北京( Bei Jing )(ベイジン)から夜行列車で山西省の省都太原( Tai Yuan )(タイユエン)(たいげん)に向かった(所要10時間)。
硬座(木の座席)しか切符が取れなかったが、段々慣れてきている。
その後太原駅で乗り換えて、平遙( Ping Yao )(ピンヤオ)(へいよう)へと向かった(所要2.5時間)。
平遙は古い城塞都市で、その保存状態の良さから世界遺産に登録されている。
明代の城壁がほぼ完全な形で残っているのは、中国国内でここだけらしい。
平遙古城は、別名亀城(きじょう)といい、南の迎薫(げいくん)門は頭、北の拱極(きょうきょく)門は尾、西の鳳儀(ほうぎ)門と永定(えいてい)門・東の親翰(しんかん)門と太和(たいわ)門は4本の脚、迎薫門の外にある二つの井戸が目を表している。
訪問時の天候は中国内陸部ではありがちな曇天(どんてん)で、街も埃っぽかった。
(写真は平遙古城城壁の屋上)
城壁内で人々が普通に生活をしていたのが印象に残っている。世界遺産に住んでいるという意識はあまり感じられなかった。
当時は観光客もあまり見かけなかったが、今は変わっているかもしれない。
(写真は、平遙古城内の住居)
ここは、西安(シーアン)で出会った建築家夫婦(特に奥さん)の強いお勧めの場所だった。
しかし、正直申し上げて印象は薄い。
幾多の建築物を目にし、想像力を持って古代のロマンを感じることの出来る段階になって初めて訪れる価値のある所だと思う。
玄人(くろうと)向けのその遺跡に行くにはまだ早かった。
※当時の『地球の歩き方 中国』(ダイヤモンド社)には、1ページ分の記述しかなかったが、現在のものにはいろいろ見所が書かれている。情報があれば訪問時の印象も違うと思う。
レンタサイクルで城壁内を散策したりしているが、一番印象に残っているのは食堂のおじさんだ。
城壁内の食堂で昼食を取ったのだが、ここのおじさんはとても優しかった。
日本から遠路はるばるやって来たということで、とても喜んでサービスしてくれた。
こういう人に出会うと、自分も感化されると思う。
平遙は中国の観光地には珍しく、素朴な人々が住んでいる街だった。
※地図はこちら
硬座(木の座席)しか切符が取れなかったが、段々慣れてきている。
その後太原駅で乗り換えて、平遙( Ping Yao )(ピンヤオ)(へいよう)へと向かった(所要2.5時間)。
平遙は古い城塞都市で、その保存状態の良さから世界遺産に登録されている。
明代の城壁がほぼ完全な形で残っているのは、中国国内でここだけらしい。
平遙古城は、別名亀城(きじょう)といい、南の迎薫(げいくん)門は頭、北の拱極(きょうきょく)門は尾、西の鳳儀(ほうぎ)門と永定(えいてい)門・東の親翰(しんかん)門と太和(たいわ)門は4本の脚、迎薫門の外にある二つの井戸が目を表している。
訪問時の天候は中国内陸部ではありがちな曇天(どんてん)で、街も埃っぽかった。
(写真は平遙古城城壁の屋上)
城壁内で人々が普通に生活をしていたのが印象に残っている。世界遺産に住んでいるという意識はあまり感じられなかった。
当時は観光客もあまり見かけなかったが、今は変わっているかもしれない。
(写真は、平遙古城内の住居)
ここは、西安(シーアン)で出会った建築家夫婦(特に奥さん)の強いお勧めの場所だった。
しかし、正直申し上げて印象は薄い。
幾多の建築物を目にし、想像力を持って古代のロマンを感じることの出来る段階になって初めて訪れる価値のある所だと思う。
玄人(くろうと)向けのその遺跡に行くにはまだ早かった。
※当時の『地球の歩き方 中国』(ダイヤモンド社)には、1ページ分の記述しかなかったが、現在のものにはいろいろ見所が書かれている。情報があれば訪問時の印象も違うと思う。
レンタサイクルで城壁内を散策したりしているが、一番印象に残っているのは食堂のおじさんだ。
城壁内の食堂で昼食を取ったのだが、ここのおじさんはとても優しかった。
日本から遠路はるばるやって来たということで、とても喜んでサービスしてくれた。
こういう人に出会うと、自分も感化されると思う。
平遙は中国の観光地には珍しく、素朴な人々が住んでいる街だった。
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