鎌倉時代から戦国時代にかけて、加古川地域には、野口城・高砂城・神吉城・志方城、そして加古川城などの城があった。
その外にも、比較的小規模な多くの城があった。
城について、『加古川市史(第二巻)』の説明を借りたい。
「・・・城とは、中世(鎌倉・室町時代)の土豪の居館のことで、その比較的大きなものを城、そして規模の小さなものを構居とよび・・・・構居の内、主の名の伝えられているものも少なくないが、多くは伝承の域をでない。」
これらの土豪たちは、戦国時代の三木合戦では、三木の別所につくか、それとも信長・秀吉に味方するかの決断をせまられた。
石守構居は燃えるような、彼岸花の向こうの大きな木の下の神社(政神大神社)にあった。
場所は、石守であるが西之山に近く、曇川のすぐ南である。写真の大きな木を目印にすればすぐ見つかる。
構居にある説明(加古川市教育委員会)の一部を記しておきたい。
・・・・領主は、中村景利といい、もとは(三木の)別所長治の幕下であった。
長治が天正八年、織田信長に滅ぼされていからは秀吉につき、因州(鳥取県)の戦に武功を樹てたが、討ち死にした。
また、一説には三木の乱に討ち死にしたとも言われている・・・
彼岸花は、中村景利の血潮だろうか。石守構居に彼岸花はよく似合う。