔中略〕
 一方、中国の「実用理性」は、これまで個人の利益を超越した社会の政治権力と倫理法則を至高無上のものであると強調し、集団との関係のなかで個人の位置と価値を定めるにあたって、社会全体(国家、民族、政府)の利益を個人の利益の上に置いてきた。〔中略〕思想においては、昔から今日にいたるまで、個人の自由があったことはなく、すべての言論と信仰は政府当局の鑑定が基準であった。
 これら人間性に反する功利主義の原則が、中国人の二重性をつくりだしたのである。つまり、公開の場合と衆目の前では、誰もが党のために、国家のために、人民のために、社会の利益のために、忠をつくし孝をつくすけれども、プライベートな場合には、誰もが心の底で、なんとかして自分のために幸福と利益をはかり、特権を争おうとする。 (「第7章 真理を堅持せぬ功利的人格」 本書195-196頁。太字は引用者)

 方励之を放逐し、蘇暁康を潰し、『河殤』 をゴミ箱に捨てて顧みない。いつまでも前近代の中進国のままでいたければ、この人もずっと拘束しておくことだ。

7月1日付記。“社会全体(国家、民族、政府)の利益”よりは、“政府レベルにおいては国を私有する支配者もしくは支配者層の利益”そして“社会レベルにおいては家族・血族・同郷人の利益”と分けて言ったほうが正確ではなかろうか。

(徳間書店 1992年9月)

「『ロシア最強の男』プーチン首相、スーパー電撃視察で値引き指示」 から

2009年06月26日 | 抜き書き
▲「AFPBB News」2009年06月25日 17:06、発信地:モスクワ/ロシア。 (部分)
 〈http://www.afpbb.com/article/economy/2614882/4301920

 「このソーセージはなぜ240ルーブル(約740円)もするんだ?これが当たり前か?」と聞いたプーチン首相に対し、ペレクリョーストックを所有するX5リテール・グループ(X5 Retail Group)の顧客担当責任者ユーリ・コバラゼ(Yuri Kobaladze)氏は「こちらのソーセージは高品質だからです。ご覧になってください、こちらのソーセージなら49ルーブル(約150円)です」と答えた。
 「高すぎるな」。プーチン首相は切り返した。〔中略〕 「明日値下げします」。コバラゼ氏は値下げを約束させられた。

 "Come with me if you want to live."
 He'll be back?

「China Accuses Dissident of Subversion」 から

2009年06月24日 | 抜き書き
▲「The New York Times」June 24, 2009。 (部分)
 〈http://www.nytimes.com/2009/06/24/world/asia/24liu.html?_r=1&ref=world

 BEIJING ― After six months in detention, one of China’s best-known dissidents, Liu Xiaobo, has been formally arrested and charged with subversion, the state news media said Wednesday.

 劉暁波氏のこと。

 Citing the Beijing police, the official Xinhua news agency said Mr. Liu, 53, had been arrested for alleged “agitation activities, such as spreading of rumors and defaming of the government, aimed at subversion of the state and overthrowing the socialism system.”

 「王様は裸だ」と言ったら国家転覆扇動罪に問われる国。

 Human rights activists are commonly accused of seeking to subvert the state, but it is unusual for the government to include an allegation that someone is seeking to overthrow the Socialist system.
 
 それだけ現在の体制に対し恐るべき脅威として認識されているということだろう。

西村ミツル原作/かわすみひろし漫画 『大使閣下の料理人』 19 から

2009年06月24日 | 抜き書き
 料理に国境はありません/ただひたすらおいしい料理を作り続けること/それが僕の矜持であり誇りです!〔中略〕食べた人が心の底から喜んでくれる料理を作りたい/この気持ちが僕の大和魂です! (大沢公)

 中国や韓国・北朝鮮、あるいはどこかほかの国と戦争になったとして、その時、果たしてこの言葉を吐けるかという問題はある。しかし、平和な時代でさえすでに「日本を滅ぼせ」だの「日本人を殺せ」などと高言している奴らとは天壤の別がある。お前らの言っているのは難しくいえば自民族中心主義、やさしくいえば見慣れない人間は皆殺しのススメだ!

(講談社 2004年4月)

「<レコチャ広場>愛国心の定義とは?議論が成り立たない日本人と中国人―日本」 から

2009年06月24日 | 抜き書き
▲「レコードチャイナ」2009-06-24 10:56:28、レコードチャイナ・ライターによる個人ブログ「全人類の中国分析2」(2009年6月22日)から。
 〈http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=32697

 定義されない言葉の数々が、宙に浮かんで独り歩きしている印象がぬぐえない。共通の定義がなされない状況をさとく利用する術を心得ているのが中国人、あるいは韓国人であり、「だから話し合っても無駄だ」とあきらめているのが日本人なのかもしれないと思う。
 格好をつけて、日本人として価値観のちがう人々と話し合うことを放棄するなら、日本人はその時点ですでに負けている。

 勝つ必要はない。
 こちらの言うことを理解する気の最初からない、あるいはその気はあっても理解するだけの知性や知識がない、そしてよしんば話し合いができたとしても、社会的な影響力のない相手を、そこまで苦労して個別に対手にする必要は、そもそもない。格好の問題ではない。

「オバマ米軍最高司令官、『ハエたたき』で手腕見せつける」 から

2009年06月19日 | 抜き書き
▲「AFPBB News」2009年06月18日 22:58、発信地:ワシントンD.C./米国。
 〈http://www.afpbb.com/article/politics/2612844/4271545

 バラク・オバマ(Barack Obama)米大統領が16日、米テレビ局とのインタビュー中に、ホワイトハウスの厳重な警戒態勢をすり抜けて頭上に飛んできたハエをたたきつぶし、米軍最高司令官として「侵入者」を屈服させる破壊的な力を見せつけた。

 これは掴みのジョークだろう。というよりこの記事自体が一片のジョークなのに、筆致にユーモアのかけらも感じられない。題もひどいものだ。言葉のセンスが悪すぎる。アンドロイドにでも翻訳させたのかしらん。Hasta la vista, baby.

西里喜行 『清末中琉日関係史の研究』 から

2009年06月18日 | 抜き書き
 日清修好条規の批准から一年も経ずして表面化した日本軍の台湾出兵は、清国の外交当局(洋務派)にとって信じがたい事態であった。〔中略〕
 総理衙門が日本の台湾出兵に直ちに強硬な態度を示さなかったのは、「該国(日本)、江藤新平の乱ありてより招撫に就くと雖も、乱民は衆多にして安挿すべきでなく、新聞紙中、屡々この項の人衆を台湾境内に安置せんと欲すと謂う」〔原注38〕との情報に依拠して、台湾出兵を必ずしも明治政府の意向としては受けとめず、国内の不平士族対策として已むを得ず採られた措置と理解していたからである。李鴻章もまた同様の見方に立っていたことは、同年〔1974年〕六月五日付の総理衙門宛書簡において、「その薩呵馬(さつま)島は兵力強横にして、藩を撤せられて怨望し、詞を藉(か)りて兵を興し、另(べつ)に占越せんと図るも、朝臣、制御する能わず」〔原注39〕という情報を伝え、台湾事件を薩摩士族の暴走と判断していることからも窺知し得る。このような判断に基づいて総理衙門や李鴻章は、日清提携路線の枠内で台湾事件を処理し得るし、また処理しなければならないと決意し、大久保利通を全権大使とする日本側使節団との折衝に臨んだわけである。 (「第一章 日清外交の基調と廃琉置県処分」「第二節 明治政府の尚泰冊封と台湾出兵の衝撃」 本書290-291頁。太字は引用者)

 原注38。『〔籌辧〕夷務始末』七、同治期、巻九十八、一五~一六頁。
 原注39。『李〔文忠公〕全集』朋僚、巻十四、四頁。

 駐日公使がまだ置かれていない明治七(1874)年の段階で、ここまで正確に日本国内の政情を把握していることに驚きを禁じ得ない。いかなる情報源や伝達経路を保有していたのか。

 清国側の総理衙門が日本全権の大久保に譲歩したのは、不平士族の不満を抑える手段が必要であるという大久保の立場を配慮したからで、総理衙門にとっては日清修好条規を保持するための已むを得ざる措置であった〔中略〕。李鴻章もまたこのような総理衙門の措置を支持していたことは、「日本軍兵士へ恩賞慰労金を与えて帰国せしむれば、清国の体面を保つに足るべし」という趣旨の書簡〔原注44〕を総理衙門へ送っていることからも窺知し得る。同書簡において李鴻章はまた「此の論は清議の許さざる所たるを知るも、時局を還顧するに、海防は急切に周備し能う所に非ず。事機に時日なければ、以て宕緩すべし」〔原注45〕と強調していることに注目すべきであろう。 (「第一章 日清外交の基調と廃琉置県処分」「第二節 明治政府の尚泰冊封と台湾出兵の衝撃」 本書293頁。太字は引用者)

 原注44。『李〔文忠公〕全集』訳署、巻二、九~四二頁「論台事帰宿」
 原注45。同上。

 台湾出兵が清政府で私が予想したよりも問題視されていなかったことの理由はこれか。
 さてその日清提携路線は、明治十二(1879)年の琉球処分以後、戦争も想定した仮想敵国視路線へと変わるわけだが(この時点で初めて、台湾出兵が時間をさかのぼって明治日本の中国侵略の嚆矢としてあらためて取り上げられて激しく指弾されるようになる)、してみると、琉球の存在は清にとってたいそう大きなものだった――少なくとも台湾よりも重要性において上だった――ということになる。それが戦略的・軍事的な見地(国家の威信・体面といった形式的なものも含めて)からするものか、それとも経済的なもの(例えば貿易から得られる利益)があったのかは、まだ詳らかにしないが。

(京都大学学術出版会 2005年2月)

ルディ・カウスブルック著/近藤紀子訳 『西欧の植民地喪失と日本』 から

2009年06月11日 | 抜き書き
 副題「オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所」。

 犠牲者という身分にしがみつくためには、“誇張する”と“否定する”の二つの手段が考えられる――自分が耐え忍ばなければならなかった苦しみは誇張し、自分が他人にあたえた苦しみは否定する、ないしは軽く見せようとする。そして、両戦術とも、東インドのオランダ人〔注〕にとってひじょうな熱の入れ方で実践されたのである。
 本書における課題のひとつは、東インドのオランダ人のこういった実践の実態をさかのぼって調べ出すことだった。これは、われわれオランダ人がわれわれ自身を判断するのと同じ尺度で、日本人の行動や振る舞いを判断すべきであるという、私の主張にもつながる。
 同じ尺度で判断すべき、という私の視点は、何人かの東インドのオランダ人との激しい意見の衝突をまねくことになった。彼らは、日本人を判断するのと同じ方法で自分たちが判断されること自体すでに侮辱だと見なしただけではなく、これはなまぬるいこと、つまり日本人、日本文化、日本国天皇を組織だって否定的に決めつけずに実態に即して理解しようというのは、とりもなおさず裏切りであり、敵に協力すること、オランダ国を中傷することであると考えたのである。東インドのオランダ人が受け入れている唯一の日本人像というのは、「日本人は悪い。悪質で、ずる賢く、残酷で、生まれつき悪い。日本人のすることは何もかも悪い。よいところでさえ、それなりに悪い。なぜなら悪に仕える者だから」という、戦時中に一般的だった日本人像から一歩も出ていないのである。 (「序文――憂いと悲しみ」、本書11頁。太字は引用者)

注。
 別の箇所(9頁)にある著者の説明によれば、「東インドのオランダ人」とは「オランダ領東インドから本国に引き揚げてきたオランダ人」を指す。なお「オランダ領東インド」は現在のインドネシア。
 さらに、180頁の訳者注によれば、「戦前の植民地時代に支配者として東インドにあぐらをかき、戦中の日本軍占領時に日本軍抑留所生活を経験し、戦後オランダ本国に引き揚げてきた人々の呼称」とある。

(草思社 1998年9月)