荘園について
律令制度の時代、公地公民制が採用されました。
つまり、全ての土地と人々は、国家のものでした。
やがて人口が増え、土地が不足するようになりました。
それに、重税に耐えかねた農民の逃亡が重なり、税がうまく集まらなくなりました。
そのため、国家が耕した土地の私有を認めました。
これら私有化された土地が「荘園」です。
奈良時代・平安時代、私たちの地方の荘園については史料が少ないためいため詳しいことは分かっていません。
阿閉荘の村々
前回も紹介した『住吉神社神代記』の書かれた時代は、はっきりとしませんが、「住吉大社神代記」(天平三年・731)によると、阿閉荘は「賀胡郡阿閉津浜一処、四至(四隅)は、東は、余郷(あまりごう)、西は大湖尻、南は海棹(さお)の及ぶ際、北は大路」と記されています。
その荘園の範囲は、東は現在の明石市二見町付近と推定され、西は大きな湖の尻にあたります。
この湖は河であり、大河の河尻、つまり加古川の川尻をさしたものでしよう。
北の大路は、古代山陽道付近。「阿閉荘」があらわれる確実な記録は、鎌倉時代に書かれた「住吉神領年紀」(正嘉元年・1257)です。
「阿閉荘が摂津国住吉大社領であり、加古郡の二子・野添・経田・古向・宮北・東中野・本庄・宮西・古宮(以上播磨町)・西脇・八反田・中野・山上・二俣・一色・古宮・別府(以上加古川市)の18ヶ村を阿閉荘という」とあります。
ともかく、阿閉神社は、住吉大社の荘園(阿閉荘)としての経営の中心としての役割を果たしていたのでしょう。
*地図:『東播磨の荘園下巻(竹内理三著)』(吉川弘文館)から一部
*『阿閉の里』参照
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