ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川を歩く(42):舟運(10)・国包の河岸②

2008-06-13 20:00:47 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

7e8e302c  川筋の最大の難所は国包(くにかね)のすぐ上手にあった。

 美嚢川(みのがわ)が加古川と合流し、国包の北あたりは、全体が岩盤でミオ(水路)らしいものがなかった。

 これは、またオヤジ(船頭)の腕の見せどころでもあった。

 ここをすぎると、大きな難所は少なく、高砂までは帆走ができ、天気のよい日には鼻歌も出たという。

 やがて、高砂についた。

 帰りは、帰りの荷物を積み、オヤジ(船頭)は荷の受け渡しのために居残のこり、中乗りと艫のりは、国包でオヤジ(船頭)を待った。

 オヤジは国包までは陸路を帰った。

 その日は、国包での泊が多かった。

 そんな時は、きまってオヤジは「下川」(現在も高砂で営業している)のアナゴと晩のおかずを仕入れてきた。

 秋ごろは、イワシかサイラ。冬は、ナゴヤ(小形のふぐ)が多かった。

 ナゴヤの臓物を抜き、野菜を加えての鍋はこたえられなかった。

 国包の夜は、苦しい労働を忘れる楽しみがあった。

*『加古川の舟運の研究(吉田省三著)(滝野町)参照

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