お詫びからはじめます。
かつて、平岡定太郎(三島由紀夫の祖父)を「ひらおか・さだたろう」と紹介したことがあります。
正しくは「ひろおか・ていたろう」です。訂正させていただきます。
祖父(定太郎)は、志方上富木横山の人
これから三島由紀夫(本名、平岡公威・きみたけ)を書きたいのですが、平岡定太郎からはじめます。
定太郎は、三島由紀夫(本名・平岡公威)の祖父です。
「志方郷(第35号)」で松本光明氏が、定太郎について解説しておられるので、その一部をお借りすることにします。
「・・・(三島由紀夫は)昭和33年6月、ノーベル文学賞受賞者・川端康成の媒酌により、著名な日本画家杉山寧の長女・瑤子と結婚するまでの彼の本籍は、兵庫県印南郡志方町上富木119番地にあった。(結婚後、東京都目黒区に転籍)
この本籍地は、字限図によると、上富木字横山に相違ない。
江戸時代、おそらく中期ころまで、この地は雑草、雑木に覆われた荒蕪の地であったといわれる。
上富木からもこの地へおもむいて開墾に精を尽くした人もいたに相違ないが、平岡公威(三島由紀夫)の四代前の祖・太左衛門も開墾に尽力した一人である。
そして、定太郎の息子・太吉の代には五丁歩の田畑を所有するまでになった。
太吉には萬次郎、定太郎、久太郎そして娘の「むめ」の四人の子どもがいた。
その頃はすでに明治と改元していた。
平岡の苗字を獲得していた。
二男の定太郎こそ、平岡公威こと三島由紀夫の祖父にほかならない。・・・」
松本氏の説明は、さらに続くのですが、後に引用させていただきます。
福島県知事・樺太庁長官となる
三島由紀夫の祖父・定太郎は志方町上富木の横山の人で、あまり裕福とは言えない百姓の家に生まれています。
それでも、努力家でよく勉強をした人のようです。
御影師範学校(現・神戸大学)、東京専門学校(現・早稲田大学)、東京大学予備門(東京大学教養学部)等を経て、明治25年(1892)7月、東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を経て内務省に入省しています。
その後、さまざまな経歴を重ね、明治39年(1906)7月、福島県知事に就任し、明治41年(1908)6月に樺太庁長官に就任しました。
東大・予備門で漱石と同期生
東京帝大時代は成績優秀で、将来は学者として嘱望されていました。
夏目漱石とは東大予備門の同期生で、漱石の小説『それから』に出てくる平岡常次郎、『門』に登場する安井は、定太郎をモデルにしたのではないかとの説があります。
*写真:平岡定太郎
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