長年の農民の不満に、次々と火がついた。
もともと、この一揆のねらいは、米の川下げで金儲けをする新町(加東市滝野町)から、河口の高砂港までの川筋の富農・富商を懲らしめることにあった。
農民にとって、高砂は、まさに“恨みの町”と化していた。
近藤邸をつぶした一揆は、加古川市域の国包(くにかね)・西条・大野・寺家町へとなだれ込み、干鰯屋(ほしかや)・酒屋・木綿問屋などを襲った。
そして、高砂を目ざした。
しかし、加古川一揆も15日(天保四年・1833)の朝には、姫路藩の軍勢に取りおさえられた。
姫路藩にしても、藩内の経済混乱を避けるため、高砂だけは死守する心構えであったのであろう。
一方、北へ向かった一揆衆も15日の朝には疲れはて、人数も減り、柏原藩の兵に散らされた。
ここに加古川一揆は、終わりを告げた。
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