風の備忘録~ ~ ~

風は林に色や形や音を運んできます
忘れないうちに 忘れないように
短い言葉でメモ memo   
       

疎開(そかい)のころ

2005-07-10 | 林の詩・文
キツネが裏庭でないた
崖のアケビを採って食べた
ポトサケタが飛んでいった
バタンキョウはすっぱかった

雪は深かった
いろりはけむかった
池のクワイを焼いて食べた

岩山を越えて
食べられる草を探しに行った
かあさんが足を怪我した
山は寒かった
ヤマバトがないた
シラユリが悲しかった

暗やみに
高橋の家の空が赤くなった
「センダイがやけた」
と かあさんがいった

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ーーー昭和34年2月高校卒業記念に発行したクラス文集に載せたものですーーー

60年前の今日7月10日に仙台空襲がありました。
私は母の実家の田舎に母と姉と3人で疎開していました。
弟はその2年前に疫痢(えきり)で亡くなっています。

母は苦労したと思いますが
私は自然の中ですごした楽しい経験の連続でした。
「ポトサケタ」はホトトギスのことです。

『高橋の家』というのは みんながそう呼んでいた大きな家。
その家の空が赤くなったのでした。
飛行機 B29の音で外を見たのだったのでしょうか。

仙台から かなり離れていた所だったのに空が赤く見えたほどの空襲。
   仙台の中心部はすっかり焼けました。 

父はジャワに行っていました。
今は観光地としての国も 
私にとっては長い間、戦地というイメージが強かったのでした。

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
戦争 (さらだ)
2005-07-14 16:25:54
この間 NHKで有名人の戦争体験

っていうのをやってました。



悲惨な話はちょっと苦手ですが

特に今の若い世代の人に伝えなくては。。

って思います。TVを付けてチャンネルを

回すとヘラヘラ笑ってる番組が多いような

気がします。



林さんも大変だったんでしょうが。。。

>私は自然の中ですごした楽しい経験の連続でした。

って書かれているのを読んでホッとしました。弟さんは亡くなられたのですね。



戦争 テロが多発している現代。 命の

尊さ 平和の尊さを願わずにはいられ

ません。

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空襲にあわなかったけど ()
2005-07-14 22:35:17
さらださん



街には B29がやってきて空から攻撃がありました。

子どもの遊びも戦争に関する遊びがありました。

「空襲警報発令」「敵機来襲」・・・

鬼ごっこやかくれんぼのようなものだったと思います。

その言葉に一目散に逃げたように思います。

私たち姉妹ではお布団に入ってから

「スイトン」という遊びをやりました。

その言葉を誰かが言ったら さっと

お布団にもぐるのです。

髪の毛も見えないようにうまく隠れたほうが勝ち。



田舎には祖母とおばさん二人、おじさん二人がいて母は肩身が狭かったと思います。

食べ盛りの母の兄弟のなかに子ども二人もつれて

入ったのですから。



子どもだけで食べ物を探しに歩いて

沢蟹とりしたり、カラス貝をとったり、

こうして書いていると次々といろんなことが思い出されます。



「疎開のころ」は当初は「ひとむかし」と題をつけました。

5歳のころ体験を18歳ころに書いたのですから

「ひとむかし」でもいいのですが

今では 60年前になってしまったので「疎開のころ」としました。



田舎に疎開したことによって

街での空襲は免れた私たちです。

戦争は破壊することです。

戦争は緑を茶色にすることです。
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Unknown (ひー)
2008-07-12 10:31:05
2005年だったのですね。
空襲警報の度に防空壕に逃げたと、母も言ってました。

嫌の思いを一生背負っていかなくちゃいけないんですね。
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今、物が高いというけれど ()
2008-07-12 20:11:22
ひーさん
空襲警報 B29  敵機来襲 防空頭巾 赤札
幼いながら耳にした言葉は忘れません。
戦争はひどいものです。
人は亡くなり、衣食住がなくなります。
最近 モノが全て高くて困るといわれますが
店にはモノがあふれています。
戦争中、戦争直後のことを思い出すと
今は「ぜいたく」に慣れてしまったなぁと思います。
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