「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

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三郎さんの昔話・・・雷の子

2011-03-17 | 三郎さんの昔話

                                                 雷の子

 ある村里から隣村へ越すに小高い小山は峠の山道である。
村里から少し離れた峠に近い道ぶちに小屋が一軒あり、そこに住む住人は三十五才になる喜助とゆうきこり(薪を切ったり炭木を焼く山師)と二十八才になる好とゆう若い夫婦が仲良くひっそりと暮らしていたが、夫婦になって十年も日がたつに子供がなく子宝を望んでいたがなかなかに出来なかった。

梅雨明けも近いある日のこと、おなか大きい夫人の旅人がこの峠道を歩いていた。
この時、天にわかに掻き曇り大つぶの雨がざわさわと降りだし遠くに雷をまじえて雨は降り止まず、旅の夫人は何処か雨やどりをと見回すと道端に小屋がある、駆け寄って雨やどりを願うと、家にいた好か「えらいさだちじゃのぅ、ここへ腰を下ろし、やまして行き」と言いながら番茶を入れてくれた。夫人は頭をさげ番茶を静かに飲んでいた、その時、雷が近づいて来たのか、すぐ近くの空でゴロゴローをドドンドンと小屋を揺るがし、家から少し離れた杉の大木に落雷した。

その雷鳴の大きかったこと、好も旅の夫人も身震いした。
その雷鳴の異常なショックに腹太の夫人が急に腹が痛みだした臨月の陣痛である。
好はあわてて夫人をむしろ敷の座敷に入れ腹をさすったり介抱する。
その内に喜助が帰って来た、この様子を見て「どうしたがぞ」と好は「大変じゃ旅人が雨やどりに寄ったら、さっきの大雷で腹が急に痛うなって子ができゆうが」、「そりゃおうごとじゃ」、
「早ぅ湯を沸かしちょいて」と喜助は「おう」と答えて竈へ、産婦はウンウンと息んではハァハァと息を吐いては又息むが母体が衰弱しているのと難産で夜になって子どもがやっと産まれた。

産まれた子どもは丸々と太ったりりしい男の子であった。
母親は衰弱に難産の苦痛で出血が止まらず弱り息もたえだえで、枕もとで見守ってくれている喜助と好に「この子のてて親は真面目で丈夫な働き者でしたが、この子を身籠もって間もなく、ふとしたはやり病で急死しました。亭主には身寄りがなく、窮して私は遠縁を頼って行く途中でした。図らずもお宅にご迷惑をお掛けし色々とお世話になりました。
ほんとうに有り難うございます。私の体はもうつきました、お見かけするにお家にはお子さんがいない、この子の親になってお育て下さい、私は野辺からこの子が立派な人になるよう見守っております。」と言って息絶えた。

喜助、好の夫婦は子どもを授かった嬉しさと、この母親の不幸を哀れみ、翌日に落雷のあまった大杉のそばの近くに穴を掘り仮埋葬し子どもの守り神として山石を立てた。
子どもの名前は落雷に驚き産まれた子じゃきに雷太と名付けて育てることにした。

 さて、産まれだちの赤子を育てるのは大変、玄米をいって粉にひき湯でまぜて乳糖をつくって飲ませたり、村里に乳飲子の母をたずねて、もらい乳して、一生懸命だいじにしてふとらした。
夫婦の愛情とかわいがりで、すくすくと元気に育つ、喜助はきこりの生で、山うさぎやきじ小鳥など輪差を掛けて捕獲する技を心得ていて、うさぎや鳥など捕ってきては雷太に食べさした。

十年程たつと雷太は並の子どもよりも身体はぐんと大きく力強く優しいえい子どもになり、父親の薪切りや炭焼きの手伝いもし、薪や炭も背負うたり担って山裾の里の家々を回って売り歩き、父母の手助けをよくする孝行者の元気な怪童であり、里の人々から褒められ噂されていました。それから三年の月日がたった、雷太十三才になった、身体は大人よりもずんと大きく筋肉たくましく、父母の仕事の手伝いも良くできて、喜助、好の渡世もよくなった。

その年の秋のこと隣の町に大相撲の興行があり、親子三人で見物に出かけて、もの珍しく見入っていたら、里から見にきていた人々から雷太の怪童に相撲を取らしてみたらと話がもち上がり、興行師に話したら、よしと言うことで、雷太をすすめて土俵に上げた、下っぱの弟子から組んだが、雷太はぴらぴらと四、五人投げ飛ばしたりぶち付けた。
観衆の手が鳴り歓声が上がった。これを見ていた相撲の親方が、この子は見込みがあると、相撲の取り組みが終えると、親方が喜助ら夫婦を呼び止めて相談に係った。喜助夫婦はこの子は家の手伝いをする大切なえい子じゃけと断ったが、親方はこの子は見込みがある三、四年仕込んだら立派な相撲取りになる。

そしたら親孝行をさすけ、少しの辛抱じゃと言いくるめられ喜助夫婦も雷太が出世できるなら、自分等はまだ若い五、六年は元気で働けると腹を決めて、相撲の親方に預けることにした。
 それから五年の歳月が過ぎた。村里に毎年やって来る薬売りの噂によると、今、江戸で雷伝と言う強い相撲取りがいて負けを知らずの大人気じゃとのこと。

その後の雷太は弟子入りしてからは技子名も雷伝と名乗り、熱心に稽古に励み、持ち前の体躯と腕力を活かして相撲に取り組み負けることなく大関に出世し、賞金や花(祝儀)を稼ぎ大金を里山の父母に送り付けてきた。喜助と好はその金で家も新築し、次々の送金で孝行息子の雷太に感謝し、健在を祈りつつ、老後を気楽に過ごすことができた、と。

◎関取 雷伝為ヱ門の伝説、人助けは他人のためだけでない。

 

 

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