書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

沼野恭子編著 『世界を食べよう!』

2018年06月15日 | 料理
 本書、そと見には地味すぎるほどの装幀だが、いったん開けると、手触りのよく白も明るい紙と私には読む目に心地よい字間と行間、そして何より少なくない数の写真が、すべてカラーなのだ。レシピの料理写真だけでなく、処々に挿み込まれる、いわば“箸休め”の現地の人物風物のそれまでもである。画集や美術全集など繙くことが多いのだが、カラーは最初の数頁だけとか、間隔を置いて所々であとは白黒写真だったりすると、これでは何のための出版かわからんではないかと怒りを覚えるたちなので、これはとくに嬉しい。

(東京外国語大学出版会 2015年10月)

人気コミック「そばもん」の原点の原点 現代語訳「蕎麦全書」伝

2018年02月27日 | 料理
 副題:「藤村和夫(そばもん監訳者)訳解」
 http://www.810.co.jp/hon/ISBN4-89295-543-4.html

 私は『そばもん』ではなく『美味しんぼ』の蕎麦の回からこの書へとたどり着いた。元著者の日新舎友蕎子は「蕎麦には適当なこれぞ蕎麦というべき太さがある」と断ずるが、そのための作り方以外は、茹で方も茹で加減も付け汁の何にするかも各人の好み次第と言い切っている(「一、蕎麦仕様概略の事」)。蕎麦の食い方をあれこれ余人に講釈しかつ実演してみせる迷亭氏よりよほど粋なようである。

茨木のり子 『茨木のり子の献立帖』

2017年03月11日 | 料理
 出版社による紹介

 読んで「自分の感受性ぐらい・・・」とつい口からこぼれ出るほどに、烈しい精神の自律と矜持とを背後に窺わせる献立の組立て、そしてそれを書き留めた写真の筆跡、さらにはそれらのあいだあいだに挟み込まれる日記抄の内容、近親者の回想。あなたはいつもきれいだったと思います。

(平凡社 2017年1月)

上原善広 『被差別のグルメ』

2016年01月17日 | 料理
 出版社による紹介

 沖縄の島差別についての言及がある。「はじめに」と「第四章 沖縄の島々」。先島地域だけでなく、奄美地域の住民に対するそれにも触れられている。奄美は薩摩の琉球征服後薩摩領となって、首里王府によるノロの任命と派遣以外琉球とは交流や関係がなくなったはずだから、文書上はともかく以後実地には消滅したと思っていたが、沖縄の人々の奄美群島への差別意識は江戸時代を生き続け、明治後、国民に移動の自由が与えられると、差別行動は復活したらしい。

(新潮社 2015年10月)

ウィキペディア 「公議政体論」 項より

2015年02月16日 | 料理
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E8%AD%B0%E6%94%BF%E4%BD%93%E8%AB%96

 脚注。

 1.公議輿論という言葉にはそれを唱える人にとって意味合いが微妙に異なってくる。井上勲によれば伝統的な天の観念の変容形態であり、  
  1.日本の国家意思としての「公議」
  2.日本の構成員(これも論者により異なる)によって構成された「輿論」
  3.「公議」と「輿論」のフィードバック・システムとしての「公議政体論」
  4.「公明正大」・「公正無私」などの政治姿勢・精神態度  
 などによる複合形態であると解説している(『国史大辞典』など)。

Dokic & Pacherie, "On the very idea of a frame of reference"

2014年11月29日 | 料理
 in Space in Languages: Linguistic Systems and Cognitive Categories, 259-280. 
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「弱いウォーフの仮説」を支持するStephen Levinsonの議論が誤りであることを立証するという目的のもと、"A is next to B."の認識は、"A is in front of B."と違い言語によるframe of referenceによらない知覚レベルだから、言語が思考に影響を及ぼすというLevinsonの主張は成り立たないと筆者は言うのだが、その筆者の"A is next to B."の認識は言語によらないという主張の理由は否定すべきLevinsonがそう言っているから(正確にいえばLevinsonが自身の論文において言語による認識のなかに具体的な例として挙げていないから)というのは、論拠として薄弱の誹りを免れまい。御都合主義とも感じられる。

佐藤実 「アッラーは上帝か?」

2014年09月11日 | 料理
 『「第1回次世代学術フォーラム 境界面における文化の再生産」報告書』、関西大学文化交渉学教育研究拠点、2009年所収、同書107-124頁。

 『天主実義』が創造主を「天主」と翻訳したのにたいし,イスラーム漢籍では神を「真主」「真宰」「主宰」「主」などと翻訳する。とはいえ最もよく使われるのは真主である。真主は辞書的には,賢明な主,皇帝をひろくさす普通名詞であり,最高審級に真主という語をもってくるのはイスラームの特徴とみてよいだろう。それにたいして真宰は『荘子』に,主宰は『荀子』などに典拠をもつ語で,天地を主宰する者,事物をつかさどる者をさす。天主や真主とはちがい,真宰,主宰はもともと主宰者性を帯びた語である。また神を指示する場合,イスラームでは天という文字をつかわない。つまりほんらい天と結びつけて考えられていないのである。 (「一 イスラームの神をどう翻訳し,解釈するか」同書108頁)

 柴田篤代表 『「天主実義」とその思想的影響に関する研究』も参照すること。(重要)