神吉城落城(天正六年七月十六日)
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城主・神吉頼定は、(織田)信忠に降伏を申し出たが、織田方は許さなかった。
信長から、敵将を殺せ、と言う命令が出ていたからである。
このため、神吉は二十日ほど防戦し、城主・頼定の叔父(神吉藤大夫)が内応して、落城した。
頼定はその場で切られた。
(天正六年・1567)七月十六日である
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司馬遼太郎の描く神吉城の戦いは以上のようであるが、広く知られている神吉城は叔父・藤大夫の内応のために敗れたとする伝承について、『加古川市史』は史実ではないとしている。
地元では、三木城の攻防をさまざまに語り継いでいる。
神吉城主・頼定の死も城主を思う気持ちが、藤大夫一人を悪者にしたてたのであろう。
「負けるはずのない戦いだったのに・・・」と言いたかったのかもしれない。
城主・頼定の妻はのがれた
負け戦の後には決まって制裁がまっている。信長の関係した戦の場合は磔等の極刑がしばしばあった。神吉城の戦いではそれが無い。
情け容赦のない刑であれば、戦後の支配が難しくなる。
信忠軍は、30000の兵で2000の兵を蹴散らした。そして、城主の頼定は、斬られた。
その後の極刑はなかった。
神吉城の合戦は、加古川最大の合戦であり、圧倒的な大軍で囲まれた戦いであった。しかし、三木戦を前にして、よけいな緊張をつくりたくなかったのであろう
それにしても、頼定の妻は逃れ、子どもも逃げている。
信忠軍の囲みの中から、簡単に逃げられるものではない。
なぜ? 何かがあるとかんぐりたくなる。
次号では、その「なぜ」を推測してみたい。
*写真:常楽寺(神吉城跡)にある神吉頼定の墓
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