
先日、書店で、森繁久彌の次男建と長女和久昭子の対談本「ピンからキリだけ知ればいい わが父、森繁久弥」を見つけて読み、NHK BShiで放映された森繁の出世作「夫婦善哉」と「新・夫婦善哉」を見て、久しぶりに天下の名優森繁久弥を思い出していた。
私が、森繁久彌を始めて見たのは、映画で、それも社長シリーズや駅前シリーズと言った喜劇モノで、建氏が言っているように、眼鏡にちょび髭を生やして、いつも、淡路恵子や新珠三千代のお尻を触っていたにやけた喜劇役者の森繁であった。
その後、森繁のテレビ番組や映画を随分見続けて来たのだが、残念ながら、あの「屋根の上のバイオリン弾き」も含めて森繁の舞台を見たことがない。
著作は、二冊くらい読んだと思う。中身は忘れてしまったが、軽妙酒脱な味わいのある文章が印象的であったのを覚えている。
ところで、この本のタイトル「ピンキリ」の話だが、屋台の安酒を飲んでいた健氏に、灘の銘酒を飲ませて、
「いい酒とはこういう味がするのだと覚えておけ。人生は、ピンとキリだけ知っておけばよい。真ん中というのは普通に生きておれば嫌というほど味わえる。仕事でも人間関係でも、あらゆる物事は、ピンとキリを知っていれば、自然と真ん中も知るようになってくる。」と言ったと言う話を披露している。
一寸ニュアンスが違うが、藤十郎が、武智鉄二に、クラブでも女性でも一流のところで遊べ、一番いいものを見て、一番いいものの中に育っていないと芸が貧しくなると言われて、全部払って貰ったと語っていたが、最高のもの、本当のものを知っておくことが何よりも肝要だと言うことであろう。
刀の目利きを育てるためには、本物の名刀しか見せないと言われているのも、このことであろうか。
この森繁久彌の人生哲学は、絶対に過去を振り返らないと言うことで、子供に対しても、最後まで徹頭徹尾威厳のある父親として通しぬき、馴れ馴れしくは出来ないオーラを発していて、親しみと近寄りがたい怖さが同居していたと言う。
船場の化粧品問屋の跡取り若旦那が身を持ち崩す男の一代記である「夫婦善哉」を見ていて、本来は極めてシリアスで真面目かつ聡明な役者である森繁が、あれほどまでにがしんたれの馬鹿たれ男を地で行くように熱演できたのか、この本からいくらか面白いヒントがあったような気がした。
大阪財界の大立者であった実父菅沼達吉氏の残した相当な遺産を、早稲田時代に、芝居に芸者にダンスホール、しまいには株に手を出してすっからかんになると言う学生の枠を超えた放蕩三昧の生活をおくっている。
満州から日本に引き揚げて来て生活に困窮していた時に、魚を闇値で卸すおいしい仕事を聞きつけて徳島に乗り込んで、それに賭けるのだが、南海地震による津波を受けて総てパーになる。
細々と役者人生が始まって落ち着き始めても、稼いだ金はすぐ仲間たちと飲み食いに使ってしまって、森繁家の生活費は、奥方の内職で賄うと言う始末で、満州時代から晩年まで、森繁家には、毎日の如く知人友人が集い、多くのお手伝いや雇い人や、良く分からないような居候が住んでいたと言うのだから、森繁久弥の並外れた人間のスケールの大きさが分かろうと言うものである。
この森繁久彌は、なければトイレや風呂は勿論、庭の大きなプールまで自分で作り、ベニア板を買ってきてセスナのエンジンをつけてプロペラ船を作ると言う器用さなのだから、子供たちに縫い包みや飾りを作ってやるなどは序の口、とにかく、人並み外れのオールマイティだったと言うことである。
「新夫婦善哉」のラストシーンで、蜂の養殖を勉強して王乳つくりに賭けようとする姿が映されていたが、本物なら成功するであろうと、変な思い入れを感じて見ていた。
この「夫婦善哉」だが、法善寺横町にある善哉屋「お福」が、一人前の善哉を二つのお椀に入れて出すことから来ているのだが、船場の安化粧品問屋の息子維康柳吉(森繁)と曽根崎新地の売れっ子芸者蝶子(淡島千景)のデート場所でもある。
これは、織田作之助の小説だが、箸にも棒にも掛からない底抜けの能天気でがしんたれの大阪男と、健気でどこまでも男を思い続ける一途な大阪女の夫婦の物語で、謂わば、一寸した現代離れの今様近松門左衛門の世界である。
戦前の法善寺やお初天神のある曽根崎新地、それに、船場の問屋の雰囲気がむんむんした昔懐かしい大阪風景が活写されていて、そのまま、近松の世界までタイムスリップするような錯覚に陥る。
森繁の映画のディスコグラフィーを見たが、近松らしき作品は一もない。尤も、鴈治郎父子が曾根崎心中を復活初演したのが1953年だと言うから、近松の作品が舞台にかかることは殆どなかったのであろうが、大阪で生まれて大阪で育った不世出の名優森繁久彌が、近松門左衛門の舞台踏んでいたら、どんなに素晴らしかったかと思うと、本当に惜しい気がして仕方がない。
ところで、森繁久彌が素晴らしかったのは当然としても、奥方の杏子さんが、それに輪をかけたような素晴らしい人だったようで、特に裁縫の腕はプロ級以上で、久彌の服は勿論、自分の服も子供の服も瞬く間に立派に作り上げ、欧州旅行でも、出かける時には、裁縫道具の入ったトランク一つで出かけて、帰国時には、自分の作った服で一杯になっていたと言う。
二人の話では、戦中戦後、杏子さんは絶えず裁縫をしていたと言うことで、この卓越した杏子さんの腕と才覚が、名優森繁久彌を公私ともに支えて来たのであろう。
森繁が売れない役者だった頃、フィルムの缶を弁当箱にして豪華な弁当を作って持たせて、弁ブル(弁当ブルジョア)と勇名を馳せて撮影所中に知らしめて森繁を売り出したと言うから、正に、スタイリストのみならず名プロデュサーだったのである。
この杏子さんが、シュヴァイツアー博士に会いにアフリカに行ったのだから、その行動力に驚く。
仕事で殆ど家を開けていて、杏子さんも長期の海外旅行で二人が会わない日々の連続であった筈だが、余程妻を愛し頼りにしていたのであろう。杏子さんに先立たれてから、急激に森繁は衰えて行って、長期療養とリハビリ生活に明け暮れたと言う。
森繁久彌の実人生こそが、人間森繁久彌の最高の舞台だ思うのだが、その壮大な舞台を二人の子供たちが、父への限りなき愛情を込めて描き切ったのが、この本であろうと思う。
私が、森繁久彌を始めて見たのは、映画で、それも社長シリーズや駅前シリーズと言った喜劇モノで、建氏が言っているように、眼鏡にちょび髭を生やして、いつも、淡路恵子や新珠三千代のお尻を触っていたにやけた喜劇役者の森繁であった。
その後、森繁のテレビ番組や映画を随分見続けて来たのだが、残念ながら、あの「屋根の上のバイオリン弾き」も含めて森繁の舞台を見たことがない。
著作は、二冊くらい読んだと思う。中身は忘れてしまったが、軽妙酒脱な味わいのある文章が印象的であったのを覚えている。
ところで、この本のタイトル「ピンキリ」の話だが、屋台の安酒を飲んでいた健氏に、灘の銘酒を飲ませて、
「いい酒とはこういう味がするのだと覚えておけ。人生は、ピンとキリだけ知っておけばよい。真ん中というのは普通に生きておれば嫌というほど味わえる。仕事でも人間関係でも、あらゆる物事は、ピンとキリを知っていれば、自然と真ん中も知るようになってくる。」と言ったと言う話を披露している。
一寸ニュアンスが違うが、藤十郎が、武智鉄二に、クラブでも女性でも一流のところで遊べ、一番いいものを見て、一番いいものの中に育っていないと芸が貧しくなると言われて、全部払って貰ったと語っていたが、最高のもの、本当のものを知っておくことが何よりも肝要だと言うことであろう。
刀の目利きを育てるためには、本物の名刀しか見せないと言われているのも、このことであろうか。
この森繁久彌の人生哲学は、絶対に過去を振り返らないと言うことで、子供に対しても、最後まで徹頭徹尾威厳のある父親として通しぬき、馴れ馴れしくは出来ないオーラを発していて、親しみと近寄りがたい怖さが同居していたと言う。
船場の化粧品問屋の跡取り若旦那が身を持ち崩す男の一代記である「夫婦善哉」を見ていて、本来は極めてシリアスで真面目かつ聡明な役者である森繁が、あれほどまでにがしんたれの馬鹿たれ男を地で行くように熱演できたのか、この本からいくらか面白いヒントがあったような気がした。
大阪財界の大立者であった実父菅沼達吉氏の残した相当な遺産を、早稲田時代に、芝居に芸者にダンスホール、しまいには株に手を出してすっからかんになると言う学生の枠を超えた放蕩三昧の生活をおくっている。
満州から日本に引き揚げて来て生活に困窮していた時に、魚を闇値で卸すおいしい仕事を聞きつけて徳島に乗り込んで、それに賭けるのだが、南海地震による津波を受けて総てパーになる。
細々と役者人生が始まって落ち着き始めても、稼いだ金はすぐ仲間たちと飲み食いに使ってしまって、森繁家の生活費は、奥方の内職で賄うと言う始末で、満州時代から晩年まで、森繁家には、毎日の如く知人友人が集い、多くのお手伝いや雇い人や、良く分からないような居候が住んでいたと言うのだから、森繁久弥の並外れた人間のスケールの大きさが分かろうと言うものである。
この森繁久彌は、なければトイレや風呂は勿論、庭の大きなプールまで自分で作り、ベニア板を買ってきてセスナのエンジンをつけてプロペラ船を作ると言う器用さなのだから、子供たちに縫い包みや飾りを作ってやるなどは序の口、とにかく、人並み外れのオールマイティだったと言うことである。
「新夫婦善哉」のラストシーンで、蜂の養殖を勉強して王乳つくりに賭けようとする姿が映されていたが、本物なら成功するであろうと、変な思い入れを感じて見ていた。
この「夫婦善哉」だが、法善寺横町にある善哉屋「お福」が、一人前の善哉を二つのお椀に入れて出すことから来ているのだが、船場の安化粧品問屋の息子維康柳吉(森繁)と曽根崎新地の売れっ子芸者蝶子(淡島千景)のデート場所でもある。
これは、織田作之助の小説だが、箸にも棒にも掛からない底抜けの能天気でがしんたれの大阪男と、健気でどこまでも男を思い続ける一途な大阪女の夫婦の物語で、謂わば、一寸した現代離れの今様近松門左衛門の世界である。
戦前の法善寺やお初天神のある曽根崎新地、それに、船場の問屋の雰囲気がむんむんした昔懐かしい大阪風景が活写されていて、そのまま、近松の世界までタイムスリップするような錯覚に陥る。
森繁の映画のディスコグラフィーを見たが、近松らしき作品は一もない。尤も、鴈治郎父子が曾根崎心中を復活初演したのが1953年だと言うから、近松の作品が舞台にかかることは殆どなかったのであろうが、大阪で生まれて大阪で育った不世出の名優森繁久彌が、近松門左衛門の舞台踏んでいたら、どんなに素晴らしかったかと思うと、本当に惜しい気がして仕方がない。
ところで、森繁久彌が素晴らしかったのは当然としても、奥方の杏子さんが、それに輪をかけたような素晴らしい人だったようで、特に裁縫の腕はプロ級以上で、久彌の服は勿論、自分の服も子供の服も瞬く間に立派に作り上げ、欧州旅行でも、出かける時には、裁縫道具の入ったトランク一つで出かけて、帰国時には、自分の作った服で一杯になっていたと言う。
二人の話では、戦中戦後、杏子さんは絶えず裁縫をしていたと言うことで、この卓越した杏子さんの腕と才覚が、名優森繁久彌を公私ともに支えて来たのであろう。
森繁が売れない役者だった頃、フィルムの缶を弁当箱にして豪華な弁当を作って持たせて、弁ブル(弁当ブルジョア)と勇名を馳せて撮影所中に知らしめて森繁を売り出したと言うから、正に、スタイリストのみならず名プロデュサーだったのである。
この杏子さんが、シュヴァイツアー博士に会いにアフリカに行ったのだから、その行動力に驚く。
仕事で殆ど家を開けていて、杏子さんも長期の海外旅行で二人が会わない日々の連続であった筈だが、余程妻を愛し頼りにしていたのであろう。杏子さんに先立たれてから、急激に森繁は衰えて行って、長期療養とリハビリ生活に明け暮れたと言う。
森繁久彌の実人生こそが、人間森繁久彌の最高の舞台だ思うのだが、その壮大な舞台を二人の子供たちが、父への限りなき愛情を込めて描き切ったのが、この本であろうと思う。