ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

(東神吉町)常楽寺(1) 落城後現在の場所に

2015-11-15 08:54:10 |  ・加古川市東神吉町

 「西井ノ口の写真集」に続き、「加古川、お城物語」を紹介しました。

 「お城物語」では、神吉城を中心にして紹介しましたので、神吉城跡に建つ「常楽寺」を訪ねてみます。

 もちろん調べながらの報告ですので、不十分な記述になると思います。

 史料等をご紹介ください。

     常 楽 寺

 播磨の西、現在の佐用市から出た赤松則村(円心)は、足利尊氏に協力して鎌倉幕府を倒すのに大きな役割をはたしました。

 正慶二年(1333)二月、則村(円心)は兵を挙げ、尊氏に協力するため摂州摩耶山へ出陣しました。

 この時、皇室の安泰と武運長久を祈るため、信仰している僧、教神上人に命じて印南郡中西村(現:西神吉町)に法性山・常楽寺という寺を創建して、祈願し寺領を寄附しました。

 その後の詳細は省きますが、赤松満祐が将軍・義義(よしのり)を暗殺するという事件(嘉吉の乱・1444)を起こし赤松氏はお家断絶となりました。

 が、その後、赤松は再興が許されます。

 常楽寺は、赤松支裔の神吉城主歴代の菩提所となりました。

 ところが、織田信忠(信長の長男)軍の神吉城攻で、神吉城が落ち、戦火で諸堂、坊舎は全焼してしまいました。

 その時の住僧の性春は神吉侯の遺骸を城跡に埋め、その傍に一宇を構えその冥福を祈りました。

 慶長十八年(1613)十一月、姫烙城主、池田琿政は寺領を常楽寺に寄附し、その後、慶安元年(1648)八月十七日、将軍家光から寺領十八石四斗を寄付されました。

現在の本堂は、元禄五年(1692)に再建されています。

     常楽寺は、中西から

 元の常楽寺は、正慶二年(1333)中西村に創建され、天正六年(1558)、神吉城跡に移されました。

   <常楽寺・メモ>

    宗派:浄土宗西山、禅林寺派

    本尊 阿弥陀如来(木像)、(no3017)

 *写真:現在の常楽寺本堂

 *神吉城主400年忌法要記念誌』参照

 

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