ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

神野町探訪:石守構居

2007-10-05 18:37:29 |  ・加古川市神野町

107   鎌倉時代から戦国時代にかけて、加古川地域には、野口城・高砂城・神吉城・志方城、そして加古川城などの城があった。

  その外にも、比較的小規模な多くの城があった。

  城について、『加古川市史(第二巻)』の説明を借りたい。

  「・・・城とは、中世(鎌倉・室町時代)の土豪の居館のことで、その比較的大きなものを城、そして規模の小さなものを構居とよび・・・・構居の内、主の名の伝えられているものも少なくないが、多くは伝承の域をでない。」

  これらの土豪たちは、戦国時代の三木合戦では、三木の別所につくか、それとも信長・秀吉に味方するかの決断をせまられた。

  石守構居は燃えるような、彼岸花の向こうの大きな木の下の神社(政神大神社)にあった。

  場所は、石守であるが西之山に近く、曇川のすぐ南である。写真の大きな木を目印にすればすぐ見つかる。

  構居にある説明(加古川市教育委員会)の一部を記しておきたい。

  ・・・・領主は、中村景利といい、もとは(三木の)別所長治の幕下であった。

  長治が天正八年、織田信長に滅ぼされていからは秀吉につき、因州(鳥取県)の戦に武功を樹てたが、討ち死にした。

  また、一説には三木の乱に討ち死にしたとも言われている・・・

  彼岸花は、中村景利の血潮だろうか。石守構居に彼岸花はよく似合う。

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