次の文は『加古のながれ』(加古川市史編さん室)からの引用です。
説明の前に図の「古大内遺跡」の場所を確認してください。
古大内遺跡は、賀古駅家(かこのうまや)跡
・・・加古川市野口町の古大内遺跡は、「賀古駅家」の跡として、全国的に認められるようになりました。
その北にある駅ヶ池の南岸から西進して加古川平野を横切り、現在のJR宝殿駅前あたりまでを直線で結ぶ道路の痕跡が見いだされました。
これがおよそ1300年前に設けられた古代山陽道で、幅は約20メートルもあります。
このような広幅・直線道路は全国七道にわたって敷設され、その最大の幹線道路が古代山陽道で、当時の30里、後世の5里ごとに駅家が設置されました。
その一つが賀古駅家で、延喜式には駅馬40疋を常置したとありますから、日本一の大駅であったわけです。・・・(以上『加古のながれ』より)
駅ヶ池の堤は古代山陽道か?
「賀古駅家(かこのうまや)」については、後日取り上げることにします。
きょうは、駅ヶ池(うまやがいけ)と古代山陽道について書いてみます。
ただし、研究者により証明されていません。内容についてはそのつもりでお読みください。
赤く塗った道が古代山陽道で、奈良時代に造られました。
駅池も奈良時代に造られて、市内では一番古い池です。
古代山陽道も駅ヶ池も共に奈良時代に造られました。
もちろん、このことは歴史的に証明されています。問題はここからです。
古代山陽道と駅ヶ池の位置関係をご覧ください。
駅池の南に沿って古代山陽道が走っています。
これは偶然でしょうか。
まず、古代山陽道が造られそれに伴い駅ヶ池が造られたと想像します。
駅ヶ池がある場所は、地形は西に低く、北と東が高く、水が集まる場所にあります。
当時の人は、ここに池を造り、水をため田畑を潤し、生活に利用することを考えたと思います。
池を造るための堤については、南と西に堤を防築けば池は完成します。
問題は、南の長い堤防です。
古代山陽道が駅ヶ池に沿っていることは、古代山陽道を駅池の南の堤防として利用したのではないかと想像するのです。
古代山陽道は道幅20㍍前後あったといいます。また冠水しないために一段高く造られたでしょうから立派な堤防の役割を果たすことができます。
整理します。
駅ヶ池の北と東は土地が高く堤防の必要ありません。
南は、古代山陽道が堤防の役割をはたした想像します。
とするなら、駅池の堤防は西の古大内遺跡と現在の国道2号線まで、あるいは、もう少し伸びて教信寺の手前あたりまで築けば事足りたのでしよう。
非常に経済的に造られた池と言えます。
いかがでしょうか。
*図:『加古川市史(第一巻)』より
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