旧加古川流路が条里制の土地を潤す
「加古川の近くですから、加古川から水を引いたのだろう」と考えられますが、そう簡単は話ではありません。
加古川からの水が条里制の全ての田畑を潤したとも思えません。
加古川は暴れ川でした。加古川に堰をつくり、勾配をつくり加古川の水を引いたとも考えられません。
この時代に大規模な用水作る土木技術はまだ発達していません。
加古川は、太古よりその幾度となく流路を変えた暴れ川です。
加古川の旧流路をご覧ください。
不思議なことがわかります。
これらの流路と条里制の遺構がたぶんに重なっているのです。
つまり、条里制の土地は加古川の旧流路を用水路として利用して開墾されたと考えられます。
これらの流路は後に「五ヶ井用水」と呼ばれている流路です。
ですから、現在の「五ヶ井用水」の始まりは条里制の時代まで、さかのぼることができると想像されます。
「五ヶ井用水』については後に詳しく紹介すことにします。
『日本書紀』は語る
『日本書紀』に次のような記述があります。
「(今から1300年以上も前のことである)聖徳太子は、叔母の33代の推古天皇のために法華経等を講義された。
この講義に推古天皇は、おおいに感動され、その労をねぎらうため、播磨の国の良田を聖徳太子に与えた。
太子は、これを播磨に分け法隆寺の荘園とした・・・」
その土地は、揖保郡太子町の今の斑鳩寺(いかるがでら・はんきゅうじ)あたりで、法隆寺領荘園鵤荘(いかるがしょう)だというのが大方の説です。
鶴林寺は様式などから鶴林寺は平安時代初期の創建と考えられています。
鶴林寺の周辺に条里制が発達していますから、聖徳太子・鶴林寺の伝承と結びつけ説明されますが、関係はなさそうです。
加古川下流部の条里制は、加古川の旧流路を使用したものとしていいでしょう。(no3851)
*図:黒く塗りつぶしたか所が加古川の旧流路(『五ヶ井土地改良区誌』より)
◇きのう(1/22)の散歩(10.672歩)
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