ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

上荘町・平荘町探訪:国包の小作争議

2009-04-22 09:07:23 |  ・加古川市上荘・平荘町

203842b7 加古郡・印南郡の小作率は、県下でも飛びぬけて高い。

 やがて、小作の怒りは小作争議として爆発した。

 当時の社会情勢をみておきたい。

 第一次世界大戦後小作争議が頻発する。

 これはこの頃、工業化がすすみ、工業労働者との接触と啓発があった。

 なによりも、大正10年(1921)の川崎及び三菱造船所の労働争議の影響があった。

 大正11年、全国農民組合である日本農民組合(日農)が神戸で発会した。

 「日農」は、小作の地位向上と生活の安定を目指して小作争議を指導した。

 大正12年、東播連合会が結成され、八幡村(現:加古川市八幡町)宗佐に本部をおいた。

 小作争議の主な要求は、地主に対して小作料の減免であったが、従来の「お願い」から「要求」へとかわった。

 ◇国包の小作争議◇

  *『大正12年の県の報告書』参照

 国包村の総戸数の180戸のうち農業は70戸である。

 その内訳は、自作農1戸、自作権小作農16戸、小作54戸(合計は71戸になるが報告書のまま)で、自小作も含めると驚くべき小作率になる。

 争議の起きた時期の小作料の割合は50%を越えて、江戸時代の年貢なみであった。

 小作人たちは、永久小作料の一割五分の減額を要求した。

 県当局の記録では「大正12年度は相当の収穫量を見込めるため、農民は目下見守っている・・・」としているが、この小作争議の結末を知りたい。

 加古川地方の小作争議については、後日紹介したい。

*『加古川市史(第六巻・上)』(加古川市)、『加古川市史に読む・わがふるさと国包』(畑偕夫著)参照

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