書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

上田美汀子 「岡嶋冠山と太平記 近世文学交流の先駆」

2016年06月22日 | 人文科学
 『桃源』4-2、1949掲載。同誌48-67頁。原文旧漢字・旧仮名遣い。

 同論考では、『太平記演義』の文体は文語(古代漢語)的で『水滸伝』のような白話調ではなく、『三国志演義』のそれに近いと断じている。そしてそれは荻生徂徠に中国語を教え、その『六諭衍義』の翻訳を助けて訓詁を付けさせ、また服部南郭には「和中の華客」と称されたほど、古今の中国語に通じていた冠山による、元の『太平記』の文体に合わせた、意識的な選択であったとする。つまり荒木説とは真っ向から衝突する。ちなみに上田説は、表現・文レベルではなく、使用される虚詞の共通性という語彙レベルの文体分析に基づくものである。

佐藤豊 「梁啓超と功利主義 加藤弘之『道徳法律進化の理』に関連して」

2016年06月19日 | 東洋史
 再読

 「三、功利主義以前の梁啓超の社会観」より。

 この九七年段階〔注〕の認識はその後も基本的に維持され、変更されることはなかった。それは以下のように総括されうるであろう。
 ①人間の社会性は本性であること。
  それは原子論的な独立した単位として人を設定せず、非自立的で社会的な相互扶助を必要とするものとして、人間を定義することにつながっていく。
 ②社会性を実現したものが強者であること。
 ③社会性と文明性とは相関関係があること。
 (156頁。下線は引用者)

 注。『時務報』(第二六冊)に発表した「説群」という論文のなかでの人間観および社会観を指す。

 彼はこの論文において社会性という概念を「公性」と表現した。論題にもある「群」とは社会集団である。

 〔梁啓超は〕「群の形成は万物すべてが持つ公性であり、学ばずして知り、慮らずして能くするものである」と定義し、「群」を治めるには君から人民に到るまでそれぞれの持ち場を「私」として全体のことを考えない「独術」ではなく、「一群中の然る所以の理、常に行う所の事を知って、其の群を合して離れしめず、萃めて渙らざらしむる」「群術」を使えば成功する。そして「群」を形成できないものは形成できたものに「摧壊」「兼併」されることになり、世界の文明が進歩すればするほど、「群力」の占める割合が増大する、と述べている。 (155頁)

荀悅 『前漢紀』 「孝昭皇帝紀」卷第十六

2016年06月19日 | 東洋史
 テキストは维基文库による。

荀悅曰:昌邑之廢,豈不哀哉!《書》曰:『殷王紂自絶於天』,《易》曰『斯其所取災』,言自取之也。故曰有六主焉:有王主,有治主,有存主,有哀主,有危主,有亡主。體正性仁,心明智固,動以爲人,不以爲己:是謂王主。克己恕躬,好問力行,動以從義,不以縱情:是謂治主。勤事守業,不敢怠荒,動以先公,不以先私:是謂存主。悖逆交争,公私並行,一得一失,不純道度:是謂哀主。情過於義,私多於公,制度殊限,政令失常:是謂危主。親用讒邪,放逐忠賢;縱情遂欲,不顧禮度;出入遊放,不拘儀禁;賞賜行私以越公用,忿怒施罰以逾法制;遂非文過,知而不改;忠信壅塞,直諫誅戮:是謂亡主。故王主能致興平;治主能行其政;存主能保其國;哀主遭無難則庶幾得全,有難則殆;危主遇無難則幸而免,有難則亡;亡主必亡而已矣。夫王主爲人而後己利焉,治主從義而後情得焉,存主先公而後私立焉。故遵亡主之行而求存主之福,行危主之政而求治主之業,蹈哀主之跡而求王主之功,不可得也。夫爲善之至易,莫易於人主;立業之至難,莫難於人主;至福之所隆,莫大於人主;至禍之所加,莫深於人主。夫行至易以立至難,便計也;興至福而降至禍,厚實也。其要不遠,在乎所存而已矣。雖在下才,可以庶幾!然迹觀前後,中人左右多不免於亂亡。何則?沈於宴安,誘於諂導,放於情欲,不思之咎也。仁遠乎哉?存之則至。是以昔者明王戰戰兢兢,如履虎尾,勞謙日昃,夙夜不怠,誠達於此理也。故有六王,亦有六臣:有王臣,有良臣,有直臣,有具臣,有嬖臣,有佞臣。以道事君,匪躬之故,達節通方,立功興化:是謂王臣。忠順不失,夙夜匪懈,順理處和,以輔上德:是謂良臣。犯顏逆意,抵失不撓,直諫遏非,不避死罪:是謂直臣。奉法守職,無能往來:是謂具臣。便嬖苟容,順意從諛:是謂嬖臣。傾險讒害,誣下惑上,專權擅寵,唯利是務:是謂佞臣。或有君而無臣,或有臣而無君,同善則治,同惡則亂,雜則交争,故明主慎所用也。六主之有輕重,六臣之有簡易,其存亡成敗之機,在於是矣,可不盡而深覽乎! (太字は原文による。下線は引用者)

 この太字部分、荀悦による議論の部分が、すこぶる面白い。伊藤浩志氏が、「後漢諸子における諫争論の展開 荀悦・徐幹の場合」(『哲学』66、広島哲学会、2014年掲載、同誌137-150頁)で、太字部分の後半部を下線部「以道事君」の箇所から引用しておられるが(140頁)、私にはその前の“六主”の部分が非常に興味深い。そして、私にとっては前後部分両方を併せ読んで初めて判ったことがある。

井上京子 『もし「右」や「左」がなかったら 言語人類学への招待」

2016年06月19日 | 人文科学
 山岳地帯に住むマヤ族のテネハパ村の人たちは、『右手』の代わりに『上り側の手(あるいは下り側の手)』と表現します。彼らには『右』や『左』といった概念も、それを表すことばもないからです。 (出版社による紹介、「内容」)

 具体的にはツェルタル部族のツェルタル語。さらに本文中ではオーストラリア先住民族のグウグ・イミディール語も、その例として挙げられている。 「〈1〉「右」も「左」もない言語」、本書6-7頁。

(大修館書店 1998年5月)

尾佐竹猛 「元老院の性格」

2016年06月18日 | 抜き書き
 尾佐竹猛編者代表『明治文化の新研究』(亜細亜書房 1944年3月)、同書117-146頁所収。

 此頃の政情としては、〔略〕封建割拠の遺習を打破する為の行政協議会的のものを要望する気運が漲つて居つたのである。而して当時勃興しつゝあつた憲政思想が、これを組織化すべく地方官会議の開催となつたのである。
 されど、その憲政思想というものゝ、幕末以来発達しつつあつた議会思想は、西欧思想を採り容れつゝあつたとはいへ、本来の三権分立思想は、充分発達せず、折からの中央集権化の方策と、対蹠的の存在となつて居つたのであり、その議会思想といふものも、議決機関と諮問機関との区別も明白ならざるときであつたから、こゝに、官吏を以て、民論の代表者と見做すといふ官選議員論は、最も存在の妥当性を有して居つたのである。 
 こゝへ、大阪会議に出発した新なる三権分立に立脚した地方官会議論が、今や発達しつゝあつた土壌に立つて元老院と共に上下両院論に彩られて登場したのである。
(131頁。原文旧漢字。下線は引用者)

伊藤浩志 「後漢諸子における諫争論の展開 崔寔・仲長統の場合」

2016年06月17日 | 東洋史
 『哲学』67、(広島哲学会 2005年)掲載、同誌113-126頁。

 後漢時代初期、班固により「智仁禮信義」の五常の徳に対応した「諷諫・順諫・闚諫・指諫・陥諫」として五つに分類され理論化された諫争論は次のような展開を見せた。君主は褒頌する対象であり諫争は誅罰を被る原因だと見なした王充、強大な君権が諫言を閉ざすことを恐れ君臣間の言語なしでも法によって国家を統治できるとした王符、直諫する臣下を下位に置き臣下の和順を尊んだ荀悦、君臣が言により一心となることを求め直諫する者を知恵が足りない臣下と見なした徐幹、さらに、本稿で検討した、忠言が廃されることを悲嘆し股肱と喉舌の臣下を別に用いることを説いた崔寔の議論を経て、その思想的影響を受けた仲長統は、諫争してはならない五つの事柄という運用上の限界を後漢諸子による諫争論に付与するに至ったのである。 (「四、結論」125-126頁)

 王符については確認の要があるが、崔寔と仲長統をはじめとする残りの王充・荀悦・徐幹の思惟においては、どうやら社稷より君主が上にあるらしい。あるいは、彼らの言う君臣関係には社稷すなわち国家という要素がない。そこには君と臣があるだけの、完全な二者間の関係のようである。とくに仲長統に関しては、臣下(すなわち自分)の身の安全が諫争の可否の範囲を決める基準となっているところ、その傾向が露骨である。

岡村秀典 『夏王朝 中国文明の原像』

2016年06月11日 | 東洋史
 夏王朝は実在したのは確実というのが本書の基本的な主張。

 考古学の進歩によって、夏王朝の実在は疑問の余地すらなく、いまや五帝の時代までも実証することが期待されているのである。 (「プロローグ 中国のルーツをもとめて」、15-16頁)

 わたしが中国に留学したのは、中国考古学のめざす理想にあこがれたからである。新中国が成立してまもなくのころ、思想革命をめざす反右派闘争の中で、伝統的な考古学の方法を批判し、マルクス主義の考古学によって社会主義国家の建設に貢献しようという主張がまきおこった。
 (「あとがき」、309頁)

 巻末奥付の隣頁に、「本書は、二〇〇三年一二月小社より刊行された『夏王朝 王権発生の考古学』を基本とした」とある。
 この講談社学術文庫版には「あとがき」の前に「学術文庫版『補論』」が追加されている。

 わたしたちが当面なすべきことは、夏王朝が実在したか否かではなく、甲骨文によって実在が証明された殷王朝の前に王朝といえるような王権と政体が存在したか、存在したとすれば、それは中国最初の王朝といえるのか、 その政体はどのような社会・経済・文化的特質をもっていたのか、を明らかにすることであろう。考古学が本領を発揮できるのは、それをおいてほかにない。こ のことが原著でも強調していたのであるが、ここで改めて確認しておきたい。 (276-277頁) 


(講談社学術文庫 2007年8月)

ゲーリー・ポートン 「ヘブル語聖書とラビ文献におけるたとえ話」

2016年06月11日 | 人文科学
 A-J. レヴァイン/D.C. アリソンJr./J.D.クロッサン編、土岐建治/木村和義訳『イエス研究史料集成』(教文館 2009年11月)所収。同書390-419頁。

 ヘブル語聖書のמשל(マーシャール)という言葉は七十人訳聖書では比較・併置・類推などを意味するギリシア語παραβολή (パラボレ)に訳されたが、ヘブル語のテキストにおいては、寓話・寓意、直喩、比喩、たとえ話などの区分はない由。「ラビ文献では、それらはすべて類似した文学的形式で登場しており、ヘブル語のマーシャールは、それらのいずれをも指して言うことができる。 (390頁)

 それは当時のヘブル語では、寓話・寓意、直喩、比喩、たとえ話の間に概念として区別がなかったということであろうか。