ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

官兵衛がゆく(41):神吉城の戦い④・落城

2012-12-27 07:39:40 | 黒田官兵衛

    神吉城落城(天正六年七月十六日)

060神吉城落城を『播磨灘物語』は次のように書いている。

・・・・

城主・神吉頼定は、(織田)信忠に降伏を申し出たが、織田方は許さなかった。

信長から、敵将を殺せ、と言う命令が出ていたからである。

このため、神吉は二十日ほど防戦し、城主・頼定の叔父(神吉藤大夫)が内応して、落城した。

頼定はその場で切られた。

(天正六年・1567)七月十六日である

・・・

司馬遼太郎の描く神吉城の戦いは以上のようであるが、広く知られている神吉城は叔父・藤大夫の内応のために敗れたとする伝承について、『加古川市史』は史実ではないとしている。

地元では、三木城の攻防をさまざまに語り継いでいる。

神吉城主・頼定の死も城主を思う気持ちが、藤大夫一人を悪者にしたてたのであろう。

「負けるはずのない戦いだったのに・・・」と言いたかったのかもしれない。

  

    城主・頼定の妻はのがれた

負け戦の後には決まって制裁がまっている。信長の関係した戦の場合は磔等の極刑がしばしばあった。神吉城の戦いではそれが無い。

情け容赦のない刑であれば、戦後の支配が難しくなる。

信忠軍は、30000の兵で2000の兵を蹴散らした。そして、城主の頼定は、斬られた。

その後の極刑はなかった。

神吉城の合戦は、加古川最大の合戦であり、圧倒的な大軍で囲まれた戦いであった。しかし、三木戦を前にして、よけいな緊張をつくりたくなかったのであろう

それにしても、頼定の妻は逃れ、子どもも逃げている。

信忠軍の囲みの中から、簡単に逃げられるものではない。

なぜ? 何かがあるとかんぐりたくなる。

次号では、その「なぜ」を推測してみたい。

*写真:常楽寺(神吉城跡)にある神吉頼定の墓

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 官兵衛がゆく(40):神吉... | トップ | 官兵衛がゆく(42):神吉... »

コメントを投稿