新井の工事に動員した人足は、延べ16万4千人で、一日に数百人が働いています。
この工事の費用について、詳しくは分からないのですが、原則として、藩の負担でした。
もっとも、各村では年貢とは別に、村の石高に報じて労役に義務もあったらしい。
ともかく、一年あまりで新井を完成させました。
この時、新井の水の配分や水役の規則(慣行)もつくられました。
これらの、慣行は明治中期まで続いていす。
水利慣行は時代とともに不都合なカ所が生じました。また、水争いなどがしばしば起こるようになりました。
坂田啓太郎
二俣の坂田啓太郎は、これらの諸問題の解決に熱心に取り組みました。
現在、彼の功績を記録する記念碑「坂田啓太郎君記功碑」(写真上)が、現在、播磨町役場敷地内(中央公民館横)にあります。
説明板があるので読んでおきます。
「・・・功績碑は、明治連合土木会を創設し、用水路管理と水利慣行改善に尽力した坂田啓太郎の功績を顕彰し、明治41年(1908)8月、新井郷関係者が建立したものです。
これらは、野口村二ツ屋(加古川市野口町)大歳大明神に建てられていましたが、敷地整理のため、昭和55年12月に当地に移築されました」
内容については、『今里傳兵衛と新井の歴史』(新井水利組合連合会)で、次の三つにまとめておられるので、転載させていただきました。(一部書きかえています)
① 明暦(17世紀半ば)以来の旧慣を改め、新時代に応じた組織運営をはかったこと。
② 「一郷一家也」とさとし、新しく「配水委員」を置いて、水の公平な分配につとめ、水争いの原因を取り除いた。
③ 災害で壊れた場所を石の堰に改めるなどの事業の積極的な推進に功績があった。
啓太郎は、二俣の庄屋を世襲したのち、明治22年、平岡村初代町長にえらばれました。
村長を辞した後も水利事業に大きな役割を果たし、明治44年亡くなりました。75才でした。
彼は、二俣の円明寺に眠っています。
暑い日でした。啓太郎の墓を捜しに円明寺に出かけました。墓が見つかりません。それもそのはずです。啓太郎の墓(写真下)は無縁墓地の中にありました。
これほど高名な人物の墓が無縁墓地にまぎれている例を他に知りません。
*なお、元の碑文及び、読み下し文が同書にあるので、詳しくはそちらをご覧ください。
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