国包村の商工業 2006・8・18のブログより
国包村は、湯乃山街道(ゆのやまかいどう)と加古川が交わり、美の川にも近く、交通の要所に位置していた。
そのため、近在ではめずらしく、町場化が進んでいた。
元文2年(1737)の同村の明細帳には、家数125軒の内、本百姓74軒、水呑50件と水呑(田畑を持たない小作)の割合が多い。
具体的な職種として、大工4人、桶屋2人、医者3人、木挽6人、紺屋1人、材木屋3人、陸塩売4人、旅籠屋5人、川舟宿6人、殺生人(川漁師のこと)6人、蚕種商2人、そのほかに、高瀬船3艘、舟主2人と明細帳にある。
これらは専業ではなく、百姓の兼業が含まれていると思えるが非農業的な職業が多いく、全体に加古川の舟運に係わる職業が多いのが特徴である。
確かに、国包村は、近在では珍しく町場が進んでいたが、別の理由もある。
4月30日のブログ(畑平左衛門と亀之井用水)の文章の一部を読んでみたい。
「・・・国包は、5日も日照が続くとツルベで朝・夕灌漑をしなければならず、他の村からの嫁入りも嫌われたと言う。
そんな、窮状を救うため、文化13年(1816)、畑平左衛門(応親)が、美濃川が加古川に注ぎ込む手前から取水する用水(亀之井用水)をつくった。・・・」
つまり、国包村は水田のための水が得にくい土地であった。農村としても発達できたのは亀之井用水が完成して以後の、江戸時代も終わりの頃からである。
*写真:加古川の堤防からみた国包
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