石棺の蓋、あるいは身の部分に仏を刻んだ石棺仏である。
これらの石棺物は、鎌倉時代から室町時代にかけてさかんに造られたが、その後、なぜかプツリと姿を消した。
鎌倉時代、水田の開発が盛んで、土地が新たに開墾された。
この時、多くの古墳も壊され、出土した石棺は、仏像を彫る材料として再利用されたのであろう。
単なる廃物利用ではなさそうである。当時の人々も、この石材は、死者を葬った石棺であることを意識していたのだろう。
石棺仏は、全国に120基ほど確認されているが、その8割が加古川史、加西市地域に集中している。
その理由は、はっきりとしない。
加古川市・加西市地域では普通に見られるこれら石棺物であるが珍しいものである。
写真は、神木(こうぎ・平荘町神木)の石棺仏(鎌倉後期)の石棺仏である。
◇一結衆十六人◇
県下で、鎌倉時代から室町時代にかけてのこれら石造物は、すべて死者の追善や生者の逆修(ぎゃくしゅ)のための供養塔である。
*「逆修」については、昨日のブログをご覧ください。
しかし、鎌倉時代の庶民は裕福ではなかった。
これら石造物の造立者は、有力な農民だったと思われるが、それにしても独力で造立するには負担が大きすぎた。
信仰で結ばれた多数者の発願で造立している石造物が多い。
個人の墓塔となるのは、次の室町時代を待たねばならない。
神木の石棺仏も写真では確認しにくいが、右下に「一結衆十六人」と刻んでいる。
*『兵庫探検(続歴史風土編)』(神戸新聞社)参照
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