書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

森永恭代 「清代四川における移民開墾政策--清朝政府から見た『湖広填四川』」

2013年11月29日 | 東洋史
 『史窓』68、2011年2月、187-209頁。

 明末清初の四川地方の人口激減は、張献忠の大殺戮のみによるのではなく、ほかの流賊によるそれもあり、またそれらに反発する地元の紳士層、そして四川を統治下に置こうと侵入してきた清軍さらにはそれに与した現地諸勢力のやったことの総和であることは、これまでにも部分的にせよ言われていたことであるし、門外漢の私も多少聞いていた。だが、それらを精密具体的に示された著者のこの論文で、減少した人口数が、純粋に殺害された被害者の数(あるいはそれに起因する社会の荒廃に基づく飢饉・疫病の発生による死者をも含めたそれ)とイコールなのか、それとも難を逃れて地域の内外に逃竄流亡した生存者数をも含めたものであるのかについて、後者であることを知った。

柳宗元 「駁復讎議(復讐を駁する議)」

2013年11月27日 | 文学
 『唐宋八大家文』所収。(維基文庫にテキストあり)

 どうも論理が分かりにくい。韓愈に比べ柳宗元は文体がやや難しいと感じる。だがこの晦渋さは其処に由来するものではない。これは、究極的には「忠ならんと欲して孝なりえるか」という本来両立しがたい二つを、なんとか両立させようとする議論だから、論理が晦渋になるのは当り前なのである。
 ネットで同名で検索してみたところ、いくつかの関係文献や專論が浮かび上がった。
 そのうち年代的に古くかつ基本的なものとしては桑原隲藏「支那の孝道殊に法律上より觀たる支那の孝道」がある。これは題名の示すごとく、柳宗元の同文がテーマとしている「親への孝と復讐(が社会にもたらす秩序の不安と破壊ひいては国家・君主の法体系への服従の否定)の対立」という問題をそのまま真っ向から取り上げて論じたものである。なるほど論点の整理には役だったが、柳の文体の難しさには変わりはない。それに柳が結句どうしたいのかが、依然としてよく分からない。孝ならんと欲して忠ならずになっても良いと言っているのか。そしてそれを防ぐために、礼と刑とを概念として分離し、そのことにより、この場合刑の適用と執行を停止せよといっているのか。
 閑話休題。近年、「復讐を駁する議」を研究する向きにおいては、忠義と孝行の対立という伝統的な視点から離れて、韓愈「原道」の先蹤にならって儒学思想の転換、或いは宋代以降の新儒学との間に何らかの関連を見ようという傾向があることを知った。その一つに宮岸雄介「中唐の古文思想にあらわれた儒学の新傾向 : 韓愈と柳宗元の対話の一断面」がある。この問題については、私も柳宗元の文章を自分で読んでみてこの点に関しいくつか気がついたこともあるが、たいへん面白い視角だと思った。

 参考。
 桑原隲藏「支那の孝道殊に法律上より觀たる支那の孝道」(青空文庫)関連部分。

 唐の則天武后の時代に、徐元慶がその父の仇と稱する趙師韜を殺害して自首した。この事件の處置を評議した時、陳子昂は次の如き意見を主張して居る。
 (一)父の爲に復讎するは、孝子として當然の行爲で、既に禮經に是認する所である。この點よりいへば、徐元慶の行爲は、奬勵を加ふべきものである。
 (二)されど殺レ人必殊とは古今を通ぜる刑法の精神で、又治安の要諦である。この點よりいへば、徐元慶の行爲は、刑罰を加へねばならぬ。
 以上の二の理由を併せ考へ、徐元慶は死刑に處して國法を正し、然もその門閭や墓所に旌表を加へて、禮教を奬めるがよい。此の如くすれば、禮と刑との精神を、倶に傳へることが出來る。これが陳子昂の意見で、この意見が採用實行された(『新唐書』卷百九十五、孝友傳參看)。
 されどこの處分に就いては、後に柳宗元がその駁二復讎議一(『柳河東集』卷四)に反駁を加へて居る。柳宗元の意見では、禮と刑とは、一致せなければならぬ。旌表と誅戮とは、一致することが出來ぬ。禮として旌表すべき者を誅し、刑として誅戮すべきものを奬めては、國民をして適從する所に迷惑せしむといふのである。柳宗元の非難は正しい。則天時代の朝廷が、かかる不徹底な處分を採つた所以は、畢竟するに、復讎に就いて確たる定見がなく、常に進退兩難の状態に立つ支那官憲の窮餘の一策に外ならぬ。その窮策の裡にも、彼等の孝道に對する苦心は諒とすべしと思ふ。
『唐律』には復讎に關する處分を載せてない。復讎事件が發生する毎に、朝臣を會し、その意見に聞いて處分した。韓愈に「復讎状」(『韓昌黎集』卷卅七)一篇がある。こは憲宗時代に起つた、復讎事件に關する彼の意見書である。彼の意見の大要は、復讎を禁止しては徳教上面白くない。さればとて之を公認しては、治安上面白くない。國家の法律に復讎に關する條文を明記してないのは、意味深長と思ふ。事件の發生した場合に、群臣會議し、事理を盡くして、處置すべしといふに歸する。

井田清子 「ケンペル『鎖国論』写本を読み継いだ人々」

2013年11月27日 | 日本史
 『思想』800、1991年2月、同誌25-50頁。

 主として書誌学的観点からの研究である。
 この論文を読みながらネットを検索していて、便利なものを見つけた。

  ENGELBERT KAEMPFER: BIBLIOGRAPHY (Japanese Titles)

 「ケンペル研究(日本語の文献)」。2011年12月時点でのビブリオグラフィーだが、助かる。

北山茂夫 『平安京』を読みながら

2013年11月27日 | 思考の断片
 同書で紹介される『日本後紀』卷14、大同元年(806)閏六月己巳【壬戌朔八】条の、山陽観察使藤原園人の議論が、当時の「公」と「私」の概念を考えるうえで非常に興味深い。話の都合上、同書にはない原文を掲げてから北山氏の訓読を引く。

  今山陽道觀察使參議正四位下守皇太弟傅藤原朝臣園人言。山海之利。公私可共。而勢家專點。絶百姓活。愚吏阿容。不敢諌正。頑民之亡。莫過此甚 (下線は引用者)

  「山海の利は公私倶にすべし。しかるに勢家もっぱら点して、百姓の活を絶ち、愚吏阿容して敢えて諫止せず、頑民の亡この甚しきに過ぐるなし」 (「平城上皇の変」 同書107頁)

 ここで言う「勢家」とは、地方(この場合山陽道)の有力者である。彼らは、「公私倶にすべ」き「山海の利」をもっぱら点して(自分だけのものにして)、「百姓」(律令制下の一般農民)を困窮させる「頑民」だと、園人は論じる。この「倶にすべ」き「公私」の「公」が、朝廷であることは言うまでもない。そしてもう一方の「私」は、「百姓」である。ということはつまり、「百姓の活を絶」っている彼ら「頑民」は、公でも私でもない、そのような存在として認識されていることになる。その彼らを「阿容して敢えて諫止せ」ざる「愚吏」もまた同様にである。
 それとも、公私が共にすべき山海の利を「私」だけが専らにしているがゆえに、そのような在るべきでない「私」として「勢家」は「頑民」であると非難されているのであろうか。

(中公文庫 1973年11月)

鳥井裕美子 「ケンペルから志筑へ 日本賛美論から排外的『鎖国論』への変容」

2013年11月26日 | 日本史
 『季刊日本思想史』47、1996年、同誌115-133頁。

 ケンペル著の原題は、「今の日本人が全国を鎖して国民をして国中国外に限らず敢て異域の人と通商せざらしむる事実に所益なるに与れりや否やの論」である由。この題から分かるように、原著はきわめて論争的(イエス・ノーを争うディベート的)な体裁と内容である。ケンペルは一般論として鎖国を否とし、ただし日本の置かれた内外の諸情況(元禄時代のそれ)を鑑みて、開国の必要なしとして個別例外的に是とした。
 これを志筑忠雄は、最初の否の部分を改変し、邪教を掲げた異人の侵略から我が国を護るために必要のみならず積極的な善であったという論旨に変えた。さらに開国は害をもたらすという自身の主張を訳文中にひそかに書き入れた。また、原著にある日本と日本人を賞賛する部分を誇張する一方(ここでも自分の主観的な賛美の言を本文の中に潜り込ませている)、著者の事実的な間違いや批判には、いちいち長文の注を付けて執拗に訂正をほどこし(それは必ずしも客観的なものではない)、かつ、感情的な反発の言を書き連ねた。それは、原著者のケンペルを「戎狄」と呼ぶほどのものである。
 つまり志筑は、翻訳者としておのれの本分を尽くさず、それどころか逸脱した。「愧じよ」と、言いたい。

深瀬公一郎 「近世琉球における大和旅体験」

2013年11月26日 | 地域研究
 『風俗史学』52、2013年5月、同誌6-29頁。
 1609年薩摩侵攻後の琉球では、日本・中国、そして先島諸島への出張を、日本語文書では「旅役」と称した。琉球王府では伝統的に日・漢両言語が文書言語として用いられていたが、ただしこの時期、羽地朝秀の日本化政策により、日本語の比重がまし、その結果日本式の公式文書形式や書風その他、様々な日本の技術・学問・芸能の習得に努力が傾注されるようになった。琉球王府役人の旅役(“大和旅”)の一環としての薩摩への諸芸留学(“稽古”)は、その背景下で行われたものである。儒学すら、中国でなく日本で学ぶほうが上達が早いとして(主として言語的原因の由)、日本での学習が好まれる傾向があったという。この情況は羽地の死後も続く。

橋本敬造 「梅文鼎の数学研究」

2013年11月26日 | 自然科学
 『東方学報』44、1973年2月、同誌233-279頁。
 梅文鼎がおのれの数学を「実学」と称する時、それは抽象的な普遍性を持ちつつ客観的な実在でもある「数」というものを基にすると同時に、暦学・収税・財政・軍事など、実際的に「経世の用」に立つ学問であるという二重の意味においてであった。

 なお同論文で知ったこと。明清時代の文言文において、西洋数学およびそれに触発されて再認識・分析された中国数学、そしてその結果、当時の学者個々によって中西いずれを尊しとなすかでその比重に偏りがあるものの、とにかく統一物として理解された数学という学問分野一般を「度数之学」と称するのは、度=量法=測量=幾何学、数=算法=計算=算術の、「数学」概念の二元理解から来ている由。

陳舜臣『中国畸人伝』とモンタネッリ『ローマの歴史』(藤沢道郎訳)をあわせ読んでの一感想

2013年11月25日 | 思考の断片
 どちらも偶然ながら、中公文庫。

 孔融(153-208)とキケロ(前106-前43)は厳密には同時代人ではないが、後世の粗雑な眼からは、東西ところは違えど近接した時代の人と見える。その錯覚のうえに立つと、行蔵まで似ているように見えてくるから不思議である。
 孔融は、おのれの文才と孔子の子孫という自らの家柄を恃んで成り上がり者曹操を見下し、公私に渉って強烈な嫌みを言い続けた結果、ついに堪忍袋の緒が切れた曹操によって一家もろとも殺された。
 キケロは、当時のローマ政界の三実力者カエサル、アントニウス、オクタビアヌスを全て、自身の文才と雄弁の才に任せて批判した。カエサルの暗殺を支持し、オクタビアヌスを「トレンドゥム(「誉むべき」の意味。ただし「殺すべき」という意味もある)」と皮肉り、かと思えばアントニウスを潰すためにそのオクタビアヌスを持ち上げて公開演説でアントニウスを糞味噌に貶したあげく、怒った当人が放った刺客に殺された。死体から頭と片手を切り取られてそれをローマの広場で晒されるという、凄惨きわまりない最期だった。その際、さきに言わでもの嫌みを言ったおかげで、自分が肩入れしていたオクタビアヌスは助けてくれなかった。
 両人とも結末は覚悟の前だったのだろうが、自業自得としか評しようがない。もし"イチビリ”という形容が当てはまるとしても、すいぶんと腰の据わったイチビリではあったろう。

井上雄彦 『リアル』 13

2013年11月25日 | コミック
 雑誌連載時には読んでいないが、ウィキペディアによればほぼ2ヶ月に1度のペースだそうである。荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』の最近の部もそうだが、週刊ではない長期の連載になると、山場でもたらすテンションをあえてやや抑えるという、テクニック上の行き方もあるのだろうか。次の回あるいは巻まで読者が"待ちきれる”ようにする為の。

(集英社 2013年11月)