昭和49年県の建設局より、加古川平荘ダムの工業用水を、高砂市の工業地帯へ送る送水管の埋設工事が発表された。
遺跡の可能性があり、加古川市教育委員会が調査を実施することになった。
場所は、神吉中学校の少し東で、加古川西岸から約1.4キロ、標高約5メートルの古代加古川西岸の自然堤防上に位置している。
調査地点は、下図のA・Bである。
この遺跡は、加古川下流を代表する集落遺跡で、弥生時代前期から古墳時代までの遺構であることが明らかになった。
弥生時代の砂部遺跡は、前期のものであり、加古川下流で最もはやく稲作が始まったのは砂部遺跡の周辺であろうといわれている。
また、住居跡の周りからは、土器を焼いた穴が発見され、そこからイネやカヤが確認された。
弥生時代前期におけるイネの収穫は、「穂のみを収穫し、その他の部分は堆肥として利用した」という説が有力である。
土器を焼くためにイネワラが利用されたとすれば、当時の農業形態のあり方を再考させるものとして注目される。
砂部遺跡には幾筋もの溝が南北方向に通り、それより東は地形が一段と低くなっている。
かつて加古川が、この辺りを流れていたのであろう。
*『砂部遺跡』(加古川市教育委員会・1976)参照
写真上は、砂部弥生遺跡『播磨の弥生土器とその周辺』(加古川文化センター)より
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます