ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

上荘町・平荘町探訪:畑平左衛門(応親)と亀之井用水

2009-04-30 09:58:37 |  ・加古川市上荘・平荘町

E88dd361 右の図の美濃川から国包村に流れるのは「亀之井用水」である。

 2007年4月6日のブログ「亀の井用水」の復習しておきたい。

 「・・・国包は、5日も日照が続くと、ツルベで朝・夕灌漑をしなければならず、他の村からの嫁入も嫌われたという。

 そんな窮状を救うため、文化13年(1816)、畑平左衛門(応親)が、美濃川(みのがわ)が加古川に注ぎ込む手前から取水する用水をつくった。

 この用水は、国包村・船町村、それに宗佐村の畑地を潤し、水田化するための用水だった・・・・」(2007年4月6日のブログより)

 ◇国包村の石高◇

  正保  3年(1646)    310石2斗4升5合

  元禄15年(1702)    310石4斗7升1合

  天保  5年(1834)        535石5斗7升8合

 天保5年の国包村の生産高は急増している。これは、亀の井用水の開削に伴うものである。

007  亀之井用水の開削は、国包村の畑平左衛門(応親)が、願主となった。

 開削には、工事費の捻出・用水路の確保などの問題が山積していた。

 美濃川から水を引くとなると他藩の川から水を引くことになる。

 美濃川は、明石藩に属している。

 姫路藩主としても他藩から水を引くことを命令・許可することはできない。

 平左衛門は、粘り強く関係の村々と話し合いをした。

 厳しい条件も課されたが開削にこぎつけた。

 開削は思いのほか難工事となった。それに伴い工事費も増え、開始から8年目の文政7年(1824)に完成をみた。

 さいわい、この普請は姫路藩の御入用普請(藩の工事)としておこなわれた。

 平左衛門(応親)は、亀之井用水堰の完成後も明石藩北部の灌漑にも携わった。

 資金のめどもついた頃であった。病(中風)に倒れ、15年の闘病の末、嘉永2年(1849)没した。

 嘉永7年(1854)、国包・船町・宗佐村の百姓は、平左衛門(応親)の功績をたたえる記念碑(写真)を建てた。

 この記念碑は、現在弁天さんの横に移されている。

*『加古川市史に読む・わがふるさと国包』(畑偕夫著)参照

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