ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

上荘町・平荘町探訪:国包村の商工業(江戸時代)

2009-05-25 22:25:34 |  ・加古川市上荘・平荘町

 国包村の商工業  2006818のブログより

012  江戸時代の国包村のようすを見ておきたい。

 国包村は、湯乃山街道(ゆのやまかいどう)と加古川が交わり、美の川にも近く、交通の要所に位置していた。

 そのため、近在ではめずらしく、町場化が進んでいた。

 元文2年(1737)の同村の明細帳には、家数125軒の内、本百姓74軒、水呑50件と水呑(田畑を持たない小作)の割合が多い。

 具体的な職種として、大工4人、桶屋2人、医者3人、木挽6人、紺屋1人、材木屋3人、陸塩売4人、旅籠屋5人、川舟宿6人、殺生人(川漁師のこと)6人、蚕種商2人、そのほかに、高瀬船3艘、舟主2人と明細帳にある。

 これらは専業ではなく、百姓の兼業が含まれていると思えるが非農業的な職業が多いく、全体に加古川の舟運に係わる職業が多いのが特徴である。

 確かに、国包村は、近在では珍しく町場が進んでいたが、別の理由もある。

 4月30日のブログ(畑平左衛門と亀之井用水)の文章の一部を読んでみたい。

「・・・国包は、5日も日照が続くとツルベで朝・夕灌漑をしなければならず、他の村からの嫁入りも嫌われたと言う。

 そんな、窮状を救うため、文化13年(1816)、畑平左衛門(応親)が、美濃川が加古川に注ぎ込む手前から取水する用水(亀之井用水)をつくった。・・・」

つまり、国包村は水田のための水が得にくい土地であった。農村としても発達できたのは亀之井用水が完成して以後の、江戸時代も終わりの頃からである。

*写真:加古川の堤防からみた国包

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